「一日もしないうちにトンボ帰りか。何をさせたかったんでしょうね? 碇司令は」
「……碇さんの相手かしら?」
ミサトの疑問に、リツコが首を傾げて応じる。ミサトは意地悪な笑みを浮かべて言い放った。
「まーたまた。ありゃあんたの差し金でしょ、どーせ」
「知ってるなら、訊かなきゃいいのよ」
リツコは勘のいい友人の言葉に肩をすくめた。その通り、ミサト召喚(繰り返すが召還ではない)は、リツコが仕組んだ茶番である。ネルフの車両は松代からのマギタイプ予備生体部品の輸送という名目で動かしたし、ミサトを解体現場に呼んだのも、本部施設に入ってもらっては困るからだ。解体現場なら、重機の輸送などのせいでセキュリティレベルは本部よりは低い。
さすがにそれ以上は「彼」は見逃してくれまい。
「……で、本当の目的は何?」
「まずは、碇さんのこと。あなたのほうが仲が良いようだから。それと……戦自のことで、ちょっと面白いことを聞いてね。戦自で少年兵に何か特殊な訓練が行なわれているって噂は本当? 直接会って確かめたかったの、それを」
リツコの目はギラギラと光っていた。――これは、危険な目だ。ミサトは過去にこの目を見た後に必ず起こった「尋常じゃないこと」を思い出して背筋が寒くなった。駄目だ、この女は普段は冷静なくせに、この目をした途端、手段のためなら目的を選ばなくなる。要するにダメ人間なのだ。
だから「何も?」と、あっさりミサトは嘘をついた。
リツコは多少不満げな顔をしたが、それ以上突っ込む気は今はないようだった。
「そう……まあ、いいわ。司令があなたを送り込むんだから、あなたへの嫌がらせは別としても何かしらあると思うのよ。できれば、こっちの有利なように状況を動かしたいわ、よろしく頼むわね」
さらりととんでもないことを言う。司令にしろこの女にしろ、どこかしらぶっ壊れてるな、とミサトは思って、再び背筋を寒くした。もっとも、この女でなければ、あの男の愛人など務まらないのかもしれない。出し抜き合いを普通に楽しむような二人でなければ。
「そっちには、何も情報は入らないの?」
「ええ、そんな柔な男じゃないわ、彼。だから楽しいのよ」
そういうと、リツコはうっとりと視線を斜め上へ。しかしミサトには視線を追う気などさらさらなかった。彼女とは確かに友達ではあるが、不気味な陰謀趣味までご一緒する義理はないのだ。それこそ勝手にやっておいて欲しい。
ミサトはリツコのたるんだ表情を無視して、電車へと乗り込もうとした。
しかし、その手はリツコに掴まれ、無情にも電車のドアは閉まる。
ぷしゅう。情けない音を出してドアは閉まり、電車はゆっくりと動き出した。帰還の時間がまた遅れる。これでは、向こうについてもまたいくばくもしないうちにこちらへ帰ってこなくてはならないだろう。直帰にして貰えば良かった、とミサトは連絡係の男に質問された時の自分の返答を後悔した。
「あのさ。私、通いなわけよ。ということはね、今から帰って、また数時間後にはこっち行きの電車に乗らなきゃなんないわけ」
リツコはミサトの腕を掴みながら「でしょうね」と言った。
ミサトはそのこともなげな口調に苛立ち、腕を振り払った。
「んじゃ、ただでさえ遅れた予定をさらに遅らせるような真似、止めてくんない? 私まだ下宿も見つかってないのに。最悪寮よ、寮。戦自の嫌われ者ネルフの尉官だった女が戦自の寮入り? ぞっとしない冗談だわ。私ゃ公衆便所じゃないんだからね」
下品だが、言いたいことを言って多少スッキリしたのか、ミサトはふん、と鼻を鳴らしてリツコを見た。しかしリツコは相変わらずこともなげで、それどころか肩を震わせて笑っていた。
「ちょっと! 何笑ってんのよ!」
あんまりといえばあんまりな対応に思わず胸倉を掴みそうになる――が、リツコは怒りに任せて単純な軌道を描いた手を器用に避け。ミサトはちょうどミサトの手がかするであろう位置にリツコが差し出した封筒のほうを掴んでいた。
