そして碇老人は葛城邸の門をくぐった。
「ただいま……」
なぜか、と問われれば、それに答えるには、未だ語られてない物語を語らねばなるまい。
老人が一時入院した病室。
リツコとミサトはそこで老人に「(ユイの)情報と引き換えに、こっちに加担しないか?」と誘いをかけるも断られた、二つ前の物語である。
それには続きがあった。
「諦めるわけには、行かないわ。……落とすわけには行かない、鍵だもの」
その言葉に、ミサトは頷き、つかつかと歩き出した。(第3話より)
リツコはそれに続こうと歩き出そうとした。が、本来の任務を果たしていないことに気付いた。
「ちょっと待って、ミサト」
聞こえていない。ふう、っとため息をついたリツコは、カチッ、と手元のスイッチを押した。
どがん、ずが。ぼん。ミサトの足元が開く。平坦だった床がへこみ、レールが顔を覗かせる。
「って、きゃぁぁぁぁぁぁぁあ!」
遠くのほうで音がした。意外とかわいらしい悲鳴があがる。
リツコがふっと見やれば。
その視線の先では、ミサトが盛大にスッ転んでいた。ツカツカツカツカ、と先ほどの2倍速で帰って来たミサトは、リツコの胸倉を掴んで高々と持ち上げた。リツコはぱたぱたと脚を振ったが、ストッキングが美しいその両の脚は、空しく空を切った。
「一応、聞くけど。なによ今の」
「病人食搬送用のレールね」
「……それでアタシを引っ掛けたってわけですか、赤木博士?」
「……そうなるわね」
「それは良いわ。なんで軽く爆発したかを訊かせてもらいましょうか」
ついっと目を逸らすリツコ。無理に駆動系に侵入したおかげで誤作動した、とは言えない。
「お約束だもの」
「お約束、ねえ」
「科学の力よ」
つとめてあっさりというリツコ。あの状況を見た後では、説得力はある。ネルフの科学力は世界一!そんな誇らしげな声さえ聞こえてきそうな気がする内容だったが、そんな傲慢はおくびにも出さず淡々と彼女は続ける。当たり前だ、という風な調子……それが、一番の傲慢かもしれないが。
「それに、やったのは私じゃなくてMAGIよ。私は」
「……私は?」
心持ち指先に力が篭るがなんと押しとどめてミサトは続けた。
「『何としても葛城一尉を止める』としか指示してない……わ。ぐえ」
その内容と、相棒の情けない声に、はあ……大げさにため息をつくミサト。ついに機械にまで嫌われたかと考えると、力が抜けてしまう。その隙に地面に降り立ったリツコは、とりあえずやることを告げる。
「とにかく、仕事がまだ残ってるのよミサト。行くわよ」
「へいへい」
白衣の女性と、ややぼろぼろのジャケットの女性は、先ほど自分たちが辞した部屋に、また足を踏み込んでいた。
「……碇さん」
見れば、老人は自分達が辞したときと同じ恰好で、外を見ていた。空は既に紅く、もう少ししたら日も落ちるであろう時間だ。
「なんだ、まだいたのか……」
上の空と言った調子で老人は呟いた。それは彼女達に聞かせるためではなかったのかもしれない。やはり、動揺しているのね。ミサトは分析を怠らない。
「そう、まだ居たんです。これが」
「……失礼、ちょっと考え事をしておりまして」
「少し、仕事が残っておりまして」
「……ふむ、そうですか。……それにしても」
老人……シンジは妙な表情でミサトを見た。
「はい?」
「葛城さん、その服、どうされたんですか……?」
言われて、自分の恰好を改めて見るミサト。
いわれてみれば。裾は破け、煤にまみれ、ところどころから皮膚が覗けている。見ようによっては実に扇情的な格好である。
「あ……いや……これは……ははは」
ささっとリツコの白衣を奪い取るミサト。
似合わない。
そのシルエットはビデオにでも出てくるようなうそ臭さに満ちていた。
「変態女医……」
ふっと小声で言葉に出すリツコ。
「……頭、溶けてんの……?」
やはり小声で返すミサト。
女性はシモネタは嫌いではないものだ。
そして、目の前で自分を無視して続く会話を冷めた目で見つめる老人が、1人。
「……何を言うておられるんですか、あなた方は」
