「マルドゥック機関から連絡だと?」
「ああ。『パイロット適性者として捜索中であった貴殿のご子息、碇シンジを発見した』とな。もう第3新東京市に到着しているとも連絡があった」
突然呼び出された冬月コウゾウは、努めて冷静にそう言おうとする碇ゲンドウを見詰めた。一見すると冷静そのものだったが、長い付き合いである彼にはその赤い眼鏡の下にどれほど困惑した視線があるかすぐに想像できた。
嫌な特技だな、と自嘲気味に考えてから、冬月はパイプ椅子を引っ張り出して腰掛ける。
「……座らせて貰うぞ。長話になりそうだからな。老体には立ち話は堪えるよ」
「構わんさ。何なら上席を譲ろうか」
「皮肉かね。それとも気遣いのつもりか。らしくないことは止めたらどうだ、焦っているのがすぐわかる」
汗で少しずれた眼鏡を直し、また碇は組んだ立て肘に顔を埋めた。
息子を失った時から感情を凍らせたはずのこの男がここまで感情を抑えきれないのも珍しい話だった。しかし、その失われた息子が五体満足で帰ってきたというのだから無理はないのかもしれない。
「冬月先生には敵いませんよ。昔から」
「世辞はいい。それより、どうして? まさか本当に葛城君や赤木君が」
「その可能性はあるまい。例の捕獲された使徒への対応で忙殺されていて、今は動ける状態ではないからな。共に鈴もつけてある。それに、彼女らは私に息子がいることすら知るまい」
「ならば、やはり監査部の……いやはや、こう簡単に身内に離反者が出ていては仕事にならんな」
冬月は葛城ミサトを放逐した際の調整作業を思い出して苦笑するしかなかった。
葛城ミサトの放逐は苦渋の決断だった。実際のところ、彼女にしろ赤木リツコにしろ、単に自らの興味関心からネルフの目的について調べているという可能性もあった。共にその資格は充分にある。
だが、切り崩されている可能性がある以上、排除するより他なかった。
赤木リツコを切り捨てられなかったのは、後任を努められる人物がいなかったことと、単にタイミングの問題である。
彼女もやはりいずれかの勢力に切り崩されている可能性もあるが、元々わかっていて泳がせているあの男――監査部所属の加持リョウジはともかくとして、作戦と技術双方の中心人物を共に欠いては、正常な本部運営ができようはずもなく、結果彼女は変わらず技術部のトップに居座り続けている。
「誰が切り崩され、誰がそうでないか……見極めるのは難しい。私には酷な仕事だよ」
特務機関ネルフはその創立以来常に多数の機関との調整によって成立してきた。上位機関であり、直接的な権力で抑えに来る人類補完委員会、自国内の武装勢力と言うこともあって影響力を行使しようとする日本政府、その直下にある戦略自衛隊、そしてその他の企業。
だが、中でも異質なのは、エヴァンゲリオンの適性者選出のために設けられた諮問機関という位置付けにあって、だが実のところ情報戦や切り崩しなどの絡め手でネルフの組織に食い込もうとしている、ゼーレ直属の調査組織――「マルドゥック機関」の存在である。
本来ならば冬月ら首脳部の関係機関としてあるはずであったが、実際のところネルフの関連機関としてあった時期はほとんどなく、百八のダミー会社も含めて全ては敵になっていた。
冬月は有名な言葉を思い出し、思わず口に出していた。
「『帝国海軍はその主力をもって帝国陸軍と戦闘し、その余力をもって米英と戦闘するを本領とす』……場所が変われど、愚か者のすることは変わらないという事か」
「予想できたことだ。目的が同じで、その道のりを異にした二者が共同で物事に当たれば、必ず互いに相手を自らの下に置こうとする」
「老人達と対すれば、我々は初めから不利だがね。……それにしてもマルドゥック機関、あれの動きは一貫性に欠けるような気がするが。対抗組織を育てるかのように戦自と日重に介入したかと思えば、今度は掌を返してお前の息子の情報を渡してくるなど。そもそもこの誘拐事件自体、ゼーレが関係しているのではないのか?」
そう、その懸念もある。ゼーレ。マルドゥック機関も実態としてはその内側に含まれると目される、人類補完委員会の裏の顔。
「あれの意図が不明確なのは以前から一貫している」
「一貫性がないということに関してのみ一貫している、か。まるで禅問答だ。いや、碇。私は稀に、本当にあの機関は神託によって動いているのではないかと疑う時があるよ」
