ずず、と湯気の立つ味噌汁を啜り、ミサトは新聞の一面下段にある記事を見て唸った。
新聞お決まりの横に細長く伸びるコラムには、短文を連ねる新聞独特の文体で戦略自衛隊による、ネルフの使徒要撃作戦への参画要請について記されていた。
▼ネルフは一国の軍隊に過ぎない戦自の対「使徒」要撃作戦参画は認められないと主張している。しかしちょっと待って欲しい。そう主張するには早計に過ぎないか。ネルフの真摯な姿勢が、今ひとつ伝わってこない。例えば日本政府と戦略自衛隊からは自国に迫る危機に際して、国軍たる戦略自衛隊の作戦参加は当然の権利であると主張するような声もある。このような声にネルフは謙虚に耳を傾けるべきではないか。
▼思い出してほしい、過去にも何度もネルフは日本政府と戦略自衛隊の叫びを無視している。ネルフは日本政府と戦略自衛隊の自国に迫る危機に際して、国軍たる戦略自衛隊の作戦参加は当然の権利であるという主張を間違いであるかのような発言をして、批判を浴びた。確かに日本政府と戦略自衛隊には地方警察組織との根強い確執を考慮していないという問題もある。だが、心配のしすぎではないか。
▼ネルフの主張は一見一理あるように聞こえる。しかし、だからといって本当にネルフは一国の軍隊に過ぎない戦自の対「使徒」要撃作戦参画は認められないと主張できるのであろうか? それはいかがなものか。的はずれというほかない。
事の本質はそうではではない。その前にすべきことがあるのではないか。ネルフは、未来を担う一員として責任があることを忘れてはならない。ネルフの主張には危険なにおいがする。各方面の声に耳を傾けてほしい。
▼ネルフに疑問を抱くのは私達だけだろうか。一国の軍隊に過ぎない戦自の対「使徒」要撃作戦参画は認められないと主張したことに対しては日本政府と戦略自衛隊の反発が予想される。自国に迫る危機に際して、国軍たる戦略自衛隊の作戦参加は当然の権利であるという主張を支持する声も聞かれなくもない。
▼ネルフもそれは望んでいないはず。しかしネルフは秘密主義的、独断先行的である。一国の軍隊に過ぎない戦自の対「使徒」要撃作戦参画は認められないと主張する事はあまりに乱暴だ。ネルフは再考すべきだろう。繰り返すがネルフは秘密主義的、独断先行的である。
ネルフによる一国の軍隊に過ぎない戦自の対「使徒」要撃作戦参画は認められないとの主張は波紋を広げそうだ。今こそ冷静な議論が求められる。
時が時ならばこの手の全国紙一面にありながらスポーツ紙の記事的に大雑把な主張には「お前らのどこが冷静なんだ」と大げさに嘆息でもするところである。だがしかし、擁護される戦略自衛隊にいる今となっては文句は言えない。それにそもそも……と、ミサトはただ唸りながら新聞を広げ――ようとした瞬間、
強か頭を殴られた。
ずっしりとした感触と鈍痛が響く。首が外れるかと思った。
「痛ッ!」
頭を押さえながら後ろを振り向くと、そこには微笑んだ老婦人がひとり――丸めた分厚い雑誌を持って佇んでいた。
ミサトが持ち込んだ女性誌だった。今月のキャッチフレーズは「大人のオンナは乳影で魅せる! コムスメには負けない三十オンナの魅せドコロ」である。手入れが行き届いたモデルの顔も、今は老婦人の手の中で無残に歪んでいた。
ミサトは視線を雑誌から彼女の顔へと移し、覚悟を決めた。目をかたく瞑って、声を待つ。案の定、声はすぐさまやってきた。
「食べながら新聞読んだらあきませんでぇて……」
「何ッ遍言うたらわかるのッ!」
カポン。硬くなった雑誌の背の部分が、容赦なくミサトの頭を打った。
「節操ないよなあ、こいつら」
軽く瘤になった生え際をさすりながらミサトは愚痴を零していた。手元にあるのは、今朝、ぶん殴られる原因になった新聞である。
記事では「使徒」という名称までが既に使用されていた。――ただし、特殊な兵装を持ったテロ集団として。それが戦略自衛隊側が掴んだ情報というわけだ。これは当然間違っているが、ネルフとしてもそこで使徒の正体を明らかにして混乱が広がることは望まないだろう。――こちらは、つい数日前の聴取に応じたミサトの判断である。
ミサトは煙草の煙を吸い込み、勢い良く鼻から噴出させた。人が見ている前では絶対にできない芸当だが、今なら構わないだろう。禁酒が叶ったら禁煙が破られるとは皮肉な話だ、と自分の嗜好品への自制心のなさを棚に上げながら、ミサトは思索に戻った。
半端な情報提供である。戦略自衛隊とネルフ、どちらにも顔を立てるにはこうするしかない……というのがミサトの用意した一応言い訳ではあるが、それが通用するとはさらさら思えなかったし、ここまで事態を大きくしてしまった以上、今回の事態が終息したとして今さら何事もなかったようにネルフに帰ることができるなどということがあるはずもなかった。
流石の楽天的なミサトでも、そこまで甘い目測は立てはしない。そんな希望は基本的には上申書を提出した時点でゴミ箱に放り込んでいた。
それに。
そもそもの最初から、碇が彼女を宙ぶらりんな状態にするためにこのような所に放り出したのだろうということはわかっていた。様々に無意味な理由がついてはいたが、碇司令の意志は彼女を冷遇しネルフやそこに集まる情報から遠ざけることにあったはずだ。ミサトが切れた嫌がらせに近い理由も相当影響したのではないかと彼女自身疑わないではなかったが、そのような純粋に私的な理由を措いても、実力があるが忠誠度の低い部下よりは、実力はそれ程ではないにしろ支配力の及び易い部下を取るという判断基準には引っかかった筈だ。ネルフ司令、碇ゲンドウがそういう男であることは今までのやり口から想像できないではなかった。
表向きはどうあれ、所詮あの赤い眼鏡の基準に叶わぬ者はかの組織の一員としては存在できないのである。
見えない独裁。
それがネルフの体制の核心であり、そこからはみ出した存在でありながら運、勘、実力――などという有事には必要ではあるが平時にはそうそうわかるものでもない力だけでその体制の端にぶら下がっていたミサトが、その中心にある情報を知っていると目された時に排除されるのは当然の流れであった。
こんなに早いとは彼女自身思っていなかったが。
ともかく、彼女は排除された。あたかも健康な者に感染した細菌のように。
ならば、いかにすれば使徒戦の最前線に復帰することができるのか?
