こんぺの終わりにあたって、今回のこんぺとその周辺の状況について少し書いてみたい。


そう思ったのはそもそも、この企画はぼくにとってはそのように研究的な興味の対象としてあったからだ。この企画の準備をはじめたのは2007年の4月かもう少し前からで、そのきっかけとして我乱堂氏から、エヴァFFでも他の界隈でやっているこんぺのような試みはできないだろうか、と持ちかけられたのは氏自身の言とメッセンジャーのログによればちょうど2007年の初め頃だったことになる(さらに遡ると、氏がこんぺ企画を思いついたのはちょうど2006年末ごろであるという)。

これは記憶とも合っているので、おそらくそんな感じだろうと思う。思う、というのはまた未確定だが、実際のところ始める動機としてはそれくらいで十分だった。ぼくとしてはそれ以前にもこんぺには参加していたし、まさにそういうイベントができればよい、とも考えていたところだったので(てな感じで乗っかって、考えていることとの合いに勝手に悶絶することになるのだが、それは後述する)、初めは補助スタッフの予定で、そして最終的にはかなり中心的な部分で企画に関わることになった。

ぼくが氏の企画に関わるのはこれが初めてではなく、既にその年の中頃に氏の主宰するリレーに書き手として参加していた。表面的には今回の参加はその縁からであった、ということになるが、実を言えばぼくが今回の企画に最終的には管理者の一人になるくらいの勢いで相乗りしたのは、それ以前のこんぺへの参加も含めて、先にも述べたとおりそういう関わりよりもむしろ自分の中にある興味から生じた行動だった。


何についての興味か、といえば。


これまでエヴァFFという界隈でフィールドワークまがいの書き手と読み手の行ったり来たりを繰り返してきて、そこで起きているように見える閉塞的/分節的な状況にぼくは興味を持っていた。

たとえば、エヴァFFにおいては「逆行」という「キャラクターのタイムスリップ(あるいはタイムリープと言う方が実情には近いかもしれない)」を題材とした二次創作ジャンルがあるが、このような変則的なジャンルと、同人誌的なパロディの延長としてすんなり理解できる日常コメディ的な二次創作の、それぞれにおいて極端に類型的な作品同士を並列してみれば、月並みな表現だが本当に同じ作品の二次創作か、と思えるような乖離がそこには存在している。

前者においては主に原作の戦闘的な性格やシリアスな展開に重きが置かれ、その替わりに初期のキャラクターの性格設定などは時間移動という物語外部から持ち込まれた題材によって上書きされてゆく。逆に後者においては主に原作の軽快なドラマとしての性格やコメディタッチの展開に重きが置かれ、原作にあった重要な出来事であってもその展開にそぐわないものは捨象される場合も多い。

こうして比較してみると、その間には共通する部分が驚くほど少ないことに改めて気づく。

ところが、このような二次創作の書き手達は、お互いの作品をほとんど意識することなく、というかその差異を半ば無視して、変わらず乖離した言葉でそれぞれの二次創作を制作しているように思える。ぼくはそれぞれの作品に表れる原作自体との乖離そのものよりも(無論それにも興味を持ったが、その変遷は別のところで語ることにする)、同じ原作を題材にしていながら互いにあまりにかけ離れている書き手達の言葉の間にある大きな落差を不思議に思い、興味を持っていた。

その間にある越えがたく見える壁はどのように理解され、また扱われるべきなのだろう。

いっぺん、そのことを考えてみたかった、というのがひとつめの、やや遠い動機である。


ところで、気になることはもうひとつあった。

こちらが直接の動機になるのだが、新世紀エヴァンゲリオンの二次創作における閉塞感に近いものが他の界隈において行われている「こんぺ」(こんぺ、とひらがなで称されることが多い)というイベントについても同様に感じられることがそれだった。

この種の企画は美少女ゲーム系の二次創作を発祥としていて、それまでにも数回に渡って行われてきた(このこんぺも、その流れの傍流に位置することになる)。 多少意地悪い見方だろうが、そこで一定以上の評価を得る作品を見ると、総体として見て「ウェルメイドな物語」とひと括りにできそうな特徴を持っている、と読み手そして書き手としてそれぞれのイベントに参加したぼくは思った。さまざまな切り口を一応は取っているにしても、そこでの評価は一定のコードに収束しているという印象をその作品群からは受ける(もちろんそれから外れる作品はあるにしろ)のである。

その作品が総じて良質であることはさて置いてその作風の幅を見てみると、それ――こんぺの流れにおいて収斂したスタイルは、二次創作から発祥しつつもその中に存在していた多様性(良くも悪くも)からはやや切り離されたところに位置している。故に、それはイベントの体としてはある程度交流を意識しつつも、専門化し分節化した二次創作における諸ジャンルと同様に、全体としては閉じたコミュニティとして成立している(あるいはしつつある)。

実際にやってみることで、それを考えてみたかった……というのが、ふたつめの、恐らく直接の動機である。


新世紀エヴァンゲリオンの二次創作とこんぺ。


それぞれ異なったフィールドにありながら、そこにはまるで二重写しのように同様の事象が成立しているように思える。ならば、その背景にはそれぞれにのみ当てはまる特別な原因とは別の、共通した原因や仕組みがあるのではないだろうか?

そして、原因があるとして、そこから導き出された現状は、どのように捉えるべきで、もしそれが対処するべきものなら、どのように対処すべきなのか?


後々に述べる小難しいこと(読者が読んで理解できないことはぼく自身理解しているか怪しい部分なので、斜め読みしてもらっても特に問題はないと思う)はさて置いて、このこんぺを開催したとどのつまりの理由は、そういう疑問とか問題意識なんかにあって――だからこそ、そんなあれこれを考えあぐねたままこんぺ企画に参加してみて、それを終えたいま、もう一度そのことについて考えてみようと思うのだ。


ちなみに、あれこれ考えている問題のうち、「二次創作の状況や分化がどのように行われているのか」という部分――ジャンルが発生し、分化していく力学については、特にその系統発生の段階と特質からそれぞれの書き手の心象の差異、二次創作自体のモデルについてまでを『「二次創作」の視点』(『二次創作(を/から)視る』として収録)という文章にまとめた。それゆえこの文章ではそういう仕組みについては詳述せず、二次創作を作るコミュニティの分節化、そしてこんぺを含むコミュニティの閉塞が既に存在しているが、それがどのように解釈され、扱われる「べき」か――についてぼくがどんなことを考えていたのかを書くことにする。大仰だけど。

あと、そういうことを考えながら行っていた今回のこんぺの反省点(主にぼくがややこしいことを言ってたからだが、たくさんあった)や矛盾点、次回があるとすれば、どうすればいいか、とかそういうことを。


なんだかややこしいことになりそうだけど、とりあえず書いていくことにする。


越境する、ということばが越えられない壁


「THE COMPETITION OF EVANGELION」という企画においてぼくがそのテーマとして念頭に置いていたことがあるとすれば、それは「越境」という言葉をめぐる言説と、その前提としてある、越境という行為を必要とするものとして社会を観る世界観についてだった。


