Neon Genesis Evangelion L

第参話:鳴らない、電話
EPISODE: 3 He said “This is my turn”

#1

音が、聴こえる。その音は、耳の中で徐々に大きくなっていく。そしていつの間にか頭全体を支配する。僕はその音から逃げ回っている。走って、走って、でもその音からは逃れられない。僕はいつの間にか紫の服を着ていた。周りのものが小さくなって行く。何かが顔に被さっているような感じ。気付くと、碇シンジはいなくなり、エヴァがそこにいた。目の前には、この前の使徒#3が立ちはだかっている。またか、と僕――エヴァはため息をつく。さあ、やるなら一思いにやってくれ。腕からなんてことは言わず、また――頭を、頭を一撃で貫いて。

#3はその通りに動く。小走りで近づき、僕の頭を掴み、持ち上げる。手が光る、肘から、前腕にかけて使徒の腕を貫いている槍が、また僕を襲おうとしている。

ガツン。目が痛い。でもまだ大丈夫。

ガツン。目に罅が入った。でもまだ大丈夫。

ドン! 頭を貫通した。そのまま後ろに吹っ飛ばされる。

……やっと楽になれる。

しかし、突然僕はいなくなる。それまで僕だったエヴァの中に、別の人が帰ってくる。その人は、僕を押しのけて、エヴァに居座る。

エヴァは動いた。エヴァが僕だったときよりも軽やかに飛び、殴り、蹴る。そして#3は――倒された。

『ねえ、もういいじゃないか』

僕がそう告げると、エヴァは止まる。ゆっくりと歩き出す。顔を覆っていた仮面が落ちた。横の高層ビルにその顔が映る。つるんとした頭、その目に当たるところに、何かがうごめいている。まるで、出口を探しているみたいに。

突如、ぱっくりと皮膚が裂ける。僕はひっ、と悲鳴を上げる。僕はコクピットにいる。耳の中の音は絶えず鳴り続けている。ぱっくりと避けた皮膚から、白い皮のようなものに包まれた丸い球が顔を出す。それは、少しうごめくと、その皮を裂いて現れた。そこにあったのは、緑色の、眼――

#2

「うわあああああああ!」

僕は叫びと共に目を覚ました。服が汗でびっしょりと濡れていた。

ひとつずつ思い出す。

ここはどこだ。――葛城家。

何故? ――昨日酔っ払ってそのまま寝てしまった。

今のは? ――夢。

本当にあったこと? ――分からない。

この音は何? ――電話。電話か。……いけない。電話だ。

僕は周りを見回した。僕の隣には兄さんが、そしてその隣には葛城さんがいた。二人とも、床の上にぶっ倒れている。そして、葛城さんの向こうに、鳴り続ける電話はあった。僕はのそのそと電話のところへと歩き進んだ。兄さんや葛城さんには一向に起きる気配が無かった。そして僕も、酷く頭が重く、喉が渇いていた。体のきしみを誤魔化しながら、電話へと急ぐ。

しばらく歩き、やっと電話のところへと辿りついたときにも、いまだ電話は途切れずに鳴り続けていた。電話の向こうで待っている、根気のある人はいったい誰だろう。

僕は電話を取った。

「は、はい、碇ですけど……」

「シンジ……くん? あら?」

受話器から、聞き覚えのある女の人の声がした。頭に響いて痛い。そして、僕はまた思い出した。ここは葛城邸だ。

「あ、えっと、その、あの、葛城、です」

電話の向こうで空気が凍りついた。

「……弟くんね。そこに、ミサト……葛城一尉はいる?」

「あ、えっ、はい……寝て……ますけど……」

「叩き起こして頂戴」

ものすごく怖ろしい声だった。なんと言ったらいいのか。強いて言えば拳銃、いや、注射針か、そんなものを突きつけられたような感じだ。昨日の葛城さんも怖かったが、こちらも凄みがあって怖い。僕は恐る恐る葛城さんを揺さぶり、受話器を近づけた。

「か、葛城さん! 起きてください、葛城……さん!」

「……ん……なーに……?」

「で、電話です……」

僕は説明するのも面倒くさくなったので、事実だけを述べて電話を渡した。葛城さんは、半分眠りの中で受話器を取った。

「ふあい……葛城れす……」

その次の言葉は、受話器から離れていた僕にもはっきりと聴こえた。

「何が『ふぁい葛城れす』よ! いったい今何時だと思ってんのあなたがいないお陰で予定がずるずる遅れてんのよそれに何? そこにシンジ君がいるってどういうことよあなたもうすぐ三十になるって歳になって中学生を部屋に連れ込むなんて何考えてるのいったいどういう思考回路してるのよ一回『MAGI』にスキャンさせてみようかしら! ちょっと! 聴いてるの! か! つ! ら! ぎ! い! ち! い!」

赤木さんはめちゃめちゃ怒っているようだった。葛城さんの目が一瞬で開き、時計を見る。僕も時計を見た。九時四十七分。休日の朝にはぴったりだが、今日はあいにく火曜日だ。普通、会社員は仕事場にいる時間。葛城一尉も、その例には漏れないようだった。顔が青くなる。恐る恐る、受話器の向こうの、ものすごい形相であろう赤木さんに話しかける。

「い、いやーちょっと飲みすぎてさ、いや、あのね? 昨日シンちゃんたちの引っ越し祝いをね? それで盛り上がっちゃってさあ、つい。襲うとかそんなのはないんだから! そこまで飢えてないわよあたし!」

しどろもどろ、しかしその言葉は感情を逆撫でする効果しかないようだった。

「そんなことが理由になるとでも思ってるの!? 社会人の誇りとかそういうものはどこに行っちゃったのよ? っていうかその口ぶり、もしかしてシンジ君たちにアルコール飲ませたんじゃないでしょうね? ……今すぐ本部に来なさい。三十分以内に。さもなくばあなたのID登録抹消して二度と本部に入れなくしてあ」

既に相当受話器から顔を離していた葛城さんは、ついに受話器を下ろした。二人とも、やることが強引だ。

葛城さんは僕のほうを見た。受付のお姉さんがするような嘘臭い笑みを浮かべていた。

「おはよう」

「おはよう……ございます」

そして一呼吸。嵐の前の静けさ、という奴なのか。

「あああ! 何やってんのよあたしったら! はしゃぎすぎた! 起きて! 起きて! 殺される!」

どういう関係だ、それは。僕はそう突っ込みかけたが、仕方がない。のっそりと兄さんに近づき、体を揺さぶった。

「起きて、朝だよ。赤木さんに殺されるんだって」

兄さんは薄く目を開けて僕を見た。そして一言呟いた。

「寝ぼけるなよ、シンジ」

#3

葛城さんがシャワーを浴びて慌しく出て行った後、僕たちは悲惨な部屋の中に取り残されていた。頭が痛いし、部屋は汚い。状況はそれほど良いとは言えない。

僕達は一通り部屋の片付けをすますと、町に出ることにした。

「……今日こそ、食材買わないとね」

もっともだ。さすがに2日続けて葛城さんにお世話になるわけにもいかないし、お世話をするのもちょっとごめんだ。

そんなわけで、僕たちはマンションを出て、大通りに沿って街へと歩きだした。一昨昨日は車に乗って疾走しただけ、そして昨日は雨だった。というわけで、僕たちがこの街の姿をちゃんと見るのは今日が初めてだということになる。

歩いて見て分かったことだが、この街は区画がとてもはっきりしている。町の中心部には、縦横5ブロックに渡って高層ビル群が十字型に伸び、その外側には、もっと背の低い、昔ながらの建物が集まっている。恐らくは、中心部のビル群が、ジオ・フロントから見えたシャンデリア・ビルなのだろう。そうなると、この街のビルは見た目よりもずっと長いか、上下に可動式、ということになる。どっちにしろ、かなり不思議だ。それに、この道に並ぶ高層ビルの幾つかには、あのエヴァが使う武器とか、コンセント(何とかケーブルと言うそうだが)などが収容されているのだ。もしやこの街には「1階はショッピングモール、2階オフィス、3階には武器庫がございます」なんて説明をするエレベータ係とか、「このビルは地下に沈みます」などと声を掛けたりする店員がいるのかも知れない、とかふと思った。

「……? 何ニヤニヤしてるの?」

不意に兄さんが僕に言った。兄さんの方を見ると、ちょっと引いている。まいったな。

とりあえず話を変えるために「大したことじゃないよ」と僕は努めて冷静に言い「表通りには生活用品を売ってる店はないみたいだ。ね」と返してみた。

表通りにはスーパーなど、生活に密着した店が殆ど無い。表通りにはおしゃれな喫茶店や、女性用の服屋、ビジネス用のビルなどなど、中学生の男2人ではまず行かないような店が並んでいた。さすがは次期首都の中心街、と僕は独りごちた。中学生は当然学校に行っているはずの時間に、こういうところをうろうろする、というのがそもそも少し気が引けるところなのに、この場違いっぷりといったらどうしようもない。スーツを着て歩くビジネスマンの人並みの中で、ジーンズにTシャツの僕たちは完全に浮いていた。

そんな要素もあってか、僕はうまく話題を変えることに成功したらしい。横に居ないのに気付いて後ろを見ると、兄さんは立ち止まって「そうだな……」などと悩んでいた。

僕は振り向いて「横道に入ってみない? このまま歩いてたら、街、出ちゃうよ」と提案した。確かに、もうかなり歩いている。このまま歩き続けても、目的の店は見つかりそうに無い。

