第拾六話 モラトリアムの贖罪(彼ら彼女らの事情)
かれらかのじょらのじじょう


そのころ、碇シンジの精神は静まり返っていた。

それはもはや無我の境地と言って良い。彼は何にも心動かされず、ただ――じっと、耳を澄ませていた。


そこは静かだった。不必要は何もなく、調和のとれた世界。



――でも――



調和は破られる。



――やはり。



その耳に、空気に、微かに障るものがあった。



――どうするか――



この場を覆い成立させている調和、世界の壁とも言うべきそれを破り、不協和音を奏でるものが、確かにそこにいた。

碇シンジはそれを知っている。いや、碇シンジこそがそれを誰よりも知っている。

だからこそ、彼には選択肢があった。

彼――碇シンジにはその能力によって、半ば特権的に選択肢が与えられていたのだ。


ひとつは、それに対して見て見ぬ振りをすることだった。

世界の調和を破るモノをその目に、その耳にしながら、それでもひたすらに沈黙を守ること。

何もかもに目をつぶり、自分の殻へと閉じこもってしまうこと。


……それまでの自分と同じように。



(それは、できない)



自然とそう考えたことに、シンジは自分自身驚いていた。

どうしてだろう?

考えたが、自分でもわからなかった。

僕はそれほど強情な人間だっただろうか?

それこそわからない。

いつだってそうだ。いつも後になって、自分のしていることの意味に気づく――今だって、そうなのだろう。


そうであるならば――


シンジはふと動きを止めた。

注目が集まっているのが分かる。ある者の顔には疲労が色濃く浮かび、ある者の顔には絶望の色がある。


けれども。


彼はそれでも、そこで立ち止まらざるをえなかった。


「……アスカ」


アスカが無言のまま顔を上げ、シンジの目を見た。

人類最強と、ただの男。

もはや埋められぬほどひどく差がついたかのように思える二人だったが、今、彼らの間には言わずともわかるものがあった。


何故ならば――







「……また、ボウイングおかしい」







碇シンジが惣流・アスカ・ラングレーの 運弓(ボウイング) に駄目を出すのは、これでめでたく通産五十回目だったからである。


「う……」


アスカは呻く。しかしシンジは胡乱とした表情でアスカを見るばかりだ。

そして顔面が痺れているかのごとき無表情で訊きかえす。


「う?」

「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」


アスカは地団駄を踏まんばかりの勢いで唸ったが、地上最強の生物の発した唸り声でも、このシンジを止めることはできなかった。

シンジはカミソリのような瞳でアスカを見て、ぽつりと言葉を口からはじき出した。


「――何か?」

「……すいません」

「はい、ではさっき始めた場所からもう一度」




……それは彼女ら少女達(そしてテーマですら忘れられているが一応は少年達)と、



音楽



の物語だった。

という自明のことを改めて述べなければならないのは、にも拘わらずかくし芸大会の通知後半日を過ぎてなお彼らが楽器にさえ触れていなかったからであり、よく考えればまずいことになっている(そして時間が経つにつれてさらに状況は悪くなる)のはそれこそ自明のことだった。


時よ止まれ、と願っても。

時間は絶えず流れるものなのである。




☆ ☆ ☆




……とはいえ、実際にはこうなっている原因は、そこまで真面目な優等生的理由でもなかったりする。


それは彼らがネルフ地下にある、ゼーレとの通信に使う小部屋を辞した後のことである。


「……なんだったのかなあ、あれ」


それっきりゼーレとの通信はつながらず、結局わかったのは、

「さあ……でも」

「何よ?」

「……結局、借金があるって事実は、変わらないんだよね」

そのことだけだった。


借金の額に言葉を失ってしまったシンジにすれば、やっと迷路の出口が見つかったと思ったら次の迷路の入口だった、というようなもので、戦々恐々とする気持ちは相変わらずだった。


「あー……まあねえ」


しかし一方のアスカといえば気のない返事だった。

アスカにしてみれば、問題はあの怪しげなプラグスーツだったり、何故か一年前の借金を今さら背負わされている、というその理不尽さであったりしたわけで、老人にあっさり「ぼく知らない」と振り出しに戻されてしまったことで少々萎えている部分はあった。

それに、アスカにとっては駒は振り出しよりもさらに前に戻った、という面もあった。何しろゼーレの借金はチャラではなく、結局アスカの借金に上乗せされるのであり、この歳にして世界最大の借金王になってしまうのは目に見えている。


ますます萎える。やってらんねー。


となればもはやトンズラを考えるしかないわけで、なおかつアスカはそれができる立ち位置にいるのだから、それを考えるのは当然のことではあった。


だが、しかし。


それでもなお、そこでアスカが発した言葉は――間違いなく最大限の失言だった。

アスカはだっるう、と独り言を言ってから呟いた。


「あー、まあ、あたしに払わせることができればだけどねえ。もともとこんなもん、逃げようと思えばいつでも逃げれるし」


その瞬間、場が凍った。


「……な、なッ、なッ」



なンだとォ―――――――――!?



