痛みというのは、忘れようと思っているとますますその存在を主張してくるもので、でもだからって忘れないでおいたらやっぱり痛いわけで、どうすればいいのか本当に困る。
何か気を紛らわせるものがあればいいけれど、残念ながらここには楽しいものなんか何もない。
周りにあるのは暗闇とひんやりとした壁だけだ。
また、ライトが明滅するようにずくずくと痛みが走る。
暗い海の灯台を思い浮かべて、わたしはまぶたを閉じた。
少し眠ろう。
そうすれば、次に目を開いたときには少しはましな世界になっているかもしれないから。
全身にくまなく電気が走って、どこが発信地なのかもわからなかった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
空気が口から漏れるが、音にならない。
「洞木!」
叫んで碇君が飛び降りてくる。
……飛び降りて?
確かに今、わたしは碇君を見上げていた。
碇君は高いところにいた。
――違う。
わたしが低いところにいるんだ。
天上近くに穴が見える。
わたしの体重に耐え切れず、ぽっかりと割れて抜け落ちてしまったダクトの部品。
わたしはあそこから落っこちたのか。
脚を抑えてじたばたしながらやっと、自分の居場所と痛みの理由を理解した。
「大丈夫!?」
言葉で答えを返すのは無理だった。
ただ、こくこくと頷いて見せるのが精一杯。
やがて身体に走った痛みの電流は徐々に収まっていき、代わりにずっしりとした痛みがやってきた。
「洞木さん!?」
「ごめん、ちょっと、大丈夫じゃない、かも……」
笑った顔を作るのも難しかった。
碇君の顔が苦々しげに歪む。
当たり前だ。ただでさえ緊急時で一刻を争うのに、こんな――
「ごめんなさい」
「そんな」
「でも、言いだしっぺのわたしが、っ痛……失敗しちゃって」
「違う!」
え?
「……そんなんじゃない」
碇君がわたしを睨んでいた。……けれどそれは怒っていると言うより、泣きそうな――
「どうして、君は――」
その言葉はかき消されて、わたしはついに続きを聞くことができなかった。
「ねえ!」
それはかつては聞きなれた、今となっては遠くの声。
「ねえ!」
その声はわたしから見てちょうど斜め下、床の向こうから響いていた。
いかにも裏側といった感じがする廊下の、ところどころ隙間の空いた壁の向こうから。
「ちょっと! 誰かいるんでしょう!」
聞きなれた声――アスカの声だ。
「アスカ?」
声に出して、確認する。あれ、アスカの声だったよね?
「アスカ?」と屈んだ碇君が顔をしかめた。
あ。
「惣流……さん、だよね?」
そんなことを言っている間に、声は少しずつ小さくなっていった。
「……誰もいないのかしら……」
「いや、何か聞こえた」
声がもうひとつ。こっちは……
「綾波? そこにいるの?」
壁の隙間に近づいて碇君は叫んだ。
「碇君?」
「シンジ! やっぱそこにいるんじゃない! 無視したわね!」
う、と碇君がうめく。確かにそういうことになる。
「ち、違うよ! そうじゃなくて――」
アスカの剣幕に焦ったような顔で、碇君がこちらを見た。
ん?
……ここで、わたしを見る?
と、言うことは……
『ち、違うよ! ただ、洞木さんが』
『……洞木? あいつがそこにいんの!?』
『あ、あ……え、っと』
……ダメだ。それはダメだ。
「そうじゃないなら何よ!」
「あ――」
一瞬壁の向こうに視線を向けた碇君が、またわたしに目を合わせてきた。
――言わないで!!
