第五話 怒りの価値は
いかりのかちは


嫌な予感はしたのだ。



この時のことを、シンジは後々になっても思い出すたびに、考えることがある。

なぜ自分は、とっとと逃げなかったのか。

そうだ。

自分は、ここでさっさと逃げるべきだった。

いつから?

少なくともマヤが「それ」を手渡した時点では動いておくべきだった。

遡ればアスカが「私がリーダー」という前、いや、もっともっと遡ってサードインパクト……あるいはカヲルくんを殺してしまった時の――もっと前か。あの最強の使徒戦とか、その前の参号機に寄生した使徒の時とか、あるいは一度帰ってしまおうとしたことがあって、そのまま駅で立ち尽くしてしまったけど、その時に帰ればよかった。いや、もっともっともっともっと言えば、「来い」なんて父からの手紙なんか放置しておけばよかったのだ。



自分は、この町にくるべきではなかった。



それなりに幸せな現状でいる彼がそう思ってしまうくらいの壮絶な展開であった。

この時にそれを知ることができた人間はいない。

人間でないカヲルだって解らなかったんだから、シンジにはなおさら解らなかった。


マヤからミサトに渡された「それ」――茶色の封筒を、ミサトと「ふーん」と中身を取り出してぱらぱらと流し見る。何かの書類のようだった。それを見て彼女がどういうことを考えたのかは誰にも解らない。ただ、一通り目を通すと封筒に入れ直してそのままさらっとアスカへとよこした。

アスカは「何これ?」と受け取ってから、改めて中身を取り出す。

書類の一ページ目でアスカの眦が細められ。

二ページ目で、唇の端が歪んだ。

そして。

最後のページで、握り締めた。

書類を。

その時のアスカの顔は、マヤですら「ひい」と仰け反ってしまうほどのものであった。

つまり怖かった。

すげー怖かった。

シンジだけではなくてリツコまでそう思ってしまうくらいに怖い顔だった。



「何よこれはぁぁぁぁ!?」



咆哮であった。

この時、シンジは第一回のあれにも優る地獄の到来を予感していたのだが、当然のことながらそういうのを察知するのは遅すぎである。




☆ ☆ ☆




あんまり引っ張っても仕方ない。

第一回隠し芸大会は、最初の出し物が散々な結末に終わって、その後のオペレーター三人組がなんとか上手くやろうとして――マヤの大告白という驚愕の展開を迎えた。

ここで中止にならずに続けたのは、誰の判断であったのか。

言うまでもない。


「場があったまってきたわねー」


……全ての元凶を求めるのならこの女である。

まさしく第一級の戦犯と呼ぶに相応しいことをしておきながらも彼女が無事に生き延びていられるというかそれ以前に一日10万キロカロリーはちょっと無理にしても摂取してそうな自堕落なアンチェインっぷりをすごしていてられるのは、彼女が葛城ミサトであるからとしか言いようがない。地上最強の生物でこの世で一番わがままなアスカであってもチルドレンとしての責任とか義務とかは一応持っているのに、ミサトのいい加減さというか自由はそれをも上回る。もっとも、使徒の全てを倒してしまった現在は彼女がNERVにしがみつく理由もないというのもその態度に関係はしているだろう。いつだって会社やめていーもんと思っている社員にどんだけ厳罰くだそうと反省するはずがない。

それにもっというのなら、この事件では、直接の実行犯が別にいる。

その「実行犯」がそういうことをやってしまったのも、誰かが意図してそうなったという訳でもなかった。まったく不可抗力だったのだ。

例えその人物がそういうことをしてしまった因果関係を遡って、結局は葛城ミサトが原因だとしても、そのことで責めるということができるはずもなく。

そもそも、自覚どころか、その「実行犯」には記憶すら残ってないのだ。

思い出すのも忌わしい第一回NERV隠し芸大会の地獄は、マヤの大告白の後、ちょーしに乗った相田ケンスケによる山岸マユミに対する告白を「ごめんなさい」されてしまった直後に起こったのだ。


「四点」


ぼそり。

特別審査員席に座っていた綾波レイが、それだけ言った。

それだけ言った直後に、タライが落ちた。

直径一メートルはあろうかという、デカい金ダライであった。

それが、どこからともなく落ちてきて、相田ケンスケの脳天を直撃したのだ。


「ぎゃふん」


とケンスケが言ったかどうかは定かではない。

まったく予期せぬできごとというか衝撃に、そのまま昏倒してしまった。

だが、そのことで驚いた人間はいたが、慄いた人間はいなかった。

古きよき80年代テイストを誰かが演出したものだろうと、そのようにしか考えなかったのだ。

むしろ拍手さえ起きた。


「ほんとうにふぁったく、にばんせんじでうけをとろうってのが……」


かなりろれつの怪しい口調でいうアスカに同調するように、レイがこくりと頷いた。


「次」

「あ……六番! 大井サツキ! 綾取りで『踊る蝶』を」


この時、歴史上、だた一人だけ存在したという綾取り家元のみが可能であったという技に挑戦した彼女はどういうつもりだったのだろうか。せっせっせっとやって結局できなくて「ごめんなさい。てへっ」と舌を出して誤魔化したのだが、あらかじめそうしようと予定していたのか、できる可能性があると思っていたのか。今となっては解らない。彼女は、大井サツキは、その時のことを思い出すことすら拒否している。

