二人は助かって、わたしはどうなる。どうなるの。
「あ……う……」
駄目、出て、声。
このままじゃ……
わたしは、
しぬ。
「た、助けてぇ!」
精いっぱい張り上げる声。
でも、数秒たって、巨大な兜が少しだけこちらを向いた。
ならばきっと、わたしを助けてくれたのはわたしの声なんかじゃなくて、わたしが助けようとした二人の声だった。
「ミサトさん!」
スピーカーから漏れたのは、碇君の声。そして、葛城さんの声がその上に被さる。
「……洞木さん? ……考えてる場合じゃない、あなたも早く乗りなさい! シンジ君!」
「……はい、うぐっ!」
奇妙な碇君の声とともに、小さく見えていたエヴァンゲリオンは山に尻餅をつきながら、少しずつこちらへと近づいていた。
その首の後ろからは白い筒がとび出ている。
「乗って!」
「……こ、腰が抜けちゃって動けない」
切羽詰った声音の碇君に、わたしは情けない声しか返せない。この声は、ちゃんと届いているの?
「相田! 鈴原ッ!」わたしの知らない殺気だった声で碇君は言った。
そしてそう言い終わるころに
「くうっ!」
碇君は、顔をしかめてしまうような何かに耐える声を漏らした。
辺りに肉のこげる嫌な音が漂って、見ると、エヴァンゲリオンは両手になにか光るモノを握っていた。
駄目、見るな。その向こうを見るな。
あ、でも……あ。
その向こうには――赤くぬめる、バケモノ。
「あ……あ」
碇君はそのままうめき続けていた。這うように進もうとしていたわたしにずぶ濡れの鈴原たちが近づく。
そして結局、わたしは大きな荷物になってエヴァンゲリオンのコクピットに放り込まれていた。
脚が何かに浸かる。
水?
「ひゃっ!?」
頭まで水に浸かってしまったわたしは溺れそうになった。けれど、しばらくしてわたしは納得した。
いつかアスカに教えてもらったことがある。
何か難しい事をいってたけど、息のできる水、って言うことだったと思う。
わたしは息を止めるのをやめ、思い切って息を吐いた。肺に生ぬるい水の感触を感じる。初めての、身体の中すみずみまで水で侵されるような感触。鉄くさい、生臭い味。
ようやく落ち着いたわたしは顔を上げようとして……やめた。
きっと、今見てしまえば、またわけがわからなくなる。
そんなことを事を考えて、妙な形をした座席を見つめていると、碇君と葛城さんが口喧嘩を始めた。
下を向いているわたしには姿が見えず、声しかわからない。
わたしはその声を聞いて、さっきの屋上にいた碇君の顔を思い出すことはできなかった。
イメージと違う。
碇君って、こんなに激しい子だったっけ?
最後に碇君が何か言った後、葛城さんの声が途切れた。ああ、駄目だ、状況に全く、ついていけてない。
「い、碇? ええんか? なんや帰って来いて言うとったで?」
少しだけ、そうっと顔を上げてみる。鈴原が怯えたようにおどおどと碇君に話しかけていたけど、碇君は聞いていないみたいだった。
またしても、イメージと違う。
鈴原、こんな感じだったっけ?
なんだか、碇君みたい。
……違うか。わたしが、ちゃんと見てなかったんだ。状況もわからないくせに、そんなことに妙に納得していた。
戦いは続いていた。
「ぐぅっ!」
ゆらり、前からの波が頬に当たる。碇君がうめき声を上げておなかを押さえたのだ。
え?
あ。
まさかこれが……じゃあ、さっきの焦げたてのひらも?
