手を返し、腕時計を確かめる。あの場所から逃げ出してからもう十数分が経っていた。

周りを見渡しても誰もいない。階段下の暗がりでは、この船に乗ってから絶えず聞こえ続ける、小さな唸りだけが身体の奥に響き続けた。


わたしを、責めるように。

彼女は世界の端っこで

第13話
「おまえは」

どうしてあの時、わたしは逃げ出してしまったのだろう。

わかっている。わたしは耐えられなかった。

あのアスカを見続けることに。


わたしを知らないアスカを。

わたしの知らないアスカを。


いや、それだけじゃない。


わたしは耐えられなかった。

この世界を正面から見ることに。


わたしを知らない世界を。

わたしの知らない世界を。


わかっていると思っていた。耐えられると思っていた。

でも、駄目だった。

やっぱり、わたしはここにいるのは嫌だ。

知らない、こんな場所にいたくない。

わたしの知っている世界に帰りたい。

たとえ、第3新東京市が湖に変わってしまっていても。

たとえ、アスカがいなくても。

たとえ、鈴原が重症のままベッドに横たわっていても。

たとえ――

碇君のことを上辺だけしか知らないままでも。

あの場所が、わたしの世界。ここは、違う――ここは、わたしの世界なんかじゃない。


「何してる、委員長」

その声があんまり冷静だったので、わたしは一瞬誰か知らない人に話しかけられているのかと思った。

けれど、「委員長」という呼び名と、外からの光を反射する眼鏡を見て、わたしの前に立っているその人が相田なのだと気づいた。

「……相田?」

わたしは三角座りのままで確認した。

訊きながら、自分がどうしようもなく哀れんで欲しそうな動作をしていることを、自覚する。わたしは泣き顔で、鼻をすすりながら、上目遣いに相田を見ている。

そんな自分が嫌になりながら、でもその一方で、一部始終を見ている相田はきっとわたしを慰めるだろうと思った。

でも、相田の口から、わたしをいたわる言葉は返ってこなかった。

相田はわたしの視線をあっさりかわすと、本格的な防水機能がついているような厳つい時計を確認して、さっきよりも少し焦ったような声で言った。

「立って。出よう、ヤバイ」

その三言だけ。

どういうこと?

その疑問で、さっきまで頭にまとわりついていた考えが少し遠のく。

わたしはそれを足がかりにして立ち上がった。ふくらはぎに力がかかる。階段に頭を打ちそうになって、少しかがむ。

相田はわたしが立ち上がったのを確認すると、ぐっと手を引っ張って廊下へと引っ張りだした。


そして、


揺れた。


ごうん。船の動力とは明らかに違う音がして、大きく船体が揺れる。

わたしはよろけた。

だが、隣の相田はよろけもせずに、「上に行こう」とだけ言って、さっさと歩き始めた。

わたしは自信満々なその声に、思わず「はい」と先生に答えるみたいに答えてしまった。


ごうん。

ごん。

音が遠ざかり、また近くなる。そんな中をわたし達は歩き続けていた。

揺れに耐えながら、わたし達は階段を上り、船の最も高い部分へたどり着こうとしていた。

というよりも。

本当は、連れて来られた、という方が正しい。

わたしは本当に、ただ相田の後ろを着いてきただけだったから。

「あと、ちょっと……」

相田が独り言のように言った。急な階段を登っているせいで、少し息が上がっている。

わたしはその言葉を聞いて少し立ち止まったが、結局はまた、相田の背中を見ながら階段を登った。

急な階段を登りきる。すると、周りが少し明るくなった。窓。日が差しているのだ。

ここに、あのアスカや、碇君達がいるの?

「そっちじゃない、こっちだ」

けれど、相田が指差したのは別の場所。いくつもの窓、その向こうに――

赤い巨人が、いた。

この前見たのとは違う、エヴァンゲリオン。真っ赤な身体に、つるりとした頭。

隣から小さな舌打ちが聞こえる。

「始まってたか……くそっ」

その言葉を最後に、相田はわたしを見向きもせずに階段に戻り、さらに上に駆け上がっていった。

その背を追いかけようとして……わたしは、ふと怖くなった。

さっきからの相田は、何か変だ。

わたしに冷たい。

ばざん。

大きな波音、と共に、船がこれまでにないほど大きく揺れる。腰砕けになったわたしは、階段の手すりで頭を打った。

鈍い痛みが広がる。

痛みの中で、わたしは思い出していた。

これまでの、相田。碇君とわたしと綾波さん、その輪に加わっていた、相田の顔。

――あれは、碇君の前だからこそのことだったのか?

