Neon Genesis Evangelion L

第弐話:見知らぬ、天井
EPISODE: 2 The caught “Ultra-man”

#1

こうして一般的な男子中学生だった僕はある日突然戦場に放り出されることになった。それはお約束と言えるくらい王道の展開だったけれど、問題は、僕が王道のヒーローには絶対になり得ない人間だということだった。王道のヒーローにあるべき覇気とかやる気とかに欠ける僕は、そういうのにまったく向いてないといってよい。しかし、ロボットには僕だけしか乗れないという。このロボットを是が非でも動かしたい人々にはこのロボットは動かせず、このロボットに是が非でも乗りたくない僕にはこのロボットが動かせる。まったく、世の中というものほんとうにうまくいかないものだ。

他人事みたいにそんなことを冷静に考えている自分がいた。

「――!!」

遠くから声が聞こえる。でも僕には届かない。だって、僕は。

――――――――――――から。

#2

おれは明るい部屋の中で目を覚ました。どのくらい意識を失っていたのか分からない。

ええと、何をしていたんだっけ? 親父に呼ばれて、第3新東京市にやって来た。職場に呼ばれて、そこで親父に会った。

それだけ? 頭の中で警告音が響く。それは鳴り止むことがない。おれは何かを忘れ去っている。何か、とても大切なことを忘れてしまっている。何を? 何も考えられない。でも何かを考えなければならない。そうしないとこの警告音は鳴り止まない。何を考えればいいんだろう?

ぱさ。

音がした。音がした方向を見る。誰かが寝ていた。シーツが動いて音がしたのだ。そこには、絵の具をそこだけ塗り忘れたみたいに肌の白い女の子が眠っていた。

そうだ。おれは何をしているんだっけ? ここはどこ? 警告音が鳴り止み、その代わりに頭に起動音が響きだす。頭に血が上り、意識がはっきりしてゆく。何も映らなかった目には部屋の風景が映り、何も捉えなかった耳には機械の音が聴こえる。消毒済みのシーツの感触がして、消毒液のにおいがする。ここは……病室?

病室だって? なんで病室にいるんだろう?

……ロボットだ! なんでそんなに重要なことをおれは頭から追い出していた? おれたちはロボットの前に連れて来られた。上から何かが落ちてきて、この女の子とおれ、シンジはロボットに守ら……れ……た。それで、シンジは、シンジは……

ロボットに乗せられる。

ダメだ。行かないと。シンジのところに行かなきゃ。

よく考えてみると、まるまる一日、もしかするとそれ以上の時間が経っていて、とっくに全ての事態が終了してしまっている可能性もあったはずなのに、そんなことは全く考えなかった。

おれは身体を起こした。ベッドの上だ。頭がふらつき、目の前がモザイクがかかるように暗くなって倒れそうになる。必死で壁に手をつく。意識がふわふわして複雑なことを考えられない。周りを見渡した。誰もいない白い病室。服はここに来たときのままだ。靴はベッドの下にあった。

足をベッドの外に出す。靴を履こうとするとまた頭がふらふらする。そして何かがちくりと当たる、痛い。腕を見ると、何かがおれの腕につながっていた。上を見ると、点滴がぶら下がっている。おれは腕につながれている点滴を引っこ抜いた。

そしてやっとベッドから立ち上がったおれは、隣のベッドを見た。白い女の子が寝ている。たしか、レイ、名前か苗字かは分からないが、レイという女の子だ。白い部屋の白いベッドの白いシーツの中にいる抜けるように白い肌の女の子は、いまにもこの部屋の白に溶けて消えてしまいそうに見えた。顔を見てみると、さっきの苦痛の表情は少し和らいでいた。その代わりに人形みたいに整った顔をしていた。誰かに似ている、そう思った。おれがよく知っている人間のような気がした。

その時、地面が揺れた。はっと我に帰る。行かなきゃ。部屋を見渡してドアを見つけた。歩み寄ると、ドアは開いた。自動か。ドアの外には誰もいなかった。部屋のほうに向き直る。ドアの横に地図があった。現在地「緊急用待機病棟」。「本部」に類する字を探してみる。無い。大きい施設の名前を順番に見た。その中のひとつに「第一発令所」とあった。ここのすぐ近くだ。

顔を上げて通路の壁を見渡すと矢印とともに、「発令所」の表示が見えた。

駆け出した。

#3

「ぎゃああああああああ!!」

部屋に入った瞬間、最悪な声が耳に突き刺さった。人が断末魔に出す声。嫌いな奴が出している分には何にも思わないけれど、親しい人、特に身内には絶対に出して欲しくない声。

しかし、その声の主は間違いなく、シンジだった。

「シンジッ!?」

おれは目の前の大きなスクリーンに映る映像を見た。

スクリーンには何かに頭を貫かれた例のロボットが映っている。シンジが、乗ってるのか?

「シンジ! シンジ!?」

声で、出口近くにいた警備員がおれに気付いたようだ。駆け寄ってくる。

「君! 何をしてるんだ!」

関係ない。おれは警備員がこちらにたどり着く前に、コンピュータに向かっている別の職員のところに行き、その肩を掴んだ。職員がこっちを向き、ひっ、と小さな声で言った。そうとうひどい顔をしているらしい。知ったことじゃない。

「どうなってるんですか!? シンジは!?」

「いや、あの……」

「シンジッ!?」

目の前の小さいモニターのひとつには、頭から血のようなものを流すロボットが映っていた。おれはモニター係の肩を揺さぶった。

その間に警備員がこっちにたどり着いた、肩を強く掴まれ無理やり引き剥がされる。他の職員と同じようにカーキ色の制服を着た警備員は、真っ黒い銃を持っていた。

「何をしているんだ! ここは関係者以外立ち入り禁止だ!」

「放せぇ!」

そう答えたとき。

『モニター反応しません!パイロットの生死不明!』

スピーカーから声が聞こえた。

「せいしふめい……?」

呟いた刹那、また声が聞こえた。

『初号、完全に沈黙!』

「あ、あああ……」

おれは情けない声を上げていた。

目の前で、自分の双子の弟が殺されそうになっている。そしておれには何もできない。どうすればいい?

自分の弟が死ぬのをただ見ていなければならないのか?

そこでおれは思い出した。あのロボットは誰も乗ってないのにおれたちや、あのレイという女の子を助けてくれた。このロボットには、自動で動く機能があったはずだ。たぶん。

だから、おれは祈った。届くかなんて分からなかったが、何もせずにいるのは苦痛だった。神様に祈るのなんか数年前に母さんの墓に最後に参って以来だった。お願いだ、ロボット。シンジを助けて。

「頼む……助けてよ……」

おれは泣いていた。自分でも気付かなかった。声が出なかった。横にいる警備員が、おれを少し怪訝な顔で見た後、軽蔑したような表情になった。おれは自分が彼にどう思われたのか分からなかったし、分かろうとも思わなかった。彼がおれを、泣きながら自分の保身をのみ考える軽蔑すべき人間だと考えたとしても、そんなことがなんだというのだろう。こいつらがおれをどう思っても、どう死んでも、そして例えばおれが死んでも、おれの心は多分1ミリも動かないだろう。でも、シンジが死ぬのは嫌だ。あいつだけが死んだら、今度こそおれは、ここに独りになる。

考えてみればひどく利己的な願いだった。軽蔑されても当然かも知れない。

おれはモニターを眺めた。おれを軽蔑したような目で見た警備員は、おれに暴れる意思が無いことを悟ると、そのままにしておいた。『お前などにかまってはいられない』そう言われたように感じた。臆病者、か、いいよ、別に。その通りだから。

モニターの中では、ロボットが崩れ落ちていた。怪獣がゆっくりと近づいていく。おれは初めてその怪獣の姿をちゃんと見た。黒い身体に、骨で出来たような白い面が二枚張り付いている。片方は、半分崩れていた。首が無く、その面は、胸の部分にくっついている。そんな造形の黒い怪獣は、手から針を伸ばし、ゆっくりとロボットに近づいていた。それは現実感のかけらもない光景だった。そして、どこにも救いが無かった。正義の味方のはずのロボットは、敵の怪獣にあっさり敗北していた。だが、それは現に、たった今この時間、この場所の真上で行われているに違いない光景だった。それが嘘ならば、どれだけ嬉しかっただろう。

でも、嘘じゃない。だから。

「……頼む……立ってよ……」

おれは呟いた。さっき助けてくれたみたいに、また、おれを助けて。

その時、大きな声が響いた。

おああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………………………!!!

