もう一週間も経ったのか。
促された赤木リツコがカレンダーを見て驚いたのはまずそのことについてだった。
「何たった今気づきましたって勢いで驚いてるのよ。こっちは一週間、首を長くして報告を待ってたんだから」
待った、か。
確かに外部の人間からすればそう見えるのかもしれない。
だがリツコにはどうしてもそれほどの時間が経ったと言う感覚は感じられなかった。
そもそも、あれから現在まで、自分は何回睡眠を取っただろう?
そう思うからこそリツコはこの件に関わっている研究員の代表として、眠い目を擦りながら言い返した。
「内部の人間にとっては一瞬よ」
「でも今のあなたは外部の人間よ、一応は。なら当然こうやって報告はしてもらわなきゃいけない。立場的に」
自らが切り捨てたはずの友人の意地悪い言葉に、渋い顔を返すしかないのが悔しいところである。
リツコは一本三千二百円の栄養ドリンクの瓶をまた空にしてから答えを返した。
「……わかっているわ」
確かに目の前で腕を組む葛城ミサトの言い分も理解はできた。
この実験室の機材の大部分は戦略自衛隊のそれであり、その技官がいなければ実験室は途端に立ち行かなくなる。そしてリツコの立ち位置はあくまでもオブザーバーとしてのそれだった。
これまで使徒の研究の最前線に立ってきた組織の一員としては苦々しくもあったが、こうなったのは別に使徒の捕獲が戦略自衛隊に由来する機体によって行われたからなどという政治的な理由からではなかった。
本質的な問題は別にある。
「ではあれの現状報告からお願いできる?」
椅子を引っ張り出してどっかと座り込んだミサトに、リツコは諦めて説明を始めた。
「幼体は現在のところまだ活動を始めてはいないわ。共鳴が疑われるエヴァ由来の機器は現時点ですべて排除済み」
「そ。とりあえず現状維持は続けてる、ってことか……それにしても共鳴、ねえ。本当に起こると思う?」
「さあ。でも、失敗につながる可能性はできるだけ排除しておくのは、リスクマネジメントの基本だから」
「まあねー。『こんなこともあろうかと』って、カッコよかったわよリツコぉ」
そんな風にミサトは自分が生まれていないころのアニメの台詞を引っ張り出して笑う。しかし、何でも屋のように扱われるのはリツコとしてはあまり気分の良いことではなかった。
「そんなんじゃないわ。ただ……確かに彼らには、自分と似た細胞の持ち主に対する感能力があるようだったから」
結局、すべてはそのための処置だった。そもそもレストアどころではなく、ほとんどの外装部品を製造しなければならないコストを考えてまでかのトライデントの修復を試みたのも「使徒の遺伝子に依拠しない技術」を保持しておきたかったからだ。
作って早々におあつらえ向きの使徒がやってきた時には昔のアニメの博士にでもなったような気分ではあったが、別にわかっていて作ったというわけではないのだ。
「まったまたぁ。よっ! 名博士、魔術師赤木リツコ! ネルフの科学はせかいいむぎゅ」
ミサトの言葉が途中で遮られたのは、当然リツコがすぐさま口を塞いだからである。
「めったなこと言わないで。ここの職員まとめるの苦労してるの、知ってるでしょう」
この研究所で研究を行うということは、つまり敵陣のど真ん中で自分の研究をするということである。そして相手は研究者だ。概してプライドが高く、自らの研究を否定されるような真似には敏感な人種。
少しでも驕ったようなそぶり、相手の研究を見下すようなそぶりを取れば、それこそ調査が進まなくなるのは目に見えていた。
それをやっと察して、ミサトは軽く頭を下げた。
「ゴメン。確かにちょっと軽率だったわ……と、それで? あれのことは何か掴めた?」
「解析不能の画面、見せて欲しい?」
「寝てるとはいえ、そう簡単に尻尾は掴ませない、か……」