と、こんな風に述べてしまうとあまりに抽象的に過ぎて意味が解らんので具体的なキャッチコピーの水準において記せば、本企画はたとえば「エヴァFFのジャンル間の越境」「エヴァFFのコミュニティ間の越境」「エヴァFFとその外部の間の越境」というような事柄をテーマとするイベントでも(ぼくの中では)あった(というと穏当に見えるが、やってる最中に考え込むとドツボに嵌る、というのはいつものことだった)。

そして文章としてまとめると、ジャンルとして閉塞したエヴァFFを小さな全体として捉えたとき、その内部がさらに分節化し閉塞しているとややこしい状況を前提として、その中にある分節化したコミュニティ・ジャンルを作品・作者・そして何より読者がそれぞれ越境(でも横断でも実際はよくて、ただ後述する話のせいで越境とか言っているだけだった)するようなイベントを成立させられないか、ということを本企画はひとつの目的としていた。


さて、ここで現代思想とかオタク系批評が好きな人にツッコまれる前に自分から述べておくと、この「越境」という言葉を好んで使う批評家は恐らく東浩紀であり、このようなテーマはある意味で彼の批評や問題意識をこの段階ではそのまま受けたものに(たぶん)なっていたはずである。ちゃんと理解できているかと言えばやや疑問ではあるし、順接で受けているかと言えば後述するようにそうでもないけれど(というかむしろ、その言葉の違和感が気になっていた)少なくともこの言葉や背景にある認識の方はその文脈から引っ張ってきたものである。


ということで、二次からはちょっと遠いようでそんなに遠くない、批評の世界の話から始めてみよう。


東浩紀という批評家がその批評自体の姿勢やその演出の仕方において、越境すること、そしてそのテーマを反映するように複数の共同体に自分の言葉を越境させ、読ませることに注意を払っている(最近はどうなのかわからないが)背景には、その状況認識の中核をなす、「タコツボ化した共同体」という認識がまずある。ぼくは東浩紀の良い読者ではないが、恐らく現在でもそのような現状認識自体に大きな変化はないはずだ。確か。


そこらをざっとまとめると、東の認識に拠れば、現在の社会では(リオタールの述べるように、「大きな物語」が機能していた頃と異なって)相互にコミュニケーションを欠いた趣味の共同体がいくつもいくつもできて、その共同体の間を超越、越境することが非常に難しい状況が発生している。 趣味によって分裂したいくつもの共同体は、その内部でだけ通用する言葉(ジャーゴン)を流通させ、それは共同体の外部には届かないし、そもそも各々の共同体の住人はその外部に興味を持たない。

そんなわけで、東の「越境せよ」という言葉はおおかた、このような共同体が孤立して並列する、という状況への問題意識と危機感から発せられている。


もちろんこのような現状認識の背景には、それまでの相互にコミュニケーションを取れていた時代から分節化した世界への変化、そしてその変化の遠因としてある世界のポストモダン化、などというパースが存在したり(もっとも、ポストモダンのひとなので東自身が世界を見通すことのできる特権的な位置が現在も存在するということをその批評において否定している、というところで話はさらにややこしくなるのだが、そこらは興味がある人は各自調べてください)、そのようなポストモダン化の発露として「オタク系文化」を看做すような視点が存在する。そこでは「タコツボ化」のような概念はひとつひとつの文化という括り(例えばエヴァ二次の内部の変化)を示すものに留まらず、時代の全体の流れを記述する言葉として用いられている。けれども、ここでは「越境」ということばをエヴァFFやその他の、その発祥からある程度二次創作の状況について当てはめて論を進めることにする。

(初めに東の議論をそのまま受けているかどうかについて但し書きをしたのはそのような理由による。別に日本はポストモダンを先取りしてたんだよ! な、なんだっ(ry みたいな古臭い話をするわけじゃないけど、理論を適用する範囲の問題で、ポストモダンの議論をそのままどこへでも持ち込む議論はあんまり納得できないのだった)


ところで冒頭、閉塞化についてそれを「前提」と記したが、どういうことかもう少し書いておこう。

現在のエヴァFFの状況――恐らくインターネットというメディアを経由して発表され、その一般社会への浸透と関わる形で成立した同人小説ジャンルの中で最も古いもののひとつであり、今恐らくその終焉を迎えようとしている(あるいは既に迎えている? 次の映画版で持ち直すかはわからないけど、そこらの流れが詳しく知りたい人は、『二次創作(を/から)視る』にてある程度詳しくそのへんを述べているので当該部分を一読されたい。別に一読でいい)ジャンルの状況――を考えてみると、まさに東の述べるような「相互にコミュニケーションを欠いた複数の共同体がそれぞれ孤立して存在している」状況に陥っているように見える。

ただでさえある特定の作品のパロディ、あるいは二次創作に過ぎない(という言い方はちょっと乱暴だけど、一面では間違いではない)エヴァFFは「LAS」「LRS」「断罪」「逆行」等、それ自体エヴァFFという共同体内部でしか通用しない種々のコードを拠り所にしてさらに分化しており、しかもそれらは互いに没交渉である。

エヴァFFがその内部において閉塞化し、分節化しているのはもちろんのこと、エヴァFFを全体として外部との関係性を考えても、それは既に外部とのコミュニケーションが困難になった趣味の共同体と化している。後述もするが、このことは本企画においてそれらのコードが自明のものとして用いられている状況に「エヴァFFの外」から参入した参加者が違和感を生じたことからも明らかだ。

その意味で、エヴァFFにはその内部と外部において二重の閉塞が起こっている。少なくとも、閉塞と述べるに値する状況がこの作品ジャンルに発生していることは確かである。


したがってこの企画には、エヴァFFというものが東の述べるような閉塞的状況にある、という認識をいったん引き受けた上で、先に述べたようにその境界を「越境」させるための手段とする、という狙いがあった。即ち、現在各々のジャンル内、特定のウェブサイトやその群の中のみで活動を行っている作家陣を誘い出し、ある一定のテーマについて作品を書き、読者がそれらの作品を横断的に読むように仕向けることで、結果としてジャンルの境界を越境させてしまおう、という戦略である。

様々なジャンルの書き手やコミュニティに声をかけ、書いてもらおうと考えたのも(実際はそんな行動にしても、企画者自身の内部にある境界に妨げられていたフシがある、ということは後に論じるのでここでは触れない)、ひとつにはそのように本企画をジャンル横断的な企画にできないか、と考えたからである。


しかしその一方で、越境ということば、それにまつわる言説を考えたときに、単に順接でその前提となる認識をはいそうですか、と受け入れることができなかったのもまた事実だった。


そこでぼくが考え込んだのは「越境、越境て金科玉条みたいに言うけど、いったい何が越境であるのか?」ということだった。あるいは「越境ということにどの程度の意味があるのか」と言い換えてもいい。

いったい何をやったら、あっちのタコツボとこっちのタコツボがつながったことになる?