雄叫び。その声は獣の鳴くような雄叫びだった。狂ったように大きく、自分の前に立つもの全てを否定するような叫び。それを出しているのは、黒い怪物ではなく、崩れ落ちようとしていたロボットのほうだった。

ロボットは空に向かって咆え、そして目の前の怪獣に向かって咆えた。

『初号、再起動!』

獣になったロボットが動き出した。それはビルの間を縫うようにすり抜け、怪獣にドロップキックをかました。怪獣の攻撃を避け、張った赤いバリヤーみたいなのを溶かし、手で隙間から抉じ開け、中に入ってその身体に覆いかぶさる。怪獣を転がし、マウントポジションを取り、胸にある、赤い部品、赤い球を殴っている。たぶん、ウルトラマンのカラータイマーみたいなものなのだろう。胸にある硬い部品は、弱点と相場が決まっている。

カラータイマー。そうだ、こいつはウルトラマンだ。ガンダムなんかじゃない。狂ったように赤い球を殴り続けるロボットは、血を流し、皮膚みたいなものが覗いていた。こんなの、ロボットなんかじゃない。乗り物などはるかに越えた、想像を絶する破壊力を持つ。紫色の巨人。この人たちは何をやっているんだ? こんなものを使って。

目の前のモニターには「out of control」という表示が出ていた。アウト・オブ・コントロル……コントロール? 制御、外……暴走? おれはもう一度モニターを見た。ロボットが血だらけの手で殴り続けていたためだろう、怪獣の球には少しずつ罅が入っていた。アレが暴走? 自分の意思を持ったように的確に敵を殴り、蹴るのを「暴走」だというなら、親父はおれたちに何をさせるつもりだったのだろう?

赤い部品が割れた。その瞬間、怪獣は形を変え、ロボットを包んだ。敵キャラの最後っ屁――自爆!? ……駄目だ! シンジが中にいる。

「シンジ!」

おれは叫んだ。閃光に包まれてモニターが焼ける。一瞬遅れて衝撃が襲う。

「シンジィィ!」

閃光が収まれば、そこには赤く燃えるビルの合間で目から光を放つ、紫色の巨人がいた。

おれの意識は、そこで途切れた。

#4

僕は明るい部屋の中で目を開けた。どのくらい意識を失っていたのか分からない。ええと、何をしていたんだっけ? 父さんに呼ばれて、第3新東京市に来た。職場に呼ばれて、そこで父さんに会った。

それだけ? 頭に違和感がある。それは消えないで、どんどん大きくなる。僕は何かを忘れ去っている。何か大切なことを。何を? でも、何をなのか、思い出せない。

思い出そう。

「……ッ!!」

頭が割れるように痛い。まるで、まるで……なんなのだろう? ちょうどいい言葉を思いついたような気がするのだが、出てこない。

ここはどこなのだろう?

周りを見渡した。白い病室。僕だけしかいない。暑くもない、涼しくもない。明るいけれど、窓が無い。今がいつなのか、昼なのか夜なのか、夢の中なのか、現実なのか、生きてるのか、死んでるのか、まったく分からない。ここは外から完全に遮断されていた。

目を閉じて、考える。……駄目だ。何も出てこない。やけに、眠い……


次に目を開けたときには、目の前に兄さんがいた。

「シンジっ! シンジ!」

「……兄さん……おはよう」

少しの沈黙。何かおかしいこと、言ったかな?

「……大丈夫?」

兄さんは、心配そうな顔をして、そう訊いた。

「うん、たぶん、大丈夫だと思う。……頭が痛いけど」

兄さんは、ぎくっとしたような顔になったが、そのまま、僕に訊いた。

「何か……覚えてる?」

僕は、何かを思い出そうとした。手から離れてしまった記憶の糸を手繰り寄せる。でも、どれを引っ張っても何も出ては来ない。どうやら肝心なことにつながっている糸は記憶の奥底のところにきっちりと巻き取られてしまっているようだった。

「……何も覚えてない。ねえ、兄さん、僕は……何してたんだっけ?」

兄さんは険しい表情になった。目が上を見て、きょろきょろと動く。頭をかきむしった。その後、下を向きながら、呟くように言った。

「……ロボットに乗ったんだ」

「……!」

そうだ、僕はロボットに乗ったんだ。たしか、エバ、そういう名前だった。兄さんは怪我をして、兄さんと似てる「レイ」さんも怪我をしていて、「乗れ」って言われて、僕が乗るしかなくて、乗らなきゃダメで、それで、乗って、乗って、乗って……?

そこで記憶はぷっつりと切れていた。

「乗るまでのことは、覚えてる」

「無理、しないで。思い出さなくていいさ」

「そうよ、シンジくん。今は記憶が混乱しているの、無理して思い出さなくてもいいわ」

声が聞こえた。何か、思い出せそうな――頭が痛くなる。割れそうに、痛い。誰?


声が聞こえた。それを聞いた途端。シンジが頭を抱えてうずくまった。おれは後ろを振り返った。脳天気な顔をした女がそこにいた。

「怪我はそれほどでも無いんだって?……良かった」

「『良かった?』」

おれは脳天気な女――葛城一尉を睨んだ。葛城一尉は少し怯んだような気がした。ちらとシンジを見ると、ますます小さくなってうずくまっている。

「……シンジくん、大丈夫?」

シンジに声を掛ける。逆効果だ。しかもたぶんこの人は、自分が原因だとは気付いていない。敬語を使うのも嫌になって、おれは言った。

「あんただよ、葛城さん」

「え……?」

「あんたの声を聞いてからこうなってる。たぶんね」

「そんな……私はシンジくんのこと心配してここまで……」

葛城一尉は焦ったように喋りだした。焦るのは、心のうちに後ろ暗いことがあるからだ。自分が喋っていることと、心の内にある真実とが食い違っているから、心の内が外に出ないように心の外側を言葉で埋め尽くさなければならないのだ。

「迷惑ですよ、そんなの」

おれの即答に、表情が黒くなった。ほら、怒った。この人がここに来たのは、あくまでも自分のためであってシンジのためじゃない。自分のためにシンジを助けて欲しいと願ったおれと同じだ。おれとこの人は同類項だった。自分の本当の姿を見せられているような気がする。少し、吐き気がした。

「ちょっと!」

「止めなさい、ミサト」

ぴしゃりと声がした。聞き覚えのある声。これは、赤木博士だ。おれたちをロボットの前に誘い込んだもう一人の悪魔の使者だ。おれはそっちを見た。

「彼の言っていることは正解ね、ミサト。モニターしていたけど、確かにあなたが声を掛けてから心拍数が急上昇しているわ。恐らくは、記憶に対する拒絶反応のバリエーション。まあ、一時的なものでしょう。でも、今はここにいないほうが正解ね。シンジくんのためには」

おれは我が意を得たり、と葛城一尉を見て言った。

「ほら」

「……いいわよ、もう。分かったわ。……お大事にね、シンジ君」

葛城一尉はそのまま、振り返りもせず部屋を出て行った。赤木博士がため息をつく。妹の行儀の悪さに嘆息する姉のようだった。

「まったく、あの子は……シンジくん、目覚めたのね。痛みはない?」

「あ、はい、えっと、頭が少し痛いですけど」

シンジはおれに言ったのと同じことを赤木博士にも言った。赤木博士はポケットから端末を取り出し、書き込んだ。

「そう、過剰シンクロによる副作用ね……分かりました。痛み止めを出しておきますから、2日ほど、朝晩の食事の後に飲んでちょうだい。分かった?」

「……はい……あの」

シンジはおずおずと質問した。

「何?」

淡々と受け答える赤木博士。

「あ、ええと……その、僕、何も覚えてないんですけど、どうなったんですか? あの……『エバ』に乗って、その後って」

ここにきてやっと、赤木博士の顔に、先ほどのため息以来の表情が現われた。この人に表情が現われるのは、時計の秒針と長針が重なる瞬間のように、時々、しかもほんの一瞬で、それを見逃さないためには結構な労力を要するようだった。彼女は、これは困ったわね、というような顔をして、少し考え、おれのほうを見た。

「ねえ、お兄さん?」

「なんですか、赤木『博士』?」

博士を強調して答える。嫌味だった。だが赤木博士はまるで意に介さない。葛城一尉よりはよほどできた女の人のようだった。案外、上辺だけかもしれないけれど。

「赤木さん、で構わないわ。何なら、ミサトみたいに『リツコさん』でもいいわよ。……もっとも、君はミサトのことは、『葛城一尉』って呼んでたんだったかしら?そんな風に呼びたいなら、それでも」

「じゃあ、赤木さん」

「嬉しいわ、ミサトよりは上かしら。まあ、あなたたちにしてみれば、どちらもろくなもんじゃあないでしょうけどね」

赤木博士、いや、赤木さんはそう言って、くすくすと小さく笑った。別に嬉しそうではなかった。彼女の笑いはガキに対する嘲笑かも知れなかったが、怒る気にはならなかった。この人は笑ううちに、自分も嘲笑しているのかも知れない。そう思えたからだ。

