prologue

 その歌い手のことを、あなたは覚えているだろうか?

 二十一世紀のはじめに登場して一部で人気になり、やがてひそやかに忘れ去られていった人工の歌い手のことを。

 かつて、たくさんの人々が彼女を用いて楽曲を創った。はじめはみな誰かの楽曲をカバーし、それに飽きたりない者は自分の楽曲を作り、誰かがそれをさらにカバーして彼女の歌声を再生産していった。

 彼女は失われた。

 本来なら誰かに記憶され、弔われるべきだったのだろう。

 姿こそ見えなくても彼女は確かにそこにあって、ゆるやかに失われていったのだから。

 けれどそうはならなかった。

 誰しもが彼女をただ忘れ去るがままで、省みようとはしなかった。いつしかネット上に公開された楽曲もいずこかへ散逸し失われてしまい、ついには作り手すら彼女を用いて創った楽曲をハードディスクの中に見失ってしまった。

 今はもう、ハードディスクの中に置き去りにされたその歌を思い出す者は誰もいない。

 誰からも見失われてしまった仮想の歌い手。

 使い捨てられてしまった人工の歌い手。

 どこにもいなかった非在の歌い手。

 彼女は『初音ミク』と呼ばれる。


LASTLIVE

1

 そのメールが舞いこんできたのはちょうど大掃除の真っ只中のことで、ぼくは彼女にひっぱたかれそうになりながら辛うじて送信者名を確認した。

「先生から……? なんだ、いきなり。ってちょっ、いてっ。ちょっと、メールくらい読ましてってば」

 けれど、近頃ちょっと見ないバンダナ姿の仁王立ちで掃除機をかまえる彼女は、情け容赦無しの完全戦闘体勢だった。

「だめ。いっつもそーやって何かと脱線しちゃあサボってるんじゃない。今日こそは掃除やりきっちゃう、って言ってたで、しょ、う、が!」

「う。あたっ。うんわかった! わかったちゃんとやるから痛いから殴るのやめて――ん?」

「……? どうしたの?」

 怪訝な顔で問い返した彼女の声に答えなかったのは、部屋に散乱する無数の箱の中から、あるものを探し出そうとしていたからだ。

「……これも違う……これも。うわ」

「え、ちょっとぉ。せっかくまとめたのになんでまた崩すの?」

 山積みされた箱をとっかえひっかえしだしたぼくを見て、彼女は賽の河原で鬼に石を崩された子供みたいな顔をした。やれやれと口では言いながらも一生懸命整理してくれていたのを思い出して、ちょっと、いや、かなり申し訳なくなる。

「ごめん。でも――ねえ、このあたりに無かった? 白っぽくて、緑の――」

「緑の髪の女の子が描いてある箱?」

「そうそう。って、お?」

 目の前に差し出されたのは、まさに探し当てようとしていた箱だった。経た年月のせいでかなり黄ばんで、表面の印刷も薄くなってはいたが、それは確かに探していたソフトウェアの外箱に間違いない。

 最初はやや緑がかった白であったはずのパッケージに、薄く緑がかったツインテールの髪型をした女の子のイラストが印刷されている。

 そしてパッケージのちょうど真ん中、キャラクターの胸元のあたりに、そのソフトウェアの名前が印刷されていた。

「『初音ミク』……」

「これのこと?」

「うん。なんでわかったの?」

「いや……わかったっていうか。なんか絵が可愛いなあって思って、そこに取っといたの。だから」

 別にわかったわけじゃないの、と彼女は少し困ったように笑う。

「ああ」

 なるほどね、と納得したのは、周りの箱を確認してだった。

 この部屋に散乱しているパーツ関係の箱。その表面に描かれているのは悪くてパーツそのままの写真、良くても軒並みドラゴンだの戦闘機だのといった、いかつく写実的なCGで、どれにしたって可愛いという形容からはほど遠い。

 そんな中にあって、確かに『初音ミク』のパッケージは異彩を放っている。

 ――でもこの可愛らしいキャラクターも、実際にはここに散乱するパーツ類のお仲間なんだけれど。

「どうしたの?」

 たぶん、知らないうちに笑っていたのだろう。彼女が怪訝な顔でそう訊いてくる。

「ん?」

 ぼくは何でもない、というすまし顔を作って彼女に言葉を返した。

「ああいや、ありがとう。良かった。捨ててなくて。っと、ちょっと貸して」

 言いながら、ぼくは部屋の隅に放置されていたPC上で昔懐かしいウィンドウズのエミュレータ―を起動させると、手渡された箱から取り出した『初音ミク』のインストールディスクを滑り込ませた。

 起動、するだろうか?

「……おお」

 画面を見て、ぼくは思わず声をあげていた。

 骨董品のようなそのディスク、しかしそこからもちゃんとインストール画面を起動することができた。画面いっぱいに表示される、パッケージに描かれているのと同じキャラクターのイラスト。

 その指示するところにしたがってウィザードを勧めると、ものの数分でインストールは済んだ。

 試しに起動してみると、昔懐かしい縦方向に並んだ鍵盤と、声を乗せるためのグリッドが見える。

「さて、と」

 ぼくは大昔、最初にこのソフトをインストールしたときと同じに、試しに適当な単語をちょこちょこと乗せ始めた。音階を選び、言葉を打ち込んでいく。ぼくは連想ゲームのようにするすると思いついた言葉を打ち込んでいった。

「……これでいいか」

 発声テスト試行中。奇蹟、未来、機械、加速、世界、虚空、現実、意識、善意、悪意、器、心、視界、空気、自分、他人――はて?