わたしなんか、どうでも……

そう思い、その後で、自分で自分に言い返す。

わたしはずるい。自分だって相田のことなんかなんとも思ってなかったくせに。

そしてまた、わたしはうずくまる。活発な委員長は影も形も無かった。

目を伏せるとすぐ、今度は階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。近づいてくる。

「畜生!」

相田は小声で叫んだ。

わたしは顔を上げて、相田を見た。

その目はわたしを睨んでいた。

思わず身震いし、背中を壁に預けたまま、滑らせるように立ち上がった。


まるで追い詰められるようだった。


いや、実際にわたしは追い詰められていた。

相田は唇を噛んだまま、近づいてくる。

「上に、いたよ」

怖い表情とは反対に、元気のない声だった。

けれどそれが、何かを溜め込んでいる表情なのだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。

「……だれ、が?」

「シンジだ。ミサトさんと一緒に、ブリッジにいた」

相田は真上を指差して言った。

そうか、碇君は、無事なんだ。

思わずわたしは口走っていた。

「……そう、よかった」

「よくなんかないさ」

「……え?」

「今、何が起こってるか、わかってるか?」

相田は外を指差した。わたしは促がされるまま、出入り口の隙間から身を乗り出して廊下の向こう、船外を覗いた。

今も遠い船の上に、赤い巨人はいた。

飛び跳ねている。島のように大きな魚の化け物が跳ねるのを必死に避けているように見えた。

わたしが見たことのない、エヴァンゲリオン。


――え?


あれには操縦士がいるはずだ。そして、碇君は上にいる。

なら、あれには――

「アスカが……」

「そうだ! シンジが、上にいるんだからな――いるはずじゃ、なかったんだ!

はずじゃ、なかった?

相田が何を言っているのかわからなかった。わたしが逃げていた間に、何か取り決めでもしていたのだろうか?

「どういう……」

「言った通りだよ!」

相田はわたしの言葉に目の色を変えて、壁を殴った。わたしが頭を打ったときと同じ、ぐわん、と鈍い音がした。

「シンジは今、上にいるはずじゃなかった! 惣流と一緒に、あのエヴァンゲリオンに乗ってるはずだったんだよ! それなのに、洞木、お前が――どうして、どうして――」

相田はわたしの方を向き直って壁に手を付き、ぐっ、と顔を近づけた。

男の子とそんなに顔が近づいたのは初めてだったけれど、どこもロマンチックなんかではなかった。

ただ、気軽に物事をやりすごしているイメージの彼が見せる、今までに見たことがない厳しい顔が怖かった。

「どうして、お前はそうやって『流れ』を悪い方に悪い方にずらすんだ!」

「『流れ』?」

「……なあ、委員長、そうなんだろ?」


――ああ。


相田が何を言っているのか、わたしは数秒考え、理解し、腰の力が抜けそうになった。

わたしは、この世界にたったひとりじゃ、ない?


確認したかった。わたしはひとりじゃないと、確信したかった。


でも、どうしても、最後のひとかけの恐ろしさが、わたしに嘘をつかせる。

「え……何、言ってるの?」

「とぼけるなよ! 洞木も……帰って来たんだろ、ここに」

沈黙。

認めたことと同じだった。

「な、に……が」

「アスカ」わたしの言葉を相田が遮る。「そう言ったよな。逃げ出すくらい嫌だったのに、今も、あのときも」

「あ……あ……」

「それでわかったよ。洞木も……あの、2016年から帰ってきてるんだな、って」


ああ。


安堵と恐怖の混じった妙な気分でわたしは俯き、そして黙った。

相田は何も言わなかった。でも、不意にわたしの手を引き、廊下に引きずり出した。

そして、もう一度今度は大きい舌打ちをすると、わたしの肩を掴み、窓に向けてぐっと押し出す。

「見ろよ」

わたしは思わず目を背けようとして、でも、その光景に固まって、見入ってしまった。


腕がない。


赤いエヴァンゲリオンは、片腕をもがれていた。

「ああなるはずじゃ、なかったんだ」

肩を押さえたまま、赤いエヴァンゲリオンは飛ぶ。そして、渾身の力を込めた蹴りで、魚を船ごと海に押し戻した。

沈む前に飛び移る。けれど、船はこの艦を除けば、もう二隻しか残っていない。

相田はゆっくりとまばたきをして、思い出すように言う。

「シンジと一緒に乗って水中戦。そして、二人で協力して、あれを倒すハズだった」

最後に残った艦の上で、赤いエヴァンゲリオンは、片腕に何かナイフのようなものを持って、真っ直ぐに立っていた。

海から、あの化け物が姿を現す。

そして――

赤いエヴァンゲリオンの、アスカのナイフは、化け物の腹を割いた。

化け物は海に沈み、鮮やかな青い血が赤いエヴァンゲリオンを染め直す。

ほっとしたようなため息をついてから、相田は言った。

「……でもこれで、流れは変わっちまった。これで、惣流は一人で、あの使徒を倒したことになる。俺にはこの後あいつらがどうなるか予想もできない。なんにも、わからない。何にも……それに責任、取れるのかよ……おまえは」

わたしは血濡れの巨人を見つめたまま、相田がらしくない口調で言い捨てた言葉を頭の中で繰り返し呟いていた。

14話へ
12話へ
Get back to index (of "At the edge of the world")