太陽が真上を通り越し、ほんの少し西に傾いたころ、アラームに従って赤木リツコは顔を上げた。年中地下に潜っている彼女にとって朝や昼と言った区別にそれほどの意味があるとも思えなかったが、非常時でもない内から生活リズムを極端に崩せば体調まで怪しくなってくる。
もう自分もそこまで若くはないと認めざるを得ない瞬間だった。
「考え事かい?」
突如聞こえた声とその気配に、リツコは涼しげに微笑みながら答えた。
「そうね……どうでもいいことよ」
「仕事のこと? それとも、男のこと?」
「どっちかだけなら楽なんだけどね。……お久しぶり、加持君」
彼女の記憶にあるのと変わらない無精髭の生えた顔。気の抜けたような、ともすれば人を馬鹿にしているようにもとれる笑みもそのままだった。
「色々と予想が外れているみたいだね」
リツコは大げさにため息をついて腕組みをした。
「悪い方にも、良い方にも」
「葛城が戦自で戦果まで上げたこととか」
「それは確実に悪い方。仕事ができるのは悪いことじゃないけど、場所が不味かったわ」
「それから、アスカがレイちゃんと仲良くなったこととか」
「それは……良い方、でいいんじゃないかしら」
「歯切れが悪いじゃないか、リッちゃん」
リツコはすぐには答えず、白衣のポケットから煙草を取り出して咥えた。まるで場末のクラブのホストのように、のっそりと加持がライターを取り出し、火を点けた。
リツコは満足そうに薄荷の香りのする煙を吐き出し、からかうように言った。
「女心は複雑怪奇なのよ、特に私達みたいな女は。心得ておかないとまた振られるわよ、加持君?」
「はは。一本取られたな……さて、それじゃあ」
「それじゃあ?」
「こんな暗いところで話すと自制心を保つのにも一苦労だし、ひとまず昼食でもご一緒しませんか?」
リツコはやれやれといった感じでため息をつく。
「変わってないわね、その辺」
ぷおおーん、と、懐古趣味だか日本趣味だかわからない妙な尺八の着信メロディを発してアスカの携帯電話は鳴った。昨日使徒が起こした騒ぎやその事後処理のせいで、折角の休日午前に授業が入る破目になった日のことである。
「あっうわっ」
慌てた表情でアスカが携帯電話を探して鞄をまさぐる。その隣では、彼女と早くも友人になった洞木ヒカリが吹き出し、そのまた隣では、レイが一足早く携帯電話を探り当てていた。
両隣に美少女、というこの状況はともすれば劣等感を抱きかねないようなものだが、もとよりそういう所で勝負しようともそれほど思っていないヒカリにとっては、美しいものが隣にあるという気分のよさや、あのロボットのパイロットが隣にいるという優越感が先に立った。
左を向けばアスカ、右を向けばレイ。
それぞれに個性の違った二人を見ていると、なんだかちょっと危ない趣味に走ってしまいそうにならないか――とは、碇老人にこっぴどく叱られた彼の言葉である。
そういえば、あの老人はどうしたのだろう? 最近見ないけれど……
と、ヒカリの考えがそこまで進んだところで、動きがあった。
左からは「よし来たッ!」の声が上がり、
右からは鞄に端末をしまうがさごそという音がする。
「どうしたの?」
ヒカリが訊くと、ふたりは同時に答えた。
「使徒よ」
「で、喜びいさんで突っ込んでった惣流嬢は分裂した使徒二体によって撃破、か……大学出てるっても、意外とアホなわけね」
「あれは、止めきれなかった僕の責任でもあります」
「あー……子守、押し付けちゃってごめんね。マジで」
「ほんとですよ。まったく」
内部情報を流している人間が、ここにもひとり。
日向マコトは第3新東京市旧市街に一歩足を踏み入れたところにある小さな文化住宅からクラッキングをかけていた。古い畳とすすけた壁紙に囲まれて、胡坐をかきながら肩をすくめた。無論、それを見る者は誰もいない。
「それにしても……よく接続できたわね」
「赤木さんのツールのお陰ですよ。ネルフ専用は伊達じゃないです」
マヤしかり、日向しかり、本部つきでMAGIのオペレータを務める者が持っているクラッキングツールの質は、市井のそれが足元にも及ばない類のものだった。しかし、それも赤木博士の足元にようやく手が掛かる、という程度なのだから性質が悪い。何しろ彼は、ツール内部に彼女が混在させたスパイウェアを見つけ出すのにさえ馬鹿みたいに長い時間を費やしていたのだ。……が、接続ポイントを旧市街に移すことで今のところは対処していた。
第3新東京市街内の回線は情報発信の監視のため、どう足掻いても(携帯電話さえ)全ての情報がMAGIに集まるネットワークとなっている。そんなところからMAGIの裏をかいて戦略自衛隊の(表向きクローズドとされている)回線に侵入するなどという芸当をやってのけるのは、無数の裏コードの一端を知る伊吹マヤくらいのものだ。
そして、そんな芸当はとてもできない者は外へ逃げるしかない。MAGIの手が及ばず、しかしその恩恵に預かることができる場所と言えば、整備が延び延びになっているここくらいしかなかった。
そんなこんなを思い出しながら、日向は恨めしげに声を落として言った。
