Evangelion G.G-side 

第弐拾話 「祭りの後には」

■ 第五使徒が殲滅された日の朝 ■

ミサトは音を立てないようにそっと鍵を開けた。

かちゃり。

古めかしい音を立てて鍵が開く。音を抑えられたことにミサトは胸をなでおろし、ゆっくりと戸を引いた。

――これなら――

しかし、ミサトは相手の根性を嘗めていた。

「お帰りなさい、葛城さん」

戸の隙間から見えた玄関には、この家の主である老婦人、千代田キミコがいた。

おいおい、まだ五時半だぞ?

ミサトの引きつった表情をすました顔で流し、彼女は言った。

「お勤めご苦労様でした」

朝帰りですか?

どことなく嫌味っぽい慇懃無礼な挨拶に、ミサトはさらに頬を引きつらせた。

「ず、ずっと起きてらっしゃったんですか?」

私に嫌味を言うために? そりゃ、何にも連絡せずに帰らなかったのは悪いと思うけど――

「まさか」

「へ?」

「そんなわけないやないですか。もう歳ですもの、ああ、今日はもう帰らはれへんねんなぁと思ってお先に寝かさしていただきました。――で?」

「はい?」

「何にも連絡せんと朝帰りするくらいやねやし? よっぽど大変なお仕事やったんでしょうね?」

「――ええ。ちょっと、怪獣退治を」

ミサトは正直に答えた。相手が訝しげな顔をするのを承知の上で。

「寝ぼけてはるん?」

ほら、来た。ミサトは予想通りの声に答えた。

「いえいえ、ほんとに……ほら、昨日の晩、停電したでしょ、あれ……」

「ああっ! あれのせいで冷蔵庫の中のもんがずいぶんわやになってもうてね、まったくそんなんやったらもっと早よから……」

いかん、これは地雷か。

「――なんて」

「はい?」

いつもの冗談めかしたものから急に変わった口調にミサトは軽く前につんのめる。

「冗談です。連絡は同僚の……ええと、ああ、そうそう、桑山さん! その方からいただいてました」

「じゃあ……」

「お勤めご苦労様でした、葛城さん」今度こそ、深く頭を垂れた。

ミサトはその言葉に、はあっとため息をついてへたり込んだ。恨みがましい目で、目前に正座している女性を軽く睨む。

「冗談が過ぎますよぉ」

「そやかて、怪獣と戦ってるから徹夜、やなんて、俄かには信じられやしませんもの。連絡してくれた方も冗談みたいな口ぶりで言わはったし」

それを聞いてミサトは笑った。たっぷり汗の染みこんだ制服も、崩れかけの化粧もそのままに。きっと、ここに連絡したのはあの軽い男の方だろう。確かに、あの口調で言われれば、なんだって冗談に聞こえる。内容まで冗談のようなものならなおさらだ。

でも、あの夜のことも冗談ではないし、この朝も、冗談などではない。私はちゃんと守りきったんだ。ここを。

そして、夜の内は疲れと事後処理で実感が薄くなりかけていた、自分が成し遂げたことの達成感に十分酔った後、ミサトは今はどうしているのかわからない、ほんとうの救世主となった男のことを考え、少しだけ表情を曇らせた。

あの人は、どうしているだろうか。私と同じように、誰か迎えてくれる人が、いるのだろうか。

■ その五十五時間と四十八分後 ■

碇老人は目を覚まし、触覚に感じるぬるぬるとした感覚で、自分が液体に浸けられていることを発見した。

声を出そうかと思ったが、筋肉が弛緩しているのか身動き一つ取れなかった。

「……あっ。碇さん? 碇さん?」

若い女性の声、伊吹二尉の声が聞こえた。しかし、その姿は見えない。老人は目をつむっていた。

水越しに、バタバタと人が走り回る音と、短い会話が聞こえた。

「はい、碇さんの意識が回復しました。え? はい。不明です。はい、はい。わかりました」

自分に何が起こっているのかわからないまま、老人は浮力の中を漂った。

「碇さん? 聞こえますか?」

再び、伊吹マヤ二尉の声。聞こえるが、答えることは不可能だ。

マヤにもそれはわかっているのか、返事を待たずに話し始めた。

「あの後、病院に搬送されたんです。非常に広範囲に2b度から3度の熱傷を負っていたので、ひとまずはL.C.L.での治療を行なうということになりました」

本来ならば植皮などをしなければそのまま死に至る状態であった。しかし、それは既存の医療体制では、という仮定のもとでの話である。幸いにもネルフには、L.C.L.による治療の技術があった。それはほんの数週間前、焼け焦げた初号機の手のひらの再生に用いられた技術だった。