確かに彼の「タコツボ化する共同体」論を聞いた後には、それぞれのジャンルは確かに小さな共同体として閉塞しているように見える。が、それを越境でも横断でもいいけど、そうするような試みもまた、その見方で言えば「そのような問題意識を共有する一種の共同体」に過ぎない(そのような横断しているようで横断していないかもしれない共同体としての「こんぺ的なもの」については後述する)ことになるのではないか。とすれば、そのような場所では越境という言葉の境界を越境するような試みが必要とされ、そのような趣味を共有する共同体の枠をまた越境する……という風に、マトリョーシカのように続く無限の入れ子構造を導くことになりはしないか。


このように「……を共有する共同体」という枠を越えがたいもの、超克すべき枠と考えて絶対視してしまうと途端に、どこまで遡ってもそれを打開するのは不可能になってしまうように見える。そこでは全てが物凄くディスコミュニケーションがはびこる趣味の共同体に還元されてしまい、越境はただ単に己の趣味の境界で複数の共同体を(大まかにでも)囲ってしまうというだけになる。これが越境か、というと全然そんなことはないように思えるが、実際『キャラクターズ』なんかを見ても、やっているのは結局は自分の趣味の範囲を延長していくことでしかないように思う。同様の印象は『動物化するポストモダン2』からも受ける。あまりに各論的で「自分の友達の作品扱って内輪ウケしてるだけちゃうんか」とか思えるようなものを書くその姿勢は、既に越境という言葉の辞書的な意味からは随分と遠いところにある感じがする。

そして、そのようなやり方のもとで想定される「もはや越境を求められない(十分越境された)状態」は、単に越境するための外部を無視できるくらいに境界が広がった状態になるのではないだろうか。例えばそれが極限まで進んだ状態――東においてはそのような状態は「近代」という時代精神が通用していた時代、「ポストモダニズム」という時代精神が通用していた時代、のそれぞれにあたるだろうが、――東自身が「ポストモダニズム」の流行もまた終わったというようなことを述べているこの時に、「越境」をありうべき姿として想定することは果たして妥当なのか。(最近の東の批評を読んでる人にとっては、なんかずいぶん古い話をしてる気がするなあ、と思えると思うけど、後半では最近の『ゲーム的リアリズム』だとか『決断主義』とかそういうアップデートな(僕にとってはけっこうどうでもいいけど)な話にもちょっとだけ触れる予定。でもひとまずはここからだ)


そこで省みられるべきは、越境という言葉が前提とするもの、越えがたい共同体間の距離、感じられている越えがたさというものがどれ程の深刻さを持っているかという点である。そしてずっと後の議論を恐らく先取りするが、今回結果的にそうなってしまった(というか、他に方法が思いつかなかっただけなのだけど)ように、実際には、想定される境界というものは、タコツボ化してると言われるあれやこれやを無理やりひとつにまとめようとか自分が超越的な位置にこようとか変に意識しなければ、割かし越えることができる程度のものなのではないか、という風に、企画を終えては思えてならない。それは誰にでも越えがたい性質のものなのではなく、単にそのような価値判断を内面化するものにとってそうあるというだけである。まるで予言が自己成就するみたいに、境界を強く意識することでかえってその越境が難しくなっている、という状況がある。(その違いを絶対視してしまうとずっとどうにもならないもので、そのような断絶を前提とする層に対して仕掛けようとする側には何らかの戦略的な視線が必要になるだろうが(とはいえ、仕掛けに参加する段になればそこまでのことを考える必要もない。というか、意識しなくてもいいくらいには作りこんでおきたい。これは単に「だからといって何も考えなくてもよいというわけではない」というくらいの意味である))


そのようなあれこれの問題を考えながらであったがゆえに、この企画においてはジャンルを横断させるという「越境」がひとつの裏テーマでありながらも、この企画を通して、そのような考え方の枠組、趣味の共同体の境界を越えがたいものであると宣言してさあそれ打ち破ろうとするような言説それ自体を疑ってみる視線もまた存在する、ということになった。

前述したように、この企画はエヴァFFというもの、その内部にある共同体が閉塞的な状況にある、という認識をいったん引き受けた。ぼく自身、そのような認識にある程度納得し、それを越境させようとする動きをやろうというつもりであった。しかしその一方で、「その閉塞はどの程度の深刻さと意味、性質を持つものなのか」あるいは「閉塞していたとして、何が問題で、どう解消されていけばよいのか」という疑問は、企画の間中ずっとついて周り、そして今でも、ぼくはその問いの周辺を低回し続けている。


「こんぺ的」な作品たちと「ウェルメイドな物語」の行方


さて、ここで今回の企画意図からもう一段階遡り、「こんぺ」という形式の性質と現在までの状況について書こうと思う。こんぺというもの、そこで流通する作品や批評と、それを発しまた受け入れる書き手や受け手の関係は、本企画においてぼくが考えていたもうひとつの問題であるからだ。

エヴァFFに絡めて言えば、それはエヴァFFの界隈における閉塞そのものと、それを打開する可能性という矛盾した二つを同時に表現しているように思えた。


まず基本的なところから始めると、今回の創作コンペティションのような形式をとるイベント、あるテーマに沿って書き手を募り、作品を書かせて採点するような企画は、それを実行したとして、当然ながらそれがそのまま交流につながるとは限らないし、そもそもコンペというイベントの形式は本来それを本義とする類のものではない。このような企画がそれだけで全ての作者にとっての交流の場、越境の場足りうるという楽観的な見方は「誰でも原理的には参加できるイベントであるので開かれている」という誤謬を含んでいる。


実際、そのような見方は確かに形式的には間違っていないけれども、(宣伝として述べるのはともかくとして)現実的にはこのような企画にはその参加に至るまでに様々な選別が働いていて、自らその場に挑もうとする作者と読者にのみ、開いているという点を考慮に入れていない(あるいは、なかったことにしている)。

そのような選別・圧力の中で恐らく一番大きく、決定的に重要な点を占めるのはこんぺという形式、作品の可否をあるひとつの採点軸を想定して、点数化して争うという方式に対してどのくらいより沿えるかという部分で働く選別であり、ここで書き手や読み手といった参加者、そして集まる作品の性質のかなりの部分が決してしまう。どのような意図があっても、競作という形式は言うまでもなくその舞台に上がることを書き手に要求するし、読者についてもそのような攻撃性に対する共感が必要とされるからである。


そして実際に他ジャンルにおける同様の試みを見てもわかる通り、これらのイベントにおいてはそのような選別が行われる中で、この種の競作企画に関する、そしてその軸になる空気という一種のコードを共有する読者と作者の(あるいは、読者でかつ作者でもある自給自足の)共同体ができあがっている。のみならず、この種のイベントが主たる構成員を同一とする範囲で繰り返されることこそが、そのような共同体が形作られる過程に他ならない。

事実それらのイベントの作品傾向は回を追うごとに「こんぺ的なもの」とまとめられるような一定方向、読者と作者(それもまた、もちろん内部での多様性を含みつつも、「こんぺ組」などとまとめることがある程度は可能であるように思われる)の間に共有される一定の様式へと収斂しているように思える。もちろん、そのような変化を洗練の過程と見ることも可能ではある。シリアスに傾いた展開、泣き要素、きっちりとしたクライマックスと余韻の残るエンディング、など「こんぺで上位に来る作品」に求められがちな要素はそのまま、一般的に考えられる「ウェルメイドな物語」の構造をなぞっている。