そうだ。


「てへっ」


おーい、と軽く突っ込みの入りそうなシーンだった。

場を盛り上げるのには、割とこういうシーンはあっても悪くない。

そういうシーンのはずだった。


「一点」


声は、冷たかった。

綾波レイ。

ファーストチルドレン。


「――――え?」


サツキは、その時に自分の身に何がおきたのかもわからない顔をしていた。その顔のままで、突然タライまみれになった。


――落ちてきたのだ。


正しくは七つの金タライが、何処からともなく落下してきたのだ。

さすがに、あまりの事態に観衆も声もない。

審査員席に座る他のチルドレンも、ミサトもリツコも、無言だ。


こほん、とミサトは咳払いして。


「――リツコ、ちょっとこの演出はやりすぎじゃないの?」

「……わたしは、ミサトが用意させたものかと」


親友同士で顔を見合わせる。

そして。


「「司令?」」


見ると、いつものポジションでいつものように腕を組んで顎を載せていたゲンドウとその後ろに立っている冬月が、


「始まったな」

「ああ」


「予定通りだ」


……などといういつもどおりに捻ったところのない会話をしていた。


(――違う。これはこの二人の仕業じゃない)


葛城ミサトは、直感した。

これは、人間の仕業じゃない――。

はっとチルドレンたちを振り向く辺りが失礼というか的確というか、綾波レイが、その視線の先で、コップになみなみと注がれているジュースをくいっと仰いでいた。


酔ってる!?


ひくっ、とレイは喉を鳴らした。


「わたしは酔ってません」

「その台詞は酔っ払いがいうのよ! ――って、何したのよアンタ!?」

「ま、まさかレイ、あなた……」



「罰を与えます」



ああっ、女神さまっと言いたくなるくらいに神々しい笑顔であった。

そうなのだ。

ただでさえ酔ってた綾波レイが、さらにどういう事情なのかは不明だがミサトが作ったカクテルジュースを飲んで――酔いが回りきったのだ!

当たり前の話ではあるが、綾波レイが正気を無くすまでに飲んだらどういう風になるのかということを、誰も知らなかった。まだ未成年なのである。いかにも悪いことを教えていそうなリツコもミサトもゲンドウも、彼女がどういう風に酔っ払うというのかは、まったくの未知であったのだ!

彼女は、宣言した。



「五点以下の人間には、タライを落とします」


「――――――!」


どういう規準で点数つけているのかとか、そもそも何処から金タライを調達しているのかなどということは、誰にも解らなかった。

だが、確実に解っていることが一つだけある。


――ここでこのままいたらヤられる!


金タライとはいえ、数が揃えば相当な威力になる。

そしてそれはまったく男女の区別なく容赦なく降り注がれるのだ。

誰かが悲鳴を上げて席から立ち上がって逃げ出した。一人がでると二人三人とわれ先にと駆け出す。だが、彼らはやがて不可視の壁につきあたった。こんなものが設置された覚えはない。


「電磁波! 電波! 光以外のあらゆるものが外部から遮断されています!」


マヤが何処からかとりだしたノートパソコンでMAGIとアクセスしてそう叫んだ。


「まさに結界か!」


どっかで聞いたような台詞を口走るミサト。


特別審査員席に座るレイは、立ち上がって宣言する。 



「さあ、次の芸を! 次の次の芸を! ハリー! ハリー! ハリー!」



全然人格が違ってしまっている。

ことこうなっては、綾波レイを止めることができる人間なぞいない――とみなが諦観を覚えかけた瞬間、つい一時間ほど前にも彼女を止めた人間がいたことを一成に思い出した。使徒の能力相手に一歩も引かず、バックドロップを仕掛けることを可能とした地上最強の生物。神にも対峙し得る現代のヤコプ。イスラエル(神に勝つモノ)!


惣流アスカ・ラングレー!


ああ! だが、彼らは知らなかったのだ。

彼女もまた酔っているということを! 

誰もが知らぬ彼女が酔いの回りきった姿を!


その時の彼女は――



「うーん、しゅきしゅきー!」

「あ、アスカぁ、放してよぉ」



甘えん坊になっていた



地獄開始! とシンジに似た声がどこからか聞こえたような気が、ミサトはした。




☆ ☆ ☆




「どうなってんのよこれは!」

「な、何がどうなったの……」


怒り狂うアスカを宥めようとしたシンジは、どうどうと背中を抑える。


「何って、これを見なさい!」


シンジはアスカの差し出したくしゃくしゃになった紙束を受け取った。

それは、驚愕すべき内容が記されていた。






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first update: 20070515
last update: 20070515

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