逃げられた瞬間、アスカはその日五回目の癇癪を起こした。
「やっっっっっっってらんない! 何よこの前時代的な訓練!? 山に入って追い込み猟!? エヴァを駆って使徒を斃そうってのに――」
バサッ。
言葉を止めたのは、頭からかけられた水――滝つぼから汲んできた飛び切りの冷水だった。
「ひえええええええ!? なっ、何よッ! なんであたしがッ!」
怒涛のように続く言葉も我関せず、と言ったように、アスカに冷水を浴びせた老人は淡々と言った。
「……また、逃げられた。何度言えばわかる? もう少しで芯まで来てるっていうのに逃げられるのは、勢子が悪いんじゃなく、待場にいる奴が悪いんだ」
「だーかーらー。なんでそういうことになんのよ。あたしは何にも……」
「それだ」
「はあ?」
「その負けン気の強さが仇になってる。殺気がぷんぷんして、臭い臭い。どんな鈍感ないたずだってそれではピンと来て逃げるわ。こんな人数で、しかも夏山でやるなんてのは遊びみたいなもんだが、それでも向こうにとっては死ぬか生きるかの瀬戸際だもの」
「んなこと言ったってさあ」
「んなこともへったくれもあるか、さ、もう一度」
ここ数日、ずっとこうだった。
あの廃屋寸前の木造家屋から出てきた爺さんに連れられてこの山に入って三日。「山の神様は醜女だから女人禁制」などという前時代の風習に従って、折角の髪を深い帽子に隠させられ、この暑い中肌の露出も禁じられ。その上で、この文明万能の時代に、「つのから」(どう味わっても牛としか思えない)だの「はなから」(どう味わっても豚としか思えない)だのわけのわからない名前の保存食だけ持って、今日も昨日も一昨日も。
三日間、寝ても起きてもこんな狩りの真似事を繰り返させられていた。
しかも、怒られるのはいつもアスカだ。隣で男の子のような恰好に文句も言わず黙々と仕事をこなしているレイは一度も怒られることはなく、追い立てる方に回っても、待ち伏せする方に回っても、怒られるのはいつもアスカだった。
くうん。
「……あんた、慰めてるつもり?」
足に擦り寄ってくるのは、爺さんが連れている雑種犬だった。くうんと言う可愛らしい鳴き声とは対照的に、その身体は大柄で、下手をするとアスカよりも重いのではないかと思える程だ。
「ここじゃあんた以下、か」
ため息を吐いて、アスカは軽く犬を小突いた。
ホバリングによって実現されるエヴァを凌ぐほどの怖ろしい速さにも、それに付随して起こる衝撃波による轟音にも、そろそろ慣れた頃だった。
エヴァよりも速く――そう志向して作られたことが明確なこの機体は、その姿、まるで地に臥せた矛のようだった。
「こりゃあフィールドさえなければ、案外、いい勝負するかもねえ」
そう言う自分の声も、耳には届かなかった。
しかし、その轟音の中を辛うじて通り抜けてくる声があった。
「……尉! ……葛城!」
振り向くと、轟音に顔を歪める桑山キクユキ一尉の顔があった。
すまし顔で叫ぶ。
「あんですかー! 隊長!」
「あんたは俺が出張していたのを良いことに何をやっているんだ! ちゃんと説明しろ!」
そういえば、彼にはちゃんとした説明をまだしていなかったことにミサトは気付く。この三日間、上と交渉したり実際の実地訓練に向けての準備を進めたりで、ちょうど見計らったように出張に出ていた彼にはまだ報告はできていなかった。
とはいえ、それは半分は確信犯だ。
いや、だってほら、きっと嫌がられるし。ここに来て彼が外されたのって、きっとあの食えないこの人の弟君とかもっと上の人とかが色々と関わっているわけで。
思いながら、ミサトは旗を降った。白い旗。終了の合図である。
「きゅーけい! だいぶ良かったわよ! 今日はもう実地は上がりにして良いわ! 休憩後、シミュレーションルームで……85点! いや、90点取るまで頑張って!」