「大丈夫です。二ヶ月も経てば……治るはずですから」

シュッ。戸が開く音がした。赤木リツコだった。

「様態は?」少し息が弾んでいた。

「安定しています。え、っと。先輩。あれ、使いますか?」

マヤが何事かリツコに訊ねた。リツコは少し思案し、マヤが手に持っているものを認めるとすぐにその意味を理解した。

「え? ああ、そうね。お願い」

「はい。――オールナーブリンク――言語野のモニター、開始しました」

「碇さん?」

『はい』

彼の体の外から、彼の声が聞こえた。

『これは?』

それに答えたのはリツコだった。

「言語行動の追跡のためのインターフェイスで――エヴァとの神経接続に使用されている技術を援用したものです。言語野という脳の言葉を司る部分をモニターして、脳に伝わる微弱な電気信号を読みとり、音声として再構成しています。音声の構成には、録音記録から採った碇さんの声を使用していま……」

声が全くの無反応になったのに気づき、リツコは機械を見た。電源は入っている、モニター状態も正常だ。

と言うことは、つまり。

『……?』

無言。その間で、この老人がリツコの説明を露ほども理解していないことと、リツコが設計した通り、発話しようとした以外の思考がだだ漏れにならないことはよくわかった。

どうしたものか。

考えていると、隣からマヤが救いの手を伸べた。

「ええっと、碇さん?」

『はい』

「この機械で碇さんの頭を調べていて、碇さんが考えたことが音になって出るようになってるんです」

マヤが技術的説明を一切合切端折って言うと、碇老人は途端に弾んだ声(もちろん、インターフェイスによって再構成されたものだ)で言った。

『ほお! これは凄いもんですなあ。全く技術の進歩というのは素晴らしい』

「でしょう? けっこう時間かかったんですよ? これ」

『友人に、脳をやってしまって上手くしゃべれなくなってしまった者がおるんですが、そういう類の病気にも使えますでしょうか?』

「あー、どうでしょうねえ……脳自体の障害だと、ちょっと難しいかもしれませんね……それにしても、大変ですね」

『そうなんですよ。戦時中も一緒だった友人なんですが、情けないと言うて嘆いておりました』

「ああ……でも、お年を召したら仕方ないですよ」

リツコが応用とは言え自分の発明が魔法の小箱のごとく扱われてしまったことを嘆いている内に、マヤと碇老人は生活臭漂う話題に花(?)を咲かせている。

はあ、と少し大げさにため息をついたリツコに気づき、マヤは苦笑交じりに言った。

「だって、先輩の説明っていつも難しいんですもん」

もしかするとこの娘、私の説明もあんな感じで理解しているんじゃないだろうな。

リツコは高々五歳程度しか離れていない部下を、奇妙なものでも見るような目で見た。

そこに、状況が見えない(比喩でなく)碇老人が先ほどの弾んだ声と打って変わって静かな調子で割り込んだ。

『赤木さん。お訊きしてもよろしいでしょうか?』

マヤに固定していた視線を外したリツコは、機器の動きをちらりと確かめながら答えた。

「なんでしょう?」

『ああ、いえ、孫の……レイの方は、怪我はありませんか』

この期に及んでも、この人は。もちろんレイには目立った怪我はない。しかし、それでも訊かずにはいられないのだろう。そのような執着は、家族もいなければ子を持ったこともないリツコにはわかりにくい気持ちだった。

しかし、わからないとはいえ、無下に扱うことはない。

リツコは温和な口調を作って、しかしできるだけ簡潔に答えた。

「ええ、大丈夫です。彼女には怪我はありません」

『ありがとうございます』

その直後、レイの話題を受けて手元の端末を弄っていたマヤが顔を上げた。楽しげな声で、この場に爆弾の話題を投げた。

「――あ、噂をすれば。レイちゃん、来てますよ。知らせますか?」

「……いや……碇さん?」

視線を宙にさまよわせ、リツコは尋ねた。まだ上には報告していないが、戦闘直後からレイは少々情緒不安定だ。しかし、ここで彼に会わせて号泣でもしようものなら、それはきっちりと記録に残り、彼はそれをよしとしないかもしれない。