それらの物語は総じてよくできていて、面白い。ちょっと泣いちゃったりする(つまり好き)。けれどもその一方で、現状でその方向性がやや閉塞しているように見えて、それがこういう研究をやってた人間として気になるのもまた事実である。というのは、前段に書いた通り、シリアス調、やや文藝・ミステリよりの軽妙な文体、クライマックスと余韻の残るエンディング、というこんぺにおけるある種の勝ちパターン=「ウェルメイドな物語」の構造は、もちろん一般的な物語の類型としても「あり」であると同時に(その意味で、今回のこんぺの最上位作である七瀬さんの作品が、このような要素を非常に美しく組み合わせた作品であったことは驚くには当たらない)、そのまま美少女ゲーム的なそれとして流通しているパターンの所在を否応なしに感じさせるからである。


特に、オリジナルこんぺにおける第一回第二回の上位入賞作からはそのような印象をぼく自身は強く受けた。両者の間におねSSコンクール(美少女ゲーム『ONE』についてのSSコンクール)が開催されたことも象徴的だが、ここまでの流れは、主に創作方向に意識を向け、二次創作のくびきからは自由になったように見えつつも、その母体である美少女ゲーム的なコード――所謂「萌え要素」として議論の的にもなった、奇妙に可視化されたパターンからはそれほど自由ではなかったようにぼくには見える。

そこでは否応なしに、それらの作品群から参照される共通要素に準拠したうえで、作者達はその組み合わせのどれが効率的であるかを競っていた、という感じがある。もちろんどの種の創作にもそのような問題はついて回るが(そして後述もするが、それはこんぺを捨象した際に現れる一面である。微視的に眺めてみれば、そこには多様な物語がある、当然ながら)、この場合それがいったん離れたはずの場所を(否定的に捉えるなら)引きずっていることが重要である。


さて、込み入ったので少し整理してみると、この時点で問題は二つ、ある。ひとつは、こんぺという形式の誤謬である。それは必ずしも万人に開かれているわけではない。創作コンペティションという形式はそれ自体それを支持する書き手−受け手のコミュニティという一種の閉塞を前提にしている。しかしそれは見方を変えれば創作という部分に特化した洗練の過程であり、それ自体をぼくは否定しない。そのような特化の過程からは洗練された面白いものが生まれうる。そして、それもまた多様性を成す一部だ。それを否定して特化しない未分化の状態への回帰を主張するのは、それ自体が多様性の否定になるだろう。

だがその一方で「こんぺは自由である」という誤謬が生むもうひとつ否認の問題には、目を向けないわけにはいかない、とも思う。それはコミュニティの否認、とでも仮に言うが、自らの出自と、現在の所属となるコミュニティについての否認である。先に述べたように、こんぺ――少なくともここで話題にしている一連の流れ――は、その源流となっている美少女ゲーム的コード、それが依拠すると想定される要素からはいまだ完全には自由ではない。(とはいえ、自由であるべきだ、とかぼくは思わないのだけれど、それは後述することにしよう)それは評価の基準として、そのような共有しているコードを参照するコミュニティとしてあるが、その上で参加者はそのような限界(その形式はうまく利用すれば特化と突破の足がかりにもなるということは先に述べた)に案外と無頓着であるように思う。そこでは無頓着に、創作するということ、自由であることが信じられている(というのは非常に大雑把な空気の話をしているから、それが閉じていることを危惧する人にとっては「今さらなんだよ」という見解かもしれないが)。


そのような無頓着な閉じ方は、例えば、周辺的なこんぺを例にとると解りやすい、と思う。具体的に名前を挙げることは避けるが、周辺的な、テーマ設定を行うこんぺでの試み(ギャグ的な題材、評価軸の多軸化、コミュニティの重要視)が、創作志向的、プロ志向的な書き手からの批判を食らう、という例は既にあった。そのような場合、批判的な参加者はそれが勝負の気風を壊すことに危惧を見せ、またそれが自らの向上を邪魔することに危惧を見せたというが、ぼくには、そのような作者がその一方で、そのような勝負がどのような絶対的な価値観・評価軸を中心として動いているか、向上ということがどのような尺度におけるそれなのか、という問題には無頓着ではなかったか、と思われる。もしそのような問題に関する屈託があるなら、自分には向上を邪魔すると思われるものが、他者にはどのような意味を持つか、という問題を(たとえ自分にとってその意味があまり意義深いものではなく、最終的に否定することになっても)考えたはずだ、と思うからである。もしもそのような思考を経てからであれば、そこで発せられる言葉は相手がふざけているというような一面的な見解には恐らくはならなかったはずである。


以上のような意味で、こんぺという場は限定的に開きながらも、しかし二重の意味で閉じている、といえる。

このような捩れを抱えたコミュニティがどうなるのか、という問題を考えるに相応しいのは最終的にはぼくではない別の誰か(もちろんこうして自分の関わった範囲では考えているが)だろう、と思うのでここでは書かないが、〆代わりに関係していることをひとつふたつ述べると、このような傾向について恐らくこんぺの主催者であるすなふさん(大沢さん)は常に自覚的なのではないかとぼくは思っている。これはバックグラウンドとして話を聞かせていただいた書き手さんからの情報以上に、オリジナルこんぺの二回目以降に存在する宣伝についての文章からだ。以下に引用する。


前回企画、あるいは、他の類似企画を見てもわかるとおり、『こんぺ』への投票者が減少の一途を辿っています。主催の属するコミュニティの関係上、企画参加者はKey系二次創作層が多いと思われますが、もしも他コミュニティや、あるいは企画に興味を持ってくれそうな人がいれば、積極的に当企画を宣伝して頂けるとありがたいです。書くだけ、読むだけの参加でも構いません、という辺りを強調して頂けると、入りやすいのかなあ、と思ったりもします。また、割と大きめ(投稿数〜100、採点数一作当たり〜60を目標)な企画である、というのも売りかと思いますので、是非。
オリジナル笑顔で三回目(または、オリジナルコンテスト) 「宣伝」欄


このような言葉は、(このコンテストの「または、オリジナルコンテスト」というそれまでの題目を脇に置くような少し穿ったようなタイトルのつけ方もまた象徴的だが)、こんぺというイベントがオリジナルとして勝負の気風を有しつつも、所謂「Key系」として(創作を第一義とすること以外は自由なものとしてではなく、ある種の趣味を共有する二次創作的コミュニティとして)閉じた部分もまたあるという二重性に、常にこの主催者が自覚的であることを示している、と思う(全くの勘違いだったら笑っていただければと思う。こんだけ書いておいて勘違いであればそれはそれで面白いし。まあ、お叱りも甘んじて受けるけど)。

そして、主催者がこのような自覚があるならばそれは大きく方向を外れたものにはならないのではないか、と思うのだが、それには主催者だけでなく参加者、特に評価する側がどの程度その点に自覚的であるかが重要な役目を恐らく果たしている。つまり、複数の評価軸が存在しうること、異物を認識すること、それを必ずしも無意識下で排除しない上で、ひとつのスタイルを選び出すことに「コミュニティではない」という意志に忠実なコミュニティという逆説の中にある人びとがどのくらい自覚的でありえるか、そして、そこに自覚的でありつつも縛られないという、こちらもある種矛盾した身振りができるかということがいま、試されている。