「で、なんですか」

おれは憮然としてたずねる。赤木さんは、余裕の表情で言った。

「ああ、そうね、ごめんなさい。お兄さんは、弟くんに……こうしないと区別が付かないからね、ごめんなさいね。で、そう、弟くんに、何か話した?」

おれは答えた。

「ロボットに乗ったことまでは話しました。それでシンジが自分でそこまで思い出して、その後は言ってないです」

「そう」

というと、赤木さんは続けて、おれとシンジに言った。

「それなら、やはり無理に思い出す必要は無いわ。今はあなたの記憶は混乱しています。無理に思い出すことは、精神衛生上よくない。分かるわね? 取りあえずは、ゆっくり休んで、それから思い出せば良いわ」

「……はい」

シンジが答えた。それが一番よさそうだった。同じ言葉でも、白衣を着た人が言うと重みが違う。

「でも」

でも、おれは言った。おれたちはどこでゆっくりすればいいんだろう? ゆっくりする家なんて、おれたちにはない。

「ボクたちは、どこに行けば……いいんですか?」

「あら、捨て子なの? あなたたち」

赤木さんはあっさりそう切り返す。捨て子、冗談のつもりだろうけれど、実際似たようなものだ。

「違いますけど、行くとこ、無いですから。第2に帰っても良いんですか? ボクたちって」

帰ったって、何もないけど。

「それはとりあえず歓迎できないわね。あなたたちにはしばらく通院して貰う必要があります」


「そんなぁ……じゃあ、僕たち、どこにいけばいいんですか?」

そうだ、僕たちにはいくところが、ない。昨日? 一昨日? 分からないけれど、ここに来て、何もしていないのだ。

「そうね、それで、ミサトが来たんだけど、君のお兄さん、追い返しちゃったから」

「どういうこと……ですか?」

「本部があなたたちに専用の個室を用意します。もちろん、申請すればお父さんと住むことも……」

「……お断りします」

「嫌です」


おれたちはほぼ即答した。

「二人だけのほうが、気楽なんで。父さんも、僕たちがいないほうがいいと思うし」

シンジはそう付け足した。かなり後ろ向きだが、恐らくは事実だった。

赤木さんは、軽く息を吐くと、肩をすくめた。

「いいでしょう。……ここでミサトなら『親子なら一緒に住むのが……』とか何とか言っているところだと思うけど……あいにく、私はそういうのは、趣味じゃないの。あなたたちが本当にそうしたいなら、それで良いわ。……いいのね?」

「ありがとうございます」

おれは言った。そういうところに突っかかられると、また、話がややこしくなる。

親子だから一緒に住む、それはもっともかもしれない。だが、それは普通の家庭の話だ。おれたちは、生きてきた中で親父と一緒にいた時間の方が短いような人間なのだ。それに……おれたちが笑って暮らすには、あまりにもいろいろなことがいっぺんに起きすぎた。隠し子がいるよりひどい。おれたちには色々と考える時間が必要だった。少なくとも、おれには。

「分かりました。でも……」

赤木さんはぽつりと言った。

「世話は、焼いて貰えるうちが花かも、知れないわよ」

ふっと、赤木さんの顔が遠くを見ているような顔になった。ドアの隙間から隠し部屋の中が見えたみたいな気がした。

そしてその後、おれの方を見て、くすっと薄く笑った。ドアはまたぱたんと閉まっていた。

「父親コンプレックスね。同性の親には、誰しもコンプレックスを抱くものよ」

顔では笑いながらも、口調はクールだった。

やっぱり、この人は嫌な人だ。

「……で、その個室っていうのは、どこなんですか? 赤木『博士』?」

また笑われた。

#5

僕と兄さんは荷物をまとめ、病室を後にした。

話によると、兄さんも倒れていたらしい。僕がエバに乗る前倒れた後、途中で目を覚まして、僕を見に来た、そして、また倒れた。そしてその後、僕が起きる前にもう一度起き、そこの人とひと悶着を起こしそうになったところで、赤木さんに連絡されて僕の病室に来たらしい。

都合三回も起きるなんて、まったく、どたばたしていて兄さんらしいや。

廊下に出て、ロビーに向かった。

退院手続きは、ネルフの職員の人が代行でしていてくれていたそうだ。

手続きの終了まで少し手持ち無沙汰になった僕たちは、とりあえずロビーの椅子に並んで座った。

「はい」

「あ、ありがと」

兄さんがジュースを買ってきてくれていた。100%ジュースだった。絶品ではなかったけれど、乾いていた喉を潤すには十分だ。

二人してぼーっとテレビを見る。どのニュースが映っていたが『エバ』のことはおろか『使徒』のことについてもまったく触れられていなかった。

「どこも、言わないね。『エバ』とか『使徒』のこと」

「そりゃあ」

僕はその後に続けた。

「言えないよねぇ……」

そうだよね、もし本当でも、あんなこと放送できるはずがない。機密、ってやつだろう。たぶん。

「ねえ、あれ、ほんとにあったことなのかな?」僕は訊いた。兄さんは、少し肩をすくめた。

「ん……どうかな? でも、ほんとじゃなかったら、おれの背中が痛いのはなんでだろう?」

兄さんはおちゃらけて言ったが、よく見ると、少し背中を丸めていた。

「あ、ごめん……」

「ううん、謝らなくていいよ。てか、シンジも、頭痛いんじゃないの?」

「あ、うん、でも、僕のはそうでもないから」

少しの沈黙。

「……そっか……そういえばさ」

「……そういえばさ」

言ったのは同時だった。

「何?」

「何?」

それも同時。僕たちは、口をゆがめて笑った。言いたいことは、言うだろうことは、分かっている。

「……あの子、大丈夫かな?」

「おれが最初起きたときは、大丈夫っぽかった……と思う」

「そう、それじゃあ、いいけど」

「でも、あの子も、嘘っぽいよね。ほんとにいたのかな?」

「……さあ?」

不安になってきた。

「でも、ここに入院してるんじゃない? もしかすると」

「でも、この病院、広いし」

「……そうだね」

「……気になる?」

兄さんはそう聞いた。好奇心の表情。自分の兄相手に、そんなんじゃないよ、と言ってみても仕方ないし。

「……まあ……」

「だよね、あんな出方されりゃ、ねぇ……いっちょ、探してみる? 同じくらいの時期に運ばれたんなら、おれたちの病室の近くとか、入院してるかもしれないよ」

「え? でも……待ってなくて、いいのかな」

「ちょっとくらい大丈夫だと思うよ、別に。それに、ほら」

兄さんはカウンターを指差した。誰もいなかった。

「なんか、手際悪そうだし、この病院。まだまだかかりそうだよ」

#6

おれたちは廊下を自分たちのいた病室のほうに歩いてきた。その途中で、シンジはおれに訊いてきた。

「兄さんも、気になる? あの子」

「……まあ」

そう、おれも気になってはいた。なんでこんなに気になるんだろう。彼女を最後に見たのは「発令所」に行く前。あのときに、何か懐かしいような気がしたのだ。あの、作りものみたいな顔に、なにか、懐かしいものがあったような気がした。

「……あのさ、兄さん」

シンジが前に立って、おれの顔をじっと見た。

……あ。そうか。

「……何? シンジ?」

一応訊き返す。

「あのさ、あの子なんだけど」

おれはシンジが言いたいことをほんの一足違いで悟った。

「あー。うん。多分、シンジの言いたいこと、今、分かったと思う」

シンジはそのまま続けた。それは、伝えるというより、もう、確認だった。

「あの子、兄さんに……」

「シンジにも……」

「似てる……よね」

「……いつ、気付いたの? それ」

「兄さんがあの子――レイさん抱きすくめてたとき。両方とも、苦しそうな顔、してたから。それで。……そっちは?」

「え? 今、その珍しく真剣な顔見て、分かった。口とか、鼻とか、輪郭とか、よく見たら、似てるね、おれたち。シンジって、普段真剣な顔しないから、気付かなかった」

おれたち。今度は『レイ』も入っていた。それにしても、我ながらひどいなあ。

「……ひどいよ。同じ顔の癖に」

案の定シンジは少し悲しげにそう呟いた。おれは、青いね、という顔を見せてやった。

#7

「あなたたち……本当にこの広い病院でレイを探すつもりだったの? 自分たちだけで?」

言葉に詰まったようにそれきり黙ってしまった赤木さんを前にしておれたちは気まずくなった。おれたちは、病院の中にいるはずの「レイ」を探してみることにした。もちろん、暇つぶしだったけれど。しかし、彼女はおれたちの病室の近くには収容されておらず、おれたちは病院内をしばらくさまよい、この意外とだだっ広い病院の中で当然のように迷った。失敗、失敗。