「何よ、これ」
「碇さんからの手紙。何でも、あなたがいるところの近くに碇さんの知り合いの方が住んでいらっしゃるそうよ。何でも? 老人会のメーリングリストがなんだか、っておっしゃってたけど、よく分からないわね」
「葛城ミサト様江、碇シンジ拝」と書かれた封筒を見たミサトは、ふいーっとわざとらしく声を出しながら息を吐いた。
「老人会専用メーリングリストねえ……バイタリティ溢れる爺ですこと」
とは言いながらも、思わぬ申し出に顔が綻ぶのは事実だった。ふっふっふっふと異様な声で笑いつつ、ミサトはある意味親友(一部保留)の肩に手を置いた。
「碇さんにくれぐれもよろしく。これからは共同戦線を張るんだから」
共同戦線、という言葉に、リツコはふふっと笑って肩に置かれた手をゆっくり剥ぎ取った。
「分かってるわ。それにしても――あの反応は予想外だったわね」
何を思い出したのか、興味深げな視線を斜め上へ。今回はミサトもご一緒する。
「やっぱ、年の功って奴なのかしら?」
そんな風に数時間前のできごとを思い出しながら、二人はぼけっと電車が来るのを待った。
そして老人はおもむろに口を開いた。
「二つだけ、約束して欲しいことがあります」
ミサトもリツコも、その異常に重い空気にごくりと生唾を飲み、頷いた。
「まず、レイのことです。彼女に、ちゃんとした生活をおくらせてやること。私の庇護の元でなくてもあるいは構いません。できれば、エバンゲリオンにも乗らんで欲しいのですが……」
「それは、ちょっと難しいですね。エヴァに乗れるのは、特定の素質を持つものだけですから」
リツコが老人の言葉の後半に反論した。安請け合いはできないのだ。そんなことをされて黙っているタイプだとも思えない。
「そうですか……なら、先に申しましたことだけでも、お願いします」
「それは、保証します。ね? リツコ?」
にっこりと笑ってミサトが頷く、しかし、ちらりと隣のリツコの目を見た時の表情からは笑いが消えていた。
「……それは……うきゅ!? いえ、分かりました。きっちり、させていただきますわ」
リツコは腕組みをして、後ろからつねられたわき腹をさすって答えた。碇老人はその妙な声に眉をひそめたが、リツコが特に表情を変えないのを見ると、次の希望を話した。
「もうひとつは――共同戦線を張る、と仰るのなら、私にはきっちりと情報を教えて下さると約束して下さることです」
老人の目が光った。
「……ええ、それも、きっちりと」
結局ミサトはそう答えざるを得なかった。
途端、老人は相貌を崩し、笑みを浮かべた。
「ありがたい。……大本営発表は身を滅ぼしますからな。これも教訓ですわ」
「そうですか……では、碇さん」
「ええ。よろしくお願いいたします」
ミサトの艶やかな手と碇老人の皺々の手は、がっちりと握手を交わした。
ミサトとリツコは現時点で二人が知っているすべてを彼に話した。ユイが初号機に取り込まれていること、碇ゲンドウがレイを使って、内容はそのいまだ分からないが、「人類補完計画」と一般には呼ばれる計画を遂行しようとしていること、エヴァすら実はその駒であること、そのバックには委員会が関係した組織が関わっているらしい、ということ。
――そして、レイがユイの遺伝子と、リリス、と呼ばれる使徒の遺伝子のキメラであること。
しかし、老人は前者の陰謀の深さに驚きはしたものの、意外にも後者にはほとんど無反応だった。ミサトとリツコは首を傾げながら訊いた。
「えーと、碇さん、何か、分からないところとかありますか?」
「いえ……それにしても、世界はややこしいことになっておるんですなあ。何やら雲を掴むようなお話ですが……その計画、というものの内容は分からないのですね?」
「ええ。人類の進化に関係している、というのは分かっているのですが、それ以上の情報は私にも知らされていません……私も、駒、ですわ」
リツコはそう言って笑った。ミサトは相変わらず渋い顔で、そうっと手を挙げた。
