暑い。それでも、女子はプールなだけ、ましかもしれない。金網の傍に立って見下ろすと、男子が暑い中グラウンドでバスケをしている。

「なーんか、鈴原って目つきやーらしーい」

「ね、碇君もこっち見てない?」

「いやいや、ああいうタイプがけっこう……」

みんな楽しそうに好き勝手なことを言って騒いでるけど、わたしは知ってる。碇君は、綾波さんを見てるんだ。


綾波さんは謎だ。


いつも飄々と独りでいる。女子のグループとかそういうしがらみを、まったく気にしない。

ただ淡々と授業をこなし、授業が終われば……場合によっては授業の途中でも、さっさと家に帰ってしまう。


「洞木さん」

碇君はわたしに声をかけた。結局碇君は、この街に残ることに決めたらしい。

あの夜から、わたしたちは友達、ということになった。まだまだわたしから話しかけるほうが多くて、碇君に気があるの? なんて勘ぐられたりもされるけど、それを気にしてたら碇君と話す機会はゼロになる。

そんな状況だったので、碇君の声にわたしはすぐに答えた。

「なに?」

「あの……綾波ってさ、ずっとあんな感じなの?」

碇君はそう言って、教室の端を指差した。そこには、綾波さんがいた。いつも通り、独りで。

「うん。いつも、あんな感じね……一年のときも一緒のクラスだったけどそのときから、ずっと」

今度はわたしが逆に碇君に訊き返した。

「綾波さんも、エヴァンゲリオンのパイロットなんでしょ? 話したり、しないの?」

碇君は、苦笑いで答えた。

「ほとんど口、きかないんだ」


そう、だから碇君は、綾波さんを見ているんだ。

彼女は世界の端っこで

第9話
「あ で始まって い で終わる」

「ねえ、洞木さん」

碇君はそっと、わたしの肩を叩いた。本当におっかなびっくり、うかがうように。碇君はこういうことをするのに躊躇する方らしい。それでもやらなきゃならなくなるのは、最近わたしがぼうっとしているのが多いせいだ。現に友人の何人かには、そのせいで疎遠になってしまっている。

昨日は綾波さんのことだった。今日は?

碇君はちょっと肩をすくめてわたしのほうを見た。いつもでも十分引っ込み思案に見えるのに、そんな姿勢をしたらますます暗そうに見える。

わたしは小首を傾げて訊いた。

「どうしたの?」

「あの……ちょっと頼みがあるんだけど、いいかな?」

碇君は言いにくそうにそう言って、わたしの机の上に一枚のカードを置いた。

「なあに? これ。綾波さんの……カード?」

「あ、うん。それね、ネルフのカードなんだけど、何か、ミサトさん、あ、会ったことあるよね? あのちょっと大柄な、うん、その人から、綾波に渡すように頼まれてさ、あ、えっと、それで……」

碇君はこの前の激しいようすが嘘みたいにどもりながら早口でしゃべった。

要するに、これを綾波さんに渡さなければならない、という話らしい。

わたしは表示されていた出席簿を見た。


綾波レイ、欠席。


それでか。

「で、家まで持っていくってこと?」

わたしが言うと、碇君はうんうんうなづいた。

「そうなんだ。でも、女の子の家に行くことって、ないからさ……家の場所も、よくわからないし。それで、もしよければ……悪いんだけど……」

「いいよ」

わたしは話の途中で答えた。

綾波さんとは「前」に仲がそれほど良かったというわけではなかった。けど、嫌いだった碇君とだって友達になれたんだから、綾波さんとだって。


ほんとにそれだけ?


一瞬思ったけれど、わたしはあまり気にしないことにした。委員長としての責任もあるし(碇君がわたしを委員長と思っているかどうかは知らない。案外、不良だと思われているのかもしれない)、綾波さんのことを知っておくのは、悪くない。

学校をサボるくせに、そんな理由を考えてわたしは何でもないように教室を出た。


わたしは少々引いていた。

住所録にあった住所、そこは……この街が建設されたときにできた、急造のマンモス団地がある地域だった。最近では建設関係で住んでいた人も次々と出て行っていて、治安もかなり悪い、とお姉ちゃんが言っていた場所だ。夜にうろうろしちゃ駄目だよ、あのへん。

しかし、綾波さんの家は、そこにあった。

呼び鈴も壊れてるし、どういう家なの?