兄さんも特に異論は無いようだった。

「そうしよう、暑いし、早く買い物済ませて帰ろう」

そう、今日は確かに暑かった。僕らが生まれてこのかたこの日本にはずっと夏が続いているが、それにしても今日は特別に暑い。そして、アスファルトに囲まれた都心部ではなおさら暑い。さらに、この街の盆地状の構造がそれに拍車を掛ける。めっちゃくちゃ暑い。これで晴れていればまだ気もまぎれるだろうが、あいにく今日は雲がどんより空を覆っている。暑い上にうっとうしい。最悪だった。僕は兄さんの言葉にうなずき、横道へと入った。


「……正解、かな」

横道を抜けた先は、表通りとは打って変わって生活感のある空間だった。そこにはスーパーがあり、パン屋があり、アパートが沢山あり、ホームセンターがあったりする。この狭い街には、人々の日常があるベッド・タウンと、首都機能を担うオフィス街が一本の路地を隔てて共存している。それだけならまだ良くある都会の街の風景だが、実は、この街には武器庫と要塞と秘密基地と巨大ロボット、そして超巨大な高深度地下空間まで共存している。

これは一種の奇跡だなあ、と思いながらブロックを隔てる道を渡った。


そのしばらく後、僕らはこの「下町エリア」で、食材や調味料、トイレットペーパーなど(それでも、マンションの部屋に食器や料理器具が備え付けられていたお陰で、買うものはかなり少なくて済んだけれど)あらかたの買い物をすました。これで、今夜はまともな夕食にありつけそう。

「これからどうする?」

僕は兄さんに訊いた。

「帰るでしょ」

兄さんは即答した。

「だよねぇ……で、どうやったら帰れるんだっけ?」

「え? 覚えてないの? ……って、どこ、ここ?」

またか。行き当たりばったりにここまで来て買い物に夢中になっていたせいで、買い物の前にはかすかに覚えていた帰り道がすっかり分からなくなっていた。全く、買い物に夢中、なんて、主夫か何かみたいだ。

僕は大げさにため息をついた。兄さんは空を見上げて、やはり大げさにため息をついた。

仕方なく、僕らは大体の見当をつけ、見知らぬ街をとぼとぼと歩きだした。僕らは自分たちの行き当たりばったりさを呪った。しかし、そんなことをしても事態は何ら好転しない。空は先ほどと変わらずどんよりと曇り、方角も分からない。表通りには、方角を知らせる表示などが多くあったが、下町エリアにはそんなものはない。両手にもつ荷物が手に食い込む。

「重い……」。

思わず愚痴がこぼれる。

「我慢して」

兄さんは、そうは言いつつも自分もかなり辛そうな顔をしていた。僕は声を絞り出した。

「だっ……てさ……もう30分も歩いてるのにマンション見えないよ……?」

そもそも近づいているのか遠のいているのかさえ分からない。軟弱な僕たちには、さすがにこれ以上の強行軍は不可能だった。兄さんはシャツの袖で汗を拭きながら少し逡巡し、言った。

「そうだなあ……それじゃあ、訊いてみる? そのへんの人に」

「え……いいよ……」

そう言って、僕は顔を伏せた。人見知りをしている場合ではないのだけれど、やっぱりちょっと気が引ける。ここは見知らぬ街で、ここの人たちは見知らぬ人々だ。よく考えたら「先生」のところに居たときも「見知った人」などほとんどいなかったのだから、これはただの言いわけなのかもしれないけれど。

兄さんは何も言わなかった。きっと、どうしようもないな、という顔をして僕を見ているのだろう。これだから、根暗とか言われてしまうのだろうか……また、少し情けなくなる。

沈黙が続く。しかし、ずっとこうしているわけにも行かない。僕は息を吸って、顔を上げた。

「ねえ、兄……あれ?」

そこに我が兄、碇シンジの姿は無く……既に通行人を捕まえに奔走していた。何のことはない、先の発言は、同意を求めるというよりも、決定事項を伝えるためのものだったようだ。

僕は急いでそこへ――人が捕まらなくて既にちょっと苛ついているらしい兄さんのところへと向かった。

しかし、僕が踏み出そうとした直前、何か申し合わせでもしたように僕は後ろから肩を叩かれた。

「……碇シンジ君だね?」

#4

どうやら、僕は名前を呼ばれたようだ。しかも、フルネームで。

兄さんの方に注意が向いていてよく聞こえなかったが、確かに僕の名前を読んだ。誰だろう?振り向いた方がいいのか、それともこのまま振りきって兄さんのところへと向かったほうが良いのか。見知らぬ声、見知らぬ人。

「あの……碇君?」

また、名前を呼ばれた。今度は女の人の声。僕を碇君と呼ぶ女の人、誰だろう。葛城さんも、赤木さんも、僕らのことは名前で呼んでいたはずだ。

と、すると。

まさか、「レイ」さん? 僕は、一昨昨日に出会った、僕らに良く似た女の子を思い出していた。いや、そんなことは。でも、もしかすると。

「はい?」

覚悟を決めて振り向いた。そこには。

黒服の男が立っていた。うわ。……当てが外れた。そもそも、よく考えると「レイ」さんは僕らの名前を知らないのだ。僕は女の人に声を掛けられて浮かれていたことを自覚して少し恥ずかしくなった。

僕は黒服の男の人に訊いた。

「……え……あの、どちらさま……ですか?」

「警備部の者です」

黒服の男の人は淀みも抑揚も無い声で答えた。アナウンサーの発するような声だった。

そうか、監視の人か。僕はやっと自体を了解した。昨日赤木さんは、兄さんの「監視ですか」の言葉を否定していなかったのだ。そうだとすれば、当然考えられることだった。

「何の御用ですか?」

僕は横にいる黒服の女の人に、さらに訊いた。僕はとにかくこの人たちの目的を知ろうとしていた。親切で道を教えてくれようとしているのか、何か他に理由があるのか、それだけでも訊いておかないといけない。この状況はマズい。僕はともかく、兄さんは、こんな威圧的な人を見たら、逆に反発しかねない……ほら、来た。

僕がさっきまで兄さんが孤軍奮闘していた街角の方をちらと見ると、兄さんは既にこちらにやってこようとしていた。僕の対応も遅きに失してしまったようだ。兄さんの顔が嫌な感じに歪んでいる。さっきから善意の人が捕まらないのもあるのか、機嫌は結構悪そうだった。

「誰?」

兄さんの「対敵用」のぞんざいな言葉が黒服そのいちとそのにに降りかかる。

「ネルフ警備部の者です」

そして、警備部の黒服さんの、中学生の敵意など歯牙にもかけないような冷静な言葉が言葉が火に油を注ぐ。

「だからその監視員の方が何の用ですか?」

「君たちは……」

兄さんの言葉に促され、黒服そのには目的を話し始めた。しかし、皆まで言わないうちに兄さんが口を挟む。

「道ですか? いいです、もう分かりましたから」

何でもいいから早く切り上げたい。そんな口調だ。足元を見ると、つま先がコツコツ地面を叩いていた。

「行こ、シンジ」

兄さんは我慢しきれないという感じで、僕の袋を奪ってつかつかと歩きだした。だが、兄さんの前には別の黒服が立ちはだかっていた。兄さんはからかうような口調――その実、彼がこういう口調になるときにはかなり機嫌が悪いのだが――で黒服そのさんにぞんざいな言葉をかけた。

「もう用はないでしょ? お使い終わり。ほら、どいてください」

しかしこちらの黒服も、そんな敵意を軽く受け流して、答えた。

「赤木博士が君たちを呼び出したが、連絡が取れなかったので迎えにきた」

……あ。そういえば僕ら、勝手に出てきて、携帯も持って出なかったんだっけ。

僕は昨日の夕方から自分の部屋に置きっぱなしの携帯電話を思った。しかし、何の感慨も浮かばなかった。僕たちは今まで携帯電話を持ったことが無かったし、自分に電話が掛かってくる、ということがいまいち想像できない。携帯は、掛けるものでも、掛かってくるものではない。そう思っていた。

「それでわざわざお出迎えですか」

兄さんはまた憎まれ口を叩く。

僕は黒服そのいちに向きなおした。

「あの、すいません、荷物、あるんですけど?」

荷物を持ちながら歩くわけにもいかない。だが、黒服の人は表情を変えることもなく、僕らを車に乗せると、ネルフへと車を走らせた。

「こちらの都合はお構いなし、か……さすが正義の秘密結社」

僕は小さな声で毒づいた。隣で口もきかない兄さんに火をつけぬよう、小さく。

車は街角から地下に入り、僕らは地面の下、人類最後の砦へと「また」連行されることになった。

#5

おれたちは黒服そのいち、そのにに連行されて、赤木さんの前にいた。正確には、赤木さんはコンソールに向かったままで、黒服を見ようともしていなかった。

「赤木博士、チルドレンをお連れしました」

黒服2はおれたちに言ったのと同じ、表情の無い声で言った。

「御苦労様、下がっていいわよ、ありがとう」

赤木さんも無表情な声で簡潔に答えた。もちろん、こちらを見ぬままで。この2人の会話は、まるで機械の通信みたいだ。黒服達が下がると、赤木さんはコンソールに浮かんでいた仮想ディスプレイを閉じ、振り向きながら言った。……気にしてなかったけど、凄い技術だな。

