わたしは、この街に帰ってきてしまった。
家に辿り着くともう零時を回っていた。
「ヒカリ? ヒカリ? もう家に着いたぞ。ヒカリ?」
わたしが薄目を開けると、お姉ちゃんもノゾミもさっさと車から降りていた。
「うあ゛ー。ダルう。ごめんお父さん、私もう寝ちゃうわ」
「ああ、わかった。お父さんはまだ仕事が残ってるから。おやすみ。ヒカリ、歩けるか?」
「だいじょうぶ」
松葉杖をつきながらわたしは答えた。首が少し痛いけど、無理な体勢でいて寝違っただけのことだ。
何とか靴を履き替えて、二階に上がる。
お姉ちゃんと同じく、もう寝てしまうつもりだった。用意も何もかも、明日考えればいい、そう思って。
けれど、ふと、机の上に放置して出た端末が目に留まった。
ランプが光っている。
「メール? ……誰、こんな日に」
……まさか、相田じゃ……
頭に過ぎった嫌な予感に少し悩みつつも、手は半ば自動的に慣れっこになってる動作を終え、端末に電源が入った。
メーカー表示の後すぐに、新着メールの画面が表示される。
「……綾波さんか。……あっ」
わたしが待ち合わせ場所に着いたときには、綾波さんはもうそこにいた。
「綾波さん!」
慌てて小走りで駆け出して、綾波さんに手を振る。松葉杖が邪魔で、上手く走れなかった。
綾波さんは軽く手を上げてわたしに答えた。
「ごめん、待った?」
「……五分と少し。待ち合わせの時間には遅れていないわ」
「そっか。……あー、ええと、それじゃ、行きましょうか」
「ええ」
そもそもは昨日のメールだった。
『明日葛城三佐の昇進祝いを行います。つきましては買物及び以後の準備を手伝って欲しいです。お返事を待っています』
中学生らしさというか、軽いところがまるでない事務文書みたいなメールだった。
けれど、まあ、無視するわけにもいかない。
綾波さんは友達だし、それに。
あの楽しかった夜のことを、わたしは覚えていたから――
「これでいい?」
綾波さんの声に、わたしは我に帰った。
「え? ああ、うん。えっと、これで……うん、オッケー。デリバリーも取るんだよね?」
「ええ。ピザ各種と寿司を取る手はずになっているから」
う……なんだか、値が張りそう。
「大丈夫なの、かな」
「アスカは」
その言葉に、一瞬思考が止まった。
「――『高給取りになったんだから、これくらいちょろいもんよ』と、言っていた」
アスカらしい。言っていそうなことは、大体わかる。
「だっいたいさあ、ソコソコ持ってんだからケチケチすんなってのよね」
アスカは笑いながらそう言って――、一瞬だけ笑顔を曇らせる。
「あたしたちなんか、特別手当も無しに戦ってるんだから、さ」
そう、あの時もアスカは、好きなものばっかりパクついていたっけ。
そんな風にカートを押しながら考えていると、ちょうど、目に留まるものがあった。
――ああ、そうだ。これ、確か――
アスカが好きだった。
わたしは手を伸ばそうとした。
けれど。
わたしよりずっと白い指先が、わたしより早くそれを掴んでいた。
「あっ……」
わたしの呟きは、ぱさ、とカートに落ちるパックの音に遮られた。
「?」
綾波さんが不思議そうに首を傾げる。わたしの足は止まっていた。
店内を満たす軽快な環境音が、耳を素通りしていく。まるで周りが無音になってしまったように。
わたしはただ、ごく普通の声でそのことを言おうとだけ思っていた。
「それ……どうして?」
口から出た声はみっともなくかすれていた。
目をぱちくりさせた綾波さんは、わたしが指したパックを見て、わたしにはできなかった平静な声で言った。
「それ、アスカが好きだから。……洞木さん?」
「なに?」
「何故、泣いてるの?」
あっ。また、わたしは。
