日本で一番暗い夜の明けた日、碇君と綾波さんは学校に来ず、第3新東京市の中心部には到底隠しきれない巨大な残骸が残っていた。
屋上には、わたしと、鈴原と、相田がいた。
待ち合わせたわけじゃない。ひとりで残骸を眺めていたわたしに鈴原が声をかけてきたのだ。相田はその後ろで、小さく「よっ」と言って手をかざしていた。
わたしも「よっ」と真似をして「昨日はごめんね」と言った。
「いや、悪かったな、委員長」
「うん。大丈夫」
やれやれ、このぶんだと「今回」はわたしが三馬鹿の一翼を担うことになるかもしれない。
「あー、アレはがっつり貫通しとんなあー。えらいもんやで、転校生も」
鈴原がほぉーっ、と大げさに驚きながら言った。碇君を呼ぶ名はまだ「転校生」だ。
「綾波もさ。今日、来てないだろう。零号機もかなりヤバかったらしいよ」
「お前、その情報どこで手に入れてんな」
「オヤジのパソコン」
相田はこともなげに言い切った。
鈴原は絶妙のタイミングで
「カーッ! 防犯意識の足らん親やのう」
と額を叩いた。
――良かった。この二人は、ちゃんと友達のままだ。
わたしは残骸を視界に入れながらそのやりとりを眺めた。自然に笑いがこみ上げてくる。
「なんやねん委員長、気ッ色悪いなぁ」
「ん? そう?」
鈴原が冷やかしても、文句を言う気分にはならなかった。ただ、碇君がこの場所にいればいいのに、と思った。
「前」と同じように、三人で笑ってくれればいいのに。
朝の陽に光る巨大な石を眺めながら、そう思った。
「おはよう」
撃ち抜かれた残骸も片付けられて数日、今日も来ないか、と、出席簿に欠席と打ち込みそうになったわたしは、その声を聞いてキーを打つ手を止めた。
碇君だった。
「おはよう。久しぶり……って、その、手、大丈夫?」
わたしは顔を上げ、そう訊いた。久しぶりに会った碇君の手には包帯が巻かれていたからだ。ぐるぐる巻きになって太くなっている手のひらは見るからに痛々しかった。
碇君はとぼけたように、え? と言いながら、わたしの視線の先、自分の手を見て苦笑いした。
「ああ……これは、ちょっと、ね」
? 何? この表情。
わたしの疑問は次の瞬間に一瞬だけ意識の奥に後退し、その後急上昇でわたしの意識のど真ん中に浮上してきた。
「……お早う」
わたしが声を発するより、周囲がどよめくほうが早かった。
教室の際に涼やかに立って、言い方こそぼそぼそとしているけれど、良く通るきれいな声で挨拶したのは、そんなことを一度たりともしたことがない綾波さんだった。
「前」って、こんなこと、あったっけ?
「お、おはよう」
わたしは記憶を辿りながら上の空で挨拶を返した。
けれど、碇君は驚くどころかほっとしたような調子で言った。
「おはよう、綾波。どう? 身体、もう大丈夫?」
既にどよめいていた教室に、さらに大きなどよめきが起こる。思わず、そこまで驚くことないじゃないか、あんたたちは綾波さんを何だと思っていたんだ、と言い返したくなる。
――でも、そんな義憤はすぐにさっきの疑問につながって、どこかへ消え去った。
「……ええ、問題、ないわ」
……何? この表情。――あっ。
わたしは何となく感づいた。さっきの碇君の表情と、今の綾波さんの表情をつなげる糸のようなものに。
きっと、それはわたしの知らないあの戦場でつながった糸なのだろう。わたしには、行くことのできない、二人だけの戦場で。
……何考えてるんだ? わたしは。馬鹿じゃないか。
頭に浮かんだ妙な考えを振りほどき、わたしは碇君に言った。
「良かったね。なんだか綾波さん、明るくなったみたい」
「そっかな?」
「うん、そうよ、きっとそう」
わたしは碇君に微笑んで見せた。碇君は照れたのか真っ赤になって、ぎこちない動きで自分の席へと歩いていった。
……何だ、この、やな感じ。
あの朝から数週間が経った後でも、嫌な感じはわたしの中に、理科の授業で作った塩化物の沈殿みたいに、ずっと意識の底に残り続けていた。
「……洞木さん?」
はたと我に返って、わたしは碇君と、その横できょとんとする綾波さんを見た。ここしばらく、昼休みはこんな感じだ。相変わらずクラスに馴染めない碇君は屋上で昼ご飯を食べ、元々クラスから浮いてしょうがなくなっていたわたしは変わらず屋上で昼ごはんを食べ、あれから何だか碇君と仲がいい綾波さんも、これは元々だけどクラスから浮いて屋上にやってくる。
そういうわけで、最近決まってわたしたちは集まり、屋上の、出入り口のために少し日陰ができる場所でお昼を食べていた。
わたしはまるで兄妹のような表情をする二人を見てちょっと吹きつつも「なんでもないよ」と返した。
嫌な感じは、それはそれ。それを抜きにすれば、この三人で過ごすのはそれほど悪くない。