そして、ついさっき赤木さんに見咎められ、こうしてここにいるわけである。

「いや……あの……暇だったんで……」何とか言いつくろおうとするが、もう遅い。おれたちの格付けは「世界を救った子供とその兄」から「中学生のガキ×2」へと、この瞬間をもって変更されることになった。

「まったく、ミサトといい勝負だわ……レイは他の病棟にいるのよ。今は絶対安静」

ぽつりとこぼす赤木さん。必要以上に馬鹿にされたような気がした。

「一緒にしないでください」と精一杯の抗議をした。

「あら、本人にも伝えてあげましょうか?」

「いえ、それは止めてください」

即答する。ただでさえ仲は悪い。別に仲良くなろうという気も余り起きないが、なんにせよ、嫌われないに越したことはない。

これもひとつの処世術。

「……まあ、いいわ。それは保留にしておいてあげます。とりあえず」そう言って、赤木さんは言葉を切った。はい、とシンジがその先を促す。「これが住居のカードキーです。それでこれが地図、二人だけでいい? 誰か付けましょうか?」

「あ、えーと……」

「いえ、構いません、この街も見ておきたいし」

おれが答えを考える間に、シンジがそう答えた。

「そう、ならいいわ。一応、これが私の番号でこっちがミサトの番号。持っておいてね。まあ、警備は付けているから、大丈夫だとは思うけれど」

「監視ですか……?」

「その意味もあるわね」赤木さんは表情を崩さずに言い、その後に付け加えた。

「またこんな風にいなくなられたらコトですからね。まったく、寿命が縮むわ」

うそつきは閻魔様に舌を抜かれるというけれど。この人なら閻魔様の前でもそ知らぬ顔で嘘をつき通すのではないだろうか、と思った。そして金髪の詐欺師はまた印象的に踵を返し、おれたちとは逆の方に去って行き……振り向いて、もう一言付け加えた。

「あ、そうそう、受付ロビーはそっちじゃなくてここをまっすぐよ」

あ。

「……迷子になって館内放送をかける事がないように祈るわ」

赤木さんはこめかみを押さえた。今度は本気で頭痛がするような表情をしていた。

#8

僕たちは病院を出た。この病院は、どうやら地下空間と都市の間にあるらしい。明るい地下空間の中には、外よりは幾分か涼しげな風が吹いていた。それはあくまでも人工的な風なのだろうが、それでもその風は頬に心地よかった。

それにしても、出口が地上ではなく、地下側にあるということは、この空間のことは、少なくともこの街の人にとっては周知の事実なのだろう。そうでなければ、こんな場所に病院など建てるはずがないし、出口をこんな場所に作るはずもない。しかし、僕は今まで一度としてこの次期首都にこんなところがあるなんて聞いたことが無かった。

「本物」のジオ・フロント。頭に「本物」のという言葉が着くのは、暗にそれが「本当は今目の前に現われるはずのないもの」だからだ。「本物の巨大ロボット」みたいに。しかし、ガンダムではないけれど実際に巨大ロボットはあったし、この地下空間は、否定しようもなくここにある。そしてそれを一般的な中学生である僕、いや、僕たちは聞いたことがなかった。僕が世間知らずだという可能性も否定できないけれど、それにしたって、こんなところがあれば知っているはずだ。何故だろう? そんな疑問を抱え、そして保留したまま、地下空間の側にある出口から通りを抜け、地上に出るエレベータへと向かった。

エレベータへと向かう最中、その疑問を兄さんに話した。すると「うーん……隠すにしても、これだけのものを隠し切るのは難しかったんじゃない? ここの職員だって、地中にずっと住むわけにもないんだし。……モグラじゃあるまいし」という、答えになってるんだかなってないんだかわからない答えが返ってきた。なるほど、確かにそうだ。僕らは暗い地中で生きていくにはあまりにも怖がりだ。だから、こんな風になるべく外と同じ環境を作ろうとするのだろう。外には隠すことができても、街に住んでいる人に隠し通すことはできなかった、ということか。しかし、それなら、この街の人々は相当しっかりと口を塞いでいることになる。疑問の数ばかり増えるまま、僕たちは緩やかなカーブを描いてこの空間を囲む通りを道なりに歩き続けた。

「第87エレベータ(国連病院前)」のエレベータは、すぐに見つかった。そして、それまでの道中、そして、エレベータを待つ間、僕たちは、昨日は目を背けていたこの地下都市の景色を眺めていた。

この空間は、都市というよりは、むしろ公園などに近い空間だった。大きい道に、多くの街路樹、そして、森と芝生。どこか遠い国の写真でみたことがあるような計画的な緑が敷き詰められていた。そんな人工的な緑(でも、緑が無いところよりはずっとマシだ)の向こうには、この空間を見張るようにネルフ本部が鎮座していた。この空間は、その本部を中心にして円状に広がっていた。そのすぐ近くには、ちょっとした戦艦でも浮かべられそうな大きな湖があった。

ネルフ本部のかたちはピラミッド型で、一言で言えば「およそまともな組織の建物とは思えない」と言った外観だった。そのかたちは、社会の教科書に載っていた旧香港のビルを思いださせた。風水に従って建てられた(と、写真の横の解説に書いてあった)という鋭角的な建物。もしかするとこのネルフ本部のかたちにも、何か呪術的な意味があるのかも知れない。何しろ、彼らは『使徒』と戦っているのだから。

そこまで見て、兄さんのほうを見た。通りの外側にいる兄さんは、内側にいる僕とは反対に、この空間の外側に興味を引かれたようだった。


この空間は、地下空間にも関わらず、閉塞感を全く感じさせない。というより、地下だという感覚すらほとんど受けない。それは恐らく、この空間があまりにも広いことと(たぶん、あなたが「こうだろう」と感じる感覚よりも5倍は広い)この壁や天井のせいだろう、とおれは歩きながら考えていた。隣を見ると、シンジがこの空間の中心側のほうを見ている。それならば、とおれは気になっていた壁のほうを見ることにした。この空間の壁はかなり明るい色をしていた。というより正確には光を帯びていたというほうが正しい。それは天井も同じだった。どちらも、人工的な冷たい光ではなく、もっとやわらかい光だった。どうやら、何らかの方法で外から光を取り入れているらしい。

薄く光る壁は、光っていない部分も全体に明るい色調で、向こう側に続いているような錯覚を覚えた。だが、電車が走るレールがらせん状に敷かれていることで、地下空間はその輪郭を明らかにしていた。

その軌道を注意深く追うと、それは天井に吸い込まれていた。恐らくは地下鉄や他の交通機関につながっているのだろう。ここは、秘密基地というわりには随分とオープンな場所のようだった。シンジの言うとおり、何かしら外の世界とつながっていないと、人間はおかしくなってしまうのだろう。

軌道が吸い込まれた天井を見ると、大きなビルが、まるで中世ヨーロッパの貴族の家についている瀟洒なシャンデリアみたいにぶら下がっていた。かなり珍奇な光景だった。シンジに言わせれば、不思議、ということになるかもしれない。とにかく、何本ものビルが天井からぶら下がっていた。そのうちの幾つかは、先の戦闘で本部横に落ち、奇妙な形に突き刺さって何かの前衛芸術みたいになっていたので、天井は少し寂しい感じだった。こうしておれの視線は、明るい壁から奇妙な天井をたどり、シンジと同じネルフ本部のほうに向いた。

「凄いね、ここ」

シンジが言った。

「だね」

おれは答えた。

確かにここは凄い。でも、あの父親には少し勿体無い景色だと思う。

チン、と音がして、エレベータのドアが開いた。おれは、ネルフ本部をもう一度見て、エレベータに乗り込んだ。

#9

外は雨だった。今は8月も半ばである。セカンド・インパクトで四季は消えたが、やっぱり梅雨時や、台風が来る時期など、セカンドインパクト前に雨が多かった時期には多少気候が不安定になって雨が多くなる。それは四季を無くしてしまった世界の精一杯の抵抗のようにも思えた。しかし――

「どうせならもうちょっと涼しくするとか、その辺で努力してよ……」

おれは空に向かって毒づいた。どうにも蒸し暑い。

「は?」

シンジが怪訝な顔をしておれを見た。おれは思わず言葉を口に出してしまったことに気付いた。ばかばかしい。その言葉を取り消すようにシンジに叫んだ。

「いや、なんでもない、走るよ!」

「いや、そっちじゃなくてこっち!」

シンジが慌てておれを追いかけてきた。

#10

雨の中を走り、僕たちは指定されたマンション「コンフォート17」にたどり着いた。結構な雨の中を疾走したので僕らはずぶぬれだった。ロビーでシャツを絞りながら、荷物を先に届けておいてもらってよかった、と思った。そうでなければ、僕たちはこの見知らぬ町で兄弟二人裸、のまま一夜を過ごさねばならないところだった。少し想像するとやはりぞっとする光景だった。