「さて、貴方達を呼び出したのは……」

赤木さんは振り返っておれたちを見、一瞬言葉に詰まった。

「どうしたの? それ」

「食材です。見て分かりませんか?」

おれたちが「連行」されたのは買い物途中だったから、当然山のような荷物を持ち歩く羽目になったのだった。黒服は持つのを手伝ってくれもしなかったので、細くなったナイロン袋の持ち手が食い込んだ手が真っ赤だ。シンジが何か頼んでいたが、無視されていた。そのため道中おれはひたすらムカついていたが、シンジの方はこの期に及んでも「生ものもあるし、速めに保存したいんだけど……」などとおっとりしたことを述べていた。

赤木さんに皮肉を言うおれを見かねたのか、シンジが足りない言葉を補った。

「買い物のときにそのまま、来たので……えっと、すいません」

謝るなよ。

シンジの言葉を聞き、赤木さんは頭を押さえて「まったく、融通の利かない奴らね」とこぼした。そして、助け舟を出した。自分が呼んだのだから、当然といえば当然ではあるけど。


「いいわ、こっちの部屋に入れておいてあげる。ここなら、野菜室くらいの温度はあるから大丈夫でしょう」

「助かります」

敬語とは裏腹に憮然として言い放って、兄さんはそのまま荷物を運び始めた。

僕のほうはといえば、冷蔵庫? と一瞬いぶかしんでいたが、すぐにその真実を知ることになった。

赤木さんが開いたドア、その先は……巨大なコンピュータルームだった。冷房がガンガンに効いていて、ドアのこっちにまで冷気が流れ込んでくる。

「これって……」

さすがの兄さんも、言いよどんだ。つい、強がってない「素」が出る。

赤木さんは薄く笑った。

「これ? 『MAGI』よ。この組織を管轄する、スーパーコンピュータ。人類の要の、そのまた要ね。まあ、これは補助システムだけど」

コンピュータールームには、テレビのドキュメンタリーでも見たことが無い、巨大なコンピュータの群れがあった。暗くて寒い空間に、大きな影と、おれンジの光が薄暗く光る。常にどこかしらの光が点滅し、どこかしらで駆動音が鳴る。それはさながら一種の生き物みたいに見えた。

これが、補助システムだって?

#6

とりあえず食材をコンピュータルームに詰め、おれとシンジ、そして赤木さんはミーティングルームへと向かった。そこには、朝以来に会う葛城一尉がいた。

「やっほう」

葛城一尉は言った。

「……苦労しましたよ、掃除」

おれは愚痴った。赤木さんは、おれと葛城一尉がまともに話せているのを見て、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにクールないつもの表情に戻った。

そして、おれたちは会議用の長机を囲み、席についた。先の部屋もそうだったが、クーラーが効きすぎて、寒い。税金の無駄遣いだ、とおれは独りごちた。

少しの沈黙の後、葛城一尉が口を開いた。

「えー、碇兄弟、いや、碇シンジくんたち、えーっと……」

葛城一尉がどうでもいいことで悩んでいる。

「碇君たち、とかで……」

シンジの助け舟で葛城一尉はようやくまともに喋り始めた……もっとも、それもおれたちに対して「おっちょこちょいな女」とかそういうのを見せるための演技かも知れない。この人は、悪い人ではないが、見た目よりは食えない人だ、というのは、昨日分かったことだ。

「あー、うん、それでは碇君たち、今日集まって貰ったのは他でもありません」

「ゲロのお詫びですか?」

俺は少し茶化した。葛城一尉の顔に、今度は本気で縦線が入り、赤木さんが頭を抱える。

「あなた、そんなことしてたの? ……もしかしてと思ってはいたけれど……馬鹿なの?」

「いや……あは」

笑って誤魔化す葛城一尉、その姿に、赤木さんは結局自分で説明する決心をしたようだった。

「もう、いいわ」 そう言って、おれたちを見た。

「弟くん、そしてお兄さん、私たちが今日あなたたちを呼び出したのは、これからのことを話すためよ」

「これから……」シンジが呟く。

来たか……くるとは思ってたけど。おれたちと彼女たちは、所詮それで繋がっている。表面的に打ち解けても、結局はこの問題を避けては通れない。これから……彼女たちはおれたちに何をさせるつもりなのか。

「これからって、何を、させるつもりなんですか? おれたちに」

「それは」と赤木さんが言いかけたが、葛城一尉がそれを押しとどめた。

「あたしが言うわ。碇シンジ両名、私たちネルフは、あなたに引き続きパイロットとしてのエヴァンゲリオン初号機搭乗を依頼します」

「……それって……これからも……アレに乗って戦えってことですか?」

「そうなるわね」

嫌な沈黙。部屋に掛かっている、絵に描いたような未来風の建物の中で少し場違いな掛け時計の音だけが響く。チッ、チッ、チッ、チッ。その重苦しい沈黙に耐え切れず言葉を出す。

「……ど、どうせ嫌だって言っても無理やり乗せるんでしょう?」

どもながらも、おれはもう一度茶化した。しかし、それはある意味で本心だった。一昨昨日の葛城一尉の言葉は、やはり、忘れられない。一応、打ち解けた、しかし、さすがにこれは忘れられない。いざとなれば、彼女は何が何でもおれたちを乗せるだろうということは、分かりきっていた。

おれが訊くと、葛城さんは「いや……」と何か言おうとしたが、それをさえぎって赤木さんはさらりと言った。

「どちらか片方にはね。貴方達どちらかさえ搭乗してくれればこちらとしては構わないわ」

さすがに、忌憚が無い。おれには好ましいが、人間としては多分こっちの方がダメっぽい。おれは赤木さんに向き直り、軽く鼻で笑って(もちろん強がりだ)言った。

「なんとしても断る、と言ったら?」

「……予備ということでこの街には居てもらうことになるわね、無論、監視付きでね?」


「リツコ?」

「……そんな……」

僕と葛城さんが同時に喋った。しかし、葛城さんはそれっきり黙ると、言葉を発しなかった。

「……どのみち、拘束される事には変わりないじゃないですか……」僕は呟いていた。

そうか、結局、ネルフは僕たちを手放す気なんかさらさらないのだ。僕は、そのことに今さら気がついた。横では「やっぱりか……」という呟きが聴こえる。どうやら、兄さんは、そのへんをもっと早くから予想していたようだ。

それでも逃げられなかったのは……僕が、いたからか。

僕は言った。

「そこまで決まってるんなら……何言っても、意味、ないじゃないですか……」

それが正直な気持ちだった。僕たちには何もできない。逃げたら、また、捨てられた子供に戻るだけだ。やることなんか、何もない。帰る場所も、ない。なら、言われたことを、やるだけだ。

「そうね、ごめんなさい」

赤木さんは、前にも増して冷淡な声で言った。

「失礼します」

僕たちは、そう言って、部屋を出た。兄さんは、結局最後は何も喋ることはなかった。


僕たちはとぼとぼとさっき来た廊下を歩いた。

「大変なことになっちゃったね……」

「うん……」

兄さんの返事は上の空だった。

「ごめん、僕が……」

「言わないで、頼むから」

兄さんは僕の言葉をさえぎった。どうやら、僕は何か触れられたくないところに無神経に踏み込んだらしかった。

「ごめん……」

「いいってば」

「でも」

「うるさい! ……ごめん」

会話にならない。仕方なく、僕は話題を変えることにした。

「それにしても……こっちで住むなら、お金、要るね。父さんとは別に住むんだし」

兄さんは、しかし何も答えてはくれなかった。そのまま、とぼとぼと無言のまま僕らは歩いた。しかし、何かが引っかかる。お金……。少し考えあぐねた後、肝心なことを忘れていたことに、僕は気付いた。

「ちょっと」

「ん? ……おい! どうしたの?」

僕は兄さんをひっぱって部屋に戻った。兄さんは目をぱちくりさせている。

「葛城さん!」

突然名前を呼ばれた葛城さんは、少し呆けたような顔で僕を見た。焦ったように訊く。

「……何!? シンジくん!?」

僕は言った。

「いや、あの……こういう仕事って、大体どのくらいお給料って、もらえるものなんですか?」


おれは、その言葉に思わず吹いた。向こうを見ると、葛城一尉も吹いていた。

おれはてっきり、シンジがやっぱり断る、とかそういうことを想像していたのだ。もしかすると、シンジはあの戦闘についてまだ良く分かっていないのかもしれない。いや、現実感が無いのか、考えないようにしているのか、そのどちらかだろう、とおれは思った。シンジが発した質問からは、そんな雰囲気が伝わってきた。いろんなことを言い訳にして、人に言われたことを、従うべきものとして当然のように受け入れる。それはシンジの処世術だ。

そんな風にちょっと引いて会話を聞くおれを尻目に、会話は続く。

「えーっと、そうね……リツコ?」

葛城一尉は赤木さんに助けを求めた。

「わかるわけないじゃない、私は軍人じゃないもの」と赤木さんはばっさりと切り返す。

その言葉を聞いて、葛城一尉は肩を落とし、あごに手を当てて、言った。

「そうねぇ……普通軍人ってまあ、一般職よりは高いけどそうでもないんだけどお、実際に戦闘状態に入ってるし、エヴァの操縦ってのはある種の特殊技能みたいだし……ね? リツコ?」

