碇シンジは実験場にいた。
「零号機再起動試験、開始」
ネルフ本部、どこを切っても同じ風景が続く、金太郎飴のように殺風景な廊下で赤木リツコは老人を呼び止めた。
「碇さん」
「ああ、赤木さん。なんでしょうか?」
「これから、零号機の再起動実験を行います。ご覧になります?」
老人は少々逡巡し、普段よりはやや重い口調で答えた。
「――ええ、お供します」
二人は廊下を歩き出した。リツコのハイヒールの音の後に、碇老人の歳に似合わぬ足音が微かに続く。
「お訊きしても、いいですか」
「? ええ、なんなりと」
「今日の実験……成功、して欲しいですか」
リツコのためらいがちの質問に、老人もまた、ためらいがちに答える。
「正直なところを、言ってよろしいですか」
「もちろん」
リツコは実験場へ続くエレベーターのボタンを押しながら答えた。小さな起動音、そしてうなりを上げてエレベータが動き出す。
ちょうど階数を示すメーターの数値が20ほど下ったとき、老人は答えた。
「失敗して欲しいのが、正直なところです。……そうすれば、少なくともあの子は、戦わずに済みますから」
「……絶対境界線まで……1.1……0.7……0.4…0.2…0.1…ボーダーラインクリア。零号機、起動します」
伊吹が発した、起動します、の声に、老人ははたと我に帰った。眼前の窓の外には、単眼の機体が、その目に、腕に、肩に、意思の宿ったことを示す光を灯している。
成功してしまったか。老人は小さなため息とともに事態を了解した。
と、そこに、電話の音がした。
「何だと……わかった。碇! 未確認飛行物体が接近中だ。恐らく……」
「『使徒』か」
老人は自然とその言葉を続けていた。
老人はすっと踵を返すと、出入り口へと足を向けた。
「どこへ行く?」
問う声。義理の息子であった男の発した声だった。
「笑止。俺が出るに決まっているだろうが。ついさっき始めて戦闘機を動かした子供を戦場に出す気ではないだろう?」
「当然だ。まだ戦闘には耐えん」
「――碇特務二尉、エヴァンゲリオン初号機出撃を上奏致します。御命令を。司令殿」
「よかろう、出撃」
「はっ」
言葉と同じように慇懃無礼な敬礼をした後、老人は怖ろしい速さで部屋から歩き去った。
「総員第一種警戒態勢、初号機は」
「はい、400秒以内に出撃可能です」
「よし、初号機パイロットの準備が整い次第、出撃だ」
零号機の連動実験から一転、出撃準備へ。技術部の人員はめまぐるしく動く状況に技術屋特有の軽快さで対処していく。
そんな中。
「……碇さん、『俺』って言うんだ……」
緊迫した状況でただひとり、伊吹マヤだけがそのことに気をやっていた。
「……で? 結局やられちゃったってわけ? なーにやってんだか」
携帯端末に向かって言いながら、ミサトは貰った断片情報から戦況分析を行なっていた。――仕方がないか。出撃時に既に最終防衛線までも突破されている。そんな状況なら、斥候を出す暇もなかろう。それに、事実上使徒に「当てることができる」というレベルにおいてさえエヴァンゲリオン以外には不可能であり、当てたところでほとんどダメージがないのだから大した意味もない。おまけに今回の使徒は、今までで最大級の相転移空間を現出させたという。
んなもん動く要塞じゃないかよ。素直にミサトはその力押しの方法に感心した。今どき移動要塞なんて。よっぽどの戦争馬鹿でも考えない。そしてミサトはそんなふうに他人事として感心すると同時に、心底、責任者じゃなくて良かった、とも思っていた。その場にいたなら、同様の方法を取っていなかったとは言えないのだ。というか、かなり勢いでやってしまいがちな彼女がそうなってしまう可能性は多分にあると言えた。その状況に放り込まれた場合の罪悪感と気まずさと責任のプレッシャーと始末書の山と……考えるだけで胃潰瘍になりそうである。
そしてリツコは、ミサトの考えた通りの答えを言った。
「仕方ないじゃない」
「まぁね。責めやしないわよ。……碇さんは?」
ミサトの軽口を装った声に、リツコはため息をついて答えた。電話口の向こうで彼女が肩をすくめるのが見える気がした。
「どうだと思う?」
「普通だったらきっと死ぬけど。……腕を犠牲にした防御行動、ってところ?」
「……怖ろしい勘ね。ほぼ正解よ。左腕・右腕共に肘部構造物・フレキシブル装甲材・筋構造が全融解して骨構造が露出、胸部の被害は内部構造ギリギリで止まっていたわ。それも、拘束具を一部破壊して、動いたから辛うじてっていうところね。――あと少しバランスが崩れれば、どれかが使い物にならなくなっていたわ。まさに肉を切らせて骨を断つ、よ。あんな痛みの中でよくやるわね」
