綾波さんが帰ってきて、半月ほどになる。

その両隣には碇君とアスカがいる。

わたしは遠くからその姿を眺めて、迷う。

その先に、あの世界で結局はいがみあった三人が今度こそ本当に仲良くなるという幸福な未来が待っているのか、それとも、あの世界をしのぐ大きな破綻が口を開けて待っているのか。

わたしにはわからない。

わたしにできるのはただ、破綻の元凶になりそうな自分を遠ざけておくことくらいだ。


……また、逃げているんだろうか?


そうかもしれない。いや、そうだと思う。本当は、わたしはアスカと向き合わなければならないのかもしれない。

けれど、アスカと向き合うだけのものを自分が持っていないことだけはわかっていた。

わたしには、何もない。

アスカに匹敵するだけの、守りたいものがない。

だから、わたしは動けない。

廊下を曲がりざま、碇君が後ろを振り向いた。

一瞬だけ、視線がすれ違う。

でも、わたしは金縛りにあったみたいに動けない。

どう動いていいか、わからない。

逃げることさえできない。

「行っちまうぞ、洞木」

小声で話しかける相田に、わたしは答えを返す。

「いいの。……せっかく仲良くなったのに、刺激、したくないから」

それは嘘だったけれど、少なくとも筋はそれなりに通っていた。

「でもな」

相田が何か言いかけたところで、鈴原が口を挟んだ。

「まあええやない」

「え?」

わたしは思わず訊き返す。

「焦らいでもええやん。顔、不細工なってるで。……な、ケンスケ、あんま委員長、いじめたんなや」

相田は口ごもって、わたしを見る。はっとしたような顔をして、視線でわたしに謝ってきた。

「ほんでも」

「え?」

鈴原は顔をしかめてわたしを見る。

「委員長は、ええんか?」

「……うん」

「さよか。ほなら、ええわ」

続けて、ほいだらわしは便所行ってきまっさ、と独り言を言って、鈴原は行ってしまった。

わたしと相田は顔を見合わせる。

本来の事情がわからないはずの鈴原は、それでも何となくは状況を理解しているようだった。

それはあの日、アスカがわたしに叫んだ言葉を、聞いたからかもしれないけれど。


わたしは胸倉を掴み上げられていた。

「あんたあいつに何言った」

部屋に入ったわたしにそう言うなり、アスカがその細腕でわたしを軽々と持ち上げたのだ。首が絞まって、咳が出るのを止められなかった。

「惣流!」

「なにやっとんねんお前!」

碇君と鈴原が慌てて間に入った。震える腕にこもった力がすっと抜けて、わたしは床に崩れ落ちる。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、ッ、げッ!」

息をすると気管から妙な音がした。咳がこみ上げてきて止まらない。息が止まる。涙が出る。

「だ、大丈夫か?」

アスカを抑えるのには参加していなかった相田が、わたしの肩を支えた。でも、恨む気持ちなんか起こらない。

碇君と鈴原がすぐさま動けたのは、きっとわたしが何をしたかを知らないからだ。

相田だけはわたしが綾波さんに何をしたかを知っている。アスカに締め上げられる理由を知っている。

だから、動けなかったのだ。

「だッ、い、じょぶ」

「落ち着け。喋るなって」

わたしがそうしてヘタっている間にも、二人はアスカを押さえつけていた。

碇君が前に立って、鈴原は後ろに回って羽交い絞めにしている。

だが、それも一瞬のことだった。

「ふっ」

アスカは碇君に足払いをかけて転ばせると、沈めた腰を跳ね上げた勢いで鈴原を簡単に投げ飛ばした。

「勝てるとでも思ってんの、あんたらごときが」

胸の奥がきゅうと縮み上がるような厳しい声だった。

「ねえ、鈴原、勝てるわけないじゃん。あんた一般人なんだから。ねえ碇、あんた、何やってんの。あいつ、あんたの女なんじゃないの。何こいつかばってあたしに転ばされてんの」

