Evangelion G.G-side 

第参拾参話 「おかえり、お爺様。」

■ 新世紀 西暦2015年のこんにちは ■

執務室にはさっきから延々と、小さなメロディが流れ続けていた。前世紀、まだ神戸や大阪のほとんどが沈んでいなかった時代に開かれた万博のテーマソングだ。今では、特徴的な塔のある場所も潮風の香る砂浜になっている。

「こんにっちは♪ こんにっちは♪」

朗らかな男性の声と、にぎやかな子供達の声。

器用に二つのパートが歌い分けられていた。確かに器用だが、事務一辺倒の設備しかない殺風景な部屋にそのメロディが流れ続けるのは一種異様なものがあった。

しかしメロディはなおも続く。

「世界の♪ 国から♪ こんにっちは♪ こんにっちは♪ 世界のぉ♪」

ついにミサトはうんざりしながら顔を上げた。

「あのさあ、桑山君」

向かいのデスクで楽しげに歌を歌って作業をしていた男が、さも不思議そうに顔を上げた。

「なんでしょう?」

「鼻歌うのは別に構わないけど、せめて子供パート部だけ止めてくれない?」

気持ち悪いから。それ。

「はあ」

その返答を聞いて、こいつ判っててやってるな、ミサトはそう判断する。これは嫌がらせだ。この食えん男が、天然でこんなことをやるはずがない。

が、意外にも帰ってきた言葉は拍子抜けするくらい素直だった。

「すいません。つい。クセなんです。これ。声真似」

本当に拍子抜けしてしまって、ミサトはふう、とため息を吐く。

「妙な特技ね」

「意外と役立ちますよ」

「ふうん。例えば?」

「人の名前で勝手に電話掛けて」

「あんたまさか」

やっぱりネタ振りだというのか。

「あの人、鋭いですね。『あなた、葛城さんじゃないでしょう?』だって。惚れられてるんじゃないですか? 葛城さん」

動揺していない振りでミサトは切り返す。違うだろう、そこまでバレなかったってことが重要なわけで。

「ほら、私いい女だから」

後で根掘り葉掘り訊いてやる、と心に誓いながらうんうん頷いてみせる。

「自分で言うと寒いですね」

「黙れ猿真似師」

顔をしかめて、化粧にひびが入りそうになる。

「ひどいなあ」ころころと笑って、桑山ハシオ一尉は続けた。「真似るは学ぶ、です。真似るってのは人から学ぶのにはいい方法なんですよ。成長には欠かせない。ほら、胎教でもなんでも、子供ってのは親の振りを感じて成長するもので……」

話の向かっている方向が見えてきて、ミサトはさらに眉間のしわを深くした。なんのことはない、あの歌にしろこの話の流れにしろ、ここ数日の自分達の会話は、全て最後はこの方向へと向かっていくと相場が決まっているのだ。

仕方ない、と思いつつ、ミサトは答えた。

「……随分と殊勝なことを言うのね」

「タイムリーじゃないですか?」

「確かに、ね」

ミサトは手元の端末の端に表示されている小さなウィンドウを見つめた。そこには、ちょうど人間の胎児に似た形をした影が映っていた。

確かに、それは人間の胎児に似ている。

しかし……

「……胎児と言うには、大きすぎるけど」

そうだった。ウィンドウにはスケールも表示されている。表示されている体長は60。しかし、その単位はミリメートルでもなければセンチメートルですらなかった。

60メートルの胎児。

ウィンドウに写っているのは、先日あっさりと捕獲された使徒の幼生だった。

■ その七十五年前 昭和十五年のただいま ■

関口医師は嘆息してカルテを眺めていた。

カルテの右肩には殴り書きで日付が記されていた。昭和十五年七月二十日。

「七月か」

いかにも懐かしそうにその後を口に出してから、関口は一月ほどもせぬうちに訪れた様々な変化を思い出しながら応接用の椅子に沈みこんだ。

もちろん、その感慨の半分はキナ臭さを増している社会情勢に関してだった。日華事変を皮切りにした戦いはいまだ終わる気配を見せず、関口は直接には耳にしていないが、松岡外相が談話で用いたという「大東亜共栄圏」なる言葉が俄かに流行してから南進政策も勢いを増した感がある。