きっちり聞こえていたようだ。
「お話は、碇さんの住居の件です」
さっくりと話を切り替えるリツコ。 老人はその切り替えに、やや目を白黒させつつも耳を傾けた。 その横で一人おいていかれたミサトは、怒りのはけ口がみつからず呆然としている。
三者三様の状況で、話だけは淡々と進む。
「住居なのですが、ネルフ内に用意するとなりますと……」
「イヤですな」
あっさりと答えるシンジ。
「あの男に近いとこに住むのはごめんですからな……」
かなり嫌そうだ。
「それなら……外の官舎ということになりますが」
「是非にも」
「そう思いました。それでは、防犯上……葛城一尉、あなたと一緒に住むことにな」
「何よそれえ!?」
さも当然、という様子のリツコの口から出る言葉が終る前に、ミサトは部屋中に響き渡る声でそれに疑問を呈した。
「いや、だから、防犯上……」
「だからってなんでうら若き私がこのおじいちゃんと一緒にすむのよ!?」
「うら若き……?」
やや疑問系で繰り返すシンジ。
「はいそこ突っ込み禁止!」
即答される。かなりのテンションである。
「……まぁ、確かに碇さんに比べれば『うら若い』わね」
いきなり見ず知らずの老人と同居、と言われれば、だいぶテンションが高いのもうなづけなくはない。が、仕方のないことだ。リツコがそんな感想をひっそりと心のうちで述べたとき、ミサトはかなり暗い情念の篭る顔で、リツコの肩に手を置きつつ言った。
「……あんたよりもね」
振り向いたリツコの顔には青筋が走っていた。
「くっ……。で、でもやっぱり仕方のないことなのよ。いいですね? 碇2尉、葛城一尉」
役職名で呼ぶ。命令、ということだ。所詮公務員、辞令には逆らえない。
「……はい……」
「わかりました」
というわけで90歳の碇老人と29歳の葛城ミサト、実に60歳以上の年の差のある2人が同じ屋根の下に暮らすことになったのだった。
「いやいや、まだ『介護』される年ではありませんよ」
その言葉が、ミサトにとって唯一の救いらしきものではあった。
そして、その言葉通り……と言うか何と言うか、同居5日間を経ての現状は、逆に介護されているといっても差し支えはない状況であった。ミサトはもともと家事の類の出来る人間ではなかったからだ。そのあまりの惨状に、葛城邸入居2日目にしてシンジの口からこぼれた「葛城さん、これでは嫁の貰い手もなかろうて」の一言でひと悶着があったりしたのだが、それはまた、別の物語である。
夕飯時。碇老人は不意にミサトに話しかけた。
「……葛城さん」
「はい……何でしょう……?」
ミサトは同居(同棲、とは死んでも言わない)を始めてこのかた、この老人の一言に恐縮すること至極、だった。何しろ掃除、洗濯、料理。どれも敵わないのである。否、料理に至ってはスタートラインにすら立てていない。本人の自覚はないのだが。
「長いこと娘ひとり父ひとりで暮らして居りましたからなあ」
というのが彼の言だが、本人にその気はないのはその口ぶりから分かっていても、どう聞いても嫌味以外に聞こえなかった。
そんな事情で「今度は何を言われるのだろうか……」と、自分達の策略など忘れて肩をすくめながら答えたのだ。
しかし、老人の言葉は、いつもの舅の嫌味ではなかった。
「何故、私はあの学校に勤務することになったのでしょうか?」
……来たか。その思いを顔には出さず、聞き返す。
「防犯上の理由、ですが。何か?」
「防犯上、というのは、つまり、あの娘のことですか」
「……あの子?」
あくまでも白を切る。
向こう側からその名を言わせないといけないのだ。
「あの、紅い目の娘です。確か、綾波、レイとか」
掛かった。
「情報は、いらないのでは?」
くっ、という顔になる碇。碇の人間味のあるところを見て、ミサトは少し落ち着いた。こういう顔もできるのか、この人。
「…………あの……娘は……」
もう少し、もう少し、だ。
舌なめずりでもしそうな表情である。それは大物が釣り上がる直前の釣り人の表情に近かった。そして確かに彼女は今、大物を釣り上げようとしていた。
