殺生である。
熊を殺すということはそれ即ち殺生である。人間は殺生をしその生を喰らい自らの内に取り込むことで生きている。逆に言えば、人間が生きるためには生を喰らうを要するがために殺生は行われる。
当然山の生き物を殺す際には山ノ神に祈りを捧げるが、さりとてこの原則を見誤るものを決して山は許さないだろう。
つまり、殺すからには喰らえということだ。
その簡単なルールだけは絶対に曲げることはない。
だから老人は儀式を終えて(呪文の内容はレイにもアスカにもわからなかった)から作った鍋を「肉は嫌い」と言って拒否しようとしたレイの頭を手加減なしに、しかも拳骨で殴った。それはレイがそう言うなりのことで、訓練中にレイを蹴ろうとしたアスカでさえ、思わずかばってしまいたくなるほどの剣幕だった。
幸いにもレイは基本的な戦闘訓練を受けていたので受身を取ることができたが、一般の女子中学生ならそのまま倒れていてもおかしくないほどの一撃だった。
そして、食べなさい、と一言宣言した。
レイはきょとんとした顔で頭を押さえていた。
「食べなさい」
「それは……命令?」
「そうとも。食べなさい」
有無を言わせぬ調子だった。
レイはたんこぶを作って、不承々々熊鍋に口をつけ、汁を啜った。そして一言、
「……美味しい」
「だろう。せっかく山ノ神さんからいただいたもんだ。明日は決戦なんだろう。たくさん食べなさい」
そう言うと彼は、髭だらけの顔で、にか、と笑った。
「本日の作戦は第3新東京市にて行われる。で、対外的には本第一機械化小隊葛城分隊所属のトライデント級陸巡は試作機として公表する」
桑山一尉はそう切り出した。
「了解しました」
「では本日の予定を言う。これより指揮官機としてVTOL一機、及び『ひめじょおん』以下トライデント級五機が本駐屯地を出発、いったん長野から新潟方面を迂回して……なんだこの予定経路は?」
桑山は妙な経路に声を上げる。対するミサトは冷静に返した。
「そこにエヴァンゲリオンのパイロットがいるそうです。戦闘前のブリーフィングも兼ねて、彼らを回収の後第3新東京へ向かって欲しいとネルフ側から要請がありました」
ネルフ側、ね。頭ごなしに何でも決めてくれて、気持ちがいいな。桑山は肩をすくめて続けた。
「ということは、現場指揮はあんたが執るということか」
「そうです。向こうは捕獲・殲滅用機器、及び支援兵器の制御に専念するとか」
「それが戦闘の要になる。おまけに作戦の主軸になるのはあのエヴァンゲリオン……いちおう、共に顔は立つか」
「さあ、どうでしょうね。そこらへんは私には関係ありませんので」
「言うねぇ。……まあいい、それじゃあ、ウチの奴らを頼んだぞ、葛城さん」
「了解しました」
ミサトは昨日の病室を思い出しながら、これ以上ないほどの敬礼をした。
すっかり垢を落としたレイとアスカは、来た時と同じ服を着て県境のある国道を車で走っていた。
服からは洗剤の香りがする。あの老人の奥さんが洗って、干しておいてくれたものだ。
服にはそれに加えて、いくつか新しいアイテムまで追加されていた。レイの麦藁帽には可愛らしいリボン。アスカのパンツは、ちょっと壊れていたリベットの部分が補修されていた。
雪崩みたいな奥さんだった。
旦那よりかなり若いと思しき奥さんは垢と細かい傷だらけの二人を見るなり声を上げ、お風呂に叩き込み、消毒液を塗り、化粧水をはたき、そして目ざとくレイのたんこぶを見つけると、
「あらまあ! こんなに腫れてまさかあの人がやったの言っておかなくっちゃだいたい女の子をあんな山奥に連れて行くなんていくら昔の恩人の頼みだからって何考えてるのかしらあの人! 本当にごめんなさいね? あら、そんな、いいのよいいのよこれくらいほら早く着てみなさいな、わあ! やっぱり二人とも本当可愛らしいなんであの人ッたらこんな可愛らしい子を私に紹介しないまま山なんか連れてっちゃったのかしらまったくもう。今回は訓練だったけどそうじゃなくても一度遊びにいらっしゃいね、それから……」
彼の自宅ではなく、狩用の小屋へ来るように指定されていた理由がよくわかった。
「……よくあの奥さんと結婚しようと……思いましたね」
車に乗ってようやく人心地ついたアスカがやっと敬語を使って訪ねると、老人はハンドルを片手に苦笑いを浮かべる。
「はははは……言わんであげてください。ああ見えていい奥さんだから」
「何処が」
頭を危うく包帯でぐるぐる巻きにされそうだったレイが、後部座席にちょこんと座って訊いた。頭には申し訳程度に保冷剤を巻いたタオルが括りつけられていた。
バックミラー越しにそれを一瞥して、彼は言った。