片田舎の一医師の素朴な見解ごときが彼ら政治家の思考に及ぶとは関口にも思えなかったし、彼とて自らの知る者も参加している戦争の先行きが不安であるなどとは思いたくはなかった。

けれども、このカルテに記された少年……恐らくは南方より出戻ってきた人々を乗せた難破船の、ただ一人の生存者である少年の行く末を思うと、やはり関口は不安に駆られるのだった。

カルテに視線を戻す。男子。歳の頃、十六から十八。学生服らしき黒ズボンとシャツを着用。質は非常に良い。あるいは良家の子弟か。身体に異常なし。思考も明瞭。

されど、一切の記憶なし。

「何も持たず、記憶も止めず、か」

流れ着いた少年は出身地から、歳から、親の名から自分の名からこの国の歴史に至るまで、ほとんどの記憶を失っていた。自らの知る者の死や、見知らぬ場所に放り出された自らの境遇によほど強い衝撃を受けたと見え、回復しても暫くは何も口にせず、何も話そうとはしなかった。

怯えた目の少年に初めて話しかけたとき、とにかく何も話せなかったその少年が覚えていたのは唯一年号のみであった。

「……何か、他に覚えていることはあるかな? 何でもよろしい。買っていた犬の名前でも、好きな食べ物でも。何か覚えていないかい? そうだ、今は何年かな? 思い出せるか?」

すると少年は消え入るようなか細い声で、十五年、と独り言のようにぶつぶつと囁いた。関口が耳を寄せると、さらに小さい、聞き取れるかどうかという声で、二千六百とも。少年は皇紀と元号、二つの暦を代わる代わる伝えていた。

その必死な顔はまるですがりつくようで、関口の胸を衝いた。

「そう。そうだ。今年は皇紀二千六百年、昭和十五年の辰年だ。他には何か覚えていないか?」

だが結局、少年が覚えていたのはただそれのみだった。

名前も、出身地も、家族をも失った少年を村人は哀れんだが、かといってこのまま少年をただただ無為に養い続けるわけにもいかない。

「どうしたものか……」

せめて苗字だけでもわかれば、調べることもできように。そう思うが、思い出せぬ少年を責めるのも酷な話であった。

だが、関口の抱えたその悩みもいま終わらんとしていた。

ばたばた、と玄関の方で物音がするのを関口は聞いた。駆け足が近づいてくる。

「はて……?」

首を傾げる。先ごろの難破船騒動からも暫くが過ぎて村人もまた漁に農作業に精を出していたし、彼が引き取ったかの少年は走り回るような性質ではなかったはずだった。

しかるに、部屋に走りこんできたのは少年だった。呼び名も定かではないマレビトは、今は肩で息をしながらも、まっすぐに彼の目を見詰めていた。

「お帰り。どうした、そんな顔をして。……何かあったのか?」

その時の少年の顔を、彼は終生忘れることがなかった。

「思い出しました、先生」

少年ははだけた着物の懐を握り締めながら、その名を口にした。

「僕は……僕の名前は、いかり……碇です。――碇、シンジです」

その苗字には聞き覚えがあった。

■ 再び新世紀 西暦2015年のおかえりなさい ■

ふと目を覚ますと、そこにはあの日見たのと同じ病院の白い天井があった。

けれどもそれは記憶にあるあの古めかしい昭和十五年の天井とはまるで違う、つるりと白い2015年の天井だった。七十五年という時間を一瞬で飛び越えて碇シンジはこの新世紀へと帰ってきた。