大雑把に指示を飛ばしながら、ミサトはくるりと向き直り、本部管制塔の方へ歩き始めた。
当然、本来の隊長であるはずの桑山一尉が後をついてきた。
「ご報告が遅れたのは、謝ります」
開口一番、ミサトはそう切り出した。
「報告が遅れた、で済む話じゃないだろう、あれは――」
「もちろん軽快に動きました。あれだけの重装備が、ほとんど調整もなく……あの子達に訊いても決して教えてくれませんでしたが、私が来る前から何度か実地訓練を行っていますね。即時実戦用に準備されていた。そうじゃありません? 桑山隊長」
さらりと言い切るミサトの言葉に、ぐ、と桑山はうめいた。当然、あれらの重戦闘機械が一般には公開されていない兵装であることは重々承知のうえでのことなのだろう。
隠された兵器の規模、実力は、敵としてネルフが保有するとされる「エヴァンゲリオン」を想定しているであろうことは容易に想像できるはずだ。
ネルフにこっそり銃を向けてたんですね。
言外にそう言っているのだ。実地訓練をする前に、作戦のパターン――対人型兵器に対しての「追い込み猟」型の殲滅戦闘――も確認しているはずだ。わからないわけはない。
何がどうなっている? この女を俺の下につけた上の判断も、入るや否やいけしゃあしゃあと実地訓練なぞ始めだすこの女の考えていることも、全く理解できない。
上は上で、この女があのネルフからの出向で、しかも先にあんな派手な作戦を打ち立てた女だということを忘れているのではないのか。それに、この女もこの女で、自分がどういう立場にいるか、わかってないのではないのか。
無数の疑問符が頭に踊る。
桑山はひとまず思考を放棄して、問うた。
「何をやるつもりだ」
「ネルフとの、共同作戦……」
「はあ?」
「正式な申し出です。こちらからの、ね」
古巣のネルフなのか、この戦略自衛隊なのか、それとも、全く別の何かなのか。この女にとってのこちら、がいったい何を指す言葉なのか、桑山には計りかねた。
「つまり、使徒に対しての作戦の報を掴んだ戦自が、ネルフに対して共同作戦の遂行を打診した、と?」
「日本政府を通じて国連軍に対してなされた正式な打診です。前回の成果や、先の戦闘での失態のこともあって国連軍はもちろん受け入れていますし、それならネルフも大っぴらに断ることはできない、というわけです」
「胡散臭い話だ」
「でも、もう通っちゃった話ですから。とんでもないことを考える人もいるもんで、煽り食らっちゃった私も大変ですよ本当」
棒読みの台詞を無視して桑山はため息を吐く。
「誰のことだ。……大方あんたじゃないのか。前と同じで」
ミサトはこの度もまた登場した気合と誤魔化しと口八丁と駆け引きと恫喝と名演技と恨み節とはったりと嘘と方便ともひとつ方便という名の嘘八百……の苦労など忘れてしまったように、あっさりと言い切った。
「あら、よくご存知。でも、探しても私の名前、どこにも出てきませんよ、きっと」
「わかってるさ、それくらい」
陰謀ごっこと内部での勢力争いに躍起になっている上層部の連中の考えることなど、簡単に予想できた。南沙諸島での会戦に乗じていわば鳴り物入りでできたこの組織は、控えめに言って軍隊の体を成していなかった。そのことは、わかりすぎるほどわかっていた。
でなければ、この女が当初の予定を外れてここまで自由に動くことなどなかっただろうから。
「あんた、これも予想していたのか。あの作戦をやった時から。こっちが成果を出せば、対『使徒』の戦略に躍起になって参加しようとすることも」
「さて、どうでしょうね」
「何を考えてる?」
「何も」
「え?」