葛城一尉は、シンジの当然のことではあるけれど状況から言えば突拍子もない言葉に意気を削がれてしまったのか、すっかり日常の調子に戻って言った。また赤木さんに振る。しかし今回はエヴァに関することなので、妥当な質問である。

「そうね、そうなるわね。今のところ、あなたたち以外で動かせる可能性があるのは……ドイツに居る『二番目の子供達(セカンドチルドレン)』とレイくらいね」

「でしょう? そうなると、それの追加もつくし、さっき言った戦闘状態での危険手当もつくし……あなたたちは未成年だから、慰謝料? そういう類の手当ても出るんじゃないかしら?」

「ここがそこまで人情味のある組織かは知らないけど……でも、かなりの金額はもらえるんじゃないかしら」

「で、具体的にそれはどのぐらいなんですか?」

「そうね、もしかすると、というか確実に、一回の出撃であたしたちを越えるわね」

「ええっ!?」

葛城一尉の言葉にシンジが声を上げた。

「……しかも、年収をね」

「えええっ!?」

赤木さんの補足に、黙っていたおれもさすがに声を出した。二人して口をぱくぱくさせて馬鹿みたいだ。

そんなおれたちを見て、赤木さんが水を刺す。

「ただ、貴方達の場合未成年だから、成年になるまでは制限が付くと思うけれど」

「あ、え、はい……」

「はい……マジかよ……」

確かに、命を掛けるかもしれないことを考えると、安いのかもしれないが、もの凄い額ではある。そんなことを考えていると、葛城一尉が能天気に「なんだったらおねーさんが代わりに管理してあげてもいいわよ〜」などと言った。赤木さんが即座にツッこむ。

「あなたに任せたら『国がひとつ傾く』わよ……」

赤木さんは誰かのモノマネをしているようだったが、おれたちには誰だか分からなかった。モノマネとは、少し意外な一面だ。しかし、そのかいも無く、葛城一尉も分かっていないらしい。

「なによお、それ」

「碇司令が『委員会』の方々に言われたお小言。上手く戦わないと、給料どころか借金を背負うことになるわよ、ネルフは」

「ええ……だって」

「それに……今月分の給料、まだ残ってるの?あなた」

「あ、あははははは」

赤木さんは嘆息した。

「あっきれた。どうせ全部酒代につぎ込んだんでしょう」

「まあ、その通りなんだけど」

「その分じゃあ、自分の部下に養って貰う日も遠くないわね」

「何よ」

その後も暫くの間「ミサトさんとリツコさんの楽しい漫談」は続いた。

「あの、僕たち、もう帰りますんで」

暫く後、シンジが困った顔で、そう切り出した。すっかりさっきの緊迫した雰囲気はなくなっていた。

「あ、はいはい、それじゃあ、また連絡するわ、家、隣だしね」

「ええ……」

そういって、おれたちは部屋を後にした。

出際に、赤木さんが言った。

「あ、そうそう」

おれは振り向いた。

「なんですか?」

「袋、忘れないでね。マヤ……伊吹二尉に部屋を開けてもらって頂戴」

……忘れてた。

「ちゃんと持って帰ります」

「ああ、それと」と 今度は葛城一尉。

「……なんですか?」

シンジも振り返った。

「来週から、学校に編入してもらうことになるから、よろしくね」

パシュ。

ドアが閉まった。

思えば、またおれたちは、同じ間違いを犯していた。場の雰囲気に流され、いつの間にか誰かの決めたレールの上を走っている。

何よりも。

おれたちは、エヴァに乗るということがどういう意味を持っているのか、ということが何にも分かっていなかったのだ。それはシンジだけでは無くおれも同じだった。

この見知らぬ街に来て、状況が分かっていないおれたちには、それは仕方が無いことではあったにしても。

おれたちは、もっと、真面目に考えておくべきだったのだ。

いろいろなことを。


自分に何が出来て、何をするべきか。何が欲しくて、何をしたいのかを。

#7

「ん……」

煩い。それに眩しい。朝、だな。

「……い……ん! ……いさ……! 兄さん!」

聞き覚えのある声。たっぷり数十秒はまどろんで、おれは答えた。

「はい?」

「……やっと起きた……。ほら、支度して!」

そうして、おれは揺り動かされる動きで薄ぼんやりとしたまどろみの中から呼び覚まされた。ここはどこだ? などと悠長なことを考えてみる。

ここは……おれの家。この前からのおれたちの家だ。そして……今は、時計によれば、朝八時。たぶん、木曜……木曜?

「えーっと……今日って、木曜?」

とりあえず訊いてみる。

「そうだよ! 昨日訓練だったからって寝ぼけないでよ」

そうか、今日は木曜。おれたちは昨日はみっちり夜の十一時半まで訓練を受けた。へとへとになって家にたどり着いたのが夜中の一時で、寝たのが二時過ぎ、そして……

「朝……かぁ」

「あの……兄さん?」

おれはふと横を見た。シンジがいる。黒いズボンに、白いシャツを着て、鞄を持っている。典型的な中学生の制服

「……やばい! 学校遅れる、服、服!」

まあ、そこまで学校に行きたいというわけでもないが、遅れると、色々面倒くさい。もっとも、こっちの学校では、先生にもネルフの手が回っているのか、この二週間、何回か今日のように寝坊して学校に遅れても、怒られることもなかった。余計に気に障るのは気のせいか。

「……はい。もう、頼むよほんとに。朝食は作って置いてあるし、ゴミももう出したよ。……僕、先に行くよ?」

「ごめん。ありがとう!」

おれはそう答え……シンジはぱたぱたとおれの部屋を出て行った。慌しくシンジは家を出て行って、家にはおれ一人が残された。

「ん……」

おれは伸びをして朝食にかけてあるラップを捲った。


最近、おれたちはこうやって別行動を取ることが多い。その理由は……おれが適当に寝坊するということももちろんひとつの理由ではあるが、最も大きな理由はおれとシンジの立場の違いという奴である。

ネルフとの契約の後、おれはエヴァンゲリオン初号機(全くややこしい名前だ)の予備パイロット、シンジはエヴァンゲリオン初号機の正規パイロットとして登録された。その理由はと言えば、おれたちに動かせるエヴァンゲリオンが1機しかないこと、が一応の理由であるが、もっと大きな理由は……恐らく。

「おれが、信用ならないからか」

そういうことだろうとおれは思っている。

とにかく、おれがサブでシンジがメインである。もちろんパイロットであるということには変わりないが、訓練の量が今のところはかなり違う。座学や格闘訓練など、エヴァに搭乗しない訓練ではその時間は変わることがない。しかし、エヴァに乗って行なう訓練に関してはシンジの方がずっと長時間の拘束を余儀なくされていた。それにも関わらず、当番の時はちゃんとおれより早く起きるとは大したものだと思う。おれはそんなことをしみじみと思いながら、シンジの作ってくれた朝飯(今日はシンジの当番である)を掻き込んでいく。

遅れることはなんとも思わないけれど、それで特別扱いされるのも、癪だ。おれは予備だっていうのに。

飯を掻きこんで、最後の仕上げに味噌汁を飲み干しお茶を一杯飲むと、おれは鞄を持って玄関へと向かった。まだ越してきて二週間と少し、まったく殺風景な玄関には運動靴がひとそろい。おれは靴を履くと、つま先をけりながら玄関の外に出た。

「っし、鍵も閉めた」

鍵がしまっていることを確認しておれは学校へと歩き出した。今から歩けば、ホームルームが終わって1時間目が始まる少し前か、一時間目の始まった少し後くらいには教室につくことが出来るだろう。

「行って来ます」

大丈夫、大丈夫、いつもと同じだ。何も変わってやしない。おれは、大丈夫。

#8

一時間目が始まる寸前になって、やっと兄さんは教室に姿を現した。「よっ、碇の兄貴」なんて言葉が掛かる。兄さんは適当な挨拶を返してすっと席に着き、ただ前を見る。僕もその顔をただ見ていた。

ここに来て数週間、兄さんはこの街にいづらそうにしている。ここ数日は学校でもいづらそうだ。

この数週間、色々なことがあった。この街に来て、訓練が始まって、二人の生活が始まって、学校に来た。この街は慣れてしまえば前の街と変わらず、可もなく不可もない、という街だった。旧市街には、生活に密着した店が多くある。二人での生活も、最初は戸惑うこともあったが、慣れればどうということはない。前の街でも、家事はある程度は交替で行なっていたのだ。

問題は、ネルフと学校だ。

兄さんは、自分を責めているように僕には思える。僕が正規のパイロットになり、自分が予備として登録されたことで、責任を押し付けてしまったと思っているのかもしれない。いろいろなところで遠慮されてるような気がする。最近「何かして」と頼まれることが極端に少なくなった。そしてやけに優しい。すぐ謝る。端的に言って気持ち悪い。まるで自分を見ているみたいだ。そりゃあ、自分を責めてれば楽なのかも知れないけど、こっちは、しんどい。そしてそんな風に遠慮するのと同時に、僕が当番の朝は今日のように寝坊をしたりする。このギャップは何? 結構悩んだけれど、どちらかといえば、単に学校に行きたくない、というよりは僕と一緒に学校に行くことを避けるためのものではないかと僕は思い始めていた。その理由は……当然「学校」だ。僕たちのもう一つの難題である。