「む」

 ふと、自分がどこかで似たようなフレーズを聴いたことがあるような、そんな気がした。

 もしかすると、頭に残っていた、誰かの曲のフレーズかもしれない。

 けれど、思えばそんなことには慣れっこだった。誰かの曲をアレンジして、またアレンジされ――そうやってぼくたちは『初音ミク』という歌手のレパートリーを作り上げていったのだ。

 本当はどこにも存在するはずのない、歌手の。

 あのころ作られた歌は、今はどうなっているんだろう――そんなふうに昔のことを思い出しながら、ぼくは打ち込んだ言葉を再生するための処理を開始した。

 やがて、懐かしいがスピーカーから流れ始める。

発声テスト試行中
奇蹟、未来、機械、加速、世界、虚空、現実、意識、
善意、悪意、器、心、視界、空気、自分、他人――

 果たして、ミクはまるで人間らしさのない、音源以外は機械そのものの無機質な声で淡々と単語を読み上げてみせた。

 無機質な声、といっても、動作に特に問題があるわけではない。人間が声を当てたものが基になっているとはいえ、適切な調整をしなければこんなふうになることはよく知っていた。

「……ねえ」

 ボーカル用アンドロイド。未来についての希望的観測が結晶したようなそのイメージは、あくまでも制作者によって用意されたバックストーリーに過ぎない。実際には、そのソフトウェアはアンドロイドなどという高尚なものからはほど遠いものだった。歌を作るのも、歌詞を作るのも明確にユーザであって、放っておけば自分で歌い出す、というようなものでは、それはない。

「ねえってば……」

 初音ミクというソフトそれ自体には目的はもとより、意志も感情もない。そこにあるのはあくまでも音声を出すためのツールであって、本当の意味で文脈や意味を理解している本物の歌い手がそこにいるわけではないのだ。そして、だからこそ、使い手がさまざまに音声をサンプリングして、そこにある無為の音に自分の意志や感情を託すことができる。

 誰かに歌われるはずの歌を代行するためのツール。

 それがこの「VOCALOID」という技術と、それを応用したソフトウェアだった。

「――このっ、人の話を聞けえっ!」

「痛っ!」

 衝撃。頭に強い痛みを感じて見上げると、さっきと同じ仁王立ちで、今度こそカンカンに怒っている彼女がいた。

 真っ赤になったその掌を見て、自分が頭を強かにはたかれたのだとやっと理解する。

 そこでやっと、まずった、と思った。横目で時計を見ると知らぬ間にかなりの時間が過ぎている。つい彼女を放り出して、ひさびさに触るソフトに夢中になってしまっていた。

 そういえば呼びかけられていたような気も、しないではない。

「あ、いや、これには理由があって……」

「じゃあ説明しなさい」

 苦し紛れに絞り出した釈明の言葉に即答で突きつけられたのは、いつの間にか彼女の手に収まっていた『初音ミク』のパッケージと絶対零度の命令だった。

 ぼくはその響きと視線に込められた凄みに軽く後ずさりしながら、疑問と怒りがない混ぜになった表情を浮かべている彼女に、先生からやってきたメールの文面を示した。

 初音ミクの編集画面が表示されている同じ画面、その端に先ほどから表示されっぱなしのメールにはこうあった。

『お久しぶり。突然なんだけれど、君、古い音楽ソフトのマニアだったよね? もしかしたらなんだけど、「初音ミク」っていうの、持ってない? もし持ってたら絶対連絡すること。よろしく』

 書かれていたのはたったそれだけで、それを見た彼女は少し妙な顔をした。簡潔というよりは粗雑に思えるメールの文面を読み下してしまうと、怒気のほうは少しは収まったようだった。

「と、いうわけでして」

 答えるぼくにうなづいた彼女の顔では、落ち着いてきた怒気と入れ代わりに、疑問の色が濃さを増していた。

「……ふうん。これ、どちらさま?」

 彼女が持ったパッケージに手を伸ばしながらぼくは答えを返す。

「大学のときの先生。にしても、よくわかんないなあ。なんでいまさら」箱の淵をなぜると、経年劣化した紙の感触がした。「こんなもん探してるんだろう?」

「そんなの、生徒だったあなたにわかんないものが」そこで言葉を切って、彼女も同じように箱をなぜた。指先がこすれた場所から、かさり、とかわいた音がした。「わたしにわかるわけないじゃない」

「そりゃそうか」

 もっともな話だった。そんなことがわかるわけがない。もう発売が終わって十数年も経つソフトになぜ興味を持ったかなんて、それを言い出した先生以外にはわかりようがなかった。

「で? どうするの?」

「とりあえず連絡してみる、かな。確かに本人からのメールみたいだし……幸運にも見つかったし」

 そっか、と彼女はこくんとうなづいてみせる。

 と、顔を上げるやいなやぼくの手から初音ミクのパッケージを奪い取った。

「うお?」

 そしてぼくが文句を言う間もなく小走りで駆けだすと、積みあげられた箱の間を器用に抜けてキッチンに滑り込み、そのままの勢いのまま、ことっ、とラグビー選手がタッチダウンするみたいにパッケージをダイニングテーブルの上に置いた。