「けっこう手間、かかりましたけどね。今度何か奢ってくださいよ、本当に」
それだけのために頑張っている――そう考えても、あながち間違いではない。少なくとも上司が彼女でなければ、彼もこれほどの危ない橋を渡る気にはとてもなれなかっただろう。
「わかってるわかってる。で? 策は?」
「技術部からひとつ、提案がありました。先の戦闘から割り出した方法なんですが」
「聞かせて」
「はい。ですが……すいません、ちょっと耳が痛くなってきました。そうですね、蕎麦でも奢って貰えますか?」
一瞬、間がある。しかし電話口の向こうの彼女も、すぐにその意味に気づいたようだった。極めて明るい口調で答える。
「そーね。いつ?」
「明日の昼でどうです?」
「ん、了解。安上がりな元部下を持つと幸せだわん」
「あっ」
ぷちっ。時間切れで回線が途切れたのは、その瞬間だった。
マコトは脚を伸ばして寝転がり、少しだけ据えた匂いのする六畳一間の天井を眺めながら言った。
「また、やられた……」
「ところてんよ」
果てし無い量の抗議文。日向は馬車馬のように処理に奔走し、伊吹、青葉も自分の仕事の片手間にそれを手伝う。そんな状況の中、執務室を訪れたリツコはとんとんと日向の肩を叩き、ためらいなく言った。
「へ?」
「えっ……」
ぶふっ。
日向はぽかんとした顔でリツコを見やり、借り出されていたマヤは意味不明な発言に絶句し、情報分析からその意味がわからないでもなかった青葉もその妙な表現に吹いた。
「ところてんは、ないんじゃないスか?」
青葉が軽い口調で言う。リツコは眉をひそめ、話題に乗り遅れた日向とマヤが問いかけた。
「ところてん、って……」
「何のことなんですか?」
リツコは満足げに微笑んで答える。
「あなたの首がつながりそうなアイデアよ、日向君」
リツコは変わらず薄く微笑んだまま、手元にあるリモコンを操作した。大モニターに先ほどの戦況が映る。
日向は無様な映像を見ながら、自分が書いた戦況報告を思い出していた。
関西地方紀伊半島沖に第七の使徒が接近。同日、第3新東京市周辺に上陸。第3新東京市における迎撃システム、実戦においての稼動に難あり。また初号機は先日の戦闘時の破損が激しく、パイロットも不在であるため稼動せず。零号機は整備中であったため、後方支援へ。結果、第六使徒に引続き弐号機を主体とした、水際での直接戦闘の運びとなる。
弐号機は戦闘開始直後に先行。エヴァンゲリオン専用長刀兵装にて使徒に肉薄、両断。殲滅したかに見えた。
「な、何よこれ!?」
――しかし、使徒は突如形態を変化、姿が酷似した二体に分裂。以降、弐号機が各個撃破を試みるも、即時の修復により戦況は好転せず(技術部の分析の結果、二体が互いの状況を相互に補完していると予想される)。結果、ネルフは午後四時をもって作戦指揮権を断念。国連軍のN2爆雷によって攻撃が行われる。弐号機が切断した破片を含め、構成物質の28%を焼却に成功。
目標の再度進行は、五日後と予想される。
「で、これが何か……」
「プラナリア、という生き物を知っている?」
日向はますます疑問の表情を濃くし、訊き返した。
「狭義には、サンカクアタマウズムシ科ナミウズムシ属。このプラナリア、という生き物はね、半分にされてもそれぞれの断片が完全な生き物として再生できる、著しい再生能力を有しているの」
「それって……」
「まあ、聞きなさい。もちろんこの生き物の再生のメカニズムと、今回の使徒の再生のメカニズムは別物よ。プラナリアは単に元の姿に戻ろうとしているだけ。だからこそ、尾部から尻部が生えたり、まあそんなこともあるわ。それとは異なってこの使徒は互いに補完しあっていて、だからこそ完全な姿にまで再生できる」
相互補完による再生。先ほどマヤから聞いたことだ。
「ただ、このふたつの生き物には共通点もある」
「あっ」
小さくマヤが叫ぶ。理系だものね、とリツコは小さく笑う。
そして文系の日向はあいかわらずの顔だ。
「なんですか?」
「先の戦闘でアスカが切り飛ばした断片を覚えているかしら? そう、あまりに細かい断片に分解されると、いくら相互補完しているとはいえ」
「再生できない。そういうことっスね」
「知ってたのかよ」
「まあ、第一次の戦況分析はウチの仕事だからな」
日向が咎めるように呟き、青葉は軽快に(適当に)書類を処理しながら、また軽い調子で答えた。
そして、先ほどから発言を控えていたマヤが、やっとわかった、というようにうなづいた。
「そうか……だから、ところてん、なんですね」
「おいしくは……なさそうですね」
日向は苦笑しながら、猛烈な速度で今後の算段を考え始めていた。
材料:てんぐさ、水、酢
1.てんぐさを適量の水(てんぐさ50gに対し水2リットル程度)につけ強火で煮込み、煮えたら酢を少量(大匙一杯程度)加える。
2.以降、適宜水を足しながらてんぐさが融解しどろどろになるまでさらに三十分程度中火で煮込む。
3.その後、漉しとった液を荒熱を取って冷蔵庫へ。
4.数時間後に固まったら、それを包丁で切りわけ――
5.ところてん突きで細く麺状に突き出し、酢醤油などでおいしくいただきましょう。