最近、僕たちがエヴァのパイロットであることがクラスにばれた。ほんの、二、三日前のことだ。そのせいで、僕の周りには頼みもしないのにやけに人が集まってくるようになってしまった。今の生活は……僕にとっては、かなり苦痛だ。多くの人の中にいても独りなのが分かる。誰も僕自身には興味なんか無い。みんなが興味があるのは、巨大ロボットのパイロットにまつわる物語とかそういうドラマチックな奴で、僕みたいな、連れてこられて乗せられた人間なんかじゃない。要するに僕はゲームか何かのキャラクターとかそういうものとして扱われていた。みんなクラスメイトが疎開していく不安から逃げたいだけなんだろう。僕はかっこうのネタを献上したわけだ。仕方が無いから、最近の僕は赤木さんと葛城さんに「ここまでは話しても良い(秘密組織なのに)」と言われている「やや公式情報」だけをほんの少しだけ話して、後は笑って誤魔化していた。イメージを壊さないように、愛想よく、僕は「碇シンジ」を演じていた。薄っぺらい友達に、薄っぺらい笑顔を向ける。疲れる。ずっとそうやって生きてきたんだろう? 今までと同じじゃないか? と問われれば、確かにそうだ、と答えるしかないだろうけれど、やっぱりこういうのは疲れるのだ。

そう、最近僕は疲れている。僕の最近の行動範囲は家とネルフと学校の三角形という何とも味気の無いものだ。ネルフに登録されてから二週間、日がな一日「シンクロテスト」とかいう神経接続テストや、銃撃訓練、格闘訓練、座学などに励んでいる。そんな毎日の中、段々ストレスがたまってきているのが、自分でも分かる。兄さんの遠慮が鼻に付く。赤木さんの言葉が勘に触る。葛城さんの態度が気に入らない。ここ二、三日は特にそうだ。自分がパイロットとしてしか期待されていないことが、酷く重く圧し掛かり始めていた。今は、堅く心を閉じて耐えているけれど、何かきっかけがあれば爆発するかも知れないな。そう思う。そんな風に考えること自体、既に僕という人間がほころび始めている証かも知れない。でも、何も出来ない。逃げちゃ駄目だ。けど、結局逃げてる。僕だって、兄さんだって。「そうだ。兄さんだって、結局、逃げてるだけなんだ、僕から」そんな思考が頭をよぎる。でも、そんな風に考えるのだって、結局、逃げてるんだ。だめだ。考えるのを止めよう。

僕は考えるのを止めると、また、薄っぺらい笑いを顔に貼り付けた。


教室に入ると、よく知らない奴に、「よっ、碇の兄貴」と声を掛けられた。最近はこう呼ばれることが多い。一瞬、叩き殺してやろうかな、とも思う。けれど同時に、別に気にすることでもないか、とも思う。呼び名など、どうでもいいといえばどうでもいいことだ。おれはふとシンジの方を見た。笑っている。楽しそう、ではない。

サブとメイン、この違いは、本当は学校では意味の無いことのはずだった。しかし、数日前にパイロットであることがばれて、今ではその違いはおれたちに直接影響を及ぼしている。おれとシンジが最近別行動を取る、もう一つの理由である。

もちろん、最初から自分がパイロットであるということを宣伝して回ったわけではない。

最初の日、おれたちは教師に呼ばれ、並んで教室に入った。これまで同じクラスになることなど1回も無かったにも関わらず、である。おれたちは仕方が無いので、黒板のまん中に「碇シンジ」と縦に書いて、その右と左に立った。そして言った。

「碇シンジです。えっと、よろしく、お願いします。あの、その、弟、です」

「碇シンジです。えっと、よろしく。……兄です」

いつものことだが、人前で喋るのは、何か緊張する。二人して同じところでどもった。馬鹿か。

そんな風に気のない紹介が終わると、最後におれは一言「親父がちょっと変な人なんで、名前は同じです。適当に呼び分けてください」と付け加えた。

それだけだった。疎開が始まる中での転入生に最初は興味津々と言った感じのクラスの人間も、おれたちが殆ど喋らないことを知ると、急速に関心を失っていった。前の学校では、教師にたてついたりしていたおれも、こっちの学校では、シンジと同じようにおとなしく振舞っていた。今でも十分面倒くさいのに、これ以上面倒くさくなるのは避けたかった。

当然ながら、このクラスの人間はおれたちがあのエヴァのパイロットであるということは知らないはずだった。そのことは恐らくは一級の機密だったし、このクラスには、この前ついに探せなかった「レイ」その人がいた。綾波レイ。葛城一尉に訊いたところによると相当のクールビューティーであるらしい彼女は、包帯ぐるぐるにギプスに制服、というどこかの変態ビデオに出てきそうな恰好で、それでも我冠せずという感じで窓の外を眺めていた。おれたちの登場にも、全く心を動かされることがない、という調子だ。その感じは、その姿とあいまって涼やかというより少し冷淡な感じに見えた。実際、クラスの中に入ってみてみて分かったことだが、クラスの中でも浮いているらしかった。人が減るとそれが余計目立つ。結局、この第二印象のせいで、おれたちは暫く、予想した彼女の出生について確かめるどころか、彼女と話をすることも出来なかった。

とはいえ、浮いていようが仲間外れだろうが、それ自体は特に問題ではない。むしろ楽でいい。おれたちは学校ではエヴァのことは関係なく、狙い通りにクラスに適当に溶け込んでいけるはずだった。

しかし、そうは問屋がおろさなかった。数日前、誰だか知らないけど、どこで聞いたか知らないがシンジに向かって「君があのロボットのパイロットなの?」と尋ねたのだ。シンジはどう答えるべきか逡巡していたが、その沈黙でシンジがパイロットであるということはまる分かりであった。おれはため息をついたけれど、もう後の祭りだった。少し後ろのシンジの席を振り返ると、教室中の人間がシンジの机に集まっていた。おれの周りにも何人かが集まってきた。

「お兄さんもパイロットなの?」

今日の朝、おれと目が合って、ついっ、っと目を逸らした女子が、おれの目を今度はまっすぐ見つめてそう訊いた。世の中なんて、こんなものか、などとジジイのようなことを考えながら、おれは「おれは予備だけどね。この前乗ったのはアイツだよ」と取りあえず答えていた。


後で、おれはそれをひどく後悔することになった。


この日から、おれたちをめぐる状況は一変した。正確には、一変したのは殆どが、シンジの周りの状況であったが。まず、シンジの携帯には新たに40人の番号とメールアドレスが登録されることになった(空席が目立つこのクラスのほとんど、というわけだ)。そして同時に、新たに四十人の携帯電話に、シンジの携帯の番号とアドレスが登録されることになった。もっとも、そのうち友達と言える人間が何人いるかは怪しいところだった。正体がばれてこのかた、いまだにシンジの携帯にいたずら以外の電話やメールが来ているのを見たことが無い。もちろんおれにもない。当たり前だけれど。携帯の使用目的は、もっぱら葛城一尉からの訓練呼び出し。着信発信履歴、過去十件全部、ネルフ・葛城ミサト。それは、おれたちにはそこにしか居場所がないということを雄弁に表していた。そんな日々。ここ数日、おれたちは殆ど会話も無くすごしていた。つまらない訓練、つまらない学校、つまらない家。悪夢だ。

#9

気のない一限が終わり、気だるい二限が終わり、人間を眠りに誘う睡眠誘導装置のような三限目が終わった。前の学校のほうがちょっとカリキュラムが進んでいたのか、既習の範囲ばっかりで全くやる気が起きない。数学の先生に至っては、頼まれもしないのにセカンドインパクトの昔話で授業を潰してくれた。南極に大質量隕石が落下、世界は大混乱に……みんな知ってる。もっとも、おれとシンジがロボットのパイロットをするようなご時勢だから、案外それも嘘かも。浅い眠りの中でそんなことを思った。

そんなこんなで、おれはこの三時間、完全に眠りこけていた。

そして三限が終わった後、誰かがそんなおれの肩を叩いた。顔を上げると見たことのない男子が1人。誰? 頭は短髪、何故か黒ジャージ、ウチのクラスの奴では多分ない。見たことがない。……ああ、運動部か。朝練か何かなんだ、よくやるなあ、えらい。クラブの勧誘か何かかな? パイロットだからって体力とかそんな無いよ、おれ。サブだし。まあ、メインのシンジ君もやっぱり体力無いけどね。

言い訳にでも使えるかもしれないとそんなことを取り留めも無く考えていると、ジャージの彼は荒っぽい調子でおれに話しかけてきた。

「……自分、碇シンジか?」

「そうだけど」

おれはなるべく、そっけない感じがするように答えた。恐らくはこれが1番楽だ、というのがここ3日のおれの研究成果だった。下手に隠せば聞き出そうとする。元気に言えば話が分かる奴だとさらに聞き出そうとする。こんな手合いには、さも当然、それがどうしたの、という答えをすればそれ以上のことを訊こうとはしてこない。