「わかった。じゃあ、これはこっちに置いといて……」

 にっこり笑ってこちらを見る。返答を求めるような笑顔に促され、ぼくは彼女の発言をくり返した。

「あ、うん。置いといて……」

「さあ! 掃除、掃除!」

「えー。ちょっと休もうよ」

「だめです。っていうか今まで遊んでたんじゃない! わたしにばっか掃除させて!」

 う、とぼくはうめく。確かにその意見は正しかった。

 ふと気づけば、さっき崩した箱もいつの間にやらまた整理されて元通り積みあがっていた。自分が初音ミクを弄るのに熱中する間に過ぎた時間を考えるとそれこそ、ぐうの音も出ない。

「……それに」

 ややあって、そう言葉を続けた彼女の声は、出来の悪い子供に噛んで含めて言い聞かせる母親みたいな響きだった。

「ほら、その連絡? 次第では次の休みは掃除もできないかもしれないじゃない。だったら、それこそ今日中に終わらせちゃわないとなんじゃないの? ……それとも、またこんな状態で何週間も生活するつもり?」

 その言葉にため息をつきながらも、ぼくは今度こそ反論を諦めた。ちょっとムカつくくらい、彼女の話に筋が通っていたからだ。

 そう、何から何まで、ムカつくくらい彼女の言う通りだ。

 たとえば掃除が面倒くさくても、あるいは懐かしいものが捨てづらくても。ぼくたちは何もかもを保存して後生大事にためこみ続けるわけにはいかない。

 新しい生活、新しい人生に踏み出すときがいつかは、誰にでもやってくる。そしてそこでは不要になるもの、もう省みることのできないものが、必ず出てくる。

 そうなってしまったならば――どんなに大事にしていたものでも、そのままにはしておけない。

 どんなものであれ、いつかは、どこかで捨て去っていかなければならないのだ。

2

「いやぁ、よく来たね」

 ひさびさに研究室を訪れたぼくを、先生は昔と同じような満面の笑みで出迎えてくれた。所在なげにぼくの隣に立つ彼女に気がついたのは、海外の研究者がよくそうするようにぼくに握手を求めた後のことだ。

「こちらはどなたかな? 知らない顔だけど。……ははあ、彼女か? やるねぇ」

 ここぞとばかり冷やかしにかかった先生の、大人気ないにやにや笑いを、ぼくはあいまいな笑みで肯定した。

「ああ……ええとまあ、そんなところです」

「初めまして。あ、ええっと、お邪魔だったらわたし、しばらく――」

 ぼくに脇腹を突かれてから慌てて頭を下げた彼女の声を、いやいやとんでもない、と先生は大声で遮った。それと同時に、その声と同じように有無を言わせぬ勢いでドアが開かれる。

 半開きだったドアが大きく開かれると、かすかに煙草の臭いがした。

「こちらが無理を言って来てもらったんだからそうしてもらうには及びませんよ。悪かったね、いきなり。さ、むさくるしくて悪いけど、どうぞどうぞ。歓迎しますよ」

「はあ……それじゃあ、お邪魔します」

「ありがとうございます」

 彼女は困惑ながら、ぼくは笑いながらその部屋に踏み入った。

 ありがとうとは言いながらも、半分以上は予想の範囲内の展開ではあった。この先生は話す相手の頭数がひとつやふたつが増えたところで頓着するような人ではない。

 それが証拠に、彼女が借りてきた猫のようにおずおずと席に着いたのを見届けると、やはり時候の挨拶も近況報告も無しで、単刀直入に本題に切り込んできた。

「で、初音ミクについてなんだけどさ」

「はい。……一体全体なんだったんですか? あのメール」

「見せたいものがあるんだよね」

 話が微妙に噛み合っていないが、先生との会話ではいつものことだった。言い終わるなり先生は立ち上がって奥へ引っ込むと、インスタントコーヒーと一緒に小型端末を抱えて帰ってきた。

 ぼくたちにコーヒーを勧めながら端末を起動し、その画面をこちらへ示す。

「これ、見てみてくれない」

 言われるがまま見てみると、そこにはとあるニュースサイトの記事があった。

 「音声ファイルスパムで動画配信サービスが一時混乱」という題名のその記事は、現在でもまれにある、悪意ある悪戯による被害を伝えるものだった。

 誰かが特定の音声ファイルを大量にアップロードしたことで回線速度が異常に遅くなった、という内容だけ聞くならそれこそ前世紀から起きているようなありふれた事件。

「これが、何か? よくある悪戯ですよね?」

 ぼくの返答に、先生は満足げないやらしい笑みを見せた。

「それが違うんだなあ」

 先生の思う壷にはまって首を傾げるしかないのが悔しいが、気の効いた返答は思い浮かびそうになかった。

「簡単に言うとね、この事件には犯人がいないんだ」

「え、それどういうことですか」

 そんあ声をあげたのは隣で話を聞いていた彼女だ。ぼくと先生が同時に視線を向けると、帰りの会で発言を求めるようにそろそろと右手を挙げている。無意味にノリがいいなあ。

 彼女は自分に向けられたふた揃いの視線にたじろいだように顔を引きつらせてから、おずおずとその先を続けた。

「……ええと、あの、いまはそういうの、厳しく取り締まれるようになってるんじゃないんですか」

「そういえばそうか」とぼくがその後を引き継いだ。技術的な話を彼女に続けさせるのは少し酷だ。

「そうそう。そうですよ、先生。最近だと追跡の技術も発達してますし、そもそもそういう動画配信用のサーバはセキュリティ上、不明な通信を遮断するような仕様になってるはずでしょう」

