いつものようにクーラーの効いていない部屋で、ミサトはまたも呆けた顔で突っ立っていた。
「昇進……ですか?」
「そうだよ。もしかして戦自の佐官になるのは嫌だとか、そういう」
「いやそんなことはありませんはい」
ミサトは即答する。何しろ階級がひとつ上がれば、給料もだいぶ違う。それに指揮系統の中での位置が上がるということは、その分できることが増えるということだ。チャンスを逃す手はなかった。どこであれ、どういう意図であれ。
いいのかな、とも思うけど。
いちおう、外部から……ここまで古巣に反旗翻しておいて今さらではあるが、外様の人間であるはずの自分がなぜか重用されているらしいことに、ミサトは首を傾げた。
彼の口ぶりからすると、出向ということが忘れられているというわけではないようだが。
でもなあ。
そんな風に逡巡し、結局あたし今やっぱりちゅうぶらりんよね、といまいち混乱しつつ、ミサトは改めて答えた。
「ありがとうございます」
「うん。あー、それでね」
ミサトが当然承諾したことを認めると、相変わらず嫌味な笑みで言いながら、彼はミサトの背後へ目を向けた。
「彼、今日付けで君の下につけるから。よろしくね」
「え? ……あッ!」
振り返って、ミサトは目をむいた。
そこには、桑山の悪い方、あの歌の上手い桑山ハシオ一尉がいた。
そういうことか。と全てを納得してほっとする一方で、同時にやってきたややこしい事態にがっくりと肩を落とした。
ふらりふらりと渡り歩く猫には鈴をつけましょう。良く鳴る鈴をつけましょう。
衝撃も覚めやらぬまま廊下を歩きながら、ミサトの頭にはそんな言葉が過ぎった。
猫の首には鈴がいる。下宿先にもたくさん猫がいるが、特にわんぱくな子には保健所に連れて行ってしまわれないように、見つけやすいように、良く鳴る鈴を付けている。
そして、自分用の鈴はこの男というわけだ。
それにしてもでかい鈴だ。しかも困ったことに、鈴と違って何を考えているのか読めない。
「まあ、そういうわけなんで。よろしくお願いします、葛城三佐」
別れ際、桑山はやけに「三佐」を強調して、わざとらしい敬礼をした。そしてすぐさま笑い顔を隠すようにミサトに背を向けて歩き始めた。
しかし恐らく心底笑っているわけではないのだろう。そんなわかりやすい人間ではないことなど、もう知れている。
だからこそ、楽しげに見せているだけで本当は醒めたその後姿がもうこちらを振り向かないことを確信して、ミサトは怪しげなポーズまでつけて一言、呟いてみせたのだ。
「にゃん」
これで名実共に「俺の隊」とは言えなくなったな。
本来なら決して嬉しいニュースではないはずなのに、どこか肩の荷が下りたような気分になってしまうことに桑山キクユキ一尉は苦笑した。
もっとも、まだ仕事は残っている。正確にはこの出張が終了すれば彼は正式に隊長ではなくなる。そして、彼女が彼の後釜につく。彼女――あの「使徒」との戦いで豪腕を発揮した葛城ミサトが。
あれも微妙な位置にいる女だ、と桑山はモノレールの車窓から見える街並みを眺めながらひとりごちた。
古巣に反旗を翻し、かといってこちらに馴染めるかと言えばそうでもない。あの「使徒」をとりあえずなんとかしてしまう豪腕は買われているだろうが、かといって信用されているというわけではない。
当たり前である。
敵対はしていないものの険悪ではある国連軍からの出向者を信用するなんてどうかしている。
上層部も大概軍人の名に値しない愚か者が雁首を揃えているが、それでも一時の狂熱が醒めさえすれば、彼女を自由にさせるほど愚鈍ではないらしい。