わたしは口パクと頭の上に腕で描いたばってんで、必死にそのことを伝えた。
「敵だと思ったの」
「あン?」
言葉を差し挟んだのは綾波さんだった。
「本部の電源は三系統ある。理論的には落ちないわ。なら」
「落とされたと考えるのが……自然?」
「そうね。だから外部からの侵入者がいる可能性もある」
さらりと言い切った綾波さん以外の全員が、その衝撃的な言葉に息を呑む。
そうだったのか。そんな可能性もあったんだ。
――自分がなんでも知ってると思ったら大間違いだ。
わたしは自分に見えていた一部分、アスカから聞いた一部分を知ってるだけ。
それも、あの世界で起こったことの内のほんの一部にしか過ぎないのだ。
そして――わたしが知っているあの世界から、確実に世界はズレている。
わたしが知っているのは、ズレる前の、あの世界。
わたしが知っているのは、この世界とはもう異なってしまった、別の世界の出来事の、さらにほんの一部だ。
なら……わたしは、何にも知らないあのわたしと、どう違うっていうんだ?
ぐるぐると、考えが頭の中を回る。その思考が許される程度には、無言の時間は続いた。
ほんの数十秒だったけど、わたしの混乱が深まるには充分な時間。
ややあって、アスカの控えめな声が響いた。
「……ホントにそんなこと考えてたわけ?」
碇君が慌てて答える。
「あ……うん。おかしいなってのは思ってた。それに、こんなところに惣流たちがいるなんて思わなくて」
「あんたこそ、どうしてんなとこにいんの?」
わたしがそそのかしたから。
けれど、碇君はその質問にもちゃんとそれらしい答えを返した。
「それは……使徒が来てるからだよ。発令所に行かなくちゃ話にならないじゃないか」
あ。
そうだ。すっかり忘れそうになっていたけれど、今は非常時。
「使徒」が来ているのだ。
それに気付くと、途端に不安になる。
わたしたちが出発してからどのくらい経った?
いま、「使徒」はどこにいる?
「以前」と比べて、どのくらい、ずれている?
わたしという「いないはずの人間」は、この状況にどんな影響を?
わたしが混乱している間にも話は進んでいた。
「そ、そうよ! 使徒が来てるっていうのにこんなトコでちんたらやってる場合じゃないわ! あたしたちも急ぐからあんたも何とかして発令所まで来なさい! 遅れたら本気でぶっ殺すからね!」
叫ぶやいなや、足音が響いて遠ざかっていった。
「わかった!」
返事を叫び返してから碇君はわたしを見た。
目が合う。
そして思い出す。
「何にも知らないくせに口出すんじゃないわよ、一般人が」
そう、わたしは知らない。
何も知らない。
「嫌い。自分の言葉の責任を取る意志もないくせに、責任取れも――助けても、くれないくせに」
わたしは、何にも知らないあのわたしと、どう違う?
――どう、違う?
「行って、早く」
頭で考えてからしゃべってはいなかったと思う。
「え……でも」
「早く行かないと、『使徒』が……来てる」
目を見開いて、碇君がさっきのアスカに負けない声で怒鳴った。
「でも置いてはいけないよ!」
本当は、怖い。置いていかないで欲しい。
そんなの当たり前だ。
でも。
ここで、引き下がることなんかできない。
わたしは、責任を取るんだ。自分のやったことの。
わたしがここにいることの。
「お願い。行って。……わたしは大丈夫。それに、碇君が『使徒』からわたしを助けてくれないと、どっちみち助からないじゃない」
笑ってみてから、イヤな言い方になった、と思った。
まるで碇君を陥れるみたいな言い方だ。
けれど、ここでわたしのために碇君を足止めしてしまうわけには行かないのだ。
この世界のために。
あれ?
自分がまた、何か踏み外したような気がした。
でもそれを考えるタイミングを外した。
碇君が立ち上がったからだ。
「……ごめん。絶対、戻ってくるから」
目を伏せたまま呟いて、碇君は走り去った。
あれで良かったのか、いまいちよくわかっていないわたしがいる。
あんな風に……言ってしまって、よかったのか。
あんなことで、本当に、責任を取ったことになるのか。
今でも、わからない。
だけど……
物音がした。
そして、近づいてくる足音。
足音の方が明るくなって、ついに自分の顔が懐中電灯の光に照らされるまで、鈍い痛みの中でそんなふうに考えあぐねていた。