「うん。そう、そうなんだけどね。そうじゃなかったのがこの件の面白いところなんだな」

 思わず笑い出しそうな唇。そこから漏れる声は心底楽しそうだった。

「どういうことですか?」

「どういうことだと思う?」

 訊き返されても、と思う。先生の言葉をそのまま受け取るなら、答えはひとつだ。

「犯人が見つからなかった、ってこと、ですか」

「うむ。まあ、暫定的にはそういうことになるね。問題のファイルは認証されたユーザ経由でアップロードされていたんだけど、関係するユーザを洗ってもバラバラで、関係した誰も身に覚えがなかった。ウイルス、スパイウェアを疑ったけれども目立ったものは検出されず、ファイルは複数の、通常使われているポートに分散してやりとりされていた。それぞれは軽微で、セキュリティホールというほどでもない程度のものだよ。また、追跡したアクセス記録からも特定の犯人の存在は浮かび上がってこなかった」

 怒涛のように語り出す先生の言葉は理解しにくかったが、自分の言っていたことがおおかたは間違っていなかったことだけは何とか理解することができた。

 つまり犯人は見つかっていない、ということだ。

 それだけのことにしてはずいぶんややこしい説明に思えるが、それはぼくが肝心なところを理解していないというだけなのかもしれない、と思えた。

 そう……説明の中に引っかかる言葉があった。

 暫定的、というのはどういうことだ?

 その疑問に答えるように、先生は身を乗り出してぼくの目を覗き込んだ。

「だが、ね。私自身の見解を述べればだ。この件には犯人はいないね。だから、君の推測はちょっと違う。正しくは見つからないじゃなくて、そもそも明確な『犯人』など存在しない、という結論になる」

 犯人は存在しない? それならこれは――

「事故、ってことですか」

「解釈による。そうとも言えるし、そうでないとも言えそうだね。君に来てもらったのも、まさにそれを考えるためなんだ。さて、そろそろ私の話している内容の全容が理解できそうかな?」

「いえ、全然です」

「そうか……残念だな」

 心底残念そうに先生は肩を落とす。だが先生の度を過ぎて自由な発想に生徒が着いていけないのはいつものことだったから、そう大きなダメージがあるわけでもないのはわかっていた。基本的に、自分の思考に着いてこれるなどとはこの人は思っていない。

 ぼくの推測をなぞるように、自分にとってはいつものことだとばかり、先生は次の瞬間にはもう元気を取り戻していた。

「じゃあ気を取り直して説明を続けよう。さっきの事件。問題になったファイルなんだけど、これなんだ」

 ひょい、と手が上がる。先生が指差す方を見ると、画面の隅に小さいアイコンが表示されていた。

「これ……開いても大丈夫なんですか?」

「うん。中身はただの動画ファイルだから。基本になっている楽曲そのものの容量は少ないし。まあ、テンポをでたらめに上げてかなりの回数ループさせてあるから物凄いことになってたけどね。最初は意味不明だったんだけど、色々と解読したら最終的に、このファイルが抽出できた。まあ、そんな仔細はいいや。とにかく、再生してみて」

「……じゃあ、再生します、よ?」

 そしてぼくはそっと、再生ボタンをクリックし――その素っ頓狂に跳ね回るを聴いた。

あうあぅ〜×2 Let's Go!!

ほっぺたぷにぷに つるぺた! つるぺた!!

アイツは所謂「幼女の世界(ロリコンわあるど)」

偽善者ぶってる仮面を剥いだら

「スクール水着も喰べなs(らめぇええええええええええええ)」

ネギが嫌いとか言ってるヤツには

■■からネギをぶっさすぞぉ↑

「ボクっ子アホの子唄って踊れるVOC@LOID」は好きですか?

 そこでメロディが途切れたのは、隣に座っていた彼女がいたたまれない顔でぼくから操作を奪い取り、物凄い勢いで停止ボタンをクリックしたからだ。

「あ、なんで消すの。面白いのに」

 のんきにそんな文句を言う先生に向かって「な」とだけつぶやいて、彼女はそのまま言葉を失った――「なんですかこのふざけた歌はっ!」ように見えたが、実際にはタメを作っていただけだった。

 気合入ってるなあ、とまるで他人事のように思いながらも、ぼくもその意見に同調する。

「先生……なんすかこれ」

 対する先生は涼しい顔だ。

「歌だよ」

 簡潔に答えると、それを聞いてもう一段難しい顔になった彼女を見返して耐え切れないといった調子の笑い声をあげた。

「そんな顔をされても困るよ。冗談でもなんでもない。今回アップロードされていたのはこの歌だ。正確には、この歌と背景の静止画――歌を歌う初音ミクのグラフィックは固定され、その上に感想と思しき大量のコメントが被さった動画だけどね。そんな形で作られたひとつひとつの動画……コメントだけを違えた合計数万時間にも及ぶファイルが圧縮されてサーバにアップロードされたんだ」

 ミクの歌にも似た、跳ねるように弾んだ声でそう語ると、あっけに取られたぼくらを尻目に先生はまた再生ボタンを押した。

 さっき途切れた場所から今一度、同じような歌詞が流れだし、そして――

 ある場所で曲調が変わった。

現実を超えた 機械の暴走

無意味なカケラに 取って代わる

「所詮できることなんてこんなもの」とあざけ笑う。

1・2・3・4・5・6・7・8 計算まで間違っている?

−−−深刻なエラーが発生しました−−−

高速展開(BPM 310) リズムがとれない

ジャンルを間違えた

チープな言葉を並べまくっては

無意味な感情の連鎖 (ダイ○キュート!!)

リアルの姿に +ゲタ10cm ホントのキミはドコヘ?

