せかいのまんなか、そこはまっしろで。

彼女は世界の端っこで

第32話
「彼女は世界の中心で」

顔を、覗き込まれていた。

お父さん。お姉ちゃん、ノゾミ。みんな泣いていた。

どうしたの?

訊きたかったけれど、声が出なかった。ぼんやりして、息をするのもおっくうだった。

「ヒカリ……ヒカリ?」

お姉ちゃんの声が、やけに遠く聞こえた。変。こんな近いのに。

「おねえちゃん! おねえちゃん!」

ノゾミの声も遠い。そんなに悲しそうな声しないで。大丈夫だから。

「ナースコール!早く!」

お父さんも、ねえ、なんでそんな顔してるの?

みんな、




――――――――…………




目を開くと、ぼんやりと天井が見えた。


今のは、夢?


ここは……どこ? わたしは、どうしたの?

そこまで考えて、思い当たる。


ああ、そうか。


起こってしまったのか。

それに気づいた。あの後、何かあった。何かあったと思う。よく思い出せない。


……?


何だろう?

どうしてなのかわからないけれど、急に恥ずかしくなる。息苦しくなる。

「ん……」

紛らわすみたいに首を回すと、隣のベッドが見えた。さっきまでのわたしと同じように静かに目を閉じている。


碇君?


ああ、そうか……やっぱり、碇君に、させてしまったんだ。

「ごめんね」

そしてまた、気が遠くなる。




荒れ果てた第3新東京市にいた。水面に天使の像が見える。どこかにあったモニュメント。

どこだろう、思い出せない。

そこには碇君と綾波さんがいた。湖になってしまった第3新東京市のほとりに、碇君はぽつんと立っていた。

そして綾波さんはふわりと、天使の像の上に飛び上がる。

天使みたいに、音もなくモニュメントの上に立つ。

碇君は綾波さんを見上げ、綾波さんも碇君を見下ろしている。

どちらも動かない。距離は縮まらない。

決して触れ合えない。

小さいけど、絶対的な距離が二人の間にある。

「どうしてあんなことしたの?」

綾波さんがあの日わたしに言ったように問いかける。

「許せなかったんだ。父さんが。僕を裏切った、父さんが」

「どうしてあんなことしたの?」

「止めてって言ったのに。僕の手で殺させようとしたんだ。僕の……」

「あなたは何かしようとしたの?」

「できるわけないじゃないか! 人が乗ってたんだ」

「何もしなかったのに、あんなことしたの?」

「何とかしようとしたよ! でもできなかったんだ! 仕方ないじゃないか!」

「だからあんなことしたの?」

「そうだよ!」

「だから、殺したいと思ったの?」

「そうだよ! 殺してやりたいって思ったんだ。あんな、あんな男!」

「どうして殺したいと思ったの?」

「決まってる! 父さんは僕に……洞木さんを殺させようとした」

「どうして殺したいと思ったの?」

「決まってる!」

「どうして?」

「父さんが……洞木さんを……」

「碇君は何に怒ってるの?」


止めて。


「もう言ったじゃないか!」


止めて、もう言わないで。


「そうやって、考えたくないことから目を逸らすのね」


止めて、もう考えさせないで。考えてもらいたくない。


「いいじゃないか! どっちだって、友達を殺されそうになって、だから怒って、何が悪いんだよ!」


止めて、お願いだから、そのままにしておいて。見たくない。そんなの見たくない。


「彼女のために怒ろうとしたの?」


碇君が――のを、見たくない。


「そうだよ! だから僕は!」


ああ、駄目――


綾波さんの顔が歪む。口の端が釣り上がる。真っ白い顔に不釣合いなくらい、赤い、唇、舌。凄惨な笑み。


「うそつきぃ」


「うるさいっ!」


碇君が耳をふさいで叫ぶ。呼応するように綾波さんの首が裂けた。深く千切れて、血があふれ出す。


「うそつき」


それでも綾波さんは嗤っている。死人みたいに蒼白な顔で碇君を嘲笑っている。どこかで。でも思い出せない。


思い出せないまま。


首が、


千切れて、落ちる。


「あなただって――――――くせに」


くるくる回りながら水面に落ちる綾波さんの声は、半分聞き取れなかった。


水面に落ちた瞬間、綾波さんがわたしにも笑いかけた、気がした。




――――…………




目を開くと、そこには相田と鈴原がいた。

「相田……鈴原も」

「委員長、大丈夫か」

鈴原は心配そうな顔で、それでも笑ってくれた。後ろに立つ相田も。


……碇君は?


わたしは隣のベッドを見た。けれどそこには誰もいない、空のベッドだった。

「碇君が横にいたような気がしたんだけど、夢だったんだ」

「シンジは昨日退院したよ。3日も寝てたんだぞ、洞木」


3日も?


