薄暗い廊下で息を潜めると、どおん、という重い音が、祭囃子の太鼓が鳴るみたいに遠く響いた。何回も、ゆっくり、リズムを取って。

碇君は焦った顔で外の様子を気にしていた。

けど、一足先に落ち着いたわたしは別のことに気を取られていた。

汗がにじんだ手のひらが、碇君の手とつながったままだった。

「使徒か……まずいな、何とか発令所に行かないと……」

「あの」

「発令所……は……うーん」

「あの……あの!」

心なしかか細くなっている声がやっと耳に届き、碇君は振り向いた。

「ど、どうしたの?」

息苦しいのか、ちょっとだけ上ずった声で答えが帰ってくる。

そしてわたしも(別の理由からだったけれど)、同じように上ずった声で返すしかなかった。

「あの、手……」

「へ?」

呆けたような顔で呟いた後、碇君は左手を挙げた。

そして、自分の左手とたしの右手とがしっかりつながっているのを見つけると、

「うひゃあ」

という妙な声を出して飛び退いた。

でも、わたしにもそれを笑う余裕はなかった。

手のひらには、まだ碇君の手の感触が残っている。

それは碇君も同じだったらしく、手のひらを見つめて握ったり開いたりを繰り返してるのがぼんやりわかった。

数回繰り返した後、はっとして碇君は言った。

「ご、ごめん」

「い、いえ……」

赤くなりながらも、心のどこかでは冷静に、こうつぶやいていた。


何やってるのよ? この非常時に。

彼女は世界の端っこで

第21話
「くらがり」

あの後、わたしたちが一目散にシェルターに向かったのは言うまでもない。中心街に近い場所まで歩いていたから、地下までの通路を見つけやすかったのが唯一の救いだった。

とはいえ、それを考えて行動したのは碇君だ。

わたしにとっては、


気がつけば、眼には流れる景色が入って、

視線の先には、私の手を引っ張って走る碇君。

如何わしい看板が矢継ぎ早に流れて、

ビルが途切れた視界の遥か向こうには大きな、大きな蜘蛛のお化けがこんにちは。


――という、なんとも不可思議な状況が広がっていたのでした、という感じだった。

でした、というと他人事みたいだけど、何回も見ているはずなのに、あの怪獣にはあいかわらずまるで現実感がなかった。

それでもわたしたちは必死で走り、辛うじてシェルターに入り込んで、今はそのさらに奥の、この薄暗い廊下に身を潜めている。別に声を小さくしたって、あの大きな「使徒」がここを選んで避けてくれるとも思えないけど、こんな暗くて狭い場所に入れば自然と声を潜めてしまうのが人間というものだと思う。