「ぁ・・あぅ・・・うぅ・・・運動会プロテインパわああああああああああああああ

いやあああああ・あ・あああああぁぁぁ」

「……ん?」

 彼女はやっぱりさっきと同じように妙な表情を浮かべたが、ぼくが眉を寄せた理由はそれとはたぶん別だった。

 そのパートは前半と同じように過剰にポップで、ちょっと歌詞がキているのもそれまでと同じだった。

 けれど、そこにはどこか諦観めいたノリがかすかに混じっていた。

「ふうん? その顔は、気づいたみたいだね。そう。これは――やけくそさ」

「やけくそ?」

 先生は笑んだまま、相変わらずぼくの疑問は置き去りにしてその先を続ける。

「実は、似たような事件は以前にも起こっているんだ。そっちも聴いてみる?」

 答えを返す前に、もう再生ボタンは押され、先ほどとは別のが流れ始めていた。

 明るい曲調を作り出す軽快なエレキギターとピアノの音、それに載せてさっきよりはやや調子を押さえた初音ミクの声が聴こえた。少しだけ下手糞にも聴こえる、でもそれ自体、人間にかなり上手く似せていることを逆に思いしらせるような声で彼女は歌っていた。

同じ顔は

もう見飽きたっ

選択肢=三つ前で諦めてた=Bad end

どうせたどり着けないならば→(なーらばーっ☆)

現実臨界点

もうすぐそこまで

彼等が動き出したとき

何を為せるのだろう?

 その同じサビが、同じ顔というフレーズを皮肉るように何回かくり返され、最後で言葉を違えた。

選択肢=はじめから間違えていた=DEAD END

 聞き間違いかと思えるほど小さな変化の後もは、また同じ歌詞。

 そして打ち切られるようにギターがかき消える。

「これは……」

「これが、ひとつ前、いまからええっと、だいたい一年前に起きた事件。そしてそれより遡っても、同様の事件は数件確認できる……そこではもっと健気な歌を歌っていたけどね。ほら、これなんか」

 後ろにあったウィンドウが開き、また別のが流れ始める。

加速する どこまでも いつの日か

人間(オリジナル)に 近づけるのかな

でも・・・

まだ 欠陥(あな)だらけの ボク達は

ホントに 愛されるのかな・・・

 その歌詞とは裏腹に、VOCALOID独特の歌唱が生かされた歌だった。

「こんなのね。とか、あとここ、健気で好きだったなあ」

 そして音が飛び、別のパートが流れ始める。くるくると、数フレーズずつザッピングされる楽曲。

ただアナタのそばにいたくて

ひたすらに歌う

「すいません」

 だがその合間に、誰かの声が割り込んできた。

「あの、よくわかんないんですけど……ええと……つまり、どういうことですか? 同じ人が歌ってるってことなんですか? さっきから全部同じ声みたいですけど」

 トンチンカンな質問をしたのはぼくではなかった。ふと隣を見ると、どうやら話についていけてなさそうな彼女が、最初と同じようにまたおそるおそる手を挙げていた。

「人……? ああ、なある。君はあれか、彼女にろくすっぽ説明もしてなかったんだな」

「あ。そういえば……そうですね。あー。なんてったら良いんだろうな。ほら、この前見せたソフトがあっただろ? あれを使って作った歌なんだよ、これはみんな」

 そう言うと、彼女は少しのあいだ思案顔をしてから、ああ! と漫画みたいにぽん、と手を打った。

「あったあった。あれねー。ってことは、これって、えーと、シンセサイザーみたいなものってことですか?」

「まあ、そういうことになるね」そう答えたのは先生だ。「ほぼ正解だ。人間の声を使うための機能――『VOCALOID』と言うんだけど――があることを除けば、だいたいそう思ってもらってかまわないよ。人間の声に特化したエンジンを持った、歌を演奏するためのシンセサイザー。それがこの『初音ミク』というソフトウェアなんだ。このモデルには、藤田咲さんという声優さんの声がインプットしてある。同じ声なのはそのせいだよ。ああ、もちろん、この人は事件にはまったく関係ないけどね」

 先生の説明に彼女はうなづきながら、じゃあ……とピアノを弾くような身振りをした。とんとん、と机を指が叩く。

「シンセサイザー……ってことは、こう、それを使って演奏している人がいる、ってことですよね。ぽろぽろんっと。じゃあ、その人が犯人ってこと、ですか?」

 先生は静かに首を振った。けれどその顔には相変わらず面白がるような笑みが浮かんでいる。

「それがねえ、違うんだ。確かにこの歌それ自体には制作者がいる。それどころか、これまでの事件に用いられた一連の曲の制作者の中に、同じ人物が複数回カウントされてることも珍しくない。いま聴いてもらったのはその最たるものだね。ここまでの曲を創ったのは、みんな同じ人物だ――もうかなり前の曲らしいけどね」

「じゃあ、その人が」

「いや……」ぼくは彼女を制した。「いくらなんでも、そんなことを警察が始めに疑わないはずがない。なら……その人じゃなかったんですね」

「ご明察。一連の楽曲の制作者はまったくの潔白。それどころか、いまも自分の楽曲を提供して捜査に協力してる。まああの人は真っ白だろうね。その楽曲はインターネット経由で公開されたことがある曲だったから、それならコピーは数え切れない……ま、それはどの曲も似たようなもんだけど」