急に怖くなる。空白がこんなに怖いとは思ったのは初めてだった。3日あれば、どんなことだって起こっておかしくない。そう思えた。

あの時の、前の鈴原も、同じだったんだろうか?

だから、訊いてしまう。訊かれても答えづらいことはわかりきっているけれど、それでも。

「……みんなは?」

相田は少しだけ視線をさまよわせてから答えた。

「さあ、俺らにもわからないんだ。連絡もつかないし」

そう、か――

また、頭がぼんやりとして――



――――…………



目が覚めると、やっぱり同じ天井だった。でも、白いはずの天井は暗がりに沈んで、窓から入り込む光で 照らされている部分しか、見えなかった。

夜だった。

碇君を見たことも、どこかの風景も、相田や鈴原と話したことも、どれもどこかぼんやりしていて、夢なのか現実なのかよくわからなかった。どこまでも現実で、どこまでも夢みたいな。夢の……

ここも、夢?

目を閉じてみる。けれど、今度はもう眠くはならなかった。

わたしは生きている。

いまさら、そのことが頭に浮かんだ。わたしは生きている。生きて、このベッドに寝ている。

でも――


どういう状態で?


急に怖ろしくなった。鈴原の顔が、今のじゃない、「前」の鈴原の顔が、その下、シーツのへこみが頭にちらついて、怖ろしくなる。わたしは生きてる、だけど――

脚はある?

思いつくと、もうじっとしていられなかった。脚は、今のわたしにはちゃんと脚がある? それだけが頭に浮かんで消えなかった。わたしは恐る恐る、足元を見ようとしたが、身体が上手く動かない。

どうして。

見えないと、ますます怖くなった。

顎を引いて、必死にシーツの下を確認した。

見えた。でも、見えない。

部屋が暗すぎる。

病室は暗闇に沈んでいた。窓から入る光は、天井に照らすだけで、わたしが伏せっているベッドには照らしてくれない。

天井を見てしまった目を凝らしてシーツを見る。闇に目が慣れるのを待った。

薄く、輪郭が見えてくる。シーツの向こう、盛り上がりが、二つ、ある。

ある。

足も、腕もあった。動けないけれど、ちゃんとそこに、ある……あ?


え?


――動け、ない?


そうだ。動けない。どうして、こんなに、身体が重い?

寝返りを打とうとした。首を、肩を、背骨を、それから――そこまで。

動いたのは、腰から上だけだった。痛みを感じたのも。


うそ。


嘘だ。


いいや、違う。


嘘じゃないと、自分の中で誰かが告げている。そんなこと当然だと。

そうだ、当然だろう?

鈴原トウジは片足を持っていかれた。なら洞木ヒカリが何を失ったとしても、何一つおかしくない。

なあ洞木ヒカリ、お前だって馬鹿じゃないんだろう?

そのくらい、とっくに覚悟していたはずだろう?

引き受けるときに、解っていたはずだろう?


「そうやって君はいつもいつも勢いだけでやっかいごとに飛び込んでるのか」


そう、知っていた。知っていて、自分で決めて、乗った。義務がない、そんなことなかったから。わたしが、わたしこそが、しなきゃいけないこと。

だからこれも、覚悟しなきゃいけないこと。

碇君が丸ごと消えてしまったように。そうなってもおかしくなかったと、知っていたのだから。


「ええ……解ってたわよ。解って、る、わかってる」


わかってるのに……!

そのはずなのに。

どうしてもおなかが痙攣するのを、泣くのを止められなくて、声をかみ殺した。こんな暗い部屋で、なのにわたしは、独りだ。

わたしの隣に、誰もいない。誰も、いてくれるはずがない。


こんな、壊れ物のわたし。


考えるのを止められなかった。そんな差別的なこと、考えてはいけないって、頭は言うけど、どうしてもそれについていけなかった。

今ならもうはっきりとわかった。正確に、腰から下に感覚がない。動かないし、何も感じない。何かあるように感じる瞬間もあるけど、それは外部には現れない。きっと、錯覚だ。鈴原が言っていた。


「たまにな、無いはずやのに、脚がえらい痛なんねん。変やろ?」


幻肢。


そうだね、鈴原。やっとわかった。まるで脚があるみたいに、ふと何か感じるような気がする。

でも、何も動かない。

シーツの下で、わたしの下半身は力を失ったまま。


おなかの震えは止まったけれど、身体の震えは収まらない。涙も、壊れた蛇口みたい、止まらない。

考えが、まとまらない。細切れになって、バラバラのまま。わたし、頭までどうかなっちゃった?


目を閉じても、消えない。


当たり前だったはずのものが、消えていくのがわかる。もう、当たり前にできたはずのこと、みんなできないんだ。きっとできない。


ああ……


わたし、壊れちゃった。


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