発令所から呼び出しを受けたのは、避難警報が発令されてから二日後、耳をつんざくような轟音が響いてからしばらくしてのことだった。

明らかに異常なのはわかっていた。以前書き留めたメモを見ながら必死に思い出しても、やっぱりそうだ。「前回」は、まる一日後に避難は終了していた。ビルがいくつかなくなって、工事があった。

第3新東京市が平らになった数週間が、確かにあった。


避難警報は解除されていない。

なら、たぶん、まだこの街にあの「使徒」はいるのだろう。


何が、あったの?


何が起きているの?


私が到着したときには、その部屋にはアスカと綾波さんしかいなかった。殺風景な会議室、部外者であるはずのわたしがいるにも拘わらずパイロットの着るスーツに身を包んだままの二人。

「着たわね。お疲れ」

壁にもたれかかって声をかけたアスカは見た目からして疲れきっていた。目の下には隈が出来ているし、わたしを見る目からもいつもの隙あらば刺し殺すみたいな集中力がすっかり失われている。

「葛城三佐が来るわ、この部屋で待機して」

一見アスカよりはまだしっかりしているように見えた綾波さんの声にさえ疲れの気配が混じっていた。よく見ると、ただでさえ蒼白な表情はますます青ざめていた。

「二人とも……どうしたの?」

馬鹿な質問をした、と思った。何もないはずはないと知っているのに。でも続けるしかなかった。

だから、とりあえず思いついたことを口にした。

「……あの、碇君、は?」

二人に視線を向けたけれど。

どちらも、わたしと視線を合わせようとしなかった。


――何か、あったの?


「ねえ、碇君は? お手洗いか、何か……」


続く無言が答えだった。わたしの質問が、部屋の中で宙ぶらりんになる。


「あの――」

何を言っていいかわからないまま立ち尽くしたわたしにかけられた声。

「洞木さん」

「あ――葛城、さん」

言いよどんだのは、充血した赤いが目に入ったせいだった。苛立ちをなんとか抑えようとしているのが解る、無理やりな笑み。

「来てくれてありがとう」

「はあ、でも……どう、したんですか」

天を仰ぐように瞼を閉じて、再び開いた葛城さんの顔には表情がなかった。

「恐らく、あなたには辛いお知らせをすることになるわ」

抑揚のない静かな声。

部屋に、アスカが机を蹴りつける音だけが響いていた。




「使徒が現れたのは今からまる二日前」

続いて現れた赤木さんはわたしを見て少し驚いていたが、葛城さんと少し話すと席について話し始めた。

金属フレームの眼鏡の奥は、手元の端末の放つ光に遮られて見えなかった。

「パターン・ブルーを示さない、新種の使徒かと思われた影は要塞都市上に出現」

かち、と何かを操作する音に続いてモニタに縞模様の球が映った。言葉の意味はわからなかったが、これが「使徒」と思われていたというものだとはわかる。

シマウマのような白黒の、不思議なボールが浮かんでいる。たぶん巨大だ。

これが、影?

わたしの疑問は置き去りのまま、赤木さんは淡々とその先を続けた。

「影はパターン・オレンジのまま第3新東京市ゼロ・ポイントまで侵攻して静止。そして……」

赤木さんが言いよどんで、わたしと、葛城さんを見た。葛城さんは腕組みをしたまま頷いて、それを確認した赤木さんはまた視線を手元の端末へと戻した。

「作戦部は対象を使徒と断定し、市街地上空外への誘導も視野に入れ威力偵察を決行」

かちり。

「……なんですか、これ?」

そこには、黒い沼があった。街があったはずの場所一面にべったりと黒いものが広がっている。

「これが、使徒よ」

赤木さんは冷静に言ったけれど、努力してそう振舞っているように見えた。

「この直径680メートル、厚さ約3ナノメートルの沼が使徒本体よ。極薄の空間にA.T.フィールドを展開し、空間を内向きで支え、その内部にはディラックの海と呼ばれる虚数空間を抱えている……恐らく、実質的には別の宇宙と考えて差し支えない」

赤木さんの説明の半分もわたしは理解していなかった。嘘だ。丸っきりわからなかった。でも、部屋の空気は、何も知らないわたしが見ても解るほどどんどん重くなってゆく。

「威力偵察を実行し、使徒本体と思われていた影に攻撃を加えた瞬間に使徒は出現した。使徒は活動を停止するまでに、その直上にあるものをすべてそのディラックの海の中へ飲み込んだ」