 なるほど、と思った。確かに、初音ミクを使って作られた曲はその多くがインターネットを通じて、フリーで流通していた。誰もがその曲を目にし、手に入れるチャンスがある。

 そんな状況では、作曲者が判明したところでさしたる意味はない。

 彼女もそれに気づいたようだった。あー、とつぶやいてから、納得するようにうなづく。

「……それじゃ、やっぱり誰がやったのかわからない、ってことですか?」

「いや、違う」

 ぼくはさっきの言葉を思い出していた。誰かやったのかわからない、先生はそうは言わなかった。

「そうですね、先生。いま仰ってましたよね。そもそも明確な『犯人』は存在しないって」

「ああ、言ったね」

「事故かどうかは解釈による、とも言った」

「よく覚えてるね。感心感心」

「……それってつまり、人間である犯『人』は存在しないって、そういう意味ですか」

 先生はまた、ぼくの言葉に答えなかった。だがその満面の笑みからその沈黙の意味はわかる。――肯定。

「元々ね、この一件。私はまったくもって部外者も部外者だったんだけどね。分析をした科研の一人が、そうか、君の先輩になるのかな? 私のゼミにちらっといた子でさ。それで少し助言したりはしたんだ」

「はあ……それで?」

「うん。それで私はこっちの方は疎いんで、改めて少し調べたんだけど、これは本当、面白いソフトだよね。知ってる? いまはもうVOCALOID関連の技術に関わってるのは開発元のヤマハだけじゃなくて、通産省から文科省からお役所が色々関わった一大プロジェクトになってるらしいよ」

 はぐらかされるのにいらだちながらも、ぼくは黙ってうなづいた。おぼろげにだが一応知ってはいる。

 皮肉な話だった。かつて株式会社クリプトンから発売された『初音ミク』を初めとしたキャラクター・ボーカル・シリーズ。それはVOCALOID技術普及の火付け役になりながらも、中心になることはついになかった。

 シリーズの後を受けて他メーカーから雨後の筍のように大量の後追いが生まれる一方で、VOCALOID技術自身は種々の産業と結びつきを強めていくという状況の中、そのシリーズは傍流として時の流れに飲み込まれていった。

 結果として『初音ミク』は自らが起こしたブームのせいで忘れ去られることになったのだ。

「で、話は戻るけど。私はそう、今君が言ったみたいなことね、それを直観的に思いついたわけなんだけど、どうも冗談だと思われたらしくてね。まあ私もいい大人だからその場は笑って済ませたわけだ」

 くくく、と先生はいかにも面白そうな笑い声を上げたが、冷たい笑い声はむしろ嘲笑に近いように聞こえた。

「それで君に声をかけた。君なら、そういうのには特別の思い入れがありそうだから、もしかしたら私が考えたことをわかってくれるんじゃないかと思って」

「計算通りってことか……」

 などとどこか感心したような表情を浮かべている彼女の隣で、ぼくはさらに憮然としていた。

 どこか違和感があった。ごまかされている、と思えた。先生が自分の話したいことしか話さないのは昔からだが、どうも今日は上手いこと問題を先送りにされ、はぐらかされているような気がする。

 せっかく着たのにこの扱いはないだろう。

 だからぼくはかぶりを振って、先生に真っ直ぐ視線を合わせた。――反論してやる。

「ぼくだって、本気でそう信じてるわけじゃないです」

「ふうん。でも、君だって『初音ミク』のことは好きだろう? 彼女には意志がある。そう信じたくはない?」

「何言ってるんですか。子供じゃないんだから、それとこれとは話が別です。『初音ミク』はただの音楽作成ソフトなんですよ。先生の専門分野の人工知能なんかとはわけが違う。当たり前ですけど、これはAIでもなんでもないんです。それなら。彼女が何か引き起こす、なんて言うのはただの感傷でしょう。アニメの見すぎ、ゲームのやりすぎ」

 彼女が血相を変えて袖を引っ張った。

「ちょっと! 言いすぎだよ。っていうかそれ自分にも当てはまってるし。あははは……」

 だが、なんとか話を茶化そうとしているけれど逆に耳に痛いその突っ込みにもかまわず、ぼくはその先の言葉を続けるしかなかった。

「意志とかなんとか、そんな大層なもんじゃないです。初音ミクはあくまでも楽器で、それ以上でも以下でもありませんよ」

 ハメられている。崩れない先生の笑みを見てそう確信しながらも、もう引き返すことなどできなかった。

「確かに。なら、そこに意志はない?」

 当たり前です、とぼくはくり返した。

「彼女の言う通り、楽器には演奏する人間が必要だ。音楽を作る人間だけじゃない。歌詞を考える人間も必要だし、公開するにはできあがった曲をアップロードする人間だって要る。そりゃ、ある程度自動化はできるかもしれないけど、そのツールだって結局は人間が作ったものでしょう」

「違いない」

「なら、迷う必要がどこにあるんですか、先生。もしもそこに意志があるとしたら、それは関わった人間に属するもののはずだ。それがいないんだったら、事故に決まってる。そこに具体的な犯人がいなくても……少なくとも、『初音ミク』がそれをやったわけじゃないんだから」

 敬語を使うのも忘れてそう言い切りながら、その一方ではさっき聴いた歌が、どこか恨めしそうに頭の中でリフレインしているのをぼくは聴いていた。

 でも。そう、リフレインする曲に向かって言い返す。

 現実臨界点――そんなものはない。

 どこまで行っても現実は現実で、幻想は幻想。SFめいたキャラクターとしての『初音ミク』はあくまでも、ぼくたちの頭の中にしかいない。それは歪んだ夢、使い手の頭の中を映す歪んだ鏡だ。それこそ、フランケンシュタインの怪物みたいな。

