三番目、とアスカは呟いた。ドイツ語だ。
ドライテ。遠くを見てもう一度言う。そしてさらに続ける。先ほどの激闘からほとんど息もつかせず追い立てられてくる目標に合わせるように。
ねえ、使徒よ。お前も随分数を減らした。いや、割合、だ。あたしたちにどれだけ分割されてもお前はただの一匹なんだから。
アスカは変わらずドイツ語で歌うように呟き続ける。マイクを通してそれは指揮所に伝わっている。だがそれは指揮官である日向を含めほとんどの人間には理解できない。理解できる葛城一尉はそれどころの状況では既にない。構わない。いずれこれは報告などではない。確認だ。自分のための。戻りがたい最初の静けさを、少しでも取り戻すための。
女らしくもない。わかってる。でも、この状況は、いつもの調子で過ごすにはちょっと辛すぎる。
ねえ、お前。お前は常に一匹だ。けれども、もう現存する身体の割合は元の半分よりもなお小さい。
そしてその半分で、いまだあたしたちに抗し続けている。
こちらも数を減らした。特に「勢子」役の陸上軽巡洋艦が被害を多く受けた。
いま、もはや「冠ヶ岳」と「小塚山」と呼ばれていた二機は行動不能だ。共に二番目――上半身だった破片をさらに削った、元の三割ほどの大きさをしたそれを追い込むときに、致命的なダメージを与えられた。
後者は、それを回廊に追い込む際にジェネレータ周辺を吹き飛ばされ、命からがら戦線の外へ逃げおおした。パイロットは衝撃による打撲で、すぐさま戦略自衛隊病院に送致。
もう一方はさらに酷い。一番目の破片に引き続いて追い込みを担当した02「冠ヶ岳」は、それを第3新東京市へと叩き込む寸前、獣の腹に当たる部分から下を叩き潰された。根こそぎだ。
第3新東京市が有する一般の街と発達しすぎるほどに発達した消火設備がなければ、そして、その街の南に芦ノ湖という水瓶がなければ、きっと無事ではすまなかった。
いや、現に無事ではなかった。パイロットは脱出の際に数箇所を骨折し、同様に戦略自衛隊病院へと既に送致されているはずだ。
生きているかどうかはわからない。そう信じるしかない。
ここで、アスカは理解するしかなかった。
彼我の差を。
アスカは隅に表示されるライブ動画を見る。強羅絶対防衛線。そしてそこから続く回廊。既に拘束ネットは半数以上が死んでいる。強羅側の急造ブレイドもまた死んだ。四番目――最初に殺した部分と対になる四分の一は、レイの駆る零号機がひしゃげた矛で押し止めている。それを遠くから、一機が砲撃している。機体はやはり損傷している。
だが零号機は、無傷だ。
そして、こちら。
プログレッシブ・ネットはその内二機を完全に使用しきって、最終的に使徒ごと圧壊させた。圧壊の際にかかる圧力と、それまでにかけられた電子レンジの中のような分子レベルの振動で、もはやその組織は原型を止めない。
もちろん、その周りにあった兵装ビルも大きな被害を受けている。
だが、それを扱い、使徒との格闘線の大詰めに常にいた弐号機には大きな損傷はない。
それゆえに、アスカは理解するしかない。
彼我の差を。
それは敵味方の差異ではない。間違ってもネルフ・戦略自衛隊と使徒という外形的な二分法とは違う。
それはもっと本質的なもの。
二種類のモノの違い。ヒトと使徒、即ち「者」と、トライデント、即ち「物」との間に横たわる違いだ。
自ら意思を持つものと、その道具として動くものの違い。
生きるものと生きていないものの違い。
その差異は圧倒的だ。
だから、例えばやられてしまった彼らと自分の違いは、決してパイロットの性能の差なんかじゃない、とアスカは思う。
それはもう判りすぎるほどに判っている。
これが数週間前なら違っただろう。数週間前と同じ自分なら、次々に倒される味方機を嗤い、自らの性能を誇っただろう。天才である自らと、自分が駆っている「人形」の性能を。
そして敵の「兵器」を倒そうとしただろう。
だが今はもうそう思えない。そう思えない自分がいることをアスカは知っている。山に篭り、戦略自衛隊の彼らと戦場を共にしてその差異を目で見て実感し、目の前にいるあれと対峙してその共通点を身体で実感した今となっては、もうそれは火を見るより明らかだ。
彼らはよく訓練されている。もしかすると自分よりも訓練されている。まるであの山の犬のように彼らは機敏に、統率を持って動いた。
しかし、彼らの駆る機械は生きてはいない。だからこそ撃墜される。
使徒やエヴァのように生きてはいないから。
エヴァよ、とアスカは心の中で呼びかけてみる。
今ならわかる。お前は人形ではないんでしょう?