毒を喰らわば皿まで、という。
彼女が考えたのは、まさにその方法だった。
その組織内の「まとも」と折り合わない「異物」であるからこそ排除されてしまったのならば、このネルフと同様にまともとも言いがたい組織にどこまでも食い込み、それこそ彼らの「まとも」の斜め四十五度上を行く理由でネルフに戻るしかない。
無論、異物として。
細菌一匹なら排除できるネルフも、鼻水を頭から掛けられれば風邪を引く他はあるまい。
そこに元部下からのあの誘いだ、乗らないはずが無い。あれもよく状況を見ている、とミサトは苦笑した。恐らく基本的には彼の方が優秀である筈だ。たったひとりで状況に放り出されて、さらに磨かれている。
(抜かされるなあ)
それもそのうちではなく、近いうちに、だ。
ぷっと吹き出しながら、ミサトはあの蕎麦屋での会談を思い出した。
「葛城さんには、例の特殊兵装で戦自がこちらの作戦に介入するように働きかけていただきたいんです」
日向はさらりと言ってのけた。
しかし、ミサトもここまで来て取り乱しはしなかった。硬い表情を崩さず、真面目にとぼけてみせる。
「何のこと?」
「例のトライデント級のことです」
「……よく調べたわね」
「僕にも、色々とつてはありますし――派手に動いてますからね、最近。どう足掻いても情報リテラシーの低いこの国ですし、嫌でも情報は入ってきますよ」
ミサトは軽く茶を啜り、手に持ったハンカチで軽く口元を拭いた。そして諦めたように日向に笑いかけた。
「じゃあ、全部お見通しってわけ、か。どこまで掴んでるの?」
「葛城ミサト、戦略自衛隊第三師団直付け、第一機械化小隊隊長を拝命。当該小隊は非常に特殊な兵装を持ち、その形状は――」
日向は役職を空で言い、手元にある資料を見ながら言葉を続けた。
ミサトは手を振って止めた。ぽりぽりと頭を掻きながら
「了解、了解。日向君、私より詳しいかもよ」
「光栄です」
「で、続きは?」
「はい。先ほども言いましたが、これは『追い込み猟』です。そのために二人には、ここで訓練を受けさせています」
ミサトは手渡された書類を見て、唸る。
「成程。こっちも追い込みに協力するように仕向けろ、と、そういうわけね」
そこには彼らの行き先と共に、今後の手順案が簡単に提案されていた。表向きの動き、そして表には出ない実際の協議について。
彼らも馬鹿ではない。行動くらい自分達で決めるだろうが……それでも、この提案書から大きく外れることはないだろうと思えた。きっと彼らはこの話に飛びつくだろう。彼らは何より実績を欲しがっている。
「そうです。悪い話ではないと思うんですが」
「ええ、彼らにとっても僥倖ね」
落ち着いた声で言うが早いか、ミサとは大げさにため息をついて机に突っ伏し、今度は子供のような声でぶつくさ呟いた。
「私の方はこれでいよいよネルフに帰れなくなるけどねー。……めっちゃ恨むわよー? 日向君?」
了承の合図である。日向は相好を崩し、既に少しだけ懐かしい駄々に笑みを浮かべた。
「こっちだって危ないんですから、これで相殺ですよ。それに、あれに勝つためには手段など――」
「選ばないことって言ったのは、あんただ――確かにそーだったわ。参ったわね……あ゛ー! 自爆したーッ!」
いかにも子供っぽくミサトは叫び声を上げ、何事かと慌てて駆けつけた店員に、一言。
「あ、すいません。カツ丼ひとつと月見もう一杯。代金はこっちの彼の伝票につけといてください」
今度は日向が、安上がりな元上司を持つと幸せだ、と安堵する番だった。