言っておきながらけっこう難しいと自分でも思うが、その未来はたぶん暗くは無い、とぼくは思う。それはまさに今上げたこんぺにおいて上位に入った作品が、徐々にそのようなコードからはずれているように見えることからも理解できる。それはひとつには外部からの(つまりむしろ無自覚な)参入者のせいかもしれないし、回を重ねるごと醸成されたこんぺ自身の参照系(という話を急に出したが、とどのつまり、作品において用いられる要素、その共通部分の集合、と考えてくれてよい)の影響力が美少女ゲームにおけるそれの影響力を上回った可能性も考えられるが、そのような要素をどう行かすか、が今後を決めていくだろう。それがどう転ぶにしろ、こんぺはここからが面白い、と思う。


演出された「多様性」の限界と可能性


さて、話がかなり転がってしまったので、流れを引きずりつつも本筋に戻ることにしよう。

ここまで、こんぺの企画の前に考えていたことや参考にした前例、とどちらかというと今回のこんぺの前段、そして周辺にあった状況に目を向けてきた。ここからは、実際のこんぺはどのように推移していたのか、という部分に話題を移そう。今回の企画は(少なくともぼくの中の、エヴァFFとその周辺の状況に対する興味の範疇においては)そのように困難な問題を抱えていた。そして企画が終了した今、その結果を踏まえつつ、今一度この問題について(加えて、次にすることについても)考えてみたい。


今回の企画では最終的に点数によって順位を決めるという性格は残ったが、あえてややコンペ色を薄め、記念碑的な性格を強めた。

と、今回の推移を言葉にするとごく簡単なことになる。


もう少し小難しく書くと。

形式としては、この企画は一種の「祭り」として(カーニバル、とか書くとカーニバル化する社会臭いんですか、でもそれこそどうでもいい)、その発祥において意図的に見られたようなやや党派的な主張を脱臭するもの――特定の価値基準に寄りすぎないイベントとすることを目指した。ここらのコンセプトは、前節で話題にした周辺的なこんぺに割と近い。そこで勝負の気風、攻撃的な雰囲気になりを潜ませ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版を前にして』などというような、競作という形式そのものとは特に関係のないような事象を動機付けに用いようとしているのはそのような理由からである。

そしてまた、現にその点数制度の説明でも登場人物にこれは「余興」であると語らせさえした。即ちそこでは点数付けはイベントを盛り上げるための仕掛けではあってもその中心ではない。中心にあるもの、目的になるものはあくまでも多様な作品が集まるという状況そのものである(が、それもまた一面的ではあった)。しかもそれは「越境せよ」という強い宣言の形をとらない。そこではせいぜい「そういうイベントにしたいですね」というような弱気な期待の言葉が副次的に顔を出すだけである。


これはおおかた、先に挙げたような二つの思いからだった。即ち、斯様に分裂している(らしい)エヴァ二次創作のジャンルはどのように越境可能か(あるいは不可能か、越境とかそういう言葉はそもそもどういうことか)というどっちかというと研究者的な疑問と、こんぺにおける息苦しさ・閉塞感(は問題であり、それ)を感じさせないためにはできるだけ企画に様々な異物が混交するだけの「幅」を持たせなければならない、というこっちは企画者としての思いである。

もちろん、エヴァFFを対象としたこんぺ、という開催形態は、明らかにオリジナルを競うこんぺ等よりもその受容層は狭くなる。けれども、以上のように色々な要素をやや曖昧に混在させることで、創作志向の層、原作ファンの層、二次創作のジャンル自体にこだわりの在る層など、複数の普段は相容れないとも思われる層をひとところに集めることがもしかすると可能なのではないか、と考えた。それは形式的な幅としては「エヴァ界隈」と言ったやや狭いものになりつつも、意識としては複数の評価軸を抱えたより乱雑な、自由度の高いものになるのではないだろうか、ということである。

(ただし、狭さ、の問題について少し注意を述べれば、この場合もとよりそのジャンルに興味対象があることは明らかなので、そこは問題ではない。前節にも既に述べたが、様々なレベルでそのような動きは起こってもかまわない。問題なのはそれを絶対視することと、その発祥を無化することだ。そのような話題に関する議論としては、本こんぺにおけるLRSスレの反応を扱うエントリが恐らく参考になろう。ぼく自身の書き込みはともかくとして、粘り強くコメントに付き合ってくれたスレ住人の方による意見は非常に参考になる)


そして結果を見てみれば、大雑把だがそれなりにバラエティに富む結果(典型的に二次創作において成立したジャンルに拠った作品群と、「こんぺ的」な作品群が混在する状況――ぼく自身の作品は自作自演なので置いておいて)となった、と書いておく(このへん、読む人の判断に任されるところがあるので、実際読み比べてみて貰うと面白いと思う)。このような作品の並びは「こんぺ的な」完成度から言えば恐らく低いけれども(そのような意味では、同時期に開催された「エアーこんぺ」と比較すると理解しやすい。この企画は同様に二次創作イベントとして開かれ、作品の平均的な質は高いものの、その一方でバラエティ、多様性、乱雑さ――についてはやや控えめなものとなっている)、本企画の狙いにはある程度沿っていると言ってよい。

この点に関して企画自体の方向性がもとよりややそちらに向いていたことは既に述べたが、もうひとつこの結果の原因を挙げると、主に宣伝、プロデュースを担当した我乱堂氏の手腕による所が大きい。彼は今回種々の宣伝を行い、一人強力にエヴァ二次創作内部のジャンルを横断した(氏自身は、どちらかというと難しく考えたりそういう係ではない、と自称していて、あくまでも宣伝のためにそうしてくれていた。それがこんだけの広さになるのだから、その意味では自分の趣味すら横断している稀有な存在ではある。ある程度は自己顕示欲に属するであろうことはぼくも含め恐らく否定はできないが)。


そういうわけで、以上のような意味でこの企画は一定の成果をあげた、と言えるが、一方でそこにはインチキくさい部分や問題の発生したところ、至らないところや改善点があるのも確かである。


先ず怪しいのは、主催者主導の人集め、という現状である。自分で言う分には言いすぎでもないだろうが、今回のバラエティには、ある種「演出」された面があったという面からは目を背けるべきではない。

今回については、各所で活躍してくださっている作家さんがこられる結果になりました。ですがその一方で注意しておかなければならないのは、今回の場合、我乱堂さんのハイパワーな尽力とかがあって、知り合いのつてを通じて「個人的に声をかけられた」場合もそこそこあるということです。

というのは先に紹介したエントリで述べたことだが、このように個人的なつながりで動く部分がイベントは、相応の危うさを含んでいる。

それが端的に現れているのは、今回、企画者主導の状況の中で企画者自身がイベントを縛る一種の制約になっていた面があるということである。例えば、今回、所謂「逆行」「断罪」といったジャンルにいる、と思われている作者や読者を取り込むことは恐らくできなかったのではないだろうか、と思う。