淡々というアスカはさっきよりさらに静かだったけど、恐ろしさはずっと上だった。

知っている。これは……アスカの一番怖ろしい表情だ。自分の一番大事なものを傷つけられて、それでも、全身全霊で自分を支えようとしてる時の目。どこに向かっていいかわからずにたぎってる熱を、どうにかして押さえてる、そんな時の目。


今ではないいつか、ここではないあの場所で、ゲームオーバーになった拍子にコントローラーをひとつ捻り割った、あの時と同じ目。


腰を打って動けなくなっている二人を一瞥もせずに、アスカは私の方に歩いてくる。

気付いたら、座り込んだまま、わたしはお尻を引きずって後ずさっていた。

わたしの脚をまたぎ、仁王立ちになってアスカは言い放った。

「何にも知らないくせに口出すんじゃないわよ、一般人が」

「おい」

相田、駄目。

「黙れッ! 黙れだまれだまれ!」

部屋がびりびり鳴るような叫び声に対抗できる人間なんて、誰もいなかった。

アスカは腕組みをしたまま、黙ってわたしを見下ろす。


青い目。


下目遣いの、その目を、


――――――――――――――――――


「あたし、やっぱりあんたのこと嫌いだわ」


やがてそう呟いたアスカは、もうわたしの目の前にはいなかった。

声が後ろから聞こえてきてやっと、わたしは自分が目を逸らしていたことに気付いた。

自分がまっすぐその目を見ることができなかったのだと気付いた。


わたしはまた逃げたのだと。


「嫌い。自分の言葉の責任を取る意志もないくせに、責任取れも――助けても、くれないくせに」

後ろから声が聞こえる。

わたしは振り向けない。

「ファンだかなんだか知らないけど、あんたみたいなド素人があたしたちに何か言っていいとでも思ってんの。気持ち悪い。あんたに比べりゃ、あの人形女の方が、ずっとマシよ」

ドアが開く、圧搾音。

「二度と、あたしに近づくな。……次は警告、しないから」

もう一度、圧搾音。

そして、ドアが、閉まる。

彼女は世界の端っこで

第22話
「イエローカード」

「洞木さん」

「碇君」

わたしは思わず答えて、慌てて身構え、周りを見回した。休み時間も終わり際の廊下には誰もいない。

「惣流ならもう学校にはいないよ。シンクロテストで早退」

鞄を肩に担いだ碇君はそう言って笑った。下手糞な笑い顔だった。

「ごめんなさい」

「いや……」

言って、わたしの方を伏目がちに見て、眉に皺を寄せる。わたしは、その目を見られずに、思わず床のタイルを見てしまう。

最初とまるで逆だった。

あの時は、碇君はわたしをちゃんと見れなかった。

今は、わたしが碇君をちゃんと見れない。

あれから、ほんの数ヶ月なのに。

「大丈夫?」

「大丈夫よ」

つい険のある言い方になってしまったのに、自分自身びっくりしてしまった。

何やってんだろ、わたし。

「……ごめん」

「ううん」

答える声は、チャイムにかき消された。


その三十分後。わたしは碇君と市内を歩いていた。

――どうして、こうなったんだろう?