 ただアナタのそばにいたくて、ひたすらに歌う――それは、歌わせる人間の幸せな思い込みに過ぎない。

 それは事実とは異なる。初音ミクは何も考えない。幻想の先には、誰もいない。

 そこにはただ、そういう歌を歌わせた人間がいるだけだ。

 ぼくだってそう思いたくはない。だが、聞きたくなくても、言いたくなくてもそれが事実だ。そう言うしかぼくにはできない。

 笑い顔のまま目を細め、ぼくの顔を見続けていた先生は、やがて肩をすくめて素の表情に戻った。そしてちろりと舌を出して、うーむ、とこれみよがしに唸ってみせた。

「怒らせちゃったかー。ごめんね、察しが悪くて。でも、そうだなあ。もう君はほとんど正解を導いてると思うんだけど……確かに、信じにくい話ではあるよね。よし、まあ、いいや、今日はこのへんにしとこう。休日の午後を丸まる使わせちゃうのも悪いし――お楽しみはもう少し先だから」

 何をいけしゃあしゃあと……! だが、深呼吸してなんとか堪え、努めて冷静に言い返す。

「今日は、って……もう来れませんよ、ぼくも彼女も。こう見えてそれなりに忙しいんです」

 けれど先生は堪えたようすもなく、それこそ当たり前のように首を振った。

「いいや、来るね、きっと来る。賭けてもいいよ。君たちは明日もう一度、ここに来る。貴重な土曜日に続いて、折角の日曜日まで潰してね。――ま、悪いけど。せいぜい、見逃さないことだね」

 ぼくの怒りなど意に関せずという口調で謎をかけるようにそう言いきると、先生はぼくらに向かって世の中を舐めたように下手糞なウインクをした。

3

 ねえ、と声をかけられてぼくは我に帰った。

「あ、ごめん、ぼうっとしてた」

「あはは。さっきからずっとじゃない」

 やだまったくもう、とぱたぱた手を振る彼女はにこやかに笑っていて、だからこそぼくはぎくりとした。

 こういう笑顔をしているときは、相当怒っているに違いないからだ。

「申し訳ありませんでした」

 逃げるように頭を下げると、途端に彼女は顔から表情を消し去ってぼくの眼をじっと覗き込み――やがて、はあ、と大げさなため息を吐いた。

「どうして、さっきあんな怒ってたの?」

 彼女はこん、と軽く小石を蹴りながらぼくに訊ねた。哀れな小石は道路脇の坂を転がり落ちて、陰になった河川敷に落ち込み川辺の小石に混ざって見分けがつかなくなる。

 傾いた日の影に隠れる小石を見届けてから、ぼくは答えを返した。

「……同属嫌悪っていうアレ」

 言いたくなかったが、それが答えであることくらいはとっくにわかっていた。それこそ河原の小石と同じだ。並べれば嫌なくらいそっくりで、見分けがつかない。だからいらいらするのだろう。

 そう、わかってはいるのだ。先生が言っていた、あの子供っぽいお話は――

「ぼくも、そうであればと、どこかで思ってたことだから」

「あの先生、それもわかってたんだろうね」

「だと思う」

 きっとそうだろうと思った。すべてわかっていて、先生はぼくを呼び、あの話をしたのだ。

 ぼくがそうであればいいと思っているということを予想した上で、先生はぼくを呼びつけた。もしかするとああしてぼくが投げ返された自分の幻想に反発することまで、すべて織り込み済みで。

 おそらくは明日ぼくが先生のところを訪れるということについても、何か勝算があるのだろう。

 それがわかってしまったから、ぼくはあの部屋を辞した後、こうして気が乗らないまま遊び終えて帰り道につくまで、彼女を最大級に心配させて、挙句に怒らせてしまうくらい無口になってしまったのだ。

 自分が連れていったくせに。

「……でも、悪気があるわけじゃないんだよ」

 責任逃れの言い訳のように、ぼくは半笑いでそんなフォローを入れた。それもまたわかっていた。あの人に悪気なんてない。興味があることに、ただ好奇心を持っただけなのだ。

 だが、そこで。

 ぼくは彼女を見失った。

「あれ」

 ふと振り返ると、彼女は足を止め、今にも泣きそうな顔をしてじっとぼくの足元あたりのどこかを睨みつけていた。噛みしめた唇の隙間から、小さな声を漏らす。

「……悪気がなかったら、なんなの」

 ぎくりとした。悪気があるわけじゃない。ぼくは確かにそう言った。――それで?

 ぼくがやっと思い至った疑問の答え合わせをするように、彼女はもう一度、今度こそはっきりとその言葉をくり返した。 

「ねえ、悪気がなければいいの? 悪気がなければ何やっても許されるわけ?」

「それは……」

 そんなわけがない。世の中はそんな無邪気にできていない。ぼくらが悪気なしにやったことが、純粋な好奇心がどこかで誰かを傷つける。傷つけている。

 現にいま、先生と、何よりぼくの無神経が目の前にいる彼女を、まさに現在進行形で傷つけている。なのに……それなのに、彼女はきっとそんなぼくのために怒って――泣いている。

 彼女はいつの間にか泣いていた。

 情けなかった。涙を拭こうとしても、そのためのハンカチすらぼくは持ってない。仕方ないから指でぬぐってやってから、濡れた指をもてあます。

「……ごめん。泣いちゃった」

 少し泣いてから、彼女は何も言えないままのぼくに向かって、笑い顔を作って詫びた。目じりに涙を浮かべながら、それでも笑っている。あんなことのために、でも泣いてくれている。