階級を引き上げて監視の目を増加させる。はっきりと仕事を増やして組織に組み込んでしまう。
そうすれば、今までのような好き勝手もできまい。しかも、彼女を機械化小隊の中心に据えることは、技術協力の名目でこちらから技術を引き出すにも、スムーズに協力を果たすにも好都合である。
理屈は……大甘に見ればわからないではない。
しかし、そう上手く行くものかどうか。
桑山がこうしてわざわざ第3新東京市まで出向くのも半分はそのためだった。
葛城ミサトの周辺を調べて、彼女がただ上司の不興を買って飛ばされただけなのか、その本当のところをそれとなく確かめること。
実際のところあの出向の理由は今もって謎である。戦闘上の失策という戦は調査によって否定されている。まさか単に上司とのそりが合わなかったなどという理由は考えにくいが、そうであれば、戦略自衛隊に対するスパイ活動のため、または……逆に、ネルフ内部での諜報活動のため。表立っては言えない「何か」……
考えに沈んでいる途中、ふっと一瞬車内が暗くなった。地下へと入ったのだと気付くのにそれほど時間は掛からなかった。
あと少しでジオフロントに到着する。彼の秘蔵っ子――本来は諜報活動のために鍛えられていたあの少女もそこにいるはずだ。怪我については大して心配していない。痛みには強い。
自分が何をしたのかを思い出して一瞬、桑山は目を閉じる。目を開いたとき、車窓には眉間に皺を寄せた自分が写っていた。
まるであれを投与したときの彼女のような。
そこまで思い至って、軽く唸りながら桑山はぶるぶるとかぶりを振る。今はその時ではない。それを考えるべき時はもう過ぎた。
そして、忌まわしい記憶をすっかり頭の奥に閉じ込めてしまった時には、モノレールの車窓に光が戻っていた。
「……人類の最後の砦とはよく言ったもんだな」
眼下に広がる巨大な地下空間。そのどこかに彼女がいる。いったいどれだけの情報を集められているのか。あまり過度の期待を持たないように注意しながら、彼は自分の目にもその巨大な要塞の様子を焼き付けようとした。
左腕、右腕、左腕、息継ぎ、左腕、右腕、左腕、息継ぎ。
時計で刻んだように正確なペースでアスカは泳いでいた。地下水脈から引いているという、透明度の高い素晴らしく冷えた水の中を流線型のイルカのように進む。
その視線の先にはマーカーがあった。壁まで10メートルを示す黒いマーカー。
今まで既に二回ターンした。長水路なので、150メートル。
そしてこれで。
アスカは5メートルのマーカーを過ぎたことを確認すると、前方の距離を確認することもなくくるりと身を翻した。
すう、となめらかに頭が沈み込み、身体をひねりながら両脚を畳み込む。
そして、足の先に予想通りにぴったり触れた壁を、とん、と蹴った。
教科書通りの完璧なクイック・ターン。
そしてまた一本の流線型になって水を割く。
一瞬その流線型のリズムに凹凸が生じる。規則的な動きを乱してまで振り向いたその先に、何かいた。
同じように水を切り分けてくるもの。
遅いな、と内心アスカは舌を出す。
が、それはあってはならない油断。
アスカの感情の乱れを足場にするように、くん、とそれのスピードが上がった。
な?
アスカは泡を食ってスピードを上げる。モードを切り替える。余裕で勝つゆるやかな体勢から、もう一段、さらにもう一段。
焦りながらそれでも滑らかにギアをあげていくアスカに、それでもそれは着いてきた。どころか、その差はどんどん詰まっていく。
やばい、これは、なに、抜かれる――――!?