……が、その魚は直前でラインを切って逃げた。
「わしの……孫ですね?」
わし、を私、に直すのも忘れて碇は言った。
「は……?」
そうか、そういう解釈があったか。よく考えたら、綾波レイという少女、顔は彼の娘ユイにそっくりだが、その他については、まったく違う。髪の色も、肌の色も、目の色も、年だって、彼女とはかけ離れている。そうであれば、普通の解釈をすれば「娘」ではなく「孫」と捉えるのが妥当というわけだ。まさかあの子を見て「娘のクローンですな?」という(真実ではあるが、思いつきようもない)ことを言うことは、ないのだ。
ミサトが二の句を告げぬうちに、彼は続けた。
「昔、私の娘のユイと、あの男の夫婦は言っていました。『子供が生まれたら男ならシンジ、女なら』……」
ミサトは思わず生唾を飲み込んだ。
「『レイと名づけるつもりだ』と」
しまった、そんな伏線があったとは。初めて知る事実に驚愕するミサト。勘違いの準備は出来ていたというわけだ。あの親父……ミサトは自分の上司のネーミングのややこしさを心の中で罵った。
「あ……そう……なんですか……」
馬鹿みたいな答えしか返せない。そこまで話ができていれば、もう、何も言えなかった。
彼女たちの計画では、レイに興味を持った碇が、彼女たちにレイのことを問いただし、それをキーにして、ユイの情報を与えてこちら側に引きずり込む、という流れだったが、それは早くも頓挫してしまうことになった。
一般常識と、肉親の情とはかくも強いということを考えの外においていたゆえの、失策だった。この2つはネルフという組織の特徴でもあったから、仕方がないのかも知れなかったが。
「もう一度、訊きます。あの子は、ユイの……肉親ですね?」
もはや隠し通すことはできなかった。
「そう……なりますね」
「……で、今、あの子がどこに住んでるのか、知っておいでですか?」
「……いえ……」
これは本当のことである。レイの情報はこの組織に見えない独裁体制をしく碇ゲンドウの直轄管理下にあり、彼女には思いも拠らない。彼の他には、その情報を知ることができるのは、相棒のリツコくらいである。
「驚きましたよ。廃ビルの、一室でした」
シンジは怒りの篭った声でそう言った。「行動力あるわね、この爺さん」というシンジへの賞賛の言葉と「何やってんのよあの行かず後家が!」というリツコへの罵倒の言葉が頭を回る。まったく、どんどん退路を絶ってくれる。
「……そう……ですか……申し訳、ありませんでした」
これでは、結果的に老人のいうことを認めたも同じであったが、仕方が無かった。これだけの行動力と、これだけの情があれば、今さら状況をひっくり返して事実を伝えてしまえば何をするか分からないからだ。
「……明日、あの子とちゃんと話をします。できれば、引き取りたいのですが、よろしいですか、葛城一尉殿」
その言葉からは、「否とは言わせぬ」という雰囲気が満ち満ちていた。
そして、押さえきれぬ怒りも。
そうだ、この老人は、怒っているのだ。
自分の「孫」にこんな待遇を与えているこの組織に。
しかしミサトは逡巡した。
そんな事をすれば当然、司令に伝わり、よくて減棒、下手をすれば退職の二文字がこの身に降り注ぐことになるのは目に見えている。
……でも、ケンカは二人でしてもらえばいっか。
知らない、知らない。
今はとにかく目の前の食事と酒をいかに美味しく食すか、しか頭に無いミサトは問題を一時保留……もとい、投げることにした。
もちろん、ただ状況を放り投げたのではない。彼女自身、できることはやったという自負があったし、この状況の根本的な原因の一端を担う相棒、リツコへの信頼もあった。彼女なら、どうにか状況をやり過ごせるはずだ。今までと同じように。
また、それに加えて「どーせ、私を辞めさせるわけにゃ行かないわよ」という判断も含まれていた。自分こそ、現在のところ使徒迎撃のパイオニアなのである。今さら、自分を辞めさせるなど、ありえない。
……それが予断だったと分かるのも、また別の物語で、である。