わたしは急いで鼻を啜って、ポケットからティッシュを取り出した。
「ごめんね、ちょっと風邪気味で。クーラー効きすぎてて、鼻水出ちゃった」
先を急ぐわたしを、綾波さんは不思議そうな顔のままで後から着いてきた。何も言わないわたしを訝しがらず、嫌な顔もせず、ただただ、不思議そうに。
――こんなわたしを。
まるで初めてじゃないだろうかって思うくらい、こうして六人が集まるのは久しぶりだった。
最後は、ずっと前……そう、
「ちょうど合宿の時かしらね?」
その言葉は葛城さん。そして、ビール片手に訊き返すのは、赤木さん。
「そうなの?」
「うん。ああ、あんたはいなかったっけ」
「そうよ、ここに来るのだって初めて。……いやに片付いてるわね。あなたの部屋にしては」
そこにアスカが割り込む。
「あ、た、し、よ! あ、た、し! ねえリツコ、まさかこのズボラ三十路が掃除なんかすると思ってるわけ?」
「……ねえアスカ。それは、私に対する挑戦かしら?」
少しだけ青筋が走る赤木さんの顔を見て、しまったという顔で後ずさる。
「赤木博士は既にさんじゅむぎゅ」
空気を読まずに呟く綾波さんの言葉を慌ててアスカが飛びつき遮った。
「あんたバカッ!? 火に油注いでるんじゃないわよっ!」
綾波さんはさせるがままにしている。いつも通りの団欒の予感。
ああ――仲、いいんだ。
「なにィ! 三十やて! ……そうは見えんなあ……」
「っさいわよあんたまで!」
「うっさいとは何や! そもそも最初三十路て言い出したんはお前やないか。ワシがわざわざフォロー入れたってんのにやなあ……」
「あんたのゼロ・デリカシーのフォローなんか無駄だってのバーカ! どー言いつくろっても三十路は三十路よ!」
「それ、墓穴」
「……アスカちゃーん、ちょーっちお姉さんと楽しいお話しよっか!?」
「あら珍しい。全く同意見だわ」
「え、うわ、あの、その、言葉のあやよ。ほら」
「アヤも減ったくれもあるか!」
鈴原が乱入して、葛城さんが反応して……でも、二人はやっぱり、ペアに見える。
分かち難いペア。
ちょっと喧騒から離れた場所で、わたしは肉を焼きながら物思いにふける。微妙な状況。
「前」なら、わたしがあの場所にいた。アスカの隣に。
けれど、今は違う。
わたしは彼女からはもっとも遠い場所にいて――こっちは、こっちで、とんでもないことになってる、と思う。……わたし的には。
わたしの隣には、相田がいる。向かいには、碇君。
……気まずい……
あんなことの後で、この、状況って、さすがに。
でも、どうも、わたしだけちょっと浮いてるような感じもする。
碇君は綾波さんと一緒に苦笑しているし、相田は相田で鈴原に加勢して一緒に怒られていた。
「……あ、タレ、なくなっちゃった」
呟いても、どんちゃん騒ぎにかき消されて全然聞こえない。
「あら、ホント?」
だが、争いの当事者であったはずの葛城さんだけは、耳ざとくわたしの言葉を聞き取ったらしい。ぐらぐら揺さぶられてもうフラフラになっている赤木さんの隣をすり抜け、わたしの元へやってきた。
飲み会が始まったときには大人しく引っかかっていたたすきが、マフラーみたいに首にぶら下がっている。
でも、葛城さんはそんなこと大して気にした風ではなかった。
「あっちゃー……しまった。もう無いわ……買ってこなきゃなあ。もうちょっとしたらまーた頭数増えるし」
葛城さんがちょっとわざとらしく額を叩く。まだ、増える……ああ。
「加持さん、ですね」
「あら、良く判ったわね。ん、そっか。一回会ってたっけ、あの時に」
あの時――空母の上、か。
「いえ、その後も何回か……あ、そうだ。タレ、買ってきますよ。それからついでに、加持さんがいらっしゃってるか見てきます。スーパーまで、道一本だし」