マンション「コンフォート17」は、ロビーがあって、駐車場がある、ありふれたマンションだった。特にシックでもなく、特にモダンでもない。特に汚くなく、特にきれいでもない。普通のマンション、という言葉だけで全てを表現できる類のマンションだった。もっともそれはセキュリティを別にすれば、だけれど。セキュリティに関して言えばこのマンションは完璧と言えた。ロビーは二重のオートロックだったし、部屋に至っては、カードロックの他にオプションで網膜認識ロックもついていた(面倒くさいので設定は管理人に言って外して貰った。駄目元だったけど、何とかなるものだ。もっとも、それすら要らないくらいの監視がついている、ということかもしれないけれど)。監視カメラも多く付いていて、ロビー近くに詰めている管理人はちゃんとカメラをチェックしていた。

「檻」

兄さんは一言、そう感想を述べた。シンプルで正確だ、と思ったけど、僕はとりあえず、安全はいいことだよ、と答えておいた。余計に気が滅入る。

僕らはずぶぬれで階段を上り(ロビーの前で管理人に睨まれ、とてもエレベータに乗る雰囲気ではなかった)指定された部屋にたどり着いた。カードロックを通し、ドアを開ける。

そこには広い部屋があった。リビングがあって、キッチンがあって、洋室があって、和室があって、トイレとそれとは別にバスルームがあって、しかも物置があった。完璧だった。中学生が二人で住むには十分すぎるほど広い。僕は今までそんな広い部屋に住んだことは当然、なかった。

「すご……」

今度も兄さんはシンプルな感想を述べた。もっとも、今回は僕もその隣で漏れなく「わあ……」と呟くことになったのだが。

暫くの沈黙の後、僕は言った。

「とりあえず……」

「とりあえず?」兄さんが訊いた。

「お風呂入ろう。風邪引く」

兄さんは頭をかいた。

「そうだね、そうしよう、確かに寒いや」

いくら年中暑いといっても、季節の変わり目には多少気温が下がったりする。そして、そんな八月の雨は僕らの身体の熱をかなり奪っていた。僕たちは玄関前においてあった荷物入りダンボールからバスタオルを取り出し、浴室に向かった。

#11

「ねえ」

僕は湯船の中から兄さんに尋ねた。頭を洗っている兄さんが、こっちを見ずに答えた。

「なに?」

「あのさ……何があったの?昨日」

「赤木さんが『無理するな』って言ってたじゃん」

「でもさ……やっぱり気になるよ」

兄さんは泡だった頭を流し始めていた。シャワーの水流が泡を押し流し、つるりとした質感の黒髪、そして僕と同じ造形の顔が現われる。兄さんは手のひらで顔をぬぐい、髪の水を切る。そしてそのまま、両の手のひらを鼻に押し付け、顔を覆った。

「いいの? かなり、キツイよ?」

兄さんはそれきり目を閉じ、しばらく何も喋らなかった。兄さんの肩に当たるシャワーの音だけが、浴室に響いた。

#12

おれはシンジより一足早く目覚めた。2度目の目覚め。その時、おれは赤木さんから「エヴァ」についての軽いレクチャー ――シンジが受けたのよりもう少し詳しいもの――を受けていた。

あの巨人は、正式名称を「人造人間エヴァンゲリオン」または、「汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン」という。その略称はEVAで、「エヴァ」であって「エバ」ではない、そうだ。「これ以上聞いたら、一般人ではいられなくなるわよ」という赤木さんの発言に従って(もっとも、あの本部の中に入ったおれたちが、これから本当にまっとうな一般人でいられるとはおれは思っていないけれど)その詳しいことについては聞かなかったが、人造人間、という名前は、あの巨人にぴったりの名だっだ。

しかし、それは大した問題ではない。

大した問題だったのは、その操縦の仕方だった。

「どうやって動かすんですか、アレ?」

「エヴァ、よ。エヴァンゲリオンは、操縦者とエヴァンゲリオンとの、A-10神経を介在したシンクロニシティによって操作します」

専門用語による説明。おれはさっきまでと同じように「で、それってどういうことなんですか」と訊いた。赤木さんは、専門用語をはしょり、単純化し、中学生のガキに分かる形にしておれに説明する。

「要するに、パイロットの神経をエヴァにつないで、動かすということよ」

「あの、エヴァの脳みそになるってことですか……。……それって!」

「そう、痛みも感じることになるわ。もちろん、シンクロ率……神経の同期している割合は100%にはならないから、完全に伝わることはないでしょうけれど」

「完全には……?」

「今回の弟くんのシンクロ率は、変動したけれど、最終的には40%と少しよ。それで、エヴァ初号は腕と頭部を損傷……そうね……腕が折られて、目を抉られたってところかし……」

そのムカつくほど冷静な言葉が終わる前に、おれは赤木さんに掴みかかっていた。そして、赤木さんを椅子から転げ落ちさせたところで、気が遠くなった。


次に目が覚めたとき、目の前には若い女の人がいた。制服を着ているので、恐らくネルフの職員なのだろうが、ショートカットの髪型と顔立ちのせいで、大学生くらいに見える。彼女はおどおどとした目で、おれを見ていた。

「……?」

「気がついたのね、碇シンジくん」

「……どちらさま……ですか?」

「ああ、ごめんなさい。私は、伊吹、伊吹マヤ。技術部所属……えと、赤木先輩の部下です、よろしく」

彼女はおずおずと手を差し出し……おれはその手を払う。彼女は泣きそうな顔になった。シンジを見てるようだった。

「あ……ごめんなさい……デリカシー……ないわよね……でもね、あの時は、あの時はね……?」

彼女は必死で説明しようとしていた。分かる。話は分かる。親父の話が正しいとするなら、地球が滅亡する緊急事態だった。その時に、多少の犠牲(つまりは、おれたち)を払おうとも、世界を救わなければならない、という発想は、たぶん、間違っていない。だが、しかし。

「犠牲にされるほうにとっては、いい迷惑ですよ……」

そうだ、犠牲にされるほうにとっては、自分の死んだ後に世界があろうがなかろうが、大した問題ではないのだ。特に、死んで欲しくないような人が誰もいないような人間にとっては。

おれの吐き捨てるような言葉を聞いて、伊吹さんは、はっとした顔になった。そして、本格的に泣き始めようとしていた。自分がひどい人間になったような気がした。そう、犠牲にされたのはおれではないのだ。犠牲になったのはシンジで、おれはそこから逃げたことになる。おれに彼女を責める資格は無いのかもしれない。いや、かも、じゃなく、絶対に、ないんだ。

そして伊吹さんが軽くしゃくり上げたとき、赤木さんが部屋に入ってきた。

「マヤ、シンジ君が覚醒したのね ?……あら、どうしたの?」

赤木さんは少し呆れたような顔をして言った。

「せ、先輩……あの、あの、私……」

対する伊吹さんの言葉は、言葉になっていなかった。赤木さんは、ちらとおれを見た。おれが目を逸らすと、少し嘆息して、伊吹さんに声を掛けた。

「いいわ。マヤ、私の部屋に戻ってちょっと休みなさい。冷蔵庫にアイスティーが入ってるから。エクレアも食べていいわよ。お疲れ様」

アイスティーにエクレアって、子供か。だが、それは気心の知れているらしい「先輩」から「後輩」への思いやりなのかもしれなかった。

「……はい。ありがとう、ございます。失礼します」

伊吹さんは鼻声でそういい残して、小走りで病室から退室した。

赤木さんはおれのほうを見て、少し嘆息した。

「まったく、あの子にも困ったものだわ……いつまでも学生気分が抜けてなくて」

世間話のような口調。後輩が泣いていることそれ自体には、それほどの心を動かされることはないようだった。彼女はただ、眩しそうに、伊吹さんの退出したドアを見ていた。

「……あの」

おれは赤木さんに声を掛けた。

「なあに?」

赤木さんはさっきのことも、目覚める前のことも、なんでもないという風な口調で答えた。その首の近くが、おれが掴みかかったせいだろう、みみず腫れができて少し赤くなっていた。

「いや、あの……」

おれがそこまで言い出したとき、赤木さんはベッドにつながれた機械を見て、電子カルテに書き込みをしながらさらりと「別に謝らなくてもいいわよ、気にしてないから」と言った。おれは出鼻を挫かれ、そのまま何も言えなくなった。今、悪者はおれだった。そんなおれを一瞥してから赤木さんはまたカルテに視線を戻し、言った。

「別に君が悪いわけじゃないわ、兄弟があんな風になれば怒っても仕方ないわよ。多少のことなら、目をつむってあげます」

そこまで言って、少し息継ぎをし、また続けた。

「でも、こっちにもこっちの事情がある。そのことに関しては、謝らないわよ、いい? ……それと、私を責めるのはいいけど、部下は私に従ってるだけなんだから、責めないであげてね。女性を泣かす男性は、関心できないわよ」