そのことを思い出して、彼は自分が夢を見ていたのだと気づいた。

軽い欠伸をして枕元の時計を見ると、まだ六時前だった。空は既に白んでいるが、病院全体が目覚めだす時間にはまだまだ遠い。

「むう……もう一眠りというわけにもいかんか」

一眠りしようにももう眠気は僅かも残っていなかった。そもそももうあまり深く眠れる歳ではなかったし、それ以前に、彼はここ一月と少しほどの間ほとんど眠り込んでいるようなものだったのだ。

そのお陰でここまで回復できたのだから、文句を言う筋合いではなかったが。

「さて、と」

ひょいと起き上がりベッドを抜け出すと、パジャマ姿の老人は水差しの水に少し口をつけてから、なにやら身体を動かし始めた。

背伸びをし、腕を振って脚を曲げ伸ばし、腕を回し、腕を振って胸を反らし、身体を横に曲げ……

「オイッチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ニイッ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ」

国民体操第一。

ピアノ伴奏が聞こえてきそうなくらいリズミカルに体操をこなしながら、老人はふと思う。

あの子は私のことを覚えているだろうか、と。

その不安を打ち消すように、老人は大きく腕を伸ばして深呼吸した。


そして数時間が過ぎ、荷物をまとめた碇老人はロビーにいた。一人である。

そこにレイはいない。平日だからとそんな理由をつけて、連絡するのに気後れしたのは何故だろうか、と自分でも思う。だが、

「全快、おめでとうございます」

と言いながらにっこり笑って頭を下げてくれた看護師に

「大変お世話になりました」

と言葉を返した時に感じたいわく言いがたい不安感で、彼はその理由を知った。

何のことはない。この入院生活を通じて彼の心も人並みに弱まっていたのだ。ここにいる限りは、あの子は会いに来てくれる。けれども、元の生活に戻ってしまえば。

元の生活を思うとき、思い出されるのはあの子のいない一人の部屋だけだった。

自らの元から彼女が離れていくことを怖れていたことを、できるならこのまま入院し続けて彼女を縛り続けていたかったことを悟って、碇老人は一人苦笑した。

「はは。情けない」

「え?」

看護師が笑みのまま覗き込んでくる。彼はさらに相好を崩して言葉を返した。

「いやいや、慣れてしまうと寂しいと思ってしまうもので、おかしいですな」

「駄目ですよ、入院生活に慣れちゃ。通院していただくのは大歓迎ですから何時でもどうぞ。定期的に」

「はははは。そうします。いや、本当に長いこと、お世話になりました」

老人はさらに深々と頭を下げ、歩き出そうとした。

だが。

そこにいる人を見て、彼は歩けなくなった。

「どうして……」

じっとこちらを睨むのは、一種不気味な血の色の、しかし老人にとっては愛しい赤い瞳だった。

「レ……」

イ、と言い終えることはできなかった。その前に、彼女が胸に飛び込んできたからだ。

少し弱っている足腰のせいで、つい、たたらを踏んでしまう。

だが、それでも並みの老人とは比べ物にならない頑強な足腰で、彼はその華奢な身体を受け止めた。

「水臭いじゃん」

彼女の後ろから、勝ち気な声がかけられる。

「嬢ちゃん……」

「こいつ、あんたが退院してくるって聞いたらそのまま飛び出してっちゃったんだから。追いかけてるあたしの身にもなれってのよ。ったくもう、家族揃ってバーカなんだから」

口ぶりとは裏腹に、その顔は笑んでいた。

老人もつられて笑う。そうだ、自分は何を悩んでいたのか。この子はこんなに裏も表もなく、自分に向かってきてくれているのに。

この若さには、敵わない。

だから、老人は恰好をつけることも、言い訳をすることも諦めて、蒼い髪を撫でながらこう言ったのだった。

「ただいま、レイ」

涙ぐみながら控えめな笑みを返した彼女への、敗北宣言の代わりに。

「おかえりなさい。お爺様」

全体を俯瞰するためindexへ向う
退却の英断を下す。前へ戻る
我が身既に不退転。次へ進む