そうよ、と答えるのが聞こえるような気がする。女性の声。なんだ、お前あたしと同じ女だったのか。戦闘で恐慌状態に陥っているための幻聴かもしれないと思うが、そうであっても構わないとも思う。たとえ、明日になって、馬鹿らしいとそう思った自分を笑うとしても、いまそう思っている自分が確かにここにいるのだから。
よし、行こう。
アスカはエヴァに呼びかける。
そして、来い。
アスカは使徒に、その細切れにされた破片に呼びかける。
三番目が待場に入り、アスカは動いた。
正確には、アスカとその周りにある街が動いた。
「ゲーエン」
掛け声と共に、アスカは歩きだす。そして同時に、街場の機構が破片を追い詰め始める。
街はアスカの部下のように手足のように動く。それは命のない機械だが、しかし彼らの駆る陸上軽巡のように使うべき者が使う道具だ。だから、耐久性や即時の反射性はなくても、ある程度は思うまま動く。
二回の激闘の後では、もう打ち合わせもない。要らない。もうやることはわかっている。
ミサイルランチャーが弾ける。向かわせたくない逃げ道にネットを張る。
要塞都市が冷徹に獣を追い込んでいく。
先ほどまでの破片よりは小柄な一体は、手馴れた攻撃を受けて、正確に罠へと向かっていく。
そこで、光る。
「ふッ!」
弐号機は後方に飛んだ。一瞬前までいた場所が光と熱に変わる。
「ネットは!?」
『異常ない! 作戦を続行しろ!』
「りょうか、わっ!?」
答える間もなくもう一撃。偶さかそうなったわけではないだろう。情報が伝達されているのか、弐号機に対する攻撃は回を追うに連れどんどん激しさを増していた。
『シールド射出!』
日向の声が聞こえる。その声に呼応して目の前に出現した壁も。
ぐにゃりと溶ける。
「……あたし狙いか。――上等!」
壁が溶ける間を利用してライフルを受け取りながら、叫んだ。
『こいつ、あたしを狙ってる! 罠の後方に行く! 援護を!』
途切れ途切れの言葉に日向はすぐさま反応した。
周りのスタッフもまた。
アスカが跳ぶ。高く飛び、罠の後方、中心部と罠との間へ回り込む。攻撃を受けるかどうかは賭けだ。
呼応するように破片が跳んだ。いや、浮かんだ。弐号機のような自由落下の軌道ではなく、明確に飛行した。
直後。跳躍力と重力が止揚し、弐号機の落下が始まる。
「ヤバ……!」
こちらを狙っていたのは、この飛行のための布石か?
まずい。罠と、アスカを越えられれば――その向こうには、もう街を守るものはない。
「くううッ!」
搾り出すような声でアスカは着地し、もう一度、跳ぼうとした。
緩衝材入りのアスファルトに人一人入り込めるほどの罅が走った。
「ち、っくしょ……」
『――待って!』
何?