わたしが見ることができそうなのは碇君の顔まで。他の二人は、碇君のすぐ後ろについている。でもわたしはモニターの向こうを睨みつける、人でも殺せるような碇君の表情が怖くて、それ以上は近づくこともできない。役立たず。
碇君が叫ぶ。悲鳴のような叫び声。
わたしは耳を押さえて、操縦席の隅っこで小さくなっていた。
次にわたしがその影から身を乗り出したとき。
碇君は荒い息で俯き、さっきまで外が写っていたはずの画面は真っ黒になっていた。
こうして戦闘を窮地に追い込んでしまったわたしたちはたっぷり夜までしぼられ、その後解放されたわたしはさらにお父さんとお姉ちゃんからけちょんけちょんに怒られた。
次の日に来ていなかったところを見ると、鈴原や相田はわたしよりもっときつくしぼられたのだろう。
取調室を出るときに葛城さんに言われた「でもあなた、勇気あるわね」の言葉が、唯一の救いだった。
そんなこんなで、間違ってしまったあの日の夕暮れから三日、いっこうに止む気配のなく雨が降りしきる中、相変わらず碇君は休みだった。
「今日で、三日か……」
「気になるか? 委員長」
独り言に返事をされて、思わずわたしは「え?」と訊き返してしまった。
「碇のことだろ?」
「……うん」
「まったく、委員長もトウジも、強情というかなんというか。あの時謝っとけばよかったんだよ」
「わたしは――」
反論しかけて、口をつぐむ。謝りたくなかったわけじゃない。
ただ、あの時、裏切られたような目でわたしを見る碇君の顔を見ると、わたしは何も言えなくなってしまったのだ。深い失望が刻まれたような表情は、わたしの口をふさぐのには十分だった。
「……ったく。――ホラ、番号」
そう言って、相田はわたしにメモの切れ端を渡した。
「トウジは、結局かけられなかったみたいだけど」
わたしはメモを受け取り、廊下へと走った。
相田がわたしの背中に何か声をかけたような気がしたけれど、何を言ったかまでは聞き取れなかった。
結局、電話はつながらなかった。
わたしが碇君に会えたのは、それからさらに二日あと。あの日の翌日からずっと続いた長雨が上がって、あの日と同じ夕焼けが見えた日だった。
「碇君?」
小さな背中にわたしは声をかけた。コンビニ帰りの夜の街、わたしは家着で見れたものじゃなかったけど、迷わず声をかけた。今を逃したら、「今回」で、次が来るかはわからない。
見覚えのある緑色の小さなリュックを背負った男の子はびくりと肩を震わせ、血色の悪い顔をして振り向いた。
やっぱり碇君だった。
閉まった店の蛍光灯のせいか、弱々しい印象だったその顔は、ますます弱々しくて、まるで病人のような顔に見えた。
「洞木……さん?」
どうやら、頭の中のイメージと合わないらしい。確かに、家着で髪も下ろしているわたしは普段とは少し違って見えるだろう。まあ、良いほうに、ではないことは確実だけど。
わたしは近場のコンビニだからと家着で外に出てしまったことを少し後悔しながら言った。
「あの……ちょっと、話さない?」
言ってしまって、顔が赤くなるのが自分でもわかった。他意はない、他意はないんだけど、やっぱりこんな時間に男の子に声をかけるというのはちょっと気恥ずかしいものがある。
碇君は、ためらいがちに答えた。
「……いいよ」
「ごめんなさい」
わたしはベンチに腰掛けた碇君の前で頭を下げた。思い出してちょっと泣きそうになったけど、ここで泣いてはいけない。女に泣かれてしまったら、許すしかなくなるだろう。それは、反則だ。
碇君は、長いこと黙っていた。わたしはそのまま待った。
「……どうして、そういうことをするの」
碇君はぽつりと言った。わたしは頭を下げたまま、その言葉を聞いていた。
「もう嫌だ、こんなところ出て行ってやろう、って、どうせ、自分で来たくて来たんじゃないから、って、そう思ったのに。なんで」
え? わたしは言っていることの意味がわからず、顔を上げた。
碇君は泣いていた。静かに両目から涙を流す顔が、まだ欠けて暗い月の光に照らされている。
――「あの時」碇君は出ていかなかった。でも、今は出て行こうとしている。これは、わたしのせいだろうか?