「そうだなあ……こういうことを趣味にしていると、軽蔑されてしまうこともあるんだけれども」
「こういうことって、ハンター?」
「うーん。何だかんだと言っても、殺生だからなぁ。嫌う人もいるんですな」
「そんなの、のうのうと消費者だけやってる人間の傲慢ってもんよ」
ハンドルを切りながら、笑い声。
「そういう人ばっかりだと、助かるんだけどもね」
山道のカーブを、車がゆっくりと登っていく。
「やっぱり殺生は殺生。それをわかっているから猟師も、細かい規則を守る。そう信心深くなくったって、山ノ神からの授かり物として生き物を殺している、と思おうとする。でも、よしんばそうであっても、やはり生き物を殺すことには変わりないんだなあ」
窓からは、青い臭いの山の風が流れ込んでくる。
「でも、あたしたちが生きていくためだもん、仕方ないじゃない」
そう言って口を尖らせたアスカは次の言葉に止めをさされた。
「さぁて、そうかな。それは本当はこちらの傲慢で、本来はどっちが生きようと、同じなのかもしれない」
助手席の窓から景色を眺めながら答えていたアスカが怪訝な顔で老人を見た。もう老人の視線は上り坂の先で結ばれていた。その言葉はアスカには向いておらず、ほとんど独り言に近かった。
「……でも、あの奥さんは例えばそういうことを考えてしまうような時に、なあ熊ども、私どもをゆるせよ、とちゃんと自分も含めてそう思ってくれるんだな。だからいい奥さんだ。こういうあれこれの因果を一緒に背負ってくれるから、うん」
レイもアスカも、二人して何も言えなくなった。
そこで、ふと気付いたように彼はバックミラーを覗いた。苦笑して先を続ける。
「ああ、申し訳ない。……まあ、俺は所詮生業でやってるわけじゃあないから、そういうのは幻想かもしれんなあ。……でも、あんたたちには意味があるかもな。あんたたちこれから、怪獣を殺しに行くんでしょう」
「……えっと」
「ええ」
アスカが少しだけ口ごもり、レイがよどみなく答えた。ふうむ。と老人は少し考え込んでから、少しためらいがちに、ぼつぼつと言った。
「アスカさんは決心が足らず、レイさんは考えが足らんのかな」
助手席のアスカも、後部座席のレイも、突如断言されたその言葉に首をかしげた。名前を呼ばれたから黙り込んだというわけではなかった。
「ううーん。俺は正義の味方なんか、町興しの被り物くらいしかやったことないから、こんなことを言うのは僭越なんだが。見るところ、アスカさんは、よくよく自分がしていることをわかってる。だからこそ、考えて考えて、そうやって論を立てる。だがその分、そうやって信じ込まなければやれんくらい、覚悟が決まってない。何をするのか、よう言わない」
横目でアスカをちらり見てそう言った後、サイドミラーからバックミラーへと視線を転じる。
「レイさんは、よくよく覚悟がある。何をすべきか、きっちり決めてかかってる。でもその割には、自分が何のためにそれをしているのか、自分がしているのが、本当はどういうことなのか、考え足らずだな。そんな気がするよ、俺は」
説教という雰囲気ではなかった。思ったことを言っただけという風に、それきり彼はまたカーブの多くなってきた山道に車を走らせるのに専念した。けれど、元々話さないレイだけでなく、アスカまで見透かされた気分で考え込んでしまって、車内は自然と無言になった。
ややあって、その沈黙を破る声がした。
「いいコンビだなあ。助け合えばいい」
言ってから、続けた。
「碇さんもこんないい孫がおって幸せだなあ」
その暢気な言葉にアスカは苦笑し……それから、言い返す。
「って、こいつはともかく、あたしは孫じゃあ……」
「うおお!」
叫び声が聞こえるなり、急ブレーキが踏み込まれた。身を乗り出したアスカは危うく頭を打ちそうになった。
そして文句でも言ってやろうとアスカは顔を上げ――硬直した。
目の前に巨大なものがあった。
「何……あれは?」
口をついて言葉が出る。
「……あんたたちが乗るロボットじゃないのかい」
「いえ。違う。あれはネルフのものではないわ」
冷静に告げるレイの視線の先には、見慣れたものとはカラーリングが異なった垂直離着陸機があり、そのさらに向こうには、エヴァよりも疾く駆ける乗り物、トライデント級陸上巡洋艦が控えていた。
爆音の中で彼女は、風に煽られるロングヘアを押さえながら立っていた。
「初めまして! 葛城ミサト一尉よ。元ネルフで――」
「作戦部第一作戦課長、で、今は戦略自衛隊に出向中、ですよね?」
アスカがそう後を続けると、ミサトは苦笑しながら答えた。
「ええ、そうね。他には何か知っている?」
「いえ……」