とはいえ、おれにこの手の質問が来ることは余り無いので、これはシンジの対応を見ての結論だった。もっとも、この男はおれを「エヴァ正規パイロット・碇シンジ」と思っているようだから、やっとおれも研究成果を試すときが来た、というものだ。正直、最近暇だった。こいつで試してみるのも、悪くない。おれは、そんな風に軽く考えて、碇シンジになりきることにした。いや、おれだって碇シンジには違いないのだけど。

しかし、相手の反応はおれの予想外だった。

「お前が碇シンジか、ちょお顔貸せ」

短髪ジャージは相変わらず荒っぽい関西弁でそう言った。なんだこいつ。最近シンジに近づく奴なんて、にわかファンみたいな奴ばっかりなのに。

なんだ、つまんないの。

「あ、違う違う。たぶん『その』シンジはあっちだと思うよ」

おれは言った。おれの指差すほうには、ちょっとした人だかり――もう正体を明かして3日は経つのに、懲りない面々だ――の中に、シンジがいた。

「あー、碇……の兄のほう」

そんなやりとりの中、遠く、教室の真向かいから、もう1つの声が響いた。声を掛けたのは、薄い色の髪に、メガネの男、えーと、間? 相田、だったか。しかしおれがそんな風に教室の向こう側に興味を向けている間にジャージはおれの襟首に掴みかからんとしていた。

「んじゃコラ! 眠たいこと言うてんちゃうぞ」

うわ、なんだ。そう思ったとき、メガネの男がどうやってやって来たんだか、素早く近づいておれに話しかけてきた失礼なジャージを押さえ込む。

「すまんすまん、ちょっと気が立ってるんだよ、こいつ」

「離せケンスケ、離さんかいコラ」

うるさいなあ。なんだ、この珍妙な二人組は。

「……早くつれてってよ」

おれはなるべく冷たく、そう言った。動きを見るのは結構楽しかったが、面倒はごめんだ。この子が収めてくれるんなら、それに越したことは無い。

「あ、ああ……」

ちょっと気後れしたような、メガネの奴の声。そして、ジャージの奴がメガネの奴に引きずられる。ジャージの奴は、まだ、はなさんかい、とか関西弁で喚いている。煩い。だが、少し気になることがあった。

「……あのさ」

おれは、ジャージに話しかけてみた。

「なんじゃ」

なんじゃ。ジャージはべったべたな関西弁で答える。まるでどこぞの芸人みたいだ。おれは端的に訊いた。

「いや、何を怒ってるのか知らないけどさ……そんなにカッカして、疲れない?」

そうだ、疲れないのか、この男は。おれは何をしたわけでもないのに、そんな風に怒って疲れないのだろうか? ちやほやされてるのがいけ好かないのか、根暗な顔が気に食わないのか(これなら、大きなお世話だけど)知らないけれど。

「なんやとッ!」

おれのゆるい言葉は、ジャージの逆鱗に触れたらしい、黒ジャージがじたばたともがく。しかし、それも長くは続かない。

「ほら、先生、来てるよ」

おれは言った。この時間の教師は既に教卓の前で授業の準備を始めており、周りで立っている者は既にこの二人だけになっていた。おれは視線を前に戻した。「鈴原ッ!」委員長の子の声が響いた。あのジャージ、鈴原って名前なのか。そんで、委員長の子が名前を読んでるってことは。ジャージがメガネに席へと押し込められ、やっと授業が始まった。それを確認するとぼーっと外を眺めた。

このクラスの生徒だったのか。などという考察もそこそこに、おれはまた無意識の海へと舞い戻った。

#10

四限が終わり、目が覚める。昼休みだ。メシ……は、あ、そか、今日はシンジが持ってきてるはずだ。二袋用意すると後で洗うのが面倒くさいので(因みに、ナイロンじゃなくて、布製の弁当袋だ)昼飯は一袋に二箱詰め、交替で作って持ってくる。それが最近のおれたちのスタイルだった。

と、言うわけで今日の弁当当番を探す。が、その机には座席の主の姿は無い。

「……あれ?」

何故だ。確かに、ここ数日は人並みを避けるために昼飯は(他に食う人もいないので)2人して人里離れた屋上だの、校舎裏だので食べているが、独りで先に、というのは無かった。それとも、今日こそ懲りない取り巻きの奴らに捕まってしまったのだろうか?

そんなことを考えながら教室を見回してみると、しかし取り巻きだった奴は教室に残っている。……駄目だ、本格的に腹が減ってきた。時間も無いし、取りあえず、訊いてみるか。すっかりトモダチ気分な彼らなら、誰か一人くらい知っているだろう。一番近くの子に声を掛けてみる。やや長めの前髪をした男子、懲りずにシンジに着いていた奴だ。肩を叩くと、ストレートな黒髪の彼は少しビクッとしておれのほうを振り向いた。

「あの……」

「え、あっ!な、何?」

なんだかとても狼狽している。おれ、何かしただろうか? 睨んでもいないし(もっとも、おれが睨んでもそんなに恐くはないけれど)

「いや……あの、ウチの弟、どこ行ったか知らない?」

「いや、あの、俺は……」

何? 何だか反応がおかしい。

「何? 何か、あったの? 大丈夫?」

そんな時、意を決したような様子で一人の女の子が言った。

「あ、あの! 碇君!」

「え、あ、何?」面食らって俺は彼女のほうを見た。よく見ると、彼女も結構シンジの周りにいた女の子だった。彼女は、ちょっと顔を伏せながらか細い声で言った。

「あ、あのね。鈴原が。碇君、連れて行っちゃったのよ」

その言葉が頭に染みとおるまでに数秒掛かった。……あ! あの、ジャージの! ……そんなに怒ってたのか。……まずい。屋上なんて、まるっきりケンカのコースだ。シンジもなんでついて行くんだよ。ていうかこいつら何してるんだ? いろんな思考がせめぎ合うままに、おれは女の子の肩を両手で掴み、訊いた。

「鈴原って、あのジャージの子? どこ、連れていったの!? ……黙って、見てたの?」

「お、屋上……」

そう述べる女の子の顔はもう蒼白という感じで、おれはそれ以上追求できなかった。放っておいたおれだって同罪なのだから。

「……ありがとう!」

それだけを述べて、おれは屋上へと走った。やっぱり、ここにおれたちの居場所なんてない。友達なんていない。一人で孤独みたいな顔してて、ごめん、シンジ。今、行くから。

#11

おれが屋上のドアを開けたとき、既にケンカは始まっていた。いや、それはケンカとは言えない。それは、強いやつが弱いやつを一方的に殴っているというだけのことだった。シンジは、尻餅をつき、ついぞ見ないキツイ目で自分を殴った鈴原を見ていた。鈴原は鈴原で、こちらも怒り狂った表情でシンジを睨みつけていた。一緒にいる眼鏡の男、相田は、こっちは殴るのには参加してない様子で、飄々と立っていた。

鈴原が何か言う間に、おれがようやくたどり着く、その直前、相田が鈴原の言葉に続いて、言った。

「すまんな、碇。コイツの妹、この前の戦闘で怪我しちゃってさ」

思わず、足が止まった。怪我人? そうか、その可能性も、確かにあったんだ。畜生、やっぱり何にも状況が分かってないじゃないか、おれたちは。そう考えたとき、シンジは、底冷えするような声で、言った。おれはその言葉で、シンジが今初めて本当に自分の置かれた状況を理解したことと、おれが、何時の間にか本当に逃げ出して、外野からシンジを見ていたことを、同時に理解した。

「……乗りたくて、乗ったんじゃないのに」

その声に、鈴原はまた逆鱗を刺激されたのか、ツカツカと歩み寄ってシンジを殴ろうとした。

走った。シンジの前に回りこみ、こぶしを受ける。そうだ、おれが乗らなかったから、シンジが乗った。なら、おれもこのこぶしは受けなければ駄目だ。そして……こっちにも、言い分がある。おれは間合いをつめ、言った。口が切れている。痛い。

「ボクだよ……ボクを殴ってよ」

「なんやお前は!? 補欠が何の用じゃ! ひっこんどれ」

「……おれが、相手、するから。その代わり、本気で来て。やりたいなら、殺しても、いいよ、別に」

割と、本気だった。責任感を感じてる振りして本当に逃げてた自分も許せなかったし、こいつも、気に入らない。何にも、知らないくせに。

「何や、やる気ぃか、ほんなら最初からお前相手したら良かったわ。こいつなんかなんもやる気あれへん。こんなボンクラが乗っとるから下におる人間も見えんとどんくさいことするんじゃボケが!」

もう、止まらない。

「……んじゃさ、君、乗る?アレ」

見据えて言った台詞を聞いて、鈴原が鼻白む。

「は? お前がパイロットちゃうん……」

「ッ! 何が『お前がパイロット』だよ! 寝ぼけたこと言いやがって! 言ったろ? シンジが! 乗りたくて乗ったんじゃない! 文句があるんなら乗ればいいじゃないか! お前が! おれたちとは違うんだろ!? ねえっ!? 何の説明も受けずにバケモノの真正面立たされてアタマ串刺しにされてきなよ!? その後でなら、ドコでも殴らせてあげるから……さあっ!」