「……足、大丈夫?」
言いながら、ちらりと葛城さんはわたしの足を見る。
「大丈夫です。もう、ほとんど治ってますから」
「そっか……じゃあ、悪いんだけどお願いできる? お金は……あー……後で清算するから」
「はい」
「ありがとう。んー、さすがに『主賓』が席を外すってのはね……」
「ふふ、そうですね」
笑って返したが、でも、ちょっとだけ違和感。主役なのに……あんまり、うれしくなさそう。
「……洞木さんは、こういう場所、苦手?」
相変わらずの騒ぎを眺めてから、葛城さんはふと憂いを帯びた顔で訪ねた。
「いいえ。……好きですよ」
「そっかあ。私は……ちょっち、苦手かも」
「昇進したのに?」
「うーん。そうねえ。まあ、嬉しくないって言ったらそれも嘘になるけど……でも、喜んでるのが全部でもないわ。……そんなもんじゃない? 人間なんて。ああ。こんな真面目なこと、青臭。んむー、かなり酔っ払ってるかな、私」
葛城さんはふふふ、と笑って頭を抱えて見せた。けど、わたしにはそれが酔っ払いのたわごとには聞こえなかった。
確かに顔も赤くて、ちょっとお酒臭い。
でも、それなのに――どうしてか、わたしが今まで見た葛城さんの中で、一番本当の葛城さんじゃないかと思えたのだ。
だから、わたしは黙って首を振る。またちびりとビールを呷って、葛城さんは言葉を続ける。
「そう? じゃあ、もうちょっと。……喜んでるのは、全部じゃない。でも……こうして会を開いてもらったのは嬉しいと思ってる気持ちは、それも、私の全部ではないけど、嘘じゃ、ない」
また、ぐい、とひと呷り。そして、また。
「ふう。……何時だって――そう、何時だって――本当は全部あやふやで、何かしら大事なことを決めかねてるのよ、わたしたちは。多分……ね……」
ビールを呷るたびに、葛城さんの言葉はゆっくりと輪郭を失っていった。けれど何故だか、わたしはその言葉に聞き入っていた。
「……うーん。なんだろう……あ、ほら、碇君」
「碇君?」
見ると、お酒が入っているのか、碇君は鈴原を指差して爆笑していた。綾波さんはなんだかぼうっとしていて、アスカと相田は言い争っている。赤木さんはちょっと離れて、苦笑しながら静かにお寿司をつまんでいる。
普段のちょっと暗い碇君を思い出すと、ちょっと、笑える。
「楽しそう」
「うん。ほら、笑ってるじゃない、今。でもねー、本当はこうやって大人数で集まるの、あんまり好きじゃないんだと思うなあ、彼。アスカのことだって、私のことだって、そんなに好きじゃない」
「そんな」
「でも、ここには来てくれた。それは……決断、かなあ。ひとつの。……あやふやで決めかねていることに、それでも無理やり答えを出して、前に進んでく……間違って間違ってまーた懲りずに間違って……でも……どの選択も、真剣に選んだら、それが例えば演技でも……その時の自分はきっと嘘じゃない、と思う。百パーセントの人間なんかいないし、キャラじゃないことだって、選んで、どうにも進んでかないことには、立ち止まったままってことで、ということはどこにも行けないし……どこにも行けないんだよなぁ。ってことで色々やってると、こうやって重たい役貰っちゃうしなあ。って割にんなことも考えずにバット振り回すやからもいやがるし、下手してホームランとかさ……まったく世の中ホントめんどくせー…………よねぇー?」
もう呂律は全然回ってなかったし、半分以上独り言になっていた。
けれどその表情は、真剣そのものだった。
だから、わたしは――
「買ってきますね、タレ」
「んー? ああ、ヨロシクー」
その、ちょっと眠そうで優しい笑顔に背を向けて――夜の道へ歩き出した。