「あのう……」
「はい、なんでしょう、ミサトさん?」
「あ、まだ、そやって呼んで下さるんですね、ってそれはいいんですが、あの、レイのことについては……」
老人は薄めの頭を叩いて、大きく息を吐いた。
「正直、よく分からんのです。人間ではない、と言われましたが、さっきのお話だと、使徒というあれは人間とほとんど一緒と言うではないですか。それに、あれは、神さん、だと」
神さん? なんだか話が良く分からない方向に進みつつあるのをリツコは自覚したが、ひとまず話を進める。
「――ええ。実際、あれはS2……生命の実、と私たちが読んでいる部分を除いては、ほとんど人間と遺伝子の面では区別がつきません」
「遺伝子、というと、ええと、あの、男の精液や女の卵子の中に入っているものですか?」
その程度か、とリツコは詳しい説明を諦め、ごく簡単な説明に終始することにした。
「そうです。その面でほとんど区別がつかない以上、生物学的特徴から言えば、かなりの部分までは人間と変わりありません。それに、あの使徒を人間とを順序づけるとすれば、恐らく人間の方が下でしょうね」
老人はその言葉を聞いてしばらく咀嚼するように黙った。そして、ゆっくりと顔を上げ、こう言ったのである。
「それなら……あのー、非常に申し上げにくいんですが、巫女さんが神の子やら狐の子を身ごもるとかそういうのと一緒ということでいいんでしょうか? ほら、安部清明なんか、母親は狐というではないですか? そういう昔話の類だと。それで、実際は人間とは変わることはない、と?」
老人の突拍子もないその奇妙な解釈を聞いて、一瞬リツコは言葉を失い――それから、声を震わせて、くっくっく、と笑い出した。
「ぶっ、くくっ……ええ、確かに、そうですわね。確かにアレは神話的な存在ですから――あるいは、そういうものに近いのかもしれないですわね」
そうだ。とリツコは納得した。この男にはキリスト教的な神の観念も、最新の遺伝学も、相当遠いものだった。そして、そんな男が知っている神の観念と言えば、狐だの犬だの岩だの、そういう何でもないものにまで神性を認めて崇めてしまう民族のそれなのである。それらは畏れを抱かれはすれ、人より下に見られはしない。
もっとも、それだけではない。そこには老人特有の選別意識や、外国人などおもよそ者として遺伝的に別の人間と捉える差別的な間違いもあったかも知れない。また、そもそもが予想外のオンパレードでつづられてきた彼の歴史のせいもあるのだろう。
そのような経験と観念で、人外の物に対する根源的な怖れを叩き伏せた老人の精神力も。
しかし、それらが間違っているか否かはともかくとしても、彼はこのように答えたのである。
「なら、いいではないですか。神さんとユイの子供なのですから、あの子は私の孫です」
老人は笑った。その肩が小さく震えていたが、リツコとミサトは見ないふりをした。
ミサトは鞄ひとつ肩に掛け、着慣れぬ戦略自衛隊の制服姿で立ち尽くしていた。
ここであってるわよね? と、手元の封筒、その中に入っている手紙を読み返す。
間違いない。住所も建物の概観もここを示している。手紙には「立派な木の表札が掛かっている平屋のお宅です。もうこちらから連絡してありますので、名を名乗ってこの手紙を渡せば中へ通していただけるはずです」と書いてあった。それを読んだときは、それだけでどうやって見つければいいのか、と思った。
だが――
「これでどうやって間違えろってのよ、こっ恥ずかしい……」
ミサトがぴくぴくするこめかみを押さえて見る視線の先には、紙テープで作られた可愛らしいリボンと、これまた可愛らしい赤白黄の紙花で飾り付けられた「歓迎! 葛城ミサト様!(どうぞ右横→の呼び鈴でお呼び下さい)」の看板があった。
「………………はあっ」
ミサトは最近めっきり多くなった気がするため息をまたひとつ吐くと、看板の右横にある呼び鈴を押した。