「そうね。現状、接触する調査方法はまだ取れないし、データとして判っているのは潰した観測機から解析されたパターン青の反応、そして光学的調査――要するに写真から判明している形状くらいのものよ」
「発見時と同様?」
リツコは微細写真を示して説明を始めた。
「そう。細部まで見えるようになった、というくらいのものよ。形状はヒト――哺乳類の胎児に類似している。けれど各部により複雑な構造が存在すること、またヒト胎児には見られない鶏冠か棘のような器官――恐らく、個体ごとの特徴的形態を作り出すための素地と思われる器官――を保持していることが確認されている。S2機関についても、その萌芽と思しき組織をヒトで言う胸部に当たる部位に発見しているわ」
「思われる、思われる……そう言うしかないわね、現状では」
「そうね。この一週間、ここの環境を整えるので精一杯だったってこともあるけれど、そうでなくても手詰まりの感がある。やっぱり――」
「接触して調査を行わなくては駄目、と?」
「そういうことよ。でも、そう簡単には踏み出せない。調査によってこの使徒が覚醒してしまう危険性を私達は常に抱えている。そんな時に、新たな使徒が出現したら」
「使徒の二体同時攻撃か……あり得るの?」
「MAGIの判断はフィフティー・フィフティーよ。データが少なすぎる。確かにここまで使徒は、各々殲滅から数週間から二ヶ月のスパンを置いて、第三、四、五、六、七と一体づつ襲来している。けれど、それは私達の脳が導いた経験則であって、科学的に立証された因果関係や、統計的な相関関係とは程遠い。いつ、使徒が複数で襲来してもおかしくはないのよ」
「確かにね。……」
そこでミサトは声を潜めた。リツコもその仕草に答えて窓のブラインドを下ろす。
そして彼女達は職務を離れ、自らの目的のために動く雌豹の群れになる。
「でも、それにしてはエヴァンゲリオンの数は少なすぎる。これは元々『そういうこと』だって判っているっていうことではないの?」
「その可能性は高いわ。でも、あなたなら解るでしょう。軍人のあなたなら」
「それはね。確証もないのに危険は冒せない。辛いところだわ」
ふう、と一息置いて、ミサトは立ち上がる。
「了解。……まあ、そう焦っているわけでもないからね、私は。ひとまず自分の仕事に専念することにするわ」
数十分ぶりの煙草に火を点けて、リツコは笑んだ。
「そっちも大変ね」
「そーね……でもま、ここは気張んないと。……碇さんも戦線に帰ってきてるだろうし」
碇さん。
その言葉で、耳に入れてそのまま忘れていたことを思い出した。今は第3新東京市に戻してある第一の部下が、こっそり覗いていたMAGIのデータから発見し、すぐさま彼女に知らせた新情報。
「……ミサト、もうちょっといいかしら?」
疑問そうな顔で振り返ったミサトに椅子を勧めながら、リツコは吸殻を灰皿に押し付けた。
三日後リツコがミサトに話すことになる話題がそこではまさに進行していた。
「あの……お名前、お訊きしてもいいですか」
「私の名前は、碇、シンジと言います」
「えっ……」
それきり、ふたりのシンジはしばし見詰めあい、まるで合わせ鏡のように同時に首を捻った。そしてそのままふたりして黙った。
その沈黙を破り先に話を切り出したのは年の功か、老シンジの方だった。
「まあ、ともかく正門へ。……お急ぎか? でなければ、話ができると嬉しいのですが」
シンジはしばらく口をぱくぱくさせていたが、はっと気がついたように答えを返した。
「は、はいっ」
そして駆け足で正門へと向かった。
「涼しい……いや、寒い?」
シンジが誘われるがまま入り込んだ部屋は静かに凍えていた。外は真夏なのに、この場所だけが真冬のように冷え込んでいる。
「ちとクーラーが壊れておりましてな。なに、変わりにこたつがあります」
目を白黒させながら、呟くシンジに老人はそう答えたが……そんな問題か?