タイミングを外した弐号機はたたらを踏んで倒れる。
が、タイミングを崩していなかったとして跳べたかは怪しい。二度の闘いで、かなりの筋肉繊維が崩壊を始めていた。
脚の痛みに顔をゆがめて、アスカは空を見上げる。
青空に、閃光が走った。
その向くほうは、使徒の破片。破片は肩口を持っていかれ、きりもみしながら街の東へと落下した。
「誰!?」
アスカは叫ぶ。
答えが返る。
『あたしです! 霧島! 『姫女苑』、加勢しに着ました!』
言葉と同時に、アスカはその姿を認めた。長大なテールブーム。まだ無事なホバリング機構。他の機体よりもやや野暮ったいフォルム。
「助かった! つーか遅いわよ!」
『ごめんなさい! つーかうっさい! 向こうだって大変だったんだから!』
我の強い少女二人が、叫ぶ。一瞬の人間らしい会話が、加速し続けて自分達にもついていけなくなりそうだった状況を、ほんの少しだけ引き止める。
「向こうはどうなってんの!?」
『早雲山と台ヶ岳は中破! 今は……零号機が中心になって、こっちに追い込んでる!』
「もう!? ――2番のパイロットは!?」
『無事!』
良かった。
その思考を遮るように、早口の会話を押し止める叫び声。情報課、青葉シゲルの声だ。
『使徒が再度浮上!』
双子のように、日向が後を継いだ。
『させるな!』
さらに、割り込む声。かすれ声は、ミサトのそれだ。
『姫女苑は市街中心部から東へ回り込み! 弐号機はその場で待機して――』
「あいつをネットに叩き落す!」
アスカがミサトの発言を奪ってそう叫ぶのと、弐号機の真上をその機械が飛び越えるのがほぼ同時だった。
いくつもの光が飛び、その通った道が点々と燃えていく。
あいつ、やる!
無事だったのは、任務の性格上の理由だけではないのか。
「ネットは?」
『もう起動させてる。これで最後だ、できれば――』
「約束なんかできない!」
既に二つのネットが圧壊している現状で、最後のネットを捨てたくない気持ちはわかる。だが、しかし。
砲撃に押されて、破片が弐号機の待つ罠へ飛び込んでくる。
いくつかの砲撃は、フィールドで弾かれていた。
『弐号機、フィールド全開!』
霧島マナがGに耐えながら叫ぶ。
「やってるわよ! ――後は、こっちに任せろ!」
そう応じて、弐号機がまた地を蹴った。
破片。元の使徒と相似形をしているが、その大きさは弐号機の胸ほどしかなかった。
アスカが、弐号機が構える。
一番目の破片をそうしたと同様に、最初は蹴りで攻めた。脚を長く使い、体高の低い破片に踵を落とす。
その勢いは随分と弱まっているが、あっさりと蹴りを受けられた一番目と違い、その蹴りは吸い込まれるように決まった。
足場にするように、その上を踏み越える。
これで、罠が相手の向こうに来た。
「りゃああああ!」
起き上がる破片の胸に、小さくなったコアのある場所に、渾身の力で突きを決めた。
計算されたそれではない。完成されたフォームでもない。ただ、力任せの一撃。
二番目の破片――最初の闘いで投げられたのと同じ形をした、使徒の「半分」――に、止めの一撃を受けられ起こした被害は、もう繰り返さない。
受ける暇も、弐号機を投げ返す余裕も与えないように、完全に、完膚なく、叩きいれる。
「――あああああ!」
アスカは弐号機の歩みを進めてその拳を押し入れた。
やがて、その音が聞こえてきた。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ!
削れる音。異常な再生能力を持ったこの破片が、その再生能力を絶対に使用できなくなるまで細切れにされる音。
アスカはひたすらにその轟音を聞いた。
実際にはそれほどでもないのに、何時間も経つような気分だった。
そして、轟音が止む。そして、金属の擦れる音。やはり戦闘の衝撃に耐えられず、ネットは圧壊した。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
これで、みっつ。あと――
ごうん。
――着た、か。
アスカは、南に上がった爆煙を見た。そして、煙の向こうにいるはずの最後のひとつを見ようと目を凝らした。
最後のひとつはいた。煙の向こうに。
通信機能は麻痺していたが、零号機もそこにいるのがアスカにはわかった。
もう、市街の兵装はほとんど機能しない。三度の圧壊による衝撃で、電気系統はかなりいかれている。
そして「姫女苑」は、最後には全弾を撃ち尽くしただ走っていた。期待できない。
これで、戦場には彼女らだけになった。
弐号機と、零号機と、その間にいる使徒と。
生きるものだけに。
「あの山と同じね」
いつの間にかアスカは呟いていた。
答える声は聞こえない。
「通信は――」
アスカはモニタの端を見る。電波障害。放射線によるものだった。
「あいつ……」
霧島、死んだ?