「みんな、結局はパイロットが見たいだけなんだろう。……あんなに、謝ってきたのに、頑張れって、言ったのに。仲良く、なれると思ったのに。……大間違いだった。ほんとうは、僕のことは、どうでもよかったんだ……必要だったのは……」
碇君はわたしの姿なんか見えないと言わんばかり、独り言のようにとうとうと言って、言葉の端が終わりまでいかずに途切れるとそのまま黙った。そして涙も枯れた目で、わたしを見た。
わたしはその目を見返して、足がすくんだ。
その目は、わたしの記憶の中にあった、アスカとじゃれたり落ち込んだりしていたときの、拗ねていて、かまって欲しい苛められっ子といった感じの碇君とはほど遠い、暗い目だったからだ。
もう少しで、目であるはずのところにぽっかりと穴が開いてしまいそうな。
これは、わたしのせい?
――そう、きっと、わたしのせいだ。だって「あの時」は、碇君はここまで暗い目は、していなかったはずだから。
何を言えばいいんだろう。何を言えば、許してもらえる?
「ごめんなさい」
わたしはもう一度言った。
そしてすぐに、自分の失態に気づいた。駄目だ、こんな風に、まるで自分が被害者のように謝ったなら、きっと――
「……そうやって……」
さあっと碇君の顔に朱が走るのがわかった。
駄目。
踵を返した碇君の手を、わたしは掴んでいた。
びくりと碇君が震えた。手を振り切ろうとしたけど、わたしは離さなかった。
「……離してよ」
「いや。ちゃんと謝らせてもらうまで、離さない」
もはやどちらが責めているのかもわからない。それにそもそもわたしは、彼が嫌いだったはずなのに。
でも、そのまま放ってはおけなかった。
だって、こんなところ自分で来たくて来たんじゃない、もう嫌だ、って、それは。
わたしと、まったく同じだったから。
碇君が耳まで赤くしてわたしに怒鳴った。
「放せよっ。君には関係ないだろっ! いいじゃないか、君は悪くないんだからさあ。鈴原の妹、助けて、鈴原と相田も助けて、君の方が僕より、ずっと、ずっと感謝されてるんじゃないか!」
はっとした。
そうか、わたしは。碇君からそういうものを奪ってきたのか。
自分が痛みに耐えて作った状況の中で、何もできないくせにしゃしゃり出てきて全てかっさらう嫌な女。それが、今の碇君にとってのわたしなのだろう。
否定できない。結局わたしは、今までずっと最後には足でまといだった。なのに。
「でもあなた、勇気あるわね」
わたしにそう言った葛城さんは、碇君にはなんと言ったのだろう?
それだけじゃない。教室でだって、わたしは話しかけてきた碇君を、泣き出すなんて手段で拒絶した。
碇君が悪くないことなんか、わかっていたはずなのに。
あれを見た人は、碇君をどう思ったのだろう?
そして、そんな風に拒絶したのに、あの屋上では頑張れって言ってみたり、そのくせ、また戦場にしゃしゃり出てみたり。
そうだ、何にも見えてなかった。いや、見てなかった。もう、何もかも、どうでもいいと思っていた。
わたしと同じで、でも逃げられない人が、ここにいるのに。
ああ――
わたしは、馬鹿だ。
「違うわ」
碇君が、怪訝な顔でわたしを見た。
「わたしも、みんなも。碇君がいなきゃ、きっと死んでた」
「でも――」
「だから悪いのは、わたし。碇君は、何にも、悪くない。――ありがとう、あのとき、助けてくれて」
そう、わたしは謝るんじゃなくて、ありがとうを言うべきだ。誰にもその言葉を言ってもらえていない、この男の子に。
碇君はわたしを見た。
「ねえ、碇君。わたしの……友達になってよ」
これはお詫びなの? ――わからない。嫌いだったんじゃないの? ――そのはずだった。
でも今、確かにわたしは、わたしと同じ気持ちで、わたしよりずっと頑張っているこの子と、友達になりたいと思ったのだ。