碇君は基本的には静かで、綾波さんはもっと静かだ。というか、やっぱりこの子は尋常じゃなく無口だ(それだけじゃなく、一般常識にも欠けているのだということにも気付いた。だから最近、碇君と交代で彼女のお弁当を作ることにしている)。
この二人との食事だから、会話はあまりない。
一般的には、寂しい昼食風景なのだろう。
でも。
騒いだりするのが鬱陶しくなってしまったわたしにはこれくらいがちょうどいい。
最近、今までの友達に、揃って、わたしが最近スカしているのではないか、とか、グレたんじゃないか、などと興味半分で言われてうんざりしていた。
そういうことを言うほど仲良くもない子達は、率先して授業をサボったり(たまにだけど)するようになったわたしを見切って、別の真面目なキャラの子とより仲良くなった。
悲しいわけじゃない。
そういう風に友達に離れて行かれるのは初めてのことだったから、ショックでないとまで言うと嘘になるかもしれない。
けれども、その過程を通じてしみじみ、大体の人はほんとうに上辺だけ見て他人と付き合っていること、それと、真面目というところを抜くとわたしという人間にはほとんど価値はなかったのだ、という重要な点に気付くことができた。こういうことを考えている時点で、悲しいという感じじゃない。いくらなんでも、数週間の間に来るメールの数が負の係数の二次関数のグラフみたいにぐいぐい減り続ければ、誰でもいい加減達観してしまうだろう。
それはそれで重要な体験だったと思う。
なにより、今こうやって思い出してもなんとも思わないほど、わたしは余裕だった。
わたしには二人がいる。それに、相田や鈴原とは「前」よりもかえって仲が良くなってしまった。
ちょっと、可笑しい。
簡単なことだったのだ。仲良くなることなんか。わたしが変われば、それだけで。
合計四人。大した人数じゃないとは思う。でも、大した人数なんか何の意味もないんだから、いいんだ。
「お、いつもの三人、揃ってるね」
暑さと風で風解しそうなコンクリートの裏から、相田がひょっこり顔を出した。
「よ、シンジ、お二人。いーなーシンジ、両手に花じゃん」
お得意の入り方だ。もう心得たもので、とりあえず碇君に話しかけ、その後にわたし、そして綾波さん。この順番を、相田は崩さない。
「もう! またそういうこと……」
一応、反論する。わたしはここではそういう役目だ。
「まあまあ、それはそうと」
相田はそう言って本題の前の、枕になる話を切り出した。
「お手柄じゃん、シンジ。旧東京で人助けしたって聞いたぞ? 暴走したロボット止めたって?」
碇君はため息をついて答えた。
「相田君さ、どこからそういう情報、仕入れてくるわけ?」
相田君。
そうだ。碇君が相田を呼ぶ呼び名は、相変わらず「相田」だ。「ケンスケ」という、聞きなれた呼び名はもう聞くことはできないのかもしれない。
「またまた水臭いなあ、ケンスケで良いって。シンジ」
こちらは「前」と同じく「シンジ」で通している。
相田って、結局はこういう人間なんだ。マイペースというか、自分中心というか。
「はいはい。『ケンスケ』。で、それ、どこから仕入れてきてるの? 僕の端末とかじゃないよね?」
ちょっと険のある「ケンスケ」の発音を、相田はおどけてかわした。
「そんなわけないって。どこでもそれなりに情報は落ちてるもんさ。ネット全体を取り締まるのは無理なんだから。……ま、ネルフならそれくらいしたっておかしくない気がするけど。……でさ、そりゃそうと」
まただ。今度こそ本題がやってくるだろう。
「どうしたの?、まだ食べ終わってないんだけど……」
「じゃあそのままでいいよ。――あのさ、ドイツからパイロットが来るって本当か? 迎えに行くって」
――あ。
碇君以上にわたしが動揺してしまって、その後に続く会話が頭に入ってこなかった。
普通の、何も知らない中学生の振りをするのが、精一杯だった。
「知ってる?」
「――弐号機は、もう佐世保港から出港してる。来るわ」
「だってさ」
「知らなかった……綾波、知ってたの? 教えてくれればよかったのに」
「訊かなかったから」
「あはは、すげないな。でさあ、つきましてはこのワタクシ、相田ケンスケをだな……」
会話が遠い。わたしだけが切り離された遠い空の上にでも浮かんでいるような気持ちだった。
地上とは全く違う気圧の中を飛ぶ飛行機のように。
たった一人で。
そして、彼女も。いや、彼女こそは、わたしなんかよりずっとくっきりと、ほんとうの意味でたった一人なんだ。
彼女はここに来る。遠い場所から、わたしのいるここへ――どうして忘れていたんだろう?
――アスカ。
あのとき何にもできなかったわたしは、どんな顔をしてあなたに会えばいい?