「うわぁ……相手の骨は断ってない……ってのはいいとして、かなり酷いわね」
「…………フィールドが、無展開だからよ」
「はあ?」
ミサトは思わず、秘密の会話にも拘らず大声を上げた。ミサトは相手の正気を疑った。何を言っているんだ。フィールドが展開できなければ、あれはただの……
ミサトの思考を先回りして、リツコは答えた。
「考えてること、解るわ。そうよ、エヴァ初号機は、ただの巨大ロボットよ」
ただの巨大ロボットって何だよ、と頭の中でツッコミを入れながら、ミサトは答えた。
「どういうことよ?」
「碇さんは、フィールドを展開できないのよ。……いえ、より正確に言えば、体の外部に展開することができない」
「それってどういうこと?」
「さあ」
「さあってあんた」
「仕方がないでしょう。今まで、A-Tフィールドを実際に発生させた機体はドイツの弐号機以外には存在しないのよ。あれは正式採用型の機体で基本構造の点で幾つか違いもあるわ。それに……」
「それに?」とミサトは先を促した。
「もっとも大きな違いはパイロットの年齢よ。碇さんがいくら若く見えると言っても脳神経の老化は誤魔化せないわ。脳細胞の生存率は十代の子供達に比べるべくもないし、おまけに可塑性も極端に小さいから、A-Tフィールドという概念が理解できないし、実感もできないらしいのよ」
「それって……歳を取ると新しいことを覚えらんなくなる、ってことなの? 簡単に言っちゃえば」
「そういうことよ。微弱なフィールドは観測されているけど、それも体表面に観測されるくらい。フィールドの概念が理解できないのにそういう展開の仕方をするっていうのは、奇妙ではあるんだけれど」
体表面……ミサトは少し考えて、冗談交じりに言った。
「……『気』って奴かしらね」
「かもね」と、リツコはあながち冗談でもなく答えた。
「――で? 何よ? まさか世間話するために、わざわざこの回線を使ったってわけじゃないでしょう?」
「ええ……こちらでも動いているけど、どうにも不安なのよ。日向君はよくやってくれてるけれど、その上は戦闘のプロではないし」
「私を外に出したのが運の尽きね」とミサトは自信たっぷりに言った。
「何か案があるの?」
「……まあ、いちおう、ね……そっちは、どうせ直接攻撃の方向で進めるんでしょう? いいわよ、恐らく今そっちにできるのはそれくらいしかないわ。日向君がもう言ってると思うけど、敵はあれだけの大きさよ、碇さんにはできるだけの長物を持たせて。こっちはこっちでちょっと、動いてみるわよ。……ねえ、リツコ」
「何?」
リツコは訊ねた。きっと友人は獰猛な笑みを浮かべているだろう、と想像しながら。
彼女が想像した通りの、肉食獣の笑みを浮かべてミサトは言った。
「ひょっとしたら、
リツコは今度こそ肩をすくめ、怖ろしい適応力の友人に心からの賞賛の言葉を送った。
「あっきれた。まさかあなた、帰ってこないつもりじゃないでしょうね?」
「使徒が倒せるんなら、どこだっておんなじよ。私にとってはね?」
ミサトは言い切って、回線を切った。
「さぁて……面白くなって参りました、っと」
小さく呟くと、ミサトはポケットに携帯端末をしまい、彼女以外ほとんど誰も使わない女性士官用トイレの戸を開け放った。
ミサトは筑波にいた。昼食も取らずに上申書の作成を始めてから三時間、彼女は気合と誤魔化しと口八丁と駆け引きと恫喝と名演技と恨み節とはったりと嘘と方便ともひとつ方便という名の嘘八百の限りを尽くして、特務機関ネルフの対使徒要撃作戦失敗時に行なわれるべき、戦略自衛隊独自の要撃作戦の準備を戦略自衛隊司令部、そして日本政府に認めさせたのである。
これは異常な早さだったが、この作戦を提出したのがネルフ出身者の葛城一尉であること、そして、ミサトが精一杯(半ば以上本気で)特務機関ネルフの戦素人の性質とそれに関する恨みつらみ、今回の使徒の持つ堅牢性、対使徒防衛戦略に戦略自衛隊が参加するメリット、そしてサード・インパクトの恐怖をアピールした(煽ったとも言う)ことから、この上申書はかなりの速さで指揮系統を上り、最終的に発案者・葛城ミサトの名前はどこかの段階で削除されたまま、戦略自衛隊第三師団長の発案ということで作戦準備が許可された。
「っても、それだけじゃない、か。『"ある特定の災害"に関する対策・研究』とはよく言ったもんね……」
ミサトは呟きつつ、つい先日目撃したトライデント級軽巡を思い起こした。
――とにもかくにも参加しなければ、運用はできないものね?