……まさか。


「初号機と、共に」




そん、な。

彼女は世界の端っこで

第30話
「星のない空」

あの日。最後の夕凪を見た、あの日。

最後まで浜に居残っていたわたしたちは夕焼けを見送ることになった。

太陽が水平線の向こうに隠れた後の空はまだ明るくて、でも一番星だけがかすかに姿を現していた。

「もぉ、髪の毛パサパサじゃなーい」

置き去りのベンチに腰掛けたアスカは絡まる髪をかき上げて、それに見蕩れる鈴原や相田にうりうりと蹴りを入れながら、

綾波さんはもう乾きそうな靴を手に、無言で海風に吹かれたままで、

そしてわたしと碇君もそんな皆と同じように、薄明の空を見上げていた。

強い赤紫からぼやけたような薄い橙、そしてもっと蒼く、高く。金色に染まった雲だけがかすかに残る濃紺の空を。

「……洞木さん」

同じように空を見上げながら、碇君がわたしに声をかける。隣にいるわたしだけにしか聞こえない、小さな声。

「なに?」

その声があんまり優しいから、わたしもつい、甘えるみたいな声を出してしまう。

そんなの、駄目なのに。

「あの……」

「ん?」

視線をやると、いつの間にかわたしの方を見ていたらしい碇君は、また空を見上げた。

「あ、星が増えてるね」

ちょっとわざとらしい声。でもわたしにもそれを問い返す勇気なんてなかった。

だから同じように暗くなってゆく空を見上げる。

空にはいつの間にか、もう何番星とも数えられないくらい、いくつも星が瞬いていた。

遠くに帰る準備を始めるみんなの声を聞きながら、わたしはそれでも、星空から目が離せない。

目を離したら泣いてしまいそうだった。

何も言えなくて、離れてしまうしかないのなら、このまま、ずっと居られればいいのに。

そう、思う振り。振りだ。

「不思議だよね」

「……え?」

思わず、しみじみと呟く碇君を見つめてしまう。その視線は暗くなっていく夜空を向いたままだった。すっきりしているけれど、それでもやっぱり男の子な横顔が、薄暗がりの中に沈んでゆく。

その視線はさっきまでの戸惑ったみたいな視線とは違っていた。

その目はまっすぐに、暮れる空を見詰めている。

「昼間は見えないのに、それでもちゃんとそこにあるんだ」

その声もさっきの、何かを誤魔化しているような照れ隠しの声とは違っていて、茫洋としたような声は、でも不思議とはっきりとわたしの耳に届いた。

もう一度、空を見る。

真昼でもきっと太陽の後ろで輝いているはずの星が、きっとその時と同じように光っていた。

「……うん。ねえ、また、」

言い終わる前に、遠くで呼び声が聞こえた。アスカ、相田、鈴原の声が順番に聞こえる。

「……ヤバい、置いていかれた。行こ、洞木さん。――ちょっとケンスケ! 待ってよ!」

ふと見るともうかなり遠くにいるみんなに手を振って叫んだ碇君の顔は、泣き顔のわたしの顔と同じように、きっともう暗闇に隠れて見えなかった。




「洞木さん」

その言葉で、わたしは現実に引き戻される。そこは第3新東京市だ。今は暗く沈んでいる要塞の街。

祭りのあとの宵闇よりもずっと暗い、底なしの沼の淵。


「……現存する全てのN2爆雷を投下し、タイミングを合わせて残存するエヴァ二体を利用した強制サルベージを行った。しかし結果は使徒本体の破壊のみに留まった。それが現在の状況よ」

赤木さんは端末から顔を上げなかった。

「使徒の面積は縮小を始めているわ。恐らくコアが焼失したことで、虚数空間が実空間に侵されはじめているのね。現在のペースを維持すれば今から1時間後には虚数回路から全てのエネルギーが失われ、ディラックの海は消滅するでしょう」

「碇君は、帰ってこないんですか」

いつの間にか口の中はからからに乾いていて、言い終わる前に唇が割れたのがわかった。

「シンジくんはまだディラックの海の中にいる。それが崩壊した時に初号機がどうなるのかは、誰にも判らないわ。もう二度と帰ってこないかも知れないし、海が消えた瞬間にでもひょっこり帰ってくるかも知れない」

言い終わった赤木さんはこんな状況なのに、少しだけ憑き物が落ちたような、すっきりとした顔をしている、ように見えた。


そして今、わたしの隣に立って沼の淵を見つめる目はそれよりもっと澄んでいた。その先にある沼は、もうほんの数十メートル四方しかない。

荒地の真ん中で二人、わたしとじっと沼を見ていた。

アスカはいない。きっとそれに耐えられない。こんな風に死人を看取るような時間には。

でも、わたしだって。

「……どうして?」

「何?」

「どうしてわたしに、碇君が消えたことを教えたの?」

「泣いていたから」


え?