僕は見た、一息でそういい終わった瞬間、兄さんは何かを握り締めて、鈴原のこめかみをしたたかに殴っていた。ゴッ、という鈍い音がした。自分より弱い人間からの攻撃を予想していなかった鈴原は足から崩れ、兄さんの手は……どうやら鍵を握り締めていて、それで切ったらしい、血だらけになっていた。そのまま足がなくなったみたいに崩れ落ちる途中の背中を横殴りに蹴っ飛ばす。相田が「トウジ!」と叫んで割って入る。兄さんはそのまま、相田も足を払って蹴倒そうとした。だが、今度は自分が転ぶ。受身も取れず頭を打つ。それでも痛がりもしない。切れた表情、据わった眼。半笑い。だめだ、止められないや。僕はあっさりと彼らを諦めた。

だが、そのとき。僕らの後ろ、屋上の入り口ドアのところから声がした。いかりくん、館内放送のように無機質な掛け声。ここ二週間、まったく聴くことは出来なかったけど、間違いない。アレは、綾波の声だ。僕たちなど歯牙にもかけていなかった女の子が、どうして? 僕の疑問に答える形でその声は続く。

「碇君、非常召集。先、行くから」

言うが早いか、彼女は階段を駆け下りて言った。最後にこういい残して。

「もう一人の碇君も、来てね」


おれは声を聞いた。あのとき、包帯に巻かれていた少女、綾波レイの声だ。おれが最後に見捨て、シンジが最後に助けた女の子。この2週間、おれたちがまったく話しかけられなかった女の子。そして、もしかすると、おれたちの身内。しかし、その女の子が最初のおれたちに向けた言葉は、命令の伝達だった。だよね。おれたちにはあそこしかいるところなんかないのだ、やはり。おれは、綾波が言い残した言葉を聴くと、立ち上がった。もう、鈴原なんかどうでも良かった。これはここに転がしておけばいい。いずれ逃げるだろう。召集、ということは、また来たんだ、アレが。使徒だ。おれは歩き出した。今度は、おれが出る。こんなのは、もう、嫌なんだ。

こちらを茫然自失の表情で見つめるシンジの肩に手をかけ、俺は言った。

「行こう。今度は、おれが乗るから」

#12

兄さんが乗ってくれたのは、僕のためだろうか? それとも、自分のためなのか?

……どっちでも、いいか。とにかく今、僕は兄さんとしてブリッジにいて、兄さんは僕としてエヴァの中にいる。それだけで十分だ。アレに乗らなくて済むなら。人に殴られてまでアレに乗りたくなんて、ないから。

屋上でのごたごたの後、僕たちは沈むビルの合間を警備部の車で走りぬけて本部に来た。出撃前の軽いブリーフィングによると、使徒は「突如として」旧東京方面に出現した。その形は、赤黒くて、カブトエビににょっきりと円筒状の胴体くっつけたような……もっと、身も蓋もなく言えば、男のアレを横にしたみたいな形をしていた。その形状について、葛城さんは「気持ち悪。セクハラね」と述べたきり言及を避けた。確かに、あんな何の機能も想像できないモノにそれ以上の意味なんか無い。そう、機能は分からないのだった。攻撃手段についても全く予想がつかないらしい。ここに来て初めて言葉を知った「斥候」も「威力偵察」という奴も無意味だったそうだ。現段階でUNや戦略自衛隊が使えるものでは何も分からないらしい。使徒は僕たちの事情などお構い無しに民家の上を飛んでくるのだし、相手の力を測るのに毎回、新聞でもコラムを作ってその問題性を取り上げるようなN2兵器をパカパカ使うわけにはいかないということだそうだ。確かにその通りだ。使徒を倒したって、僕らが住めないなら意味が無い。

この使徒#4は、現在の速度のまま進行すればおよそ四十分後には第3新東京市内への侵入を果たす。前回に引き続き、初号が出る。ぶっつけ本番。迎撃システムはまだ半分しか稼動していたないから、だそうだ。使徒要撃用の都市、というキャッチコピーはハッタリらしい。

全く、こんなところばっかり本当のロボットマンガみたいだから困る。威力偵察の唯一の成果「ギリギリでパレットライフルで打ち抜けるかも」の予測に基づいて、まず一斉射をする。後はアドリブだ。臨機応変とも言う。

その説明が今から三十五分前。僕たちはIDカードの交換という古典的な手段で身分を交換し、使徒対策におおわらわになって僕たちの方にまで気が回らないらしい葛城さんをだまし通して、ついに今、出撃に至る。今、エヴァに乗ってるのは兄さんだ。

「シンジ君?」

ディスプレイに映る僕、の振りをした兄さんは答えない。少しの沈黙。マイクとスピーカが生きていることを確認した葛城さんは、もう一度呼びかけた。

「シンジ君? 聞こえてるの? シンジ君?」

「そんなに煩く言わなくてもちゃんと聞こえてますよ、葛城さん」

「……何よ。ご機嫌斜めさんかしら」

軽すぎるセリフだった。確かに、僕だって最近かなりストレスがたまってて愛想は良くなかったけれど、あれほどじゃないはずだ。見る目、ないな。……そこまで考えて、僕はふと葛城さんの手を見た。

その手は握り締められて、小刻みに震えていた。表情も、その軽い口調とは反対に険しいものだった。

僕と目が合うと、葛城さんは一瞬で顔を切り替えて言った。

「分かってるわね? 射出後、すぐに一斉射。相手を確認しておくのよ。一斉射後、三点バーストモードに切り替えて、構造物に隠れ、相手の出方を見ます。……頑張って」

「……了解」

その会話を聞きながら僕は天を仰いだ。でもそこには機械がむき出しの天井しかなかった。

「初号機、出撃!」

居心地が悪い。この真剣な戦場の中で、自分のことばっかりで動いてる僕たち2人は酷く場違いだった。

#13

戦場の話をしよう。

おれの生活はある意味、戦場だった。小学四年生かそこらまで「大人しくて内向的だが問題は起こさない子供」だったおれは、この四年ほど「大人しくて内向的で、ちょっと問題を起こす子供」になっていた。最も、それほどのことをしたわけじゃない。吹っかけられたケンカたまに買ってみたり、わざと怒られるような作文を書いてみたり、先生にたまに挑発的な態度を取ってみたり、そんな程度だった。クラスからちょっと引かれることはあっても、つまはじきにされるほど悪かったわけじゃない。

何故そんなことをしたのか? 答えは簡単。生きた心地がしなかったのだ。死んだも同じ、という表現でもいい。したいこともないし、なりたいものもない。ずっと、流され流され生きてきた。そんなふうにで生きていると、なぜかは分からないけど、取りあえずちょっとだけ痛いことをして自分の形を確認しなきゃならない。だから、別にさっきの屋上で死んでも、やっぱり別に構わなかったのだ。戦闘前、エヴァに乗り込むときも、死ぬのなんか怖くはなかったのだ。ただ、臆病者な自分を認めるのが嫌だっただけだ。

それが、おれがここまで生きてきた日常の戦場だ。甘い? そうかもしれない。もっと辛い思いをしている人は、たくさんいるだろう。でも、確かにあれは戦場だった。血と硝煙の臭いはしないが、確かに生きるか死ぬかだった。よく生き残ったものだと思う。

#14

もう一度、戦場の話をしよう。今度は正真正銘、生死が掛かった戦場の話だ。血と硝煙の臭いがしないのは、こっちも同じだ。その代わり、磯臭いL.C.L.の臭いがする。

おれは、ちょっと葛城一尉、じゃない、「葛城さん」に嫌な顔をされながら、非常事態宣言発令中の第3新東京市に出撃した。#4が起き上がってそのまんま勃起状態になったのが、その20秒後。葛城さんの「最悪」の言葉を尻目にテキストどうりのパレットライフル一斉射、使徒直立から5秒後。葛城一尉が「バカッ! 煙幕で相手が見えない!?」と切れたのが、その5秒後。おれが死ぬほどビビリながら「説明しなかったじゃないか、こんなの! ていうか全然効いてないじゃないか!」と切れ返したのが、その2秒後。その言葉と口調で、おれがシンジと入れ替わってると葛城一尉が気付いたのが、その3秒後。思わず振り返って「あんたたちは!」と叫びつつシンジの頬を張り飛ばした音が遠く聞こえたのが、その直後。光の鞭が煙幕から飛び出してきたのが、シンジが吹っ飛んで尻餅をついた瞬間。おれがひいい、とお決まりの悲鳴を上げながら後ずさり、投げ出したライフルと背中のコンセントと通り道のビルが次々ぶった切られたのが、そこから15秒間。その予想を大きく超える速さに赤木さんが「ありえないわ! あんな速度!」と現実逃避したのが、その1秒後。葛城一尉が「……現にあり得てるわ。シンジ君! 2ブロック先のライフルを取るのよ! バーストモードで!」とタメつつ意外と冷静に答えて命令を出したのが、その2秒後。仕方なくライフルを取りに行ったおれが#4に足を引っ掛けられて中を飛びつつ、走馬灯のようにここまでの戦闘を思い出したのが、体感時間で7秒。

人生は確かに短い。

出撃から1分、あっと言う間におれは今度は本物の死の矢面に立っていた……いや、めり込んでいた。おれは今、出撃した場所とは市街地を挟んでちょうど反対側にある、山の中腹にめり込んでいた。


「……ちッ!」

エヴァが内臓電源に切り替わったのを見ると、葛城一尉は短く舌打ちをして、コンソールに座るオペレータたちに激を飛ばした。その表情には失望の色がありありと見えた。そんなの、当たり前なのに。


「大丈夫? シンジ君!?」

「かハッ!」

大丈夫なわけがなかった。背中がものすごく痛い。息が出来ず、口から肺にかすかに残った泡が出る。前からはまた横倒しフォームにになってる赤いのがふわふわ迫ってくる。贔屓目か知らないが、鞭をひゅんひゅん言わしてるこのSM怪獣は、明らかに前の奴より強い。電源も、無い。訓練で聞かされたけれど(そして驚愕したけど)このエヴァンゲリオンっていうロボットは、ロボットの癖に核融合炉も積んでない。コンセントが無いと節電して5分、フルパワーで1分しか持たない。ボクシングの1ラウンドより短い。

どうすればいい?

