葛城さんのマンションへ向かう坂は静かな並木道になっている。街外れの道はひっそりとしていて、強い風は木々を揺らすついでに、傍を歩くわたしにもひやりと涼しさを届けてくれる。
そんな風に後押しされながら、わたしはこつこつと松葉杖を突いてゆっくりと坂を上り――
道端で煙草をふかすあの人に出会った。
彼はわたしを待っていたようだった。煙草を靴底で踏み消し、さも今気づいたという風に声をかけてきたけれど、いかにもというわざとらしい動きだった。
「やあ」
「……加持、さん」
「こうやって話すのは初めてかな。……そうじゃない?」
さっきまで騒ぎの場の空気にちょっと酔っていた頭が、水風呂に頭から突っ込まれたみたいに一瞬で冴える。
何か――知ってるの?
とっさに身構えた。けれど、その動作への反応はいたって普通だった。
「まあまあ。襲おうってわけじゃないんだ。そう身構えないでくれるかな」
わたしの緊張をほぐすためか、胸の前に手を広げ、おどけて軽く笑いかけてくる。
……なんだ、違うのか。
わたしは頭を切り替える。チャンネルを、対外敵から、対親友の……「元」親友の憧れの人に。
「なんだぁ。ちょっと驚いちゃいましたよ。今、お帰りですか?」
「ああ。仕事がちょっと長引いちゃってね。葛城、もう出来上がってるんじゃないか?」
頭に一瞬、部屋を出るときに見た葛城さんの顔が浮かんだ。
「……ちょびっとだけ」
「ってことは、相当飲んでるな、あいつ……まったく困ったもんだ」
苦笑いを浮かべながら、加持さんはわたしの隣に並び――自然、部屋へと帰る道筋をわたしはまた歩き始めた。
「でもみんな……楽しそうです」
「なのに君はお使い?」
「わたし、世話焼き役が多いんで」
「世話焼き役は苦労するよ」
苦労する……
ふっと、夜風がまたわたしの髪を煽る。ちょっとだけ風が強い。
「そう、そういう性格は苦労する。誠実であればあるほど、なおさら苦労することになる――なんでも抱え込んでしまって、苦しまなけりゃならないからね」
引っかかる調子だった。背中をそうっと触られたように、心がざわざわする。
「どういう、ことですか」
「……俺は男女関係について立ち入ったことを言うのは好きじゃないし、柄でもないんだが――君は、碇シンジ君のことが好きなのかな?」
また、その話?
しかもこの人から、そんなこと。――まさか?
考えたときにはもう言葉を発していた。
「相田の、差し金ですか?」
言ってから。そんなわけないのに、と気づいた。
わたし、なんて酷いこと言ったんだ、今。
――最低。
「相田君? ……ああ、眼鏡の彼のことか。……彼にもそう言われたのかい? って、あ、おい、ちょっと待って!」
その言葉を聞く前に、もうわたしは……無理やり走り出していた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
どういうことかは、多分わかってる。
わたしは――きっと、絶対、相田を恨んでいるのだ。逆恨みをしている。この場所に帰ってきたころ、碇君にそうしたのと同じように逆恨んでいる。
どうして、あんなことを言うの。
相田があんなこと、言わなければ。面倒なことは考えなくて済んだのに。
わたしは誰かを好きなのかとか。
誰と誰が、友達なのかとか。
――そもそも自分は、そんなことを許されている人間なのか、とか――
「はあっ、はあっ、はあっ、痛ッ!」
足が痛む。わかりきってたことだ。体重をかけないって言ったって、こんな足で、走ったら、じきに――
「――――――!」
ぐらりと。
突然足がなくなったみたいに力が入らなくなって、わたしはバランスを崩して――
「きゃん!」
犬みたいな声を上げて、わたしは、
「――危ない!」
抱きかかえられていた。
アスファルトの感触はしない。アスファルトに直接触れたのは、わたしではなくて――
「加持、さん?」
「いたたた……怪我は、ない?」
ぼさぼさ頭をさすりながら、加持さんは訊ねる。わたしは抱きかかえられているのを恥ずかしいと思う余裕もないままで答えた。
「は、はい……」
「そうか……」
ほっとしたという顔で加持さんはため息をつく。
そして……わたしが震えてしまうくらい大きな声で叫んだ。
「何やってるんだ! 危ないじゃないか!」
「……すいません……」
言葉もない。
何やってるんだろう、わたし。
「あの……怪我、ないですか?」
今さら、そんなこと訊いて。ご機嫌を取ってるつもりなの?