ミサトは苦笑しながら研究員に言った。
「頼むわよ! ネルフの腐れ技術部なんか、パツキンの不良女が総長張ってんだから、そんなのに負けたら国家公務員の恥だかんね! アレの攻撃までには何とかするから、がんがんパワーアップさせてちょうだい!」
「大丈夫であります一尉殿! 五時間あれば改造版をお見せします! ……おいこら! そこはもう一回チェックだ! 組みあがってから動きませんでしたじゃ洒落にならないんだぞ!」
激を飛ばしながら、汗だくの研究部長は走り去る。
リツコならきっと技術開発部の連中に「三時間」と言わせるだろうが、と思いつつ、まあ仕方ないかとミサトは目を細めた。彼らはネルフの持つオーバーテクノロジーなしにここまでのものを作り上げたのだ。それだけでも、何の努力もせずに拾った神様を使った人間よりは評価されてしかるべきだ。
「技術大国ニッポンは死なず、か。――よろしく! 運ぶ手はずは私が何とか整えるからね!」
ミサトは言い放って、二十九歳の女にできる限界ギリギリの笑みを振りまいた。
目覚めると、ベッドの上だった。
「負けたのか、俺は……」
碇老人は小さく呟き、ただひとつのことだけを願った。――どうか、あの子が戦場に出ていませんように。
幸いにも、その願いが叶っていたのかどうかはすぐにわかった。
パシュ。
小さな音をたてて病室のドアが開く。ワゴンを押して入ってきたのは、彼が無事であるようにと願った少女、綾波レイだった。
「……無事だったか」
老人はほうっと胸をなでおろした。
少女はその仕草を怪訝な表情で見つつ、彼の隣に立った。そうしてみると、さしもの二人も、病院に入院する祖父を見舞う孫という絵に見えなくもなかった。
しかし、そこは戦場である。レイは手元の手帳を開きながら語り始めた。
「――明日午前零時より発動される予定の作戦を、伝えます。使徒は現在第3新東京市中心地『ゼロ・ポイント』上空よりネルフ本部へ侵攻中。同使徒に対し、初号機の修復と兵装換装を待ち初号機による直接戦闘を行なう。碇二尉は初号機換装の終了予定時刻本日2200までにケイジに到着、以降別名あるまで待機すること」
その作戦には、綾波レイや零号機という言葉はなかった。
「連絡ありがとう、嬢ちゃん。……嬢ちゃんは、出ないんだね?」
老人が念を押すと、レイが端正な顔を歪めてうなづいた。そのような忌々しげな彼女の顔を見た者は、恐らく彼以外にはいるまい。
「……私が出れば、もっと早く作戦が決行できるのに」
幼い嫉妬のこもった視線を受け流しつつ、老人はすまし顔で言った。
「何、嬢ちゃんがわざわざ若い身空を危険に晒さんでも良かろ。死ぬのは老人で十分。年金も減れば国のためになるだろうて」
殊更老人くさい碇の言葉に、レイは小さな声で言い返した。
「……私が死んでも代わりはいるのに」
老人はその言葉を聞き逃さなかった。
パン。
その手はいつもより格段に弱々しかったが、それでも正確にレイの頬を張った。
「――何するの」
レイは頬を押さえながら無感動な声で言った。抜けるように白い肌に、張られた頬の赤みはとてもよく目立った。
自分の身体に注意を払わないそのようすにますます老人は憤った。そして、その怒りを一心に込めた、有無を言わさぬ声で言った。
「冗談でも、そんなことを言ってはいけないよ」
静かな声だった。レイは理解できない、というふうに首を傾げてから、回れ右をしてドアを出た。
「食事は、食べてね。動けなくなられたら、困る」
その言葉だけを残して。
ふう。大きなため息をついて、老人はベッドから這い出た。いまだ身体はだるく、力が入らない。足がふらつき、小さな眩暈が起こる。
「歳かな。……何を今更」
老人はひとりごちて、先ほどレイの頬を張った手をじっと見た。
老人はその手を見ながら、二十数年前の同じ顔の少女とのやりとりを思い出していた。
二十数年前、いまだ時代は二十世紀、彼がともすれば孫と言ってもおかしくないほど歳の離れた女の子の養父となってから、十余年が経とうとしていた。
「――お父さん!」
彼が仕事の途中に倒れたという知らせを聞いたユイは、制服姿のままで息も絶え絶えに病院に飛び込んだ。
そこでは、老いた自分の養父が笑っていた。
「ああ、すまんな、ユイ」
ユイはその笑顔にあっけに取られ、がっくりとうな垂れた。その後小さく息をついて、半泣きで言った。
「……もう。心配したんだから」
「いやあ、ちょっと気分が悪くなってな? 退職直前だから、気でも緩んだんだろうか」
「父さんに限って、そんなことないわよ。ねえ、ほんとのほんとに大丈夫?」そう言った後、ユイは小さな声で付け加えた。「――私が、代わってあげられれば良いのにね」
そのときも、碇はその言葉を聞き逃さなかった。
「ちょっとこっちへ来なさい」
「?」
なになに、と碇の前に顔を近づけたユイは、拳骨を頭に軽く落とされた。
「痛ッ!?」
「何を言うとるか、馬鹿もん。……子が親の負債を背負う必要なんぞない。だから、そういうことを言ってはいけないよ、ユイ」
彼はそう言って、小さく微笑んだ。ユイは悲しげな顔で「ごめんなさい」と謝った。彼はしょげかえった娘の頭を、ぽんぽん、と軽く撫でた。
「……あの後、また泣かしてしまったっけなあ。……結局、再発はせなんだが」
老人は取りとめもなく呟き、時計を見た。時刻は六時、作戦の決行まで残り六時間である。