パシン。
「ッ!?」
はっとしてアスカはぐいと身体をひねる。頭は壁すれすれを通って水中へ逃げた。
「――ぷはあっ!」
やっと水面に顔を出したアスカは隣を見た。水泳帽が顔を出す。
「――ぶはあッ!!」
アスカよりもひときわ大きい声を上げ顔を上げた女の子は霧島マナ、その人だった。
息を整えてから、悔しそうに顔を歪める。
「ッ悔しー! 負けたっ!」
アスカは踊りまくる鼓動と痛みが走る手のひらを押さえ込んで、余裕綽々を演じて応じた。
「なかなかやるじゃない、でもお兄ちゃんの方がまだ0.5秒速いけどね」
どこかで聞いたようなセリフを投げつけてやる。
「キーッ! そんな離れてないもん! ていうか、壁に特攻なんてそんなの反則! ていうかお兄ちゃんって誰?」
……勢いに任せすぎた。
「う……うっさいわね。ちゃんと計算のうちよ、計算のうち! あだち先生よ!」
当然嘘だが最後だけ本当だ。
「どうだか」
やっぱり突いてくる。この女がまるで馬鹿みたいに見えて、そこまで馬鹿ではないというのはわかってきていた。レイとはまた違う。明るいというだけではなくて、なんというか……
「お楽しみのところ悪いけど」
「え?」
「ほえ? 誰?」
突然掛かった声に、二人して見上げる。ジャンプ台の上にひらひらとしたものが躍っていた。
人物の顔は逆光でよく見えなかったが、アスカにはそのひらひらで誰なのかはすぐにわかった。
「赤木博士?」
「ご明察ね、アスカ。霧島さん。その調子だともうすっか」
「はい! 大丈夫です!」
リツコの声を遮って発言するマナに、アスカは水泳帽を外しながら大げさに肩をすくめた。
「……あんたって、無駄に元気よね」
「無駄とは何よ無駄とわっ」
「その語尾が無駄だっつってんの」
「何? 疲れてんの? そりゃあ壁に激突するくらい必死で泳いだら疲れるわよね」
「あん?」
「んん?」
「止めないか霧島」
「止めないで下さいよ隊長、いっぺんこのアマとは……て、え?」
介入してきた聞きなれない声にアスカが振り返る前に、喧嘩相手の身体は水に沈んでいた。
「……えーと? どちらさま……ですか?」
努めてしおらしく聞くと、低くてしっかりとした声が返ってきた。真面目そうというより、朴訥という感じの声だった。
「ああ。君があのパイロットの。私は彼女の上官の桑山キクユキ一尉です。……あー……失礼しました。突然。私は廊下で待っていますので」
後半は赤木博士の方を向き直って、照れたようにそう言う姿は、彼女があこがれている人の余裕のある感じとは大いに違ったが、悪くはなかった。
少年は言われた通り駅に降りて、途方にくれていた。
「なんだよこの地図……お婆ちゃんも適当だよなあ……」
ぶつくさ言いながら彼は歩き始める。夕飯の買い物時の商店街は街にある商業地のバランスの悪さから、そこまで品揃えも良くないのにごった返していた。
どん。
「あ、すいません」
ばた。
「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
ところどころ肩をぶつけ、そのたびに丁寧に謝りながら少年は商店街を抜けた。
すると、そこにさっきまでアーケードで見えなかったビル群が姿を表した。
「わ……凄いなあ」
あいかわらずの調子で歩く少年の姿はまるで「おのぼりさん」で、第2新東京市ならばともかくこの要塞都市には似合わないことこの上なかった。
「え、と……ここが……だからここの角、で」
ぶつぶつと呟きながら、本通りから微妙に外れたビルとビルの隙間を進んでいく。
やがて、その視界に、この新しい街にそぐわない小さな雑居ビルが現れた。
「……ここ?」
見上げて、呟く。さっきの商店街からビル街への変化といい、どうにも無理やり作ったような街に見える。地元のばらばらなくせに統一感のある石畳の街並みとはまったく違っていた。
「でも、ここしか、ないよなあ……」
ぐっと手を握り締め、ゆっくり建物の奥へ足を進める。あまりよい床材を使っていないらしい床のタイルが何枚か剥がれていて歩きにくい。それでも、破片やでこぼこを踏みしめて前に進むと、一部屋だけ、明かりの点いた部屋があった。
立ちすくんで、思考が低回する。
こんなことなら、来るんじゃなかったなあ……
一度は納得したはずなのに、そんなことまで思った、その時。
目の前のドアは開いた。
「わっ!?」
思わず後ずさって、べたんと尻餅をつく。笑い声は前からかぶさってきた。
「ははは。そんなに驚かなくてもいいさ。まあ、古いところだけれど、別に幽霊が出るってわけじゃない」
大人の男の声。部屋から歩き出したその男は、少年の腕を持って立たせた。
「ありがとうございます。えっと……あの」
「加持リョウジだ。初めまして。遠いところお疲れさま、『碇シンジ』君」
長髪の男はその名を呼ぶと、不敵に笑ってそのままシンジの手のひらを取り、しっかりと握った。