問い返して、桑山は息を呑むことになった。ミサトの顔には、今まで見せていた快活な表情がぺらぺらの嘘っぱちだとわかる、昏い表情が浮かび上がっていた。
据わった目でモニタを見つめながら、ミサトはにっこりと笑う。
「私が……私が考えているのは、サードインパクトを防ぐこと、それだけです。どこだって変わらない。そのためだけに、私は動いている。そのためならどんな犠牲も払う。そのために動いてくれる組織は味方、邪魔する組織は、どれひとつだって逃さず叩いて潰す。それだけのこと」
何のことはない。桑山は納得した。この女も、少しおかしい。その口調はまるで積年の恨みを抱えて全国を行脚する仇討ちのようだった。
一瞬血のつながらない弟の顔を思い出して、小さく身震いした。
いや、これはまだ、そこまでじゃない……
桑山は自分の首元をぱんぱんと叩いて、諦めたように言った。
「まあ、いいさ。前回に引き続きお手並み拝見と行こう。ただし……」
「どうしました?」
「明日は訓練はなしだ。負担が大きすぎる。あんたもわかってるんだろう?」
「それは……」
ミサトが顔を歪ませる。
その顔を見て、桑山は少しだけ安心した。そうか、こうは言っているものの、人間捨ててるわけじゃない。納得した桑山は、ゆっくりと念を押した。
「今は、俺の方が、上だ。大丈夫、あんたに見せたあれは手加減してるんだ。そう条件付けて……躾けてある。訓練では決して本気にならないように、けれど一度実戦になれば、容赦なく動くように。あいつらは今でも、充分動く」
今さら隠し立てする意味もなかった。それに、言ったところでそれをネタにどうこうするようなタマではないことも、今の会話で知れた。
この女の在り方は、本質的には自分だけを恃みに生きる生き方……軍人というより、もっと別の生き方だった。
だが、心だけが、それに付いて行けていない。
「わかりました」
ミサトは抑揚に欠ける口調で答えた。
ミサトは立ち尽くしていた。
彼女の罪の証が、そこにあった。サードインパクトを防ぎ使徒を斃す。私怨に基づいたその道を進むことの代償。
心のどこかで、先延ばしにしておいて良かった、と思った。先にこの姿を見てしまったら、きっと、この作戦を遂行することを、どこかで躊躇っただろう。
「碇さん。私です。葛城です……碇さん?」
聞き覚えのある声に、老人の意識が浮かび上がってきた。
『聞こえて、おります』
後ろを振り返る。壁際のスピーカから、合成音が響いていた。
『お久しぶりですね……申し訳ありません。こうしていると、日付の感覚もわからなくなるのですが……どうですか、順調ですか、作戦は』
「はい、なんとか……あの」
謝罪の言葉を述べようとするミサトを合成音が制した。
『謝ることはありません。ミサトさんは職責を果たした。狙い撃ちにされる危険に耐えて』
「狙い撃ちには、されました。碇さんが動いて下さったから――」
『いいんです。老い先短い爺の怪我と引き換えに、孫の命も、まだまだ先のある方の命も、危険に晒さずに済んだ。戦闘に参加できなくなってしまったのが、残念ですが……』
「大丈夫。ここは……私達が、何とかします。助けて貰ってばっかりじゃ、悪いから」
『ははは。それは、そうだ。よろしく頼みます。私の代わりに……レイと、あの嬢ちゃんを』
そうか。ミサトは悟った。
謝っても、大した意味はない。この人にとっては、自分の命などさして意味はないのだから。ならば、彼が守りたいと思うもの――子供達の命で、それに代えるしかないのだ。
だから、ミサトは言い切った。
「はい。成功させます。絶対に」
「心強い。実に」
それきり、また老人の意識はまどろみの中に沈んだ。ミサトはベッドの前でぴたりと踵を揃え、棺桶のような水槽の中で昏睡する老人に向かって最敬礼した。