さすがに、あの黒縁眼鏡さんはあなたのことが好きみたいですよ、とは言わなかった。
ミサトは不敵に笑って、アスカの耳元に唇を寄せる。
「そう? じゃあ覚えておいてね。あなたたちが世話になっているあの金髪女の友達で、かの女の男である司令の怒りを買ってネルフを左遷、今は戦略自衛隊で虎視眈々とネルフの地位を狙っているところよ」
「……それ、ホントですか?」
「さあねん。……レイ! 久しぶり、元気だった?」
話はそれで終わり、という風にレイに水を向けた。声をかけられたレイはミサトが見たこともない私服姿でぺこりと頭を下げる。
「おはようございます、葛城一尉。……お元気、でしたか」
言い慣れない挨拶をなんとか言い終えたのを見て、ミサトは軽く口笛を吹きそうになった。随分可愛くなったし、その上社会性も向上、か。やるじゃん、マヤちゃん。
「もう元気元気。……あなたと、おじいちゃんのお陰でね。さ、乗って。無駄口叩いといて申し訳ないけど、そんなに潤沢に時間があるわけじゃないの」
「はい」
「了解でーす」
端的な返事と糖菓子のような人当たりのいい返事をそれぞれ返して、二人は車の隣に立ち、顔をしかめて機械を見上げる老人を振り向いた。
彼は二人と目を合わせると、少し険しい表情になった。
「行きますか。うむ……なんと言っていいのかわからんけれども……命を大事に」
「ありがと」
「ありがとう」
「うむ」言い淀み、でも、思わずと言った感じで言葉を押し出した。「そうだな。うん。身体を大事に、無理はせず……いや、無理はするんでしょうが……怪獣を倒すわけだから……」
「なんですか、最後だってのにカッコつかないなあ」
訓練中や、さっきの言葉を吐いたときが嘘のように締まらない彼に、アスカは呆れたように言った。これではあの奥さんとそれほど変わらない。
「……呼んでるわ」
レイが振り返ってつぶやく。
「わかってるわよ。……じゃあ、そろそろ行きます。呼ばれてるらしいから」
「あ、ああ」
アスカは礼を言って踵を返した。判然としないけれど、彼が言うに、決心はないけれど考え屋のアスカには、複雑な表情で言い淀んだ彼が何を思っていてくれるのかはわかるような気がしたからだ。
けれど、歩こうとしたとき、アスカはひとつ気になることを訊き忘れていることに気付いた。
「あ、ちょっと待って」
「うん?」
老人の上げた声に、少し先にいるレイも振り向いた。
「さっき流しちゃったけど、気になったから。町興しの被り物、っていったい何ですか?」
破顔一笑、笑い声を上げてその疑問に答えた。
「笑わないでくださいよ。セカンドインパクトの前は公務員をやってましてね。町興しの企画でヒーローをやったことがあるんです。ほら、テレビでやってるような、五人組の」
五人組。アスカはぼんやりと、小さいころケーブルテレビで見た子供向けの番組を思い出す。カートゥーンチャンネルで放映していた、正義の戦隊が悪を倒す番組だ。もっとも、早熟だったアスカは「あんなの、子供だましよ」なんて切って捨てていたが。
「へえ、いいじゃないですか。何色?」
そう、確か、色分けされていた。例えばエヴァがそうであるように。
自分が今いるのは、裏で権力が渦巻いている、なんだかよくわからない場所だというのに、そんな所だけはきっちり「それっぽい」ことに気付いて、アスカは苦笑いした。
「青だな。新潟県は佐渡ヶ島方面の平和を守る、サドガシマブルー」
ぶっ、とつい吹き出す。サドガシマ方面って何だよいったい。地名か? 何だ、そのローカルなヒーローは。
「ダッサぁ」
「……まあ、確かに恰好良くはなかったなあ」
だろうな、とアスカも思う。でも、嫌ではなかった。
「でも、町と自分のためにやってたんでしょ。正義の味方」
そう言いざま、追いついてきたレイの肩を抱いて隣に並ばせてから、にやりと笑う。
「さっきあんたが言ったことにちゃんと答える!」
きっぱりと叫ぶ。
「あたしは使徒を殺す。ホントはどっちが生きてようが、神様にとっちゃ変わりないのかもしれないけど。でも、あたしは生きてたい。死ぬのはイヤ。こいつとか、人類が滅んじゃうなんてのもやっぱりイヤ。だから!」
真剣な目で、腰に手を当て胸を張り、彼を睨む。
「ホントは仕方なくなんかなくても、傲慢でも、相手が神様の使いでも、あたしたちは使徒を殺すわ」
気圧されるように老人が黙った。……が、ふう、と一息、肩を落とすと、にっこり笑ってこう言った。
「頑張って行ってらっしゃい。俺もその怪獣に、我らをゆるせよと、祈っておくから」
アスカは仁王立ちのまま、こっくりとうなづいた。
そしてレイが、アスカの言葉を代弁するように言った。
「行ってきます」
その言葉を合図にして、二人は歩き出す。