「葛城一尉!?」

「一時退却! 後方8時方向に回収路があ……る……え?」

葛城一尉が言いよどんだ。

「どうしたんですか!?」

「民間人!?」

アラートが鳴り響いた。

#15

視界の隅に開いたウィンドウを見てみれば、そこに居たのは、さっきの馬鹿2人だった。

「あ……ああ……」

助ける気も起きない。非難区から外出て、何やってんだよ、馬鹿。スピーカを開く。助けて、という涙交じりの声が聞こえてくる。

「……知らないよ……」

おれは小さく呟いた。発令所の方ではなにやら騒ぎっぱなしのようだ。

何も分からない。

分かるのは、もう目の前に赤いのが迫ってきているという事実だけ。

あの鞭で刺されたら、きっとおれは死ぬだろう。

酷く動悸がする。

ああ、これが、怖いということか。

周りの音が消えていって自分の鼓動だけが嫌に大きく響く。

どうすればいいんだろう。何をすれば。ああ、クソ、何も指示、出さないじゃないか。

発令所の言い合いも耳に入ってこない。

しかし、そのとき。

「二人をエントリープラグへ!」

「越権行為よ! 葛城一尉」

「何言ってんのよ、ここで民間人を見殺しにできると思ってんの!?」

「できるわよ」

「つーか戦闘中だ! あんたこそ越権だ馬……何を!?」

「できるわよ、と言ったの」

畜生、畜生、畜生。おれは呟いていた。葛城一尉は赤木さんに何か呟いていた。こっちには聞こえない。もう、知らないよ。

「おれは道具扱いで!」

エントリープラグの一時イジェクトレバー(カバー着き)を力任せに引いた。

レバーは固定されているみたいに重かった。

「あいつらは、人間扱いなのかよっ!」

知った事か。指示を待ってたら死ぬ。あの子たちに生きてて欲しいとは思わないけれど、自分で殺して平気でいられるほど、おれは……強くない。

「くそっ!」

プラグがイジェクトされた。天井から光が差す。上を見上げてみれば、空が見えた。

「プラグがイジェクトされました!」

外部スピーカーから伊吹さんの声がする。そうです。おれがやりましたよ。

「ナイス! シンジくん! 君達! 今すぐこれに乗りなさい! 早く!」

外部スピーカーから今度は葛城一尉の声がした。もう赤木さんは何も言わなかった。

おれはイジェクトレバーから手を離し、前を見た。ゆっくりとこっちに近づいていた赤黒いのは、既に初号の目の前に来ていた。


死ぬ。


「うわあああああ!」

鞭が飛ぶ。腕で弾く。腕が焼ける。死ぬほど痛い。横に凪がれる。浅い。でも痛い。畜生! もう一度来る。見えない。でも掴めた。何? こいつの力か? スゲエなエヴァ。手のひらで止める。死ぬほど痛い。でも手を放せば多分死ぬ。痛い。畜生畜生畜生畜生! 痛い! 畜生! 畜生畜生畜生畜生!

「あああああああ!」

まだか? まだか? 早く!

後ろでどぼんと音がした。

思考がその一点へ収束する。

二人だ。見ていないのになぜか分かる。

「わっ、みず!? あぁっ、カメラが!」

変な気分だった。

「おわっ! なんやこれぇ?!」

あいつらの言葉は、耳には入ってくるがそれほど重要じゃない。

プラグが格納される。

「収容確認しました!」

またおれは外界から締め切られ暗闇の中へ隔離される。変な気分はどんどん大きくなる。手が痛いのが麻痺して分からなくなるに連れてその感覚は大きくなって行く。それは異物感。何かか自分の頭に食い込んでいる感じがする。

「……くっ」

気持ち悪い。

「ッ! 異物を入れるから!」

スピーカから赤木さんの声がする。そういうことなんだ……知ってたら、入れなかったのに。

もうとうに手の感覚も麻痺している。熱い。ただ、熱かった。

「シンジ君! 後方の収容ハッチを開けるから、隙を見てそこに撤退して! ガイドが出るから!」

声が聞こえた。でも、頭に染みとおるまでに、たっぷり数秒は掛かった。その間にもたぶん手はどうしようもなく焼けていた。

退却?

……冗談じゃない!

こんな奴と! ここまで来て! このまま! 引き下がれない! 殺してやる!

ナイフ!

そう考えるとナイフが出てくる。便利だ。

「……シンジ君? ……誤作動?」

「……兄……さん?」

声が聞こえたが、おれは無視した。おれはすっかり爛れた手と癒着して鞭を横に広げ、赤黒いのの真ん中を蹴った。

距離をとる。

手が痛い。熱さが引いて、頭がおかしくなるくらい痛い。

「シンジ君。回収ルートは#34、山の東側に退却。……退却! 退却よ? 退却しろ! ちょっと!」

知らないよ。どうなっても構わない。絶対退却なんかしてやらない。こいつらやあんな人たちのために、退却なんかしないからな。

また赤いのの鞭が来る。今度は避けない。絶対殺してやる。後ろから声が聞こえる。何を言ってるのかわからない。

「黙れ! じゃないとお前らも殺して……やる!」

後ろの声は消えた。

何も考えられない。殺す。

「兄さんっ!」と珍しくシンジが大声を出して……駄目だ、雑音が多すぎる。

鞭が刺さる。

「あああああああああああああああああああああ!」

熱い。

すれ違うようにナイフを赤黒いのの赤球に刺した。

熱い。

熱い。

痛い。

死ぬ……!

「ふ……う……はあ……あああああ!」


兄さんの言葉は声になっていなかった。

ミサトさんも(こちらはいくらか冷静だったけれど)、赤木さんも、ただ呆然とその声を聞いていた。

当たり前だ。

意識を保ちながら体を抉られたことがない人間に、体を抉られる気持ちは分からない。兄さんをここまで追い込んでしまった僕は、その痛みの半分くらいは分かっているだろうか? 僕は叩かれた頬を撫ぜながら、兄さんの苦悶の表情と、火花が出るコアと、減り続ける電源表示を見続けた。叫び続ける兄さんは、泣いているように見えた。

そして、夕焼けの中、二体の巨人は動かなくなった。

#16

「はあっ、はあっ、ああ……ああああ!」

戦闘は終わった。

だがおれは、吐いていた。

急速にL.C.L.が引いていくプラグに、三人の人間が始めてその姿を現す。

ついさっきまでは、一人とその中の異物だった三人だ。相田がおれに声を掛けた。

「だ、だいじょうぶか……?」

鈴原も声を掛けた。

「碇……」

おれは何も言わずに後ろを向き、相田のカメラを鈴原の頭で叩き割った。軽い音がして、鈴原の頭でカメラの液晶部が壊れた。鈴原の頭の傷口からまた血が出た。そしておれは今度はスーツの硬質部でもう一発ずつ、二人を殴った。殴られても二人はただ黙っていた。こぶしにはまったく力が入らなくて、骨が軋むように痛んだ。また少し、気が遠くなる。

そして、鈴原が「すまん、碇」相田が「ごめん」と、こぼした。

「大丈夫か?」

二度目の確認。もう、強がることは出来なかった。今にも泣きそうだった。

「……大丈夫……大丈夫だよ、ボクは……」

なんなんだ、おれ。本当に、あの時屋上から落ちておけば良かった、と真剣に思った。

おれは、何をしているんだろう?

#17

戦闘が終わった。補助カメラからの映像が映る。兄さんは同乗した二人を殴っていた。

「……何してるの? 彼。自分のクラスメイトなのに」

葛城さんは呆然と述べた。

「葛城さんは何にも知らないんだ、僕たちのことなんか。何にも気にしちゃいないんだ、僕たちのことなんか……」

僕は誰にも聞こえないくらいの声で呟き、巨人をつないでおく箱、ケイジへと走り出していた。

なんなんだ、僕は。本当はやっぱり僕が殴られて、僕が乗っておけば、良かったんだ。こんな思いをするくらいなら、そっちの方が良かった。

「あなたは立派なことをした。胸を張っていいのよ、シンジ君」

歓迎会の日、兄さんが酔い潰れた後、まどろむ僕に葛城さんが言った言葉。あの時には救われそうになった言葉がぐるぐると頭の中を回り続けていた。立派? そんなことない。そう思いたいのは、本当は。

僕はケイジへと走り続けた。

Neon Genesis Evangelion L EPISODE: 3
He said “This is my turn” end.
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