「その可能性もある。裏死海文書の全てがこちらへ提示されているわけではないからな」
「身内への情報操作か……我々が言うことではないが、ますます大本営じみている」
「ああ。だが今回については判らん。つい今しがた委員会から呼び出しがあった」
「ということは今回の件、老人達にとっても寝耳に水というわけか? ますますわからん」
「常に我々に与えられる情報は限られているが、それでも我々に敗北は許されない」
どのような意図で誰が動いているにしろ、対応は都度しなければならないのは明白であった。
「そのためには自らの息子をも使う、か?」
一瞬の間に、老人達にはない弱みと人間らしさを冬月は感じ取る。
「……当然だ。元々、初号機はそのためのエヴァンゲリオンだった」
「だが、もう彼は帰ってきているぞ」
そう言った後、少し安心した気持ちになったのに気づいて、ふ、と冬月は笑いを堪える。
忌避していたはずの老人に、どこかで期待を寄せている自分に気づいたからだった。
碇シンジは第3新東京市に帰ってきた。
が、それは大部分の市民にとってはどうでもいいことであった。
ほとんどの人間にとってその老人、碇シンジは気にするほどの人間ではなく、その不在が意識されるとすればごく一部の生徒に「最近あの用務員のおじさん見ないよなぁ」と思われる程度であり、それゆえにその帰還もまた長い休みを取っていた用務員のおじさんが帰ってきたと言うことに相違なく、であれば特に歓迎もなく彼は再び名も無き公務員に戻るはずだった。
しかし、喜ばしいことにそうはならなかった。
「むう……若いもんの食う物は腹にもたれていかんな……俺も歳か」
校舎周りを掃く手を休めて、老人は鳩尾辺りをさすりながら呟いた。
鳩尾に残る満腹感はここ数日の食事のためだった。
数日――長い人生の中で初めて孫と暮らしたこの数日間、彼は彼女の作る料理の洗礼を受けていた。
にひひ、とつい頬が彼らしくない緩み方をする。
あの日。
レイとその友人達は総出で彼をもてなしてくれた。以前の使徒戦で活を入れたふたり、アスカ、委員長さん、自衛隊所属だという女の子、そして、留守の間を預かってくれていた伊吹マヤ二尉。
だが、彼が寝込んでいる間に少々事情は複雑になっているようだった。
『すいません、碇さん。申し訳ないんですけど、私、今ちょーっと大忙しで、残念ながら快気祝いには出られそうにありません。ですから、とりあえず退院のお祝いだけ、留守録に入れておきます。退院おめでとうございます。また、飲み付き合ってくだ「葛城さん! このクソ忙しい時になにやってんすか」うっさいわね! 大事な電話な』
そこで途切れていた留守録には苦笑したものの、碇を呼び止めた伊吹からも同様の言葉を聞くとやはり気になった。
「ごめんなさい! 先輩はいま、手一杯で……私もこれからすぐ向こうへ出なきゃ行けないんです。……あのう、鍵、レイちゃんに勝手に渡したこと、怒ってらっしゃいます?」
そう上目遣いに見られて、初めて自分が怪訝な顔をしていたことに気づいた。
「いえいえ、そちらは……むしろありがたいくらいです。伊吹さんのお陰で、一歩が踏み出せました。ですが……向こうへ出る、とは? 葛城さんも大変お忙しいようですが、何か問題でも」
そう問うと、伊吹はハッとした顔になって、彼の耳元へ口を寄せた。
「これ秘匿情報なので、一般職員にもオフレコでお願いします。いいですか?」
うなづきで答えた。
「……つい一昨日、使徒を捕獲したんです……生きたまま」
囁かれて、自然と彼の声も小さくなった。背後には彼の快気祝いの準備で忙しく動く子供達がいた。
「生きたまま? では、お二人は……」
「その調査の関係で、今大わらわなんです。一般に公開するわけにもいかないから、スタッフも限られてくるし……お陰でパイロット関係の実験は全部後回しです」
はあ、とマヤが不安げなため息を吐き、しかしすぐに明るい笑顔を作った。
「で、でも! そのお陰でこうして快気祝いが開けるんですから! ……ちょっとバタバタしてますけど」
と、今度はしょぼくれた顔を見せる。その少々オーバーな表情の変化が、自分をリラックスさせようとしてのことだと言うのはすぐに判った。気丈な、と彼は年端も行かない女性の強さに感服した。
干支の一回りより歳が離れている女性がこれだけ頑張っているのに、自分だけいつまでも不安がっているわけにもいかなかった。阿呆のようでも年長者は落ち着いていなければならない。