それは思うに、それらのジャンルの読者や作者がより閉鎖的であるという意味ではなく、恐らくは企画者達の意識が彼らに対して閉鎖的であったからである。実際、今回のレギュレーションにおけるテーマ指定「アスカとレイと音楽と」には、「逆行」「断罪」において特徴的なシンジ偏重の要素を廃そうという狙いがやはりどこかであったことは告白せねばならない。実際レギュレーションにもそれらを廃する規定を盛り込もうという意見もあり、それは結局実現しない結果になったが(ぼく自身強硬に反対した)、このような限界があったことは記しておく必要がある。このような企画の場合、多かれ少なかれ企画者になる者はジャンルの境界を内面化しているが、それが制約となっている例となっていた。


また実際、このように主催者側が声をかけた人もそうでない人も共に、あんまり大仰な主義でもなんでもなく、ごくごく自然に面白そうだからと企画に乗ってくれる方だったということも、見落とせない。そういう人にとっては、もともと境界とか越境とかそういうことはかなりどうでもいいことだった(つまりジャンルを超えるためのハードルはかなり低かった)、ということは考えなければならない。そこでは、最初に述べたとおりの、結局全ては「そういう趣味の共同体」になるしまうという状況が起こっていた。そして、それはもちろんイベントの参加者に帰する問題ではなくて(そもそもそれが問題かどうかも怪しくて)、そのやり方が正しかったのか、また、そもそもその企画意図が正しかったのか、という部分に帰する問題だ。

つまり、越境たりえたか、越境とかいうことに意味があるのか、という最初の問題に話は戻る。


結論から言うと、前述したように作家さんの多様な作品が集まることで見た目上はあった(ある程度の効果、というのはそういうことで、もちろんそれは単純に楽しかった)が、結局はそれも「越境」と言う言葉やそれにまつわる主義とはまた違ったものだったと思う。ジャンル的なものを好む読み手が多くコミットする、ということは恐らくはあまりなかったろうし、ジャンルに多くを依拠する書き手もまた、そうだったという印象を受ける。その意味では、このこんぺもまた「エヴァこん的」な共同体としてあった。

たぶん越境は結局はうまくいかなかったし、それに意味があるようにも、結局は思えなかった。

しかしそこで、それは失敗だったか、そうなるべきではなかったか、というとそれはまた別の話である。やはりやってみると、ジャンルの境を誰もが「なかったことにする」「超えていく」ような越境は難しいし、こんぺに関する議論を経た後では、それに何の意味があるのか、と思う。単純に楽しかった以上に、今回の書き手さんによって多様な作品が現れたことの良さをあげるとすればその点であり、こんぺという場で書き手さんはそれぞれジャンルを越えるわけでなく(そんな境界のハードルは意味をなさないし、気合入れて飛び越えるようなものでもなかった)、こっちに顔を出しながら、しっかり自分の足場であるジャンルをいい意味で「引きずった」ものを書いてくれた。


越境するエヴァFFは幻想だった。ではその次にどこに進むか、といえば、この方向だろうと思う。それぞれのジャンルをしっかりと引きずりながら、しかし自然と集まり、競争し、交流できるようなこんぺ。贅沢だけど、つまりそういうことだ。


では、実際にどうするのか、ということで、もうちょっと現実的に「次」のことを考えてみることにしよう。


以上に挙げたような諸問題について、特に考えるべきは宣伝形態と「テーマは必要か」ということ、それから採点法式である。越境すること、は今さら良いとして、できるだけ多様なジャンルの色んな人(ジャンルに拠らず、という意味ではない)に参加してもらうことが目的だったこんぺで、果たして主催者の個人的なつながりが作者を引っ張るときの大きな要素になる、ということはよかったのか。そして、そのようなイベントにテーマの制限を設ける必要があったのだろうか。また、それをひとつの尺度で表すことが果たして妥当だったのか。


以上三点のうち前二点について、議論としてはあんまり大したこともないので結論だけ言うと、今回については共に仕方なかったが、次回は宣伝については形態の多様化を図るべきだし、またテーマについては要らないのではないか、というところである。実際、一回目ということで、主催者が宣伝しなければ・レギュレーションを甘くしすぎると、そもそも企画が成り立たないのではないか、という怖れは確かにあったし、それは無根拠な不安ではなかったと思う。特に宣伝については、先にも書いたとおり我乱堂氏の尽力がなければけっこう、難しい局面に立たされただろうことは想像に難くない。

だが、次回を考えたとき、今回と同じ方法と取る必要は必ずしもないのではないか、と思う。今回いう前例が宣伝・レギュレーション共にある程度の効果を成す、と思われるし、このような(交流的な)方向をもう一段推し進めるなら、それらはできるだけ最小限に抑えて企画が成立する方がより望ましい。テーマは自由とし(あるいは、複数テーマ制でもいい)、その上で主催者が制限とならないように、もう少し主催者が大っぴらに動かなくても成立するような宣伝形態を考えたいところである。(ていうか、今回「あ、面白いかも」と思った人は、目に付く人を増やすためにリンクに協力してください&適当に声でもかけてみてください。と先にここでマルチ商法的にお願いしておく)。


そして後者、採点方法について述べると、こちらも再考が必要だろう。今回「特定の価値基準に寄りすぎないイベントとすることを目指した」と言いつつも、実際にはひとつの評価軸での評価、というところを脱し切れなかった。今回の採点結果からも理解できる通り、偏差値採点法式はかなり公平であるが(集団の中で平均的に「素晴らしい」と思われる作品、総合的に非常に優秀な作品を選定することができる)、その一方で、一部にカルト的な人気を博すような作品や人気と不人気が極端に分かれる作品のユニークな魅力をうまく評価できない。

これについて、感覚的に述べると「つまり自分の好きな作品に票が入ってないということじゃないか」という話になるので少しだけ補足しておくと、そもそも、偏差値採点方式は各作品に対する評価をそれぞれ正規分布に近似できる、と想定し、その標準偏差の差異で順位を判定している(はずである、たぶん)。それゆえ、反応が正規分布に大まかに近似できる作品同士の差異をよく表すことができる(この点に関してはけっこう信頼性は高いと思っている)が、一方でその反応が正規分布に近似できない作品、例えば先に上げたような、その作品を評価する集団と評価しない集団がはっきりと別れてしまう類の作品については、それをうまく評価できないという問題が生じてしまう。実際、この点は偏差値採点方式のひとつのウィーク・ポイントであり、偏差値採点方式での上位作品が「面白いが、どこか平均的」な印象を受ける場合があるのも、ひとつにはその点があると考えられる。

それゆえ今後同様の企画を先に述べたような――ジャンルを引きずりつつ競争を保持するイベントという狙いに基づき進める場合、いかに「こんぺ的なもの」に書き手や読み手の視線を集めすぎず、その他を含んだ全体へと向けていけるか、逆に「こんぺ的なもの」に興味を示さない書き手や読み手をもその中に引き込むような並列的な尺度、尺度以外の価値を提供していくかという戦略的な視線と仕掛けが必要になるだろう。