加持さんは、頭に続いて調子を確かめるように肩をさすって立ち上がる。
「いや、大したことはない。悪かったね、怒鳴って」
「あ、いえ、そんな」
「何か痛いところを突いてしまったみたいだな。……そうだな、コーヒーでも飲んでかないか。自販機で悪いけど、おごってあげるよ」
「落ち着いた?」
「……はい。あの、本当にすいませんでした。お詫びは」
ふっ、と笑い声が聞こえた。見上げると、ベンチの傍に立っていた加持さんは困ったような顔で笑っている。
「真面目だな」
「ははは……」
これには笑うしかない。
けれど、そこで表情が変わった。何か悩んでいるみたいに、眉間に険しいしわが寄る。そしてしばらく値踏みするように、加持さんはわたしの顔をじっと見ていた。
刺すような視線。
ああ、これは。
逃げられない言葉がやってくるのだとわかった。
しかし、そこでまた表情は一変する。柔らかい表情、アスカの憧れの、かっこいい大人の男の人。
――あ。
ああ、そうか、これは。
この人は今、わたしを見限ったんだ。逃げようのない言葉には耐えられない小娘を。
それがわかった。
ショックだけど、でも、わかる。だって、わたしなんか所詮――「どっちがいいかな?」
……え?
わたしを見限った笑顔のまま、加持さんはいやに平たい声で言った。
怖いくらいの、完璧な「お兄さん」の笑み。まるでドラマの中の登場人物みたいな笑い顔。
そんな顔なのに発する言葉だけがやけに平静で、だからなおさらその言葉が胸に刺さった。
「俺は君の家族じゃない。先生じゃない。親友でもない。近所のお兄さんですらない。ちょっとした知り合いですら、ない。俺はただの、君と一回り以上歳の違ううだつのあがらないオッサンだ。それどころかこそこそ情報を集め回っている、こそ泥だ。当然、君に偉そうに説教を垂れる謂れはないし、そんなのは本当は大人気ない。醜悪な、悪趣味なオヤジそのものだ。……どうする? それでも、聞くかい? それとも、ここでのことなんか綺麗さっぱり忘れて、パーティに戻る?」
「え……あの……」
情けない言葉しか出ない自分をひっぱたいてやりたい。
でも、それがわたしの現実で。
「えっと、あの、そう言われても、いきなりで、その……」
ふう、と、加持さんはため息を吐いた。
そして――諦めたように笑った。
今度こそ、本当にわたしは見限られた。
加持さんはわたしに背を向けてゆっくりと歩き出す。聞かせるように、少しだけ大きな声を出す。
これで終わりだ、と言うふうに。
「闇夜ってのは怖いなぁ。夜は中学生の女の子でも大人に見せてしまう。いやあ、失礼。俺としたことがついつい、口説いちゃったな。あんまり可愛らしいもんだから。……さ、行こうか。早くしないとパーティが終わっちまう。葛城にどやされるのはさすがに――」
これで、終わり?
――そんなの、嫌だ!
「ま、待ってください!」
「何を?」
加持さんは振り返りざま、すぐさま言葉を返してきた。斬りつけるような鋭い言葉遣いで。
「……何の話かな?」
今度は柔らかく包み込むような、声。
追い詰める声と、猫なで声。まるで怪人みたいに、この人はぐるぐると声色を、雰囲気を変える。まったく別の二人と同時に会話しているみたい。
「あ、あの……わたし、聞きたいです。加持さんの、はな」
「そうやって君はいつもいつも勢いだけでやっかいごとに飛び込んでるのか」
――!
また、わたしの言葉なんか一蹴してしまえる空気になった。声も出せない。わたしはどこにいるんだろう? この人とここにいて、それ以外の世界がもう頭に入らないくらい。
この人が、怖い。
さっき、危ないぞと怒られたときよりもずっと。
「あ……う……」
呻いて身を引くわたしを、加持さんはばりばりと乱暴に頭を掻いてから、静かに腕組みをして睨む。
正反対の声。でもその中心に意志があるのがわかる。わたしを、わたしという人間を見定めている。試している。
「もう一度、訊こう。本当に俺の話を聞きたいのか、それとも……ただ、いい子ちゃんが焦って手を上げてしまっただけなのか」
「わたしは……」
答えに詰まる。何て答えればいいんだ? わたしはその言葉を否定できないのに。
でも、そんな葛藤も見透かすみたいに加持さんは言い放った。
「本当に聞きたいなら、そう言ってみせろ。そうでなけりゃ、話せない。物分りがいいだけの馬鹿には、何も言わない。すぐさま答えるような考えなしの馬鹿なら、女の子だって殴ってる。そんな奴らには、聞く資格がないんだ。……さあ、どうする?」
加持さんの視線は身を切るようにますます鋭くて、自分が切り刻まれてどんどん小さくなっていくような気がした。
……何か、言わなきゃ。
でも、何を?