「……すいません」彼女の言う通りだった。

「よろしい。……まったく、後でなだめすかすのは、私なんだから」

赤木さんは少しため息をついた。それは軽いが、けっこう事務的で冷淡なしぐさだった。

#13

結局。おれはシンジにことのなりゆきを話した。エヴァとは何か、動かし方について、シンジは出撃したものの、攻撃に負けて意識を失い、その後エヴァが暴走して、あの『使徒』を斃したということ。もちろん、頭を貫かれたことは伏せて、だ。それは昨日の今日ではさすがに具合が悪い話題だった。シンジは、その話をゆっくりと飲み込み、ゆっくりと、なりゆきを思い出した。出撃するときにかかったG、腕をつぶされたときの痛み。おれはその話をただ聞いていた。だが、やはり頭を貫かれたことについては思い出せなかった。話し終わったとき、シンジは少し泣いていた。

「ゆっくり浸かって」

おれはそういい残して、浴室を出た。


僕は湯船につかった。僕はほとんどのことを思い出していた。出撃の恐怖、腕を握りつぶされる痛み、しかし、その後の出来事は依然として記憶のそこの見えない部分に沈んでいた。恐らく、相当にキツイことがあったのだろう。今は……それほどのどぎつい事態を受け入れるには、あまりにも疲れていた。何も、考えたくない。

僕はそう決め込んで湯船から上がり、浴室を出た。


僕が風呂から上がると、先に出ていた兄さんは、ユーズドウォッシュのジーパンに半そでのシャツ、という姿だった。オーソドックスだけれど、家着にしては暑そうな恰好だった。

「どうしたの? どこか行くの?」僕は訊いた。兄さんは多少うんざりしたような顔で答えた。

「だってさ、冷蔵庫になんも入ってないよ?」

そうだ、忘れてた。

「ああ……確かに、何も入ってないよね。何も買ってきてないもの」

「そういうこと。ご飯食べに行こうよ。街に行きゃなんとかなるでしょ?」

「ええぇ? また外出るの? せっかくシャワー浴びたのに……」

「何を女みたいなことを。じゃあメシ抜きで乗り切るつもりなの? 今日」

「兄さん、それ問題発言。でもまあ、ご飯抜きは……嫌かな……」

「じゃあ決まり、行こうよ」

「はいはい」

話は決まった。僕には反論する余地が残されていなかった。昼前から何も食べていないのは事実だったし、その状態のまま寝るほど体力的に疲れているわけでもなかった。


こうしておれたちは外へと出て。

……傘を持っていないことに気付いた。

そうだ。おれたちが来た日はピーカンの青空、傘の存在を忘れるほどのいい天気だった。そんな日にやって来たおれたちが、傘を持ってきているはずも無かった。イギリスの紳士じゃああるまいし。

「……傘……無いね……」

「……」

もはや何を言う気も起こらなかった。

ここは玄関ロビーである。おれたちは、とりあえず適当な服を着て玄関まで来たところで、傘が無い(手持ちという意味ではなく)ことに気付いたのだった。昔の歌ですか……。

「……どうする……?」

「どうしよう……?」

「諦めるしか……ないかな……」

そしておれたちが振り返った……時。

「……あれ? シンジ君たちじゃないの? 何してるの、こんなところで?」

ロビーに響く声。

大人なんだか子供なんだか分からないその声の主は、葛城一尉、その人だった。

「ええっ!? 何でこんなところにいるんだよっ!?」

「はあっ!? 何でこんなところにいるんですかぁ!?」

おれたちは微妙ながらユニゾンを果たした。

「……いや……だって私、ここの住人だもの……」

呆然と答える葛城一尉。その手にはしっかりと「コンフォート17 かいらんばん」が握られていた。

#14

それは確かに考えられる事態だった。ただいま監視付きのおれたち。そんな子供が2人で暮らせるようなマンション、裏がない方がおかしかった。それが可能なこのマンションが、ネルフの官舎であってもなんらおかしくはない、というのはごく自然に分かること。そして、もしそうなら、葛城一尉が住んでてもまったくもっておかしくはない、それもごく自然に納得できること。おかしいのは、そういうことを全く考えずやって来た中学生のガキ二人だった。

「やーねー、どうしたの? 2人して廊下でぼーっとしちゃってぇ」

能天気(に見える)に話し掛ける葛城一尉。

どうしようか。

言ってしまおうか。

『ごはんください』の言葉を。

だが、昼間あそこまでのことを言ってしまって、食べ物を恵んでくれ、とは非常に言いにくい。というか、昼間あれだけのことを言われた子供に対してこれだけの軽い口調ができるのもまたアレだ、と思った。

そうか。おれは分からなかったピースが嵌ったような感覚を覚えた。葛城一尉と赤木さんの共通項がいまいちわからなったが、こういうところで、二人は似ているのだ。

二人とも、外からは見えないものがある。

おれたちみたいな子供から見れば、大人の女性はみんなそう、と言ってしまえばそれまでなのだが。

「いや、あの……」

おれがそんなことを考えたときに、シンジが話し始めた。どうやら昼のように頭が痛くなることはないようだった。

しかし、葛城一尉はその瞬間、にやっと笑った。何か思いついたらしい。シンジのかぼそい言葉を軽やかに無視して葛城一尉は喋り始めた。

「なーに? 黙りこくっちゃって。あ、アレでしょう、司れ……お父さんが今日は出張で、ご飯に困ってるんでしょ? いいわよいいわよ、引っ越し祝いしたげるから。私の部屋にいらっしゃいな」

ラッキーなんだか災難なんだか。いつの間にか、おれたちのいない間におれたちの夕食の予定はきっちりと埋まってしまった。どうやら、葛城一尉はおれたちが親父と同居すると思っているらしいけれど。まったく、この人は鋭いんだか鈍いんだか分からない。まあいい、この人はあんまり好きじゃないが、背に腹は変えられない。ここはご相伴に預かるとするか……と、葛城一尉に引きずられていくシンジを見ながら、おれは心の中で呟いていた。


しかし、おれのそんな期待はおれの目の前でぱったりと閉じられたドアのお陰であっさりと砕かれた。

おれたちはエレベータに乗り、自室のある12階にたどり着いた。葛城邸は、おれたちの部屋の真横だった。おれたちの横の部屋が葛城邸だったことに(そしてそれに自分たちが気付いていなかったことに)呆れるおれ。にこやかにシンジを引きずって行く葛城一尉。葛城邸に引きずり込まれるシンジ。そして――おれの前でぱったりと閉じられるドア。

ばたん。

……え? 締め出しを食らってしまった?

おれは混乱した。ドアの中からは、何だか切羽詰った「ええ……?」という声が聞こえた。中では何が起こっているのか。そしておれはどうすればいいのだろうか。

「……あのー……」

おれはとりあえず問いかけてみることにした。中で珍妙な声をあげているシンジも気になるところではあるが、この状況のほうが重要だ。

問いかけると、気だるげな返事がドア越しに返ってきた。

「あにー?」

「……ボク……外ですか……?」

「あによー。アンタあれだけ言っておいて私に食べもの恵んで貰うつもりー? ざけんじゃないっつのよ」

ドア越しに篭った声が聞こえる。

軽く切れた。

「何だよ! ついて来てみりゃこれ!? 謝りも無しに! おれは何も悪いこと言ってないぞ! だいたいあんたたちが……」

「そうよ」

ドアの向こうから声が聞こえた。シンジの悲鳴は遠くへと遠ざかっていた。

「君の弟をエヴァに乗せるために私は汚いことをした。それは分かってる。あなたたちを傷つけた。それも分かってる。誤魔化せるもんじゃないわね。そういう性格なのよ。感情的でさ……リツコ……あのパツキンいたでしょ? あの子とかは、そういうの上手いんだけどねぇ。軍人失格なんだぁ、私。だから今、ここにいるんだけどね」

おれは何も言えなかった。

「だからー……割り切れないのよ。だから。ごめんね。シンジくん、昨日のことも、今日のことも」

「……」

おれは自分がとても小さい人間になったような気がした。おれは……何をしていたのか? あの人たちが泥をかぶっていたときに、おれは泥をかぶらずに安全な場所から何をしていた? 昨日だってそう、今日だってそうだ。何も出来ないくせに。何もする気がないくせに。おれは、いつも安全な場所から文句を言って、憎まれ口を叩いていただけ。最低じゃないか。そんな思いが、頭をめぐる。