だから彼は笑って答えた。
「いやあ、嬉しいことです。葛城さんや赤木さんにご挨拶できんのは残念ですが、楽しませてもらいます。お二人には、よろしくお伝え願えますか」
「……はい!」
「なーにぃ? 爺さん、その歳で女口説いてるわけ。犯罪よ、たぶん」
「む?」
掛けられた声に後ろを振り返ると、口を挟んできたのはアスカだった。その口元にはにやりと人の悪い笑みが浮かんでいる。
珂珂、と一笑に伏せた。
「何を言うか、嬢ちゃん。嬢ちゃんや伊吹さんらぁなんぞ、儂からすりゃあひっくるめて孫みたいなもんじゃ」
そう、彼にとっては、彼女とマヤ、そしてミサトやリツコの間にある一回りやそこらの年齢差などは大したことはなかった。いずれも孫、下手をすればひ孫に当たっても可笑しくない年齢である。
だから彼はそう言ったのだが、その意味で受け取らなかった者もいたようだ。
「だめ」
そう言ったのは、何時の間にやら背後に回っていた愛しき孫、綾波レイだった。
「私だけ」
そのまま抱きついてくる。
「あ、爺さん顔やーらしー」
「あ、阿呆なことを!」
これにはさしもの老人も焦って、あたふたと彼女を宥めるための言葉を考えるしかなかった。
レイと暮らし始めてからの数日、異常に豪勢な――老人にはいささか濃ゆい食べ物が続いているのは、どうやらその影響らしかった。
「こう何日も続くと厳しいの。まぁ、美味い飯に文句は付けられんか」
それが救いではあった。
彼の留守中、レイの面倒はマヤと、その母親が看てくれていたという。レイはそこで料理を覚えたのだ――と、それは伊吹さんから電話越しにだが、直接聞いた話である。
礼状をしたため、菓子折りと共に郵送して後、とにもかくにも連絡をと電話をした彼に、人懐こそうな女性は、お気になさらなくてもいいんですよー、と丸っこい笑い声を上げた。
そしてただただ平伏する彼に、小さなアドバイスを送ってくれた。
『レイちゃん、お料理の練習たくさんしてましたから、是非食べてあげてくださいね』
それを思うと、この胃のもたれもまた悪くはなかった。
しかし、彼は知らなかった。
第3新東京市に帰ってきた碇シンジが、ひとりではないことを。
自らに、孫と呼べる人間がもうひとりいることを。
自分の名を継いだもうひとりの碇シンジを。
「すいませーん!」
感慨に浸っていた彼に掛けられた声は、裏門の外からだった。
「む」
来客か、と箒を置いて叫ぶ。
「少々お待ち下さい! 今向かいますので」
そして小走りで裏門に向かうと、そこには制服を着込んだ少年がいた。見るからに学生と判る、白いシャツと、黒ズボン。男の子らしい短髪だが、その顔はむしろ女の子のように控えめで大人しげだった。
老人はその顔に見覚えがあるような気がした。
「はいはい、お待たせしました。なんですかな?」
「あ、はい! あの……第壱中学校、って、ここで合ってますか? 僕、転校してきたんですけど、ちょっと、こっちの地理がよくわからなくて……」
少年は地図を示す。老人は門扉越しにそれを覗き込んだ。
「ああ、確かにここですな。お手数ですが正門の方に回っていただけますか。職員室にもそちらの方が入りやすいですから」
闊達にしゃべる老人に、少年も笑顔を浮かべて、答えた。
「ありがとうございます! 良かった。迷っちゃってて、もしかしたら着かないんじゃないかって……」
「ははは。それは良かった」
「はい。あの」
「なにか? ……ああ」
少年の視線の意味するところに老人は気づいた。何故彼のような老人が中学校などにいるのか。
「私はこの学校の用務員をしとります、碇という者です。細々とした、世話を……」
以降の言葉は続かなかった。
少年がぽかんと口を開けていたからだ。
気の抜けたような顔のまま、少年はぼそりと呟いた。
「碇……うそ」
人の苗字を捕まえて嘘とは何事か。
老人は一瞬気分を害したが、すぐにそれも消え、ただ怪訝な表情だけが残った。その声に悪意はなさそうで、ただただ、驚いたという表情だったからだ。
「何を言っておいでですか。嘘ではありません、私は碇――」
「碇、シンジ」
「そう、碇シンジ……なに?」
どうしてこの少年は俺の名前を知っている?
老人はそう思ったが、その驚きはまったく的外れだった。なぜならば、少年が口に出したのは、ただ……
「僕の、名前――碇、シンジ……らしいんですけど」
「なんと!」
今度は老人が目を見開いてびっくり仰天する番だった。