聞かせてくださいって。
言える? 本当に? 本当にそうしたい? 自分がただの優等生だって、本当は何も言い返せないって、加持さんの言ってることは全部本当だって、当てはまってるって、本当はこんなこと聞きたくないんだって、気づかせたあなたを恨んでるって、わたしはただ、そう、ただ絶望して決心して何かに逃げずに立ち向かった振りをしていたいだけなんだって、そんなの偽善ですらなくって――
そんなこと、何もかも、本当は全部わかってるのに。
だから、何も、言えない。
「ほら、言えないだろう? だろうな、誰もやりたがらないウサギの世話を買って出るみたいには行かないんだ。そんな程度の覚悟で……その程度で、抱えていいはずがない。抱え込む義務もないくせに」
大げさに肩をすくめて、加持さんはわたしに悪意のこもった、蔑むような冷たい目線を向けて、向けられて、わたしは凍りつく。
「君は薄っぺらいんだ。解るだろう。真面目だから。そうやって生きるのは楽だろう。上っ面で悲しんで、上っ面で使命感に燃えて、自分が上っ面で動いてることに上っ面で絶望していればいい。何もかも上っ面だけで、どこにも気持ちを届けずに」
やだ、聞きたくない。
思わず、わたしは耳を――
駄目。それだけは駄目だ。駄目だ。
それも優等生? 耳に痛くても先生の話は最後まで聞かなくちゃ。
――違う!
まったく世の中ホントめんどくせー。
そのスタートラインにすら、わたしは立ってない。
「聞かせて、ください」
それも、優等生?
かも知れない。
でも、言ってみせる。ただの勢いじゃない。葛城さんの言う通り。それは本当に「めんどくせー」ことで、できるなら止めたくて、でも、それではわたしは、どこにも行けない。だから――
決断して、前に進むんだ。
「……及第点、かな」
ふっと空気が和らいだ。夜の肌触りが戻ってくる。かすかに吹く夜の風、虫の音、自販機の音。
「なんだかなあ。言うはずない、ちゃんとした答えを聞いてから言うはずのことまで言ってしまった。だからまあ、今回はギリギリ及第点ってとこだな」
へなへなと肩を落としながら、わたしもつい笑ってしまう。
「そんなぁ」
「まあ、そんなもんだ。そんな区切りは所詮屁理屈さ。そう気にするこっちゃない。誰だって……どこかで、自分を誤魔化してる。百パーセントの人間なんかいない。そんな風に、生きてはいけない。誰だってどこかで本気で、同時に演技をしている。その境界線なんか曖昧なものさ。本気も漫然と繰り返せば嘘になるし、逆のことだってありうる。まあ、君はどうも引っかかってしまっているみたいだったから」
葛城さんと同じ言葉だった。
「君は、シンジ君のことが好きなんだろう?」
「……わかりません」
「そうか。……でも、シンジ君は君のことが好きみたいだ。サードチルドレンが唯一心を開く女の子、『サードチルドレンの命綱』洞木ヒカリさんのことが」
「そんな、こと」
「本当さ。だから、俺は君にこうして会いに来た。君がどうするのか、どんな人間なのか、知っておきたかったんだ。そしたら君が昔の知り合いみたいな目だったから、つい柄にもなく――ね。いや、よく最後まで聞き通したね。保証する。君の忍耐力は、奴よりはずっと高い」
加持さんが笑って、わたしに手を差し出す。わたしは大人しく従った。
「まあ、とはいえ俺も一応大人って奴だからな、そこまで君を信用してるわけでもないんだ。だいたいにおいて、思春期はどちらかだ……こともなく張り込む馬鹿と、いつまでも張り込めない馬鹿。開き直ってしまえる奴もいるが、例外だな。……俺はね、洞木さん。君みたいな真面目に『引っかかってしまった』子が、そんな馬鹿のままでいれるだなんて思わないんだ。なあ、洞木さん。もしも何か間違って、本気で恋をしてしまったときに――掛け金を支払って、自分が抱えている問題に本気で立ち向かわなければならなくなってしまったときに、君は、逃げないでいられるか?」
「……まだ、わかりません」
そう言うしかなかった。まだ、そこまでの決心はできない。
「まあ、いいさ。ともかくも君は、聞き通したんだから……と、見えてきたな。葛城、怒ってるだろうなあ。ああ、大丈夫、君は俺が――」
「あの」
エレベータのボタンを押した加持さんに、わたしは声をかけた。
柔らかい……でも、さっきとは違う声が、返ってくる。
「何かな?」
「……また、わたしが駄目になった時は――」
「さあね。俺だって、いつ何時いなくなるかわからないからな」
と言ったものの、わたしの顔が余りにも情けなかったのか、こう後を続けた。
「うーん……そうだな。じゃあ、俺は――世界の全部が君に同情しても、俺だけは君に辛辣なことを言ってあげよう。それで、いいかな?」
「……、はい」
わたしは頭を下げて、エレベータに乗り込んだ。