と、こう来ると「では偏差値採点なんかやめてしまって投票制で」と思えてくるが、しかしそもそもそれにやや問題があるというのがわかったからこその偏差値採点方式なのだから、そのような極端な理解をしてしまうのは早計である。確かに、偏差値採点方式には作品の持つ多様性や評価の柔軟性・多義性にうまく対応できない場合があるが、この採点方式が(計算方法だけでなく、投票が信頼できるという点でも)基本的には公平らしいのは確かで、それに従ってある程度公平な競争が可能であることも確かである(そしてそれもまた楽しいし、それを排除してしまうのもまた順位付けを拒否する思考へと閉鎖してしまうだけの動きになる。多様性と競争があってこそ、楽しいのだ)。だからそこで考えるべきは、そのようなメリット・デメリットを抱えている方式をどのように補完するか、そこから外れた作品をどう評価していくかという話である。


と、でっかくぶち上げたが、これはあくまでも理屈としての後ろ盾であって、実際にはそこまで突飛な方策を講じるまでもないだろうと考えている。次回も、あくまでも偏差値採点を「ある程度信頼性の高い(そしてある意味でめんどくさい)公平な採点法式」として中心に据える点では変わらないだろう。みんなに受けるというのはやっぱり面白いし、それはひとつの価値なのだから、それを目指して勝負する、というのはひとつの魅力であり続けるに違いない。しかし、と、変わるのはそれ以降である。次は、その一方で、そうでない作品もフォローすることになるだろう。偏差値採点方式の逆――即ち、「信頼性はある程度低いが、面倒ではなく、カルト的な人気、特徴的傾向を示す人気の指標を測ることができる採点法式」を周辺的に配置することによって。端的には一人一票の投票形式になると思われるが、そのような投票を配置することで、採点法式の問題はある程度カバーできると考えている。みんなに評価される作品は、もちろん素晴らしい。そして、一部にカルト的な人気を得る作品もまた(ある意味)素晴らしい。


競争とお祭り、王道と変則、メジャーとカルト、そういうものが共に並び立ち、自分の我を通しながらたまにはぶつかりながらお互いに横目で見合うようなこんぺ。それこそが楽しいんじゃないか、とぼく自身は思うし、他のこんぺがどうするにしろ、少なくとも二次創作を題材にしたこんぺくらいは、もっと小さく言えば僕が主催として絡んで行うこんぺくらいは、そうあって構わないし、そうあるべきだ、とこんぺを終えた今けっこう真剣に思っている。恐らくそれこそが、ぼくが考えていたけれど結局は半端なままだった「越境する(エヴァFF)」という幻想についての疑問への、ひとつの答えになるだろう。


短い終章 ― 「並存」すること


『新世紀エヴァンゲリオン』の話をしよう。ごく個人的に感じた、10年前に一度示された結論についての話だ。


『新世紀エヴァンゲリオン』はちょうど10年前の夏、赤い海辺で唐突にその幕を降ろした。そのラストをどのように解釈するかは最終的に読み手に任されているが、少なくともぼくは、たとえ傷ついても他人と接すること、ぶつかり合うすることを選択し続けるしかない碇シンジの物語として(同時に、傷つかないけれど他人のいない空虚、見渡す視界に自分しかいない場所を拒否する人間としてひとつの成長を遂げつつ、けれどいまだ別の成長への途上にある碇シンジの物語として)その結末を理解した。


そしてそこからきっかり10年後のいまになって考えてみると、その結末は奇妙にそれ以降の作り手と受け手が辿る末路を象徴していたような気さえする。セカイ系と呼ばれる作品群の登場(が、この時期だけの現象ともエヴァだけの影響とも思えないんだけれど、まあ一応)、二次創作の盛況と衰退、こんぺの発祥と閉塞、そしてその後にあった、それを超克しようとした動き。東の批評が好きだったりするなら「ギートステイト」とか「ゲーム的リアリズム」とか、SFが好きだったりするなら「決断主義」とか「ゼロ年代の想像力」とか。まあ、そこらは置いといて、ちょっとエヴァに戻って考えてみると、共同体が閉塞することと、何より、それをどう乗り越えるか(乗り越えられなくても、それにどう対応して行くか)についての答えをエヴァという作品は暫定的にでも出していたし、その一点で以降の状況を(もっと過激に言えば以降のそのような議論の全てを――それが作品として面白いかはまた別の話)その初めの段階で既に追い抜いている。


思い返してみよう。碇シンジという人間はどちらかというと閉塞している、そしてそれに苦しんでいるキャラクターだった。ある意味では人類補完計画はその救いとしてあったし、恐らくテレビ放映版におけるラストはその救いが実現した形として捉えることも可能なはずだ(それだけに、その最終回は自分の中だけの小さな成熟へ、自分にノーを突きつけないあなた――「おめでとう」へと収束していった)。だが、劇場版においては、自分が他の人間との境界を失ってどこまでも広がること、全てが同じになることは別の形で描き出され、碇シンジは物語の最後でそれを拒否した。だが、といって単に一人であること、ただ閉塞し続けることも選ぶことはなかった。結局シンジは自分の理解できない他人としてアスカをイメージし、現実世界へ帰り着く。そしてやっぱり他人であるところのアスカの首を絞める。そこにいるのは、その前段で成長を遂げつつも(遂げたように見える、ではない。何だかんだ言って、他人から逃げてきた子供が他人と向き合うことを選ぶのは、ひとつの成長の形だろう)、やっぱり成長していない(一度成長して、それで終わるものではないということを見せつけるような)碇シンジの姿だ。


何度も繰り返されてきた質問だと思うが、これは悲惨な結末だろうか。僕にはそうとも思えなくて、何故ならそこではシンジとアスカ、という二つの価値観、その境界が、ぐずぐずと溶け合うことなく、しかし遠く離れて無視しあうことなく、ある意味健全に(その方法の過激さはともかくとして)ちゃんと近いところで、互いに関わりあいながら並存していたからだ。


多重、多様に、並存すること。

それぞれに成熟して、けれどそれと異なったレベルでは未完成のまま衝突すること。それに含まれる悲しさに気づきながら、衝突のひとつひとつをなるべく許しあいながら、でも時に拒絶すること。

碇シンジが現実を選び取ることで成長しながら、同時にその辛さに耐えかねてアスカの首を絞めつけること。

惣流・アスカ・ラングレーが自分の首を絞めるシンジの頬を撫でながら、同時に気持ち悪いと言ってやること。


それこそがことの初めから提出されていた「答え」なのではないか。


ボクとキミ(でも本当はそこにはボクしかいないことを新海誠は『秒速5センチメートル』でついに明らかにしてしまったんじゃないかと思う)がセカイに小さくまとまるんじゃなくて、

オレがシャカイ(しかしそれは結局は個人的な理由で無化されてしまうようなことでしかないことを『コードギアス』は現時点で明らかにしてしまっている)にゴリ押しするんじゃなくて、

バラバラに成長するボクたち(しかしそれを見る視線が結局自分の知り合いにしか向かないくらいのものだということを図ってか図らずか『ギートステイト』なり『ゲーム的リアリズム』なりは明らかにしてしまっている)を超越的に見るでもなく、

現実なんか要らないよ、とばかりボクの中にある虚構の中でずっと愛を叫ぶ(それを『萌える男』として言い出したのが日刊アスカであれだけアスカとの関係性を書いていた本田透であることが皮肉だけど)でもなく、