碇君とつかず離れずの距離を歩きながら、ひそひそ声で訊く。

「どうするの? これから」

まだちょっと耳が熱い。でも、碇君もそうなのかどうかは暗闇のせいでよくわからない。

とっ、と足音が止まる。碇君が立ち止まったのがわかった。

「僕は……何とかして発令所に行かないと。でも……おかしいな。回線がつながらない」

暗がりから、かちゃかちゃ言う音がする。赤い、小さな非常灯――電話か。

確かに、何かおかしかった。暗いし空気も淀んでいる。地下なんてそんなものと思うかもしれないえけど、わたしだって伊達にこの街に住んでるわけじゃない。

入りなれた地下施設の換気設備が動いてるかどうかくらいわかる。

地下に入るたび、怯えながらそれを見ているのだから。

「……停電?」

わたしが恐る恐る口にすると、碇君はううん、と唸った。

「第3新東京市は停電しない……はずなんだけど」

はずって、そんな。

「でも! 明かりもついてないし……ここだって、いつもは電気、点いてるんで……しょ?」

語尾が小さくなってしまう。やっぱり、暗いところは怖い。

「そうだね……と、あれ?」

碇君が立ち止まって、わたしもそれに倣う。

「どうしたの?」

「駄目だ……行き止まりだ。」

「あ……」

確かに、目の前は行き止まりになっていた。崩れた壁は、きっと以前の戦いでできたものなんだろう。

ふう、と一息深呼吸して、碇君の息遣いが遠くなった。足元から、ごと、と碇君が後ろ頭を壁に当てる音が聞こえた。

そして、もう一度、大きなため息。

「駄目だ。落ち着かなきゃ」

半ば自分に言っているみたいな調子だった。

「うん」

それでも、その呼びかけにも取れる声に答えることで、わたしもやっと碇君の隣に腰を下ろすことができた。


ごうん。

耳を澄ますと、音はとても小さいが、やはり響いてくる。小さな揺れはゆっくり、お腹の中にまで伝わってくる。

無言に堪えられずに、わたしは口を開いた。

「……あの、碇君」

「何?」

「行かなくていいの?」

「行かなきゃ、ならないよ。……でも、この状態じゃ……」

そう言われると、後の言葉は続かなかった。元着た道を戻るわけにはいかない。扉の向こうはあの怪獣がいる場所につながっているのだ。

でも。

「でも……ここだって」

「わかってる」

少し怒気のこもった声で、碇君は言い切った。

「あ……ごめんなさい」

「いや……いいんだ。洞木の……洞木さんの言う通りだ。どうにかしてここから出なくちゃ、ここも危ない。何か、何か……」

途中からはまた独り言になっていた。

どうやらそのまま、何か探しているらしい。

ぶつぶつ呟く碇君の声が遠くなる。


音が消えてゆく。


暗い場所に、ひとりに、


――あ、


怖い。


わたしは思わず、伸ばした手でズボンの裾を掴んでいた。

「洞木さん?」

慌てて手を離そうとした。でも、まるで自分の手じゃないみたいにかたくなっていて、震える指を解くことができなかった。

「ごめんなさい、あの――」

意気地がないのを誤魔化そうと、必死に理由を探した。何か、何か、誤魔化せるようなものはない?

「……?」

沈黙は続いている。わたしは見えないシェルターを、この廊下を、今までに入ったシェルターの記憶を思い出しながら想像する。何かない? この光も空気も止まった場所に、何か――


光と――空気?


「聞いてよ! あのバカシンジ、見るなって言ってんのにあたしのお尻ジロジロ見てきたのよ!」

「でも、狭かったんでしょ? その……抜け穴? それなら、わざとじゃないんじゃ……?」


「空調?」

わたしは考えをまとめる前にもう呟いていた。

そして、くうちょう、と発音し終わる頃に、やっと考えが形になった。それはもうその場を誤魔化すためだけの一時しのぎのアイデアではなかった。


――やっぱり、わたしは馬鹿だ。どうして思い出さなかったのか。


わたしはこの日のことを知っていた。停電した日が、あった。ちょうどその日に「使徒」が来て、その停電は、ジオフロントにまで達していて――

そして、その時に彼らは。

やっと動き出した頭の中に、アスカの言葉が甦る。


「そりゃ空調用のダクトだもの、狭いに決まってるわ。でも。だ、か、らって! バカシンジの分際であたしのスカートの中を拝もうなんざ百万年早いっての! 思いっきり、顔、踏みつけてやったわ。まあこの前の借りがあったから、手加減はしてやったけど」


本当に、私は何をやってたのか。

わたしは知っていた。

わたしの記憶の中は、既に成功したアイデアがあったのだ。

あの世界で。


引っ張る手に、力を込める。

「空調用の、ダクトは?」

「え?」

「ダクトなら、ネルフまで……地下の通路まで、通じてるんじゃない?」

きょとんとした顔が見えるような声を上げた碇君の、わかった、という雰囲気が伝わってくるような気がした。

「……そうか、これなら……なんとか抜けられるかもしれない!」

碇君は興奮した声でわたしの肩に手をかけた。

「う、うん!これで……」

暗闇のなかに、わたしを睨みつけるアスカの姿が見えたような気がした。


「碇君も可哀想に……」

「なあにヒカリ? あいつの肩持つわけ?」

「え? あ、いや、そんなことないけど」

「もう。また優等生的意見! ヒカリー、そんな風に誰にでもいい顔ばっかしてたら」


――見限られちゃうわよ。


ええ、そうね。

感謝されるべきひとはわたしではない。

本当に感謝を受けるべきは、わたしにこの方法を教えてくれた、あの子の方だ。あの世界では、たぶん碇君のことが好きだった。あの子の。


ごめん、アスカ。


「洞木さん?」

「うん、きっと出られるわ。やりましょう!」

急かすようにわたしは立ち上がって、碇君に笑いかける。

うまく笑うことはできなかったけれど、くらがりはそれを隠してくれた。


そしてわたしたちは暗い穴をはいずり始めた。

「分かれ道だ……」

「また?」

「うん。下に続いてるのは……」

しばらくこんな調子で、でも、確実に降りている感触はある。

「っと、あ。下から、声が……」

碇君の声が反響して聞こえる。

「え、どこ?」

耳をそばだてて、下に意識を集中した。


すると、


みし、と音が、


―――――――――――――。あ。

24話へ
22話へ
Get back to index (of "At the edge of the world")