そんなおれの気持ちを見透かしたのか、葛城一尉はひとこと、言った。

「大丈夫、シンジ君が悪いわけじゃないわ……シンジ君は、自分の弟を思った。それはとても素晴らしいことなのよ?」

そう言うと、葛城一尉はドアを開けた。

「いらっしゃい、シンジくん!」

ドアの向こうには、美しい笑みで微笑む葛城一尉がいた。

今度はおれも、少し笑い――そのまま凍った。

優しく微笑む葛城一尉。その後ろに見えたのは……

隆々と連なるゴミの山と、その中で立ちすくみ声をなくした我が弟、碇シンジだった。前言撤回。泥をかぶっていたんじゃなくて、泥の中に住んでるんだ、この人は。なんだよこれ。口がぽかんと開いていくのが分かる。ぶっちゃけ、ありえない。

そしておれの立場は再び葛城一尉のやや上(たぶん)、赤木さんのやや下くらいに踊りだす。

「……なんですか、これ」

「今は、ちょーっち散らかってるけど気にしないでねー」

これが……『ちょっち』だと……? 『……このアマ……』おれは心の中で叫んだ。

そして悪い夢でも見たような顔で立ちすくんでいたシンジが、おれの方を見た。

一瞬、見つめあう。

やることは、決まっていた。

シンジが、酷然とした声を上げた。

「兄さん、ゴミ袋」

「はい」

「え? 何? どうしたのよ?」

こうなったら、従うしかない。さすがにおれも限界だった。ここはどう見ても、人間の住むところではない。鳥小屋といい勝負だ。


その後、僕たちは葛城邸の中を小1時間かけて、全ての床がちゃんと見えるようになるまで掃除することになった。葛城さんは「お祝いの買出しよん」などと言って、逃げた。僕はもう葛城さんに対してそれほど嫌な感情はもっていなかった。この人は、仕事に関しては冷酷なところがあるけど、悪い人じゃないんだろう、きっと。

でも。

でも、恐らく、彼女には僕たちの本当のところは分からないんだろうなあ。僕はそう感じていた。

それは、誰しもそうなのかもしれない。誰でも、他人の本当のところは分からない。しかし、あの人は、僕たちの歪んだところ、その欠片に気付くことも、多分無いだろう。

だって、兄さんと僕の間にあるのは、兄弟愛とかそういうモノだけではないから。そういうものだけで見る人は、僕たちを見間違うことになる。


それはとてもとても単純なこと。

僕は、兄さんがいなければ、きっと無理だ。

そして、兄さんも、僕が居なければ、きっと無理だ。

生きていくことが。


だから、兄さんが怒ったのは、単に僕のためというわけじゃない。


でも、そういうところを理解しては、もらえないんだろうなぁ、きっと。そんなことを、黒くとぐろを巻いている惣菜スパゲッティーの成れの果てをゴミ袋に突っ込みながら、おぼろげに考えていた。


雨は、まだ止まないようだった。

#15

「……すっごーい……」

葛城さんは帰るなり、買い物袋を床に――さっき僕たちが掃除して発掘した床に――取り落とし、目を丸くして言った。

僕たちは、葛城さんが逃亡してからずっと、淡々と掃除を行った。ゴミをゴミ箱へ、そしてゴミ袋へ、本を棚へ、布団を押入れへ、服をクローゼットへ……そういう、当たり前のことを当たり前にやった。当たり前のことを当たり前にやることほど難しいものはない、という。だが、当たり前のことを当たり前にやら無かった結果が、これだ。まったく。僕たちは、床にモップ(こんなところにもモップがあるなんて奇跡だ)を掛け、目に付くところの雑巾がけをした。その結果、見えないところはともかくとして、葛城邸は兄さんいわく「鳥小屋」から人間の土地へと見事な復活を果たしていた。

「そりゃそうですよ。っていうか、この広い家を何であれだけ汚せるんですか」

「いや……あはははははは、まあいいじゃないの。食べよ食べよ。今日は特注の中華セットよん」

苦笑いをする葛城さん。見ると、葛城さんの取り落とした袋の後ろには、大きなやかもちがあった。どこから持ってきたんだそんなもの、と思わず僕はつっこみたくなった。

何はともあれ、僕たちの歓迎会(ここの「歓迎」が僕たちにとって喜ぶべきものかは分からないけれど)はやっと始まった。

#16

「それではぁっ!これからよろしくっ!」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いしまーす」


「いただきます」


こうして、三者三様の挨拶の言葉と「いただきます」の斉唱から、僕たちの引越し祝いは始まった。僕は、とりあえず唐揚げに手を出した。ん、おいしい。スープを飲むと、これもかなりうまい。チャーハンはしっかりパラッとしているし、これは、かなりいい店のものかも知れない。隣では、凄い勢いでラーメンをがっついている兄さんがいた。僕もそうだけど、よっぽどお腹が空いていたらしい。

そんな欠食児童2名をよそに、葛城さんは、台所へと消えた。そして、ビールを腕いっぱいに抱えて帰ってきた。その顔は満面の笑みをたたえていた。

缶を片手でさっと空け、グラスにも注がず、飲む。750ml缶をものの数秒で一気に飲み干した。うわあ……

「っっっっッカー! やっぱ鬱陶しい雨の日にはビールよね!」

葛城さんは、かなりいい顔でそう言った。ビールの宣伝みたいな顔をしていた。葛城さんは、既にネルフの制服を脱ぎ、下はジーンズの短パン、上はノースリーブという、なんとも目のやり場に困る恰好をしている。その人が大きな身振りでおいしがるものだから、視線が行って仕方が無い。いくら中学生だからって、性欲くらいあるんだけど。

そして、そんな風にどぎまぎしてる僕の横で、葛城さんの尻馬に乗っておもむろにビールを飲みだす人が一人。

「……ふう」

「ってシンジ君?」

尻馬に乗っていた男が、案の定という感じに馬から落ちた、どすん。

「君……何、飲んでんの?」

「……へ?……いや、まあ、未成年とかそういう堅いことは……」

そりゃあ、怒られるだろう。兄さんも無茶をする。……さっき葛城さんと何か話していたけれど、その仕返しだか照れ隠しだろうか。

僕はそんな風にだいたいのあたりをつけ、兄さんが怒られるのも自業自得と決め込み放って置くことにした。しかし、葛城さんの口から出た言葉は通り一遍等な大人の言葉ではなかった。

「そうじゃなくて、私のなけなしの給料で買ったビール勝手に飲むなってのよ」

「ああ……そういうこと……」

僕は呆れてしまい、マンガのごとく、がくっと椅子からずり落ちそうになった。怒りどころが違うだろうに。

それに。雨の日どころか、晴れの日にも曇りの日にも飲まないと消費しきれないようなビールを冷蔵庫の中に溜め込んでいるくせに、一缶くらいでけちけちと。もっとも、あれだけのビールをすぐさま消費してしまうような人なら、よっぽどの酒飲みか、立派なアル中だし、怒られてもそれはそれで仕方ないか……っと、そろそろ止めないとまずいかな。


「……兄さん、兄さん、悪いよ」

ささやくようにシンジが何か言っている。おれは無言でその先を促した。こういうときにはすっとぼけたことを言ってくれるのが彼だ。

「あれだけ買おうと思ったらホントに給料全部注ぎ込まないと変えないだろうから……きっと本当に日々の糧なんだよ……」

「なんだよ、いいでしょちょっとくらい。あんなに一人で飲むわけないじゃないか。どーせ彼氏のぶ……」

おれも面白くなって言い返す。もちろん、こんな部屋に住む人に男の影もあろうはずが……と、少しはしゃぎ過ぎたようだ。おれは押し黙った。

「こんな部屋に住んでて彼氏なんてできるの?」

いや、もういい。気付け……目の前に凄い形相の葛城一尉がいることに。

「あんたたち……ずけずけ言ってくれるじゃないの……」

「あ……」

シンジもようやく目の前に身を乗り出している、巨乳の鬼に気が付いたようだ。タンクトップの隙間から胸が見えそうで見えない。

「兄はともかく弟まで……あんたたち、可愛げないわね……特に弟!?」

「は、はいぃ……」

かなりの形相、どうやら、シンジの最後の一言がいけなかったらしい。小さくなって「す、すいません……」などと薄給のサラリーマンよろしく頭を下げているシンジの横で、おれは舌を出してから小さく呟いた。

「そりゃあ」

ね。あの父親の息子だから。

それに、何となくこういうときの距離が上手く掴めない。だから取り合えずはしゃいでしまう。やはりガキだ、ということなのだろうか。それとも、おれたちが団欒とかそういうものから離れすぎていたせいだろうか。

そんなことを考えているおれの横で、シンジは一見葛城一尉の握りつぶした缶(ちなみにスチール製だ)を見て、目を丸くしている。どうやらこっちは素で言っていたようだ……怖い奴。