それは言わない約束だったはずである。


以前もぶっちゃけたが、確かにアスカにとってはこんな約束やら借金やらは屁でもない。

この世でアスカにだけは、やりたくないことなんぞは周りの全てを蹴倒してでもやらんで済ますことができる、という正真正銘の強者の自由が許されているのである。

んなことはシンジだって知っている。というか、どうしてこんなことに付き合ってんのか不思議だなあ、とシンジ自身思ってはいた。


けれども、実際にトンズラこくとなったら話は別。


どうして彼女がけっこうな理不尽をしても許されているのか。

それには、何かあったとき、実際彼女だけならなんとかなることでも、それでも付き合うから――そういう面がやはりある。

そして、今回もまたそう決めたはずだったからこそここにいて、他の面子まで呼び出したはずなのである。


それを、今さら――――――!!



……思えば、この時点でシンジはキレていたのだろう。



「練習、しようか」


そう呟いた声は、その場の誰もが「はい」と答えざるを得ない、えらい迫力に満ちていたのだから。



☆ ☆ ☆



というわけで。


ここ数話、目だった活躍のない彼らが今何をしているか、といえば、終始どこかで機械の発する雑音がするこのジオフロントにあって一番静かな場所、誰にも邪魔されないターミナルドグマ近くの空き部屋――つまりかつてレイが住んでいた部屋を使って練習している。


時刻は既に日付変更線をゆうに過ぎて二時半を回り、それでもなお練習は終わらない。


であるからして。


当然のことながら、幸か不幸か、彼らは自分達の世界が決定的に変わってしまったということに、いまだ気づいてすらいなかった。


彼らにとって今問題なのは――


きゅ。


「ほらそこ」

「う……細かいのよ、アンタ――」

「……」

「わ、わかりました」


〜〜♪〜〜……きゅ。


「そこも」

「厳しいねシンジ君。こんな時間なんだ、少しは――」

「……」

「ご、ごめんよシンジ君」


〜〜〜♪〜〜〜〜ぎゅ。


「そこ」

「これは、涙? 泣いているのは、私――?」

「……」

「……いい、仕事だから」


……全員の目の前に顕現した無言の独裁者の方だった。


シンジはその視線だけで全員を黙らせ、いつの間にやら戻ってきていたレイとカヲルをも平謝りのうちに練習に参加させていた。

普段からこのくらいの開き直りができればきっと彼もまた地上最強になれるのだろうが、そこは深夜三時前のマジックである。


(……はあ……)


もはや誰もがため息を隠せなかった。バカと開き直ったヤツには勝てない。レイのタライもカヲルのATフィールドもアスカの地上最強も、真面目に練習しろオーラを一心に放つシンジの前にはなす術がなかった。


――が、そんな風に世界の大変化を先延ばしにしているモラトリアムも、さすがに半日は持たない。


始まりの音が――シンジの耳には聞こえた。



「……うるさい」


シンジが唐突に呟いた。普段のおどおどした表情からは信じられないくらいのひねくれた、据えた目をしている。


「……音がする」


……だが、他の人間には何の音も聞こえなかった。





――こいつ、ついに壊れた?







いまさらながら、そう皆が思った矢先のことである。










dddddddddddddddddddd..........









「ん?」「あれ?」「なに?」「うを?」「なんや?」











……どどどどどどどどどどどっかんっどどどどどどどどどd……









「たしかに」「音が……」「する、な、なに?」






「なんだこれ、なんだこれ。これは――」








……どどどどどどどどどどどっかんっどどどどどどどどどd……









バベキィ!!!







「いっただき、まんもっすうっぃ〜〜〜〜〜!!!!」



ドアを叩き破る破裂音の次に、その声を聞いた、瞬間。



シンジは宙に浮いていた。



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first update: 20070515
last update: 20070515

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