ミサトとの約束を思い出していた。

碇はその赤木の口調から言わんとすることを察して、答えを返した。それは半分は本心でもあった。自分の姿を見せて、心配を掛けたくはなかった。

『いえ、お心遣い申し訳ありませんが止してください。このような姿を見せて心配を掛けたくありませんから』

うんうん、小さくうなづいたのはマヤだった。隣のリツコの視線を感じたのは、内緒だ。

「そ、そうですよねっ! 心配掛けちゃ駄目ですよね! ええと、はい、私がちゃんと、ええ、はい」

「そうね。保護者になるのだし」

リツコはこの機会に碇老人にまだ伝えていなかったレイの処遇を言っておくことにした。それが決まって、言おうとしたところに今回の作戦があり、結局伝えないまま延び延びになっていたのだ。

『保護者? というと、伊吹さんが、レイの保護者になって下さるので?』

碇老人の疑問には、今度こそマヤが(いくらかは話題を変えようという意図も含まれていたが)力一杯答えた。

「はい! それはもう! 私がきっちりと努めさせていただきます。……昨日、レイちゃんの着替えを取りついでに行ってみたんですけど、私も驚いちゃいました。あれって、何のミスだったんでしょうね? 先輩。住所管理ツールの異常かなあ……でも、警備部の人も気づいているなら教えてくれればいいのに、まったくもう」

ぷんぷんと義憤に暮れるその横で、じわじわと上司の機嫌が悪くなっていることにはマヤは気づかなかった。

そして老人の方は、どうせあの男の差し金だろう、とたかを括り、だんまりである。

それからもしばらくマヤの演説は続いたが(大意は「可愛いレイちゃんは私がお預かりしますから、ええもう」である)、結局はどことなく圧迫感を増し続ける部屋の空気に押し出されるように「……ええと、それでは、ちょっとレイちゃんの様子を見てきますので」と言って、部屋を後にすることになった。

マヤが廊下に出たあとで、何が悪かったんだろう? と途方に暮れたのは言うまでもない。


マヤの去った病室で、碇老人は言った。

『あの方なら、良くしてくれそうですな』

リツコの方は、ぴくぴくするこめかみを押さえながら、それに答えた。

「ええ。私やミサトなんかよりは、ずっと」

■ その二十四時間前 ■

暗がりの中で、権力の蟲がざわめいていた。

「これで、我々の装備の対巨大生物戦闘における有効性を示すことができたというわけです」

その言葉には、その兵器を運用した作戦が外からの借り物だという認識はとうに失せていた。いや、そもそもそんな認識は初めからないのかもしれなかった。

「あんな非公開の怪しげな組織に日本の防衛を任せてはおけんですからな」

無責任な同意の声。しかし少しは物覚えのいい者が、こう訊いた。

「しかし……おたくんとこに出向してきたのはどうします? 一応あれ、あのネルフからの出向なんでしょ?」

この作戦を最初に上申したのも。軽い嫌味の裏側を知ってか知らずか、話を振られた男の隣から声が掛かった。

「ああ、心配ないでしょう。あの――なんて言ったっけ? あの細っこい若造」

しばらくの沈黙。ややあって、本来話を振られていた男が実に面白くなさそうな顔でその名前を言った。

「桑山です」

「ああ、そうそう。あの桑山という若造、なかなか切れる男だとか。あれを付けておけば」

「心配はないでしょう」

「ご苦労ですが、あれはあれで持っておけば使える駒ですし」

追い討ちをかけるような声に、彼はしぶしぶ答えた。

「そうなると、いいですが。……他には、何か?」

沈黙が答えだった。

「――それでは、略式ですがこれで」


葛城ミサトは図らずも、エヴァでないものが、ネルフではない組織が、使徒を斃す可能性をその手で実証して見せた。

その事実は、ゆっくりと状況を動かしつつあった。

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