しかし、素にしろわざとにしろ、空気が読めないという点では代わりがない。いや、読みすぎ、か。おれたちは2人とも変に空気ばかり気にして、目立たないようにとか、ノリが悪い奴と思われないように、とかそういうことに集中しているから、結局肝心なことに気付けなくなってしまうのだ。そしてたまの団欒も楽しめなくなる。シンジもおれも、随分と損な性格に育ったものだ。

しかし……と、おれは目の前を見た。そんな思索は、目の前のお方には無意味のようだった。

目の前の葛城一尉は、さっきの勢いはどこへやら、今度は椅子に座って足を抱え「いいんだ……私なんか……」などといじけていらっしゃる。豪快な飲みっぷりに惑わされていたが、どうやらそれほど酒に強いというわけでもないらしい。それだけなら可愛い。だが、いかんせん右手で未だに小さくなりつつある缶(数秒前までは缶であったもの)が存在感を放ちすぎている。その姿は、かなり怖い。


目の前でいじけている葛城さんを見ながら、僕たちは暫くじっと身を硬くしていた。

マズった、そう思った。僕は周りが見えなくて、すぐにわけのわからないことをしてしまう。ダメなところだ。もっとも、僕はダメじゃないところを探すほうが難しいような人間だけれど。

とにかく、ほとぼりが冷めるまでじっとしていよう。僕はそう決め込んで、黙った。目の前では、葛城さんが相変わらず飲む缶飲む缶と間断なく潰しながら、中華をむさぼり食っている……怖ろしい。隣を見ると、横にいる兄さんも同じ結論に達したようだ。

静かな室内に響く中華スープをすする音……いいかげん腹が音を立てそうなそのとき、葛城さんは突如身を乗り出し、僕たちに顔を近づけた。僕たち2人を交互に見る。その息はだいぶ酒臭い。だが、その目は潤み、恰好とあいまってかなりセクシーな感じだった。僕たちは2人そろって生唾を飲んだ。そして、頓狂な声が部屋の中に響いた。

「どおしたのおっ!? 二人ともっ! さっきから全然食べてないじゃない!」

突然の声におどろいた兄さんは、しどろもどろにしか喋れていない。こっちも少し酔ってるのか?

「あ、いやえ、あ、はい、あ、その、はい」

そんな兄さんに、葛城さんは机の上に大きく身を乗り出して……というか、机の上に乗って「ダぁメよっ! 好き嫌いしちゃあ!」とひとこと。どうやら結構出来上がって、さっきのことは記憶の彼方らしい。

そして、兄さんはといえば「は、はあ……」生返事を返した。その意識はどうやら、葛城さんの言葉よりも、目の前にある胸に行っているようだ。そして、もう一言、返した。

「えーと……慣れてないもんで……」

それは僕たちにとっては当然「酒に」ではなく「団欒に」という意味だったが(もちろん、だからって酒に慣れてるってことではないし、もしかしたら「胸に」かも知れなかったが)意外にもその意味を葛城さんは正確に理解していた。聞き返しもせず、こう切り替えした。

「うー……そおねえ……いいわ! 飲みなさい! 許す! 明日まだ学校ないしっ!」

「……ほんとですか?」

兄さんの目が少し光る。まったく。

しかし、葛城さんのあの対応、本当に酔っ払ってるのか? 少し自身がなくなってきた。そんな風に考え込んでしまう僕をよそに話は進む。僕の目の前にも缶が差し出された。葛城さんの顔がずずいっと近くなる。

「何難しい顔してんの? シンちゃん? さあ、飲みましょ。まだ向こうに中華残ってるけど、とりあえず、ね?」

僕の呼び名は、いつの間にやら「シンちゃん」に変わっていた。そして、そう僕を呼んだ葛城さんの顔は、優しかった。

ああ、やっぱり、この人は酔ったふりをして僕たちを慰めてくれているんだ……え?

僕の目の前には、葛城さんの顔がさっきよりもさらに至近距離で近づいていた。肩を左手で掴まれた。右手にはビール、左手には僕の右肩、という恰好で葛城さんは机の上空30センチで静止した。

キスされる? 僕は少し期待したが、よく考えると、いや、これは、まさか。葛城さんの顔はすっかり蒼くなっている。隣を見ると、兄さんはそそくさと、まだ生き残っている食器他を携え食卓から退避するところだった。……裏切り者。

「――――――――!!」

僕のシャツには――もう、言うまでもないだろう。あーあー。なすがままになって、ふと、机の向こうを見ると、いつの間にか750mlの缶(だったもの)がたっぷり10缶は空いていた。

どんなペースで呑むんですか、葛城さん。

#17

「うわ、くさい……汚れるから近づかないでよ」

兄さん、それはあんまりだと思うんだけど。

……と、言うわけで、兄さんはとりあえずそこらを片付け、僕は、体を流しに風呂に入ることになった。

「うぅ、せっかく……お風呂、入ったのに……」

もちろん、葛城さんは新聞紙の上に転がしてある。本当は、便所にでも突っ込んでおきたいところだけれど、後々掃除をする羽目になるのは見えていたので諦めた。

……と、言うわけで、今僕はバスルームの前にいる。

女の人の家の浴室に入るのは初めてだったが、目の前でリバースされた後では、どきどきもしない。

それはいい、別に。

問題は、今、僕の目の前にいる生物だった。それは、黒くて、ずんぐりむっくりしていた。そして……くちばしがあった。

「くわっ」

……は?

しかもこちらに向かって片手を挙げて挨拶をしている。しかも、肩にタオルをかけて。まさに典型的な風呂上りの姿だ。それをやっているのが――――でさえなければ。

「……う?」

「くわっ」

「うええええええええええ!?」

「なんだよー、シンジまで吐いたのー?」

浴室に向かいながら、そうのんきに言う兄さんの悲鳴が聞こえたのは、その数秒後だった。

「かっ、かっ葛城さん!」

僕は走りながら叫んだ。

「……うん?」

あ、起きてる。

「あ、あ、ぺぺぺぺぺぺぺぺええええ」

「……はあ? なに? どったの? ぺえ?」

葛城さんはいつのまにかまた呑みだしていた。

「ぺ、ぺんぎん!」

兄さんが僕の代わりに叫んだ。すると、葛城さんは『ああそんなこと』という感じでひらひらと手を振った。

「ああ『彼』ねー。うちの同居人のペンペンくんよー、仲良くね」

「同居……人?」

僕は呆然と言い返した。またこともなげに答える葛城さん。

「そ。……それよりさ。前、隠したほうがいいんじゃないの?」

「え?」

……ああ!

「まあ、お姉さんはオトナだしい、今さらそれくらいで驚かないけど、さ」


「あーあ……」

おれのその言葉を聞く前に、シンジは真っ赤になって浴室に退散していた。残ったのは、おれと、葛城一尉。

「シンちゃんってば……意外とオトナなのねえ」

葛城一尉は懲りずにつっこんだ。しみじみと呟きつつビールを呑む。『オトナ』その言葉が何を指すかは大体分かる。酔っ払いにシモネタは基本だ。

「ボクもですけど」

おれは話をつなげるためにとりあえずそんなことを言ってみた。笑って終わり、になれば楽なのだが。

「……そりゃあ……」

ジトっと見られる。年の功か、シンジより10倍は嫌な感じだ。

「なんですか? その眼は」

「……姿かたち全部そっくりで、そこだけ違うんじゃ浮かばれないわよねぇ、あはは」

けらけらと笑う葛城一尉。やっぱり、彼女はだいぶ酔っている。おれは嘆息して言った。

「……やめません? シモの話」

すると、葛城一尉はおれのほうを見て、それから風呂の方をちらりと見て、それからゆっくりと呟いた。

「……そうね、とりあえず……」

そうか、そう来ますか。シンジには悪いけど、自業自得という奴だ。おれは葛城一尉の発言を復唱した。

「とりあえず」

言うことは、決まっている。

「いただきまーす」

二回目の唱和。おれは迷わずフカヒレスープに手を出した。葛城一尉より一瞬だけ速かった。おれは葛城一尉ににやりと笑いかけた。葛城一尉は、あっ、という顔をしてから、おれを軽く睨んで言った。

「いい根性してんじゃないのよ」

「おかげさまで」

そんなやり取りを交えつつ時間は過ぎていく。こんな食事をするのは、初めてだった。

「あの」

おれはフカヒレを口に含みながら、葛城さんに言った。

「あにー?」

答える葛城一尉。その調子は、さっきドア越しに聞いた調子と変わらなかった。

「あの……ありがとう、ございます」

葛城一尉はにやっと笑った。

「子供がナマ言ってるんじゃないわよ。さ、飲め」


結局、その日は、朝まで飲んでいた。

もちろん。

風呂から上がったシンジが、料理がなくなってしまった部屋を見て、やけくそになって酒を飲んだのは、言うまでもない。

Neon Genesis Evangelion L
EPISODE: 2 the caught “Ultra-man”end.
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