ぼんやりと考えている。でも、考える間にもわたしの足は碇君の後をついて進んでいる。

わかってる。考えてることとやってることがちぐはぐだ。

自分を遠ざけておくって、決めたのに。そのはずなのに。

でも……

さっきから、わたしたちはずっと会話もなく歩いている。

人通りの少ない昼の街を無言のまま。

蝉の声もじりじり照りつけてくる太陽も、どこか遠くへ行ってしまったみたいに。

碇君は私の少し前を前だけ見て、私は彼の影を見つめるようにうつむいて、歩き続けた。

こんな時に誰かと一緒にいるのに、嫌な気分じゃないのは、なんでだろう。どうでもいいだけなのか、心を許しているのか。自分のことなのに、いまいちわからない。

ああ、この感覚は知ってる。夢の中で、歩いている時みたい。

頭のどこか、認識するべき部分が麻痺したみたいに、見てるのに見てない。

一秒前の記憶がどこかへ霧散していくみたいに、ぼうっとしてくる。

この後普段の自分に戻ったら、またちょっと泣くかもしれない、なんて思いながらも、わたしはその感覚に身を任せた。とりあえず今は、少しの間、何も考えないでいたかった。


とん。


「てっ」

おでこをぶっつけて、わたしは我に返った。ああ、もう終わりか。

これ以上深入りはできない。

でも、ここからまた、わたしは自分で家まで帰らなきゃならないんだ。

見上げると、碇君の肩があった。

「っとっと」

身体を避けるために少し後ずさる。ちょうどそのタイミングで、碇君が振り返ってきた。

顔が、赤かった。

「どうしたの?」

「ごめん、あの……少し、寄り道していこうか」

へ?

気付いて周りを見回してみると、もうわたしの家への道と地下鉄の駅への道の分岐点から、だいぶ離れた場所にいた。

こんなに歩いてたのか。そりゃあ頭もぼうっとするはずだ。

自分がかなり滅入っていたことに気付かされて、びっくりした。

で……寄り道?

答えないわたしにいらだったのか、碇君は畳みかけるように言葉をかけた。

「き、気が晴れるかはわかんないけど、もし、ホントは病欠なんじゃなかったら」

少し焦った顔から出たその言葉に、私は何を失礼なと思う間もなく頷いてしまった。

だけど。

「碇君は、時間大丈夫なの?」

碇君の言うとおり、病欠と見せかけてサボっているわたしと違って、碇君はネルフのテストで公欠なんだから、行かなきゃならないはずだ。

わたしの質問に、碇君はこの晴天にそぐわない曇り空みたいにあいまいな笑顔を浮かべた。

「……いや、いいよ。どうせ、やることあるから、ちょっと遅れても構わないし。洞木さんが、大丈夫だったら」

「わたしは」

裏道に入って、セミの声はかえって大きくなっていた。

「……仮病よ」

まるで不良少女だ。いや、まるででもない。そのまま不良少女だ。

「じゃあ、大丈夫、だね」

「うん」

ふう、と息をつく音が聞こえた。

「でも、失礼だよね、碇君」

う、と碇君がうめく。

「ごめん。でも……僕はいつも、嫌なことがあったら、どこかを歩いたりして、だから、勝手に洞木さんもそうなんだろうと思ったんだ。仮病、なんでしょう?」

「まあ、そうだけど」

確かに碇君らしい。誰にも何も言わずに、ある時ぽいと、放り出してどこかへ行ってしまうっていうのは。

わたしと真逆だ。

だから、どこかで罪悪感を感じながらも、やってみようという気になった。

大丈夫、今だけ。

今だけだから。

「で、どこ行くの?」

「えっ……」

どうやら、全く決めてなかったらしい。何それ。

またちょっとばつが悪くなってしまって、二人して黙り込む。

何やってんだか。


………………


……暑い。

わたしたちが黙りこくってる間にも、太陽はわたしたちの体力を容赦なく奪い取っていった。

このままじゃ倒れる。

「ねえ、暑いから、とりあえずどこかファミレスでも」

ぶううううん。

わたしの声は、間の抜けたプロペラの音に妨害された。

「ん?」

空を見上げると、緑のプロペラ機がきらめいていた。

『こちらは第三管区、航空自衛隊です。只今正体不明の物体が本地点に対し移動中です。住民の皆様は速やかに指定のシェルターに避難してください』

「嘘」

そんなわけないことはわかっていた。

「いや、そんなことは……」

ほら、案の定。

ぽかんと口を開けたまま見合って、二人して確認する。

「だよ、ね?」

「う、ん」


……


わたしたちはしばらく、二人で黙りこくった。


もちろん、さっきとは別の理由でだ。


……ずうん……ずうん……


プロペラ機の音が遠ざかった後には、大規模な道路工事みたいなお決まりの音が響いていた。

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