「ほんとに……ここ、よね?」

わたしは後ろ――玄関で待っている碇君に訊いてみた。さすがに女の子の部屋に男の子が無断で侵入するのはまずいということで、わたしが入ることにしたのだ。

「その……はずだよね?」

当てにならないなあ。

わたしはため息をついて、足を前に進めた。

「お邪魔しまーす……洞木です……綾波さん?」

足を進めながら呼びかけていくけれども、返事がない。

ついに部屋の真ん中まで、着いてしまった。

「何……この、部屋……?」

それは殺風景なんていう生易しいものではなかった。

およそ女の子の住む部屋ではない。床は汚くてもう靴下が黒くなっちゃってるし、生理用品? なんだか血のついたガーゼその他が置きっぱなしになっている。

イメージと、全然違う。綾波さんって、こういうところは、ルーズなんだ。

……いや、全く気にしていないだけなのかもしれない。


がさ。



わたしは音のするほうを振り向いた。


玄関。


碇君とわたしの間に、綾波さんはいた。


裸で。


「……」

少し驚いた顔で、無言でわたしを見る綾波さん。あ、けっこう胸ある。

「……」

その向こう、目を点にして綾波さんを見る碇君。視線が微妙に下のほうを向いている。スケベ。

「……」

そして、それを引きつって見ているわたし。ああ、もう、駄目。


さん


にい


いち


ぜろ。


「っきゃあぁぁぁぁぁあ! 碇君! 見ちゃ駄目! 綾波さん! そんな姿で歩いちゃ駄目ぇぇぇえ!」


わたしはものの十秒(体感時間)のうちに玄関のドアを閉め、綾波さんをバスルームに押し込んでいた。

「あ、あの……」

玄関先からドア越しに声が聞こえる。

「……何」

バスルームからカーテン越しに声が聞こえる。

わたしははっきりと宣言した。

「綾波さんは服を着て! 碇君はそれまで絶対に入っちゃ駄目!」


そして、五分後。


わたしたちは押入れにしまってあった、いつ最後に使ったのか分からない(もしかすると、使ったことなんか一度もないのかもしれない)ちゃぶ台を囲んで、座っていた。

わたしの右側に、制服姿、湯上り卵肌の、綾波さん。

わたしの左側に、制服姿、微妙に顔が赤い、碇君。

そして、顔のほてりが全然取れない、わたし。

「――だから、ね、ネルフのカードを持って、うん、持ってきたんだ」

「そう、だから、えっと、わたしもそれで、付き添い? みたいな、あはははは」

「……」

やっぱり、無言だ。

き、気まずい。

碇君も、赤くなってないで何かしゃべってよ!

……仕方ないか。

「綾波さんって、ここに住んでるのよね?」

無表情のまま地べた(床だけど、地べたと言ったほうが実情には近いと思う)に座り、カードを奪うように受け取った綾波さんは、立ち上がる動作を一時中断して、わたしを見た。

一瞬、見つめあう。

――目、綺麗。

わたしが少し見とれてしまっているのも気にせず、綾波さんは立ち上がりながらぼそぼそと答えた。

「ええ」

その言葉にわたしははたと女の子の目を見つめてどきどきしている怪しい自分に気づいた。……あ、そうだ、答えてくれたんだ。

ようやく会話の糸口を見つけたわたしは慌てて訊いた。

「あ、危なくない?」

「問題ないわ」

会話ぶった切り。

「そ、そう……」

碇君が、ここで言葉を挟んだ。わたしと同じように、会話を何とか途切れさせないように、焦った口調で。

「えっと、綾波ってこれから、起動試験なんだよね?」

ぎろっ。

そう効果音が出そうなくらい、綾波さんはきつい目で碇君を睨んだ。

「きみつ」

「え?」

わたしは訊き返した。言い返された碇君は、あっ、と小さく呟いた。

「機密。部外者には、話せない」

ああ、そうか。きみつ、機密ね。確かに、わたしはネルフの関係者じゃないから、ネルフの仕事のことはNG、だよね。

「ああ、そっか、そうよねっ。ごめんなさい」

軽く頭を下げたわたしに、綾波さんは怪訝な顔をした。眉間にしわがよる。

なーんだ。無表情なんて、そんなことないじゃない。

でも、なんでこんな顔するんだろう?

その答えはすぐに出た。

「なぜ」

「はい?」

「なぜ、洞木さんが謝るの」

ああ、確かに。そう言えばそうか。こういうところは、きっちりしてるのね。何だか、碇君より男らしい。

「あー、えっと……わたしが来てなかったら、話が弾んだかな? と、思って……」

綾波さんの決定的な口調に比べると、わたしの声はずいぶんと頼りない。

「そう」

しかし綾波さんはもうそれほどわたしに興味がないようで、立ち上がって歩き出した。

「あ、あのっ」

「あ、綾波さん?」

わたしたちは二人同時にどもった。

しかし綾波さんは歩みを緩めず……そのまま、ドアの外に。


そして、綾波さんの家の中にわたしと碇君が残る、という変なことになってしまった。

「ねえ……碇君?」

「な、何?」

「綾波さんって……ずっと、あんな感じなの?」

「うん、いつも、あんな感じ……こっちに来てから、ずっと。……嫌われてるみたいだ」

よくよく考えてみれば、その会話は、少し前に教室でした会話とほとんど一緒だった。

「洞木さんは……」

わたしは、苦笑いで答えた。

「綾波さんとこんなにしゃべったの、初めて」


「……こんなもんでいいかな?」

誰もいない部屋で、わたしはひとり呟いた。

あの後、碇君は例の起動試験(内緒で、起動試験、っていうのは綾波さんのエヴァンゲリオンの試験なのだと教えてくれた)の付き添いみたいなものでネルフに行ってしまって、手持ち無沙汰になったわたしはなぜか綾波さんの部屋を掃除していた。

――それくらい、汚かったからだ。

それに、綾波さんと仲良くなりたい、という思いもあった。綾波さんもエヴァンゲリオンのパイロットなのだし、さっきの会話も、素っ気ないだけで、嫌な感じはしなかった。

なぜだろう、ここに来る前より、綾波さんと仲良くなりたいと思った。


ウウー……

ん?

わたしは小さな音がするのに気づいた。サイレン?

……まさか。


わたしは急いで掃除に使った雑巾を片付け、ドアの外に出た。

やっぱり、サイレンだ。

遠くから、避難警報の小さい音が聞こえた。

起動試験だって言ってたのに。碇君と、綾波さん、大丈夫かな?

わたしはそそくさと近くのシェルターへ走り出しながら、ふっとそんなことを思った。

ああ、いけない。今は、そんな場合じゃない。二人の心配をする前に、わたしが逃げなければ、また迷惑を掛けることになる。

わたしは息が少し切れるのも構わず走るスピードを上げた。

しんとした町外れには、もうサイレンの音はしない。

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