「……えーと……失礼します」
日本は怖い国だ、と思いながら、けれどシンジはそんなどこかずれたような言葉を真正面から否定するわけにもいかず、少年はおずおずと靴を脱いで用務員室に上がりこみ、すごすごとその布団付きちゃぶ台へと足を潜り込ませた。
そうか、これがコタツというアレか。
「……へえ……」
初体験のこたつに思わず声が出る。夏ばかりのこの国ではもう見ないかもと聞かされていたが、まさかこんなところにあるなんて、日本は面白い国だ。
「む? 何か?」
「あ、いえ、何でもありません」
慌てたように首を振る少年は、やはり緊張しているようだった。なんとかそれをほぐそうとして、こちらまで緊張し始めてくる。
その流れを断ち切るように、老シンジは茶を勧めた。
「粗茶ですが」
「あ、はい、いただきます」
茶を勧めながら、老シンジは自分の口調が妙に丁寧になっていることに気づいた。
特に威圧的であったり(もっとも、彼を威圧できる人間がいるとも思えない)、慇懃無礼であったりするわけでもないのだが、どうもこの少年には相手に居住まいを正させてしまう雰囲気がある。
あるいは、相手をよそよそしくさせてしまう雰囲気が。
妙な少年だ、と思いながら……いや、むしろそれゆえに、老シンジはひとまずは話を進めることにした。とはいえ、彼には当たり障りのない訊きかたなどできるはずもなかった。そんなことをするには、今の彼は強すぎる。
「単刀直入に、伺います」
それゆえ彼はそう切り出した。
「なん……でしょうか」
いきなり真面目な表情で自分に相対した老人の異様な雰囲気に、シンジは身じろぎひとつできないようだった。
けれども彼はその質問を止めることは、できなかった。
「あなたのお母様の名前は」
ごくり、と生唾を飲む音が聞こえた。
そして少年の震える唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「碇――碇、ユイ……」
自らの娘のもう一人の忘れ形見を見つけて、老人は黙したまま涙を流そうとした。
が。
「……だ、そうなんですけど、よく知らなくて……」
言葉尻が徐々に小さくなり、消え入る声に併せるように老人の目じりも乾いた。
接触実験を行うという決定が下された背景には、政治的な理由もまた存在した。
全ての原因は使徒が生きていることにあった。それが死骸ならば、そのサンプルを欲しがるものは実はそれほど多くないが故に、興味を持つ者は少数に留まる。というか、そもそも死骸だけを見せられたところで、たいていの場合はそれが実際に生体兵器、あるいは生命そのものの一部であるとは容易には信じないものだ。それを信じるには、使徒の存在はあまりにも空想じみている。
しかしこの使徒は実際に生きている。それだけで情報規制は格段に難しくなるし、捕らえた、ならば「次」は何をするのか、という圧力もそれまでの比ではなかった。そして、その決定権を実質的に握っているのはネルフという一応の超国家的組織ではなく、日本を中心とする旧時代の枠組なのである。
その実験に参加する被験者として、日本政府から国連組織へと出向しているとある高官の子供が選出されたのも、そのような流れの中で決定されたことであった。
「ここが、その子がいる場所――」
呟きながら、巫女役を押し付けられた少女は閑散とした駅前を歩く。自分がこの場所にいること、それが誰のせいでもないのはわかっていた。彼女はそういう場所に、殺すために自分の娘を差し出す人間の子になった。親が選べるなどとは思わない。もし彼――山岸というあの男が養育者にならなかったしても、自分が――の子であるということは変わらない事実なのだ。
そうでなかった場合などを夢想して、何の得になる?
それ以外の私など、存在し得ない。そして、たとえ存在したとしても……それは既に私ではない。
だから彼女はただ、気弱げな顔に似合いの、頼りなげな呪詛を吐きながら歩きだす。外界と自分を隔てる分厚いレンズを覗き込みながら、世界が見えすぎないように注意しながら、ひとりで。
「……そして、私が死ぬ場所ね。……ああ、本当に」
こんなところ、来なければ良かった。
声には出さずにそう考えて、山岸マユミという名の少女はうそ寒い笑顔で薄い煙を上げる山に微笑みかけた。