「碇君と話をしている時、あなたは泣いていたから」

「見て、たの?」

でも綾波さんはその質問には答えなかった。


そうする代わりにわたしの方を向き直って、言った。


「本当に、碇君に帰ってきて欲しい?」


声の向こうで、どんどん沼は――「ディラックの海」はその直径を縮めていく。

それが閉じてしまえば、もう碇君との距離をつなぐものは何もなくなってしまうのに。


なのにどうして、今、そんなことを言うの?


「当たり前よ!」

「碇君と初号機がいなければ、対使徒戦の遂行は難しくなる。使徒に勝てなければ人類は滅亡する」


綾波さんは言葉を続ける。


「違う!」


そんなことじゃない!


でも――何かが、ひっかかった。


何か、思い出せそうな気がした。


――――――。


「お願い。行って。……わたしは大丈夫。それに、碇君が『使徒』からわたしを助けてくれないと、どっちみち助からないじゃない」


――はっとした。


いつか、わたしは確かにそう言った。

あの時、わたしは何を考えていた?


けれど、ここでわたしのために碇君を足止めしてしまうわけには行かないのだ。

この世界のために。


そうだ。そしてその通りになった。

この世界のために碇君は戦って、そして――消えた。


どうして、碇君は戦っていられたのだろう。


まさか?


途端に、怖くなった。


もしかして、あの時わたしが焚きつけたせいで、ずっと逃げることもできずに戦っていたんじゃないか?


だとすれば、これはわたしが望んだ結果じゃあないのか。


でも――帰ってきて欲しい。


けど、帰ってきて……それで?


また、戦ってとせがむしかないのに?


陥れて、優しい人間のように装って、あなたが好きよと嘯いて、その相手を死地に送り込むしか出来ないのに?


今になって悩んでいるわたしをよそに「ディラックの海」が小さくなっていく。他の宇宙につながっているはずの、その小さな空への入口には、でもあの日の空と違って星なんか見えない。

ただ黒々と、瞳のように小さく閉じてゆく。


消えてしまう。


どうして気付かなかったの。

「また」なんてなかったのに。

ないかも知れないって、わかりきっていたはずなのに。


「ああ……」


碇君への道が閉じるさまを、わたしはうめき声を上げて見ることしかできなかった。




「正直な話」

話を切り出した赤木さんは、その提案に即答したわたしに怪訝な顔をした。立ち上がりかけて、思い直したようにもう一度ソファに腰を下ろす。

普通の教室にはない、校長室にだけある革張りのソファが、ぎゅっと小さく音を立てる。誰もいない、二人きりの応接室。部屋の主であるはずの校長まで人払いできる、この人。

その人が、探るように控えめな笑みを浮かべる。

「無理かもしれないと思っていたのよ」

「はい」

「でも、良かった。ダミープラグ――無人機の計画もあるのだけれど、そちらはまだ実用段階ではないの。初号機が失われた今、私達は早急に新しいエヴァと、そのパイロットの選定に入らなければならなかった。だから、あなたがオーケーしてくれて、とても助かるわ。機体ももうすぐ届く予定になっているの。それがあなたの機体になるわ」

「はい」


きっと。


それは、自らの言葉に責任を取らねばならないという意味なのだろうと思った。


自分がここにいることの、その責任を取ることを、きっとわたしは求められているのだと。


「これからよろしくね、洞木ヒカリさん」

そう言って赤木さんは手を差し出す。その手を、わたしはゆっくりと握り返した。

足がすくみそうになる。

だって、その先にあるものをわたしは知っている。


でも、もう引き返すことなんかできないのだ。


「こちらこそ、よろしくお願いします」

だから、たぶん引きつった作り笑いでそう答えながら。

ああ、わたしは後戻りできない場所に来てしまったと、あの何も出来ない代わりに何も起こらない世界の端っこにずっといられればよかったのにと、そんな風に無責任なことばかりずっと考えていた。

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