ループするゲーム的なリアリズムの中のボクとしてバラバラの多様性を生きる(そして、それは既に二次創作の文脈においてひとつのスタイルとしてはるか前からあって、しかもそれは閉じた輪ではないという意味でループではないということを忘れちゃいけない。碇シンジたちがそのループに絶望しそこから出て行こうとするところまでが、予め二次創作の範囲でもう示されているのだ)のでもなく。


そういう、たったひとつの冴えたやり方ではなくて。


悩みつつ成長と失敗を繰り返してその隘路になんとか生きること。葛城ミサトが碇シンジに託して押し付けたことそのままの、一時的な回答としての答えではなく、その回答を出す方法としての答え。


それはあの時にもう既に示されていたし、であれば碇シンジがもう10年も前にそこを通り過ぎ、だからこそ今また進もうとしている時に、ぼくらもまたそのように二次創作してもいいんじゃないか。


というところで、まとまっているかまとまっていないか微妙なところに軟着地しつつ、こんぺのまとめを終えることにしよう。


あとがき


恐らくこの「THE COMPETITION OF EVANGELION」もまた(参加者はともかく、その主催者の流れとしては)その影響下にある「テキストサイト(仮)」を中心としたこんぺの界隈では、この夏に「Web小説コンテスト4」の開催を控えている。(と書いていたのだが、恥ずかしいことに実際にはその開催の方が先に来てしまうことになった)


そのウェブサイトにはこのような紹介文が掲載されている。


さて、小説を書かれている方にお聞きします。

一人で黙々と文学賞に投稿するのも疲れてきたよ。黙々とサイトに作品をアップするのにも疲れてきたよ。何かリアクションが欲しい!という方はいらっしゃいませんか?

自分の評価って、公平に見てどれくらいなんだろう? 読んでもらおうにもなかなか忌憚のない批評をしてくれる友人も居ないし……という方はいらっしゃいませんか?

誰かと競ってみたい。でも小説じゃあなあ……という方はいらっしゃいませんか?

そんな方々へ、ぴったりな力試しの場があります――それが、おりこんです。

おりこんは、自作への、多様な読者による多様な批評を提供してくれます。たぶん。

おりこん・企画の概略より)


そのような場所で割りあい無自覚に前提とされているように見える公平、多様、批評と言ったことばにぼくはまず戸惑う(その後に「それはもちろん絶対的なものではありません。しかし、一つの評価軸ではあります」という但し書きがあっても、である)。そこにある「公平性」や「多様性」とはどのようなものか、そしてそれらに立脚する批評がどういった質のものであるのか。数回、周辺的なこんぺに書き手、読み手として参加した時からそれを考えてきたし、また主催者として企画の主に製作面を担当し、こんぺを開催した時も考えていた。そして今その企画が終わったこの時点から、もう一度それを考えてみたい、と思った。


二次創作のあれこれや、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品と、結果としてその周囲から花開くことになった批評とあわせて。


企画の総括として書くにはかなりよくわからない題名であるこの文章は、つまりはそのようなけっこう贅沢な目的のために書かれたものである。このような目的のために、本文章の中には遡及的に考えて後付した理由や、書きながら思いついた理由が混在しており、総括という部分を少々ならずかなりはみだしている部分があるのは否定できないというかその通りである。しかしそれらの後付の理由や周辺的な議論も、全く脈絡なく登場したわけではなく、それぞれに本企画の方向性に影響を与えたことは疑いない。


とはいえ、それが全てを支配していた、というわけではもちろんない。


本企画の根っこにはまず、純粋に面白いことをやりたい、という動機がまずあり(もともとの企画者として発案した我乱堂さんは根っからのエンターティナーである)、それにしたがって全てが動いていたのは言うまでもない。

――もっとも、この当時は私はリレー企画として「シンジ十番勝負!」を抱えており、すぐにしようとは思わなかっただろう。このリレーについてはまた稿を改めて書かねばならないが、その前回のリレーと違い、明らかに私自身がテンションを欠いていた。前回が十五人のリレーを、わりといい加減な態度であったのにも関わらずに完結できたということが自信になっていたということが最大の原因だった。

とにかくそういう事情もあって、私にとってはコンペをするということは、考えていたものの「来年の企画」として、「リレーにかわるもの」という位置づけであった(このあたりはきたさんの事情とは明らかに異なる)

(我乱堂氏の未公開コメントより 2007年7月8日)

そんなわけで、このこんぺの最初は、割と気楽な場所から始まったということを、最後の最後に書いておくことにする。何らかの主義のためだけにあった、ってわけでは、当たり前だけどない。そして実際、この気楽さこそが話を進める上で本当の原動力になった。結局楽しめればいいじゃん、というのは一番のモチベーションであり、実際のところそういう気持ちで最終的には動けいてしまえる人間でないと、この種の企画を動かすのはかなりの苦行になっただろう。その意味で、やっぱり企画は楽しんで行われるのが一番だ、と素朴に思う。

けれどもその一方で、最初は誘われスタッフとして企画に参加し、いつの間にか共同企画者として、かなり意思決定に近い部分で動かせていただいたぼくには、それ以外の興味もまたあったし、それは一度どこかで考えておかなければいけないことだと思った。純粋に楽しもう、ということと、こういうテーマ的な部分を強く打ち出すこととはもしかすると矛盾しているのかもしれないが、そういう割と矛盾した部分を残しつつ行ったからこそ、割とやってるほうとしては楽しいイベントになったのではないだろうか、とも思う。ちょうど、この文章で述べた「並存」の図式に従う形で、そこにはいくつもの思惑が交錯して、ぶつかりつつ平衡していた。


それでいいし、それこそが面白い、と今は思う。


そういうわけで、この文章はこのこんぺのあくまでも一面に過ぎないし、その文責は全てぼく、northにある。そのうえで、企画の発案を含めさまざまに企画をリードし、またそれを越え、この文章のまとめへの道付けに協力して下さった主幹である我乱堂さん、企画に強力な協力をいただき、システム運用を一手に引き受けてくださった影の立役者(ということは、northよりよっぽど重要な方)であるまてつやさん、そして様々な管理者側の限界がありつつも、それを遥かに越えて多様かつ面白い作品を見せていただけた書き手の皆様に感謝します。ありがとうございました。(それからもちろん、本企画を支援してくださった協賛リンク先の皆様や美しいバナーと大賞作品の挿絵で一撃を加えてくれたkazさんにも)

またこの文章を書いている間中、ぶつくさとまとまらない言葉を話すぼくとの会話にあくまでも実作者としてのスタンスからしぶとく付き合ってくださった臥蘭堂さん、時に批評的なことを突っ込んで質問してくださった無名の人さんにもまた、参加者としてのそれを遥かに越えてお世話になった。本当にありがとうございました。(それから追伸として、文中で好き勝手書いた批評を書いた人たちにも。多くの先行研究がなければ、もちろんここにある文章は存在しません)


皆様、本当にありがとうございました。懲りてないのでまたやります。



author: north
(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を見て、その後に来るものへの期待を高めながら。
仕事やる時は頑張るので、これに懲りず、また付き合ってくれたらうれしいです)


first update: 20070910
last update: 20070910

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