いや、アスカは頭を振る。あの疾走を見ているからわかる。簡単に自爆して死ぬ、そんなタマじゃない。
なら……きっと生きている。
じゃあ、こっちもこっちの仕事をやるだけだ。
アスカは弐号機の瞳を通して、炎上する市街、そこから上がる煙の向こうを見た。
喉を通るL.C.L.が妙に引っかかった。ごぼり、と吐く。
そして、意識を煙の向こうに集中させた。アスカは弐号機の瞳になり、耳になった。
もうどちらも、大して効かない。カメラは損傷し、耳も爆音で潰された。けれど、アスカはもう光よりも音よりも、確かなものを感じていた。
感じる。A.T.フィールドがある。それを発することのできる、生き物がいる。大きな気配。
無意識の内に、肩のパイロンを開いていた。条件反射のようにナイフを抜き放って、構える。
ああ、わかる。わかった。そのまま、そのまま来ていいわよ。
今度こそ、とアスカは思った。今度こそ、あたしはこの神の使いを本当に殺す。生きていない兵器としてじゃなく、生き物の一部としてでもなく。
この煙の中、相棒に追い立てられてくる生き物の最後の命を、この手で。
悪いことかも知れないが、そうする。
死ぬのは、ごめんだ。
ふわり、と弐号機は前のめりに倒れた。もう地を蹴って進むだけの筋力は残っていない。
だが。
その場所に正確に、敵は現れ――
弐号機の構えたナイフは、もう分裂しようもないくらいになった破片のコアに、正確に突き刺さった。
「……死んだ?」
答える声は、雑音交じり。
『わからない』
『どうなんだろ? もしもーし、スタッ……ぶ、ごぼっごぼっ!』
あ。
レイの声に続くもう一人、素人みたいにL.C.L.を咳き込む音は、もしかして。
「……あんた、生きてたんだ」
回復したモニターに写ったのは、声から予想した通りの、はねっかえりの女の子だった。年は、ちょうどアスカと同じか少し下くらい。茶色いショートカットが、L.C.L.に揺れている。
『もち』
「やるじゃん」
『ははは。戦略自衛隊っこは伊達じゃないっ……痛……』
彼女は、戦闘の衝撃で罅でも入ったのだろう、脇腹を押さえながらも、レイの後ろに妙なポーズをつけて陣取っていた。レイは、変わらず渋い表情だ。
『……頭が、痛いわ』
『えー? なんで? やっつけたんだからいいじゃない?』
能天気な声に、アスカは通信機を操作しながらあっさりと切り返す。
「バーカ、異物反応でしょ……と、発令所、聞こえる?」
雑音だけが聞こえる。
『もう試したけど、駄目。有線も使えない』
「……あんた、何したのよ?」
『私は追い込んだだけ、突撃は、彼女が』
今度はアスカが頓狂な声を上げた。何考えてるんだ、こいつ?
「はあ? カミカゼ・アタックってわけ?」
『ええ、まあ……』
「あんた、バカ?」
『バカとは何よー! そっち、手一杯っぽかったんだから、仕方ないじゃん!』
「う……まあ、例は言っとくわ。……お疲れ」
『こっちこそ。ね、綾波さん、大丈夫?』
『ええ、大丈夫』
アスカは、レイの表情と、その向こうに写る景色を交互に見た。まだ炎は収まらない。それに、放射性物質で汚染されているなら、いくら要塞都市でも洗浄作業にかなりの時間がかかるだろう。
『こっから、どうする?』
不安げなマナの声に肩をすくめる。
「どうやら死んでるみたいだけど……ねえ? この分だと発令所には、しばらく連絡も取れそうにないから、生命維持モードで待つしか――」
そこで、レイが何か思いついたように顔を上げた。
『……これは、殺生』
モニタに写る、いつもよりもさらに青ざめている顔は、まるで最後に手を下した人間のアスカを責めるようだった。
「へ? ああ、まあ……そうだけど、何よ、文句ある?」
が、言い終わった後で、それが責める口調でないことに気付く。そもそも、そこまで考えて行動する女じゃない。
『殺生……なら……食べ』
「ちょっと待った!」遮る。冗談じゃない。
『何故?』
「なんで、ってあんた……」
そこに、もう一段階能天気な馬鹿の声が聞こえてくる。
『え、これって食べれるの?』
アスカは頭を抱えるしかなかった。
「あんたら……バカ……?」
ったく、恨むわよ、おっさん。
頭を抱えて苦笑しながら、アスカは静かに救出が来るのを待つことに決めた。