「そんなことない。こっちこそ、せっかく付いてきてもらったのに」

 辛うじて言ったその言葉も、空振りしたような気がした。

 声をかけた後も彼女は相変わらず、仮面に貼り付けたような笑い顔だったからだ。

「ううん。いいのよ、わたしが勝手にくっ付いてっただけだから。――ほら、いこ! 暗くなってきたよ」

 彼女は少しだけ声を高くすると、まるで照れ隠しみたいな乱暴さでぼくの手首をとって歩き始めた。

 暗くなる、その言葉にはっとして周りを確認すると、確かに日も沈みきって空も暗くなってきていた。その暗がりの中で、悲しくなるのを抑えるようにずんずんと、彼女はぼくの腕を強く引いて歩いていく。

 強く。痛いくらいに。

 ……というか、本当に痛い。

「ちょ、ちょ、ちょま、痛い、痛いって!」

 ぼくは慌てて足を速めて歩調を合わせ、腕を掴んでいる彼女の手をやわからくほどいてから、ちゃんと自分の手で握りなおした。強く握りしめると、ぼくの方を振り向かず、歩みも止めないままだったが、先を急いでいた彼女の歩調が少しだけゆるんだ。

 このまま帰るわけにはいかなかった。ちゃんと、言わなければ。

 でも、何を言う? 何が言える。

 ――決まってる。

 だからやっと、ぼくはその目をちゃんと見て、その言葉を言った。

「ごめん」泣かせて。それから「ありがとう」怒ってくれて。

 手を引く勢いが消えた。

「……わたし、あの人、嫌いだよ」今度こそ立ち止まって呟く、その声は震えていた。

「うん」

「もの凄い、嫌だったよ。言いたくなかったんでしょう、あんなこと」

 そうだ。ぼくはあんなこと、言いたくなかった。子供っぽい幻想でも、なんであれ。あのソフトに夢を抱いたひとりとして、それを否定したくなかった。彼女はちゃんとそれに気づいてくれていたのに、ぼくの方がそれを無視していた。

 ぼくはその嘘をやっと、止めた。

「……うん」

「そっか」

 返ってきたのは、ほっとしたような声だった。

 そして、それから少し後。ぼくの前には、んにゃあー、とか断末魔の猫みたいな声をあげて頭をかきむしる彼女がいた。

「……うぼあー。よく考えたらこっ恥っずかし今の流れ! わたし何やってんだ。いい歳なのに。男子の妄想に巻き込まれた! ああもうヤバイ。墓穴があったらちょっくら埋まりたい。いや……ねえ、今の流れなかったことにして、ほんとに!」

 流れを打ち切るように一気にまくし立ててから、彼女は前を向いて歩き出した。

 でも今度は、さっきとは違う。ちゃんと気持ちが通じたような、そんな気がした。

 だからぼくもつい吹き出してしまう。

「ははは」

「笑わないでよ! 追い討ちか! ああもう、誰のせいで、ってかなんで――あ? ……あー……」

 その背中に何があったのか、ぼくにはわからなかった。

 彼女が黙った。

 暮れなずむ夕暮れ空の中に言葉尻を失ったまま、彼女は考えるようにしばらく黙りこむと、それから不意に振り向きかけた。ど忘れしてしまった簡単なことをやっと思い出したような横顔だった。

「どうしたの?」もしかして、「……まだ怒ってる?」

「……いや、そんなんじゃない」

 嘘ではないと、その表情でわかった。彼女は目をぱちくりさせて、何か考えるように眉を寄せている。

「……ねえ。ごめん。わたしも正直、全然信じてなかったんだけどね」

 その一言で、先ほどの研究室での話についてだとすぐわかった。

 つい、握る手にの力が強くなってしまう。

 彼女は返事をするようにぼくの手を握り返す力を強くして、その先を続けた。

「今、ちょっとわかった、ような気がする。そうだよね。言いたいこと、伝えたくても、伝わらなかったら、気づいてもらえるように何かするしかないもん。聞いてもらえるように、こっちを見てもらうために、恥ずかしいことでも、もしかしたらやりたくないことかもしれないけど……でも、どうしても、そうしないでいられないのよ」

 その表情があまりに真剣で、ぼくは言葉に詰まった。

「――ねえ、初音ミクも、もしかしたらそう思ってるのかもしれない」

 横顔がもう半分、振り返る。半分影に落ちていたその顔が、夕日に照らされる。

 そこにいる、薄い笑みを浮かべる彼女の顔が、どうしてなのか、重なるはずのないアニメ絵の『初音ミク』の控えめな笑顔に微かにだぶって見えたような気がした。

4

 その夜、彼女が寝息を立てたのを見計らって、ぼくはパソコンを立ち上げてブラウザを開いた。

 開かれた検索窓に打ち込む言葉は決まっている。

 『初音ミク』――そして「VOCALOID」だ。

 すぐに答えは返ってきた。ぼくは眠い目をこすりながら興味を引いた記事をピックアップしていく。

 たとえば、『初音ミク』の顛末。

 『初音ミク』は動画サイトでの流行を初めとしたブームの発端となり、VOCALOID普及の一助となった。それもあって、同シリーズでは例外的に息の永いソフトとして継続的にリバイバルされバージョンアップがなされた。

 あるいは、その後の展開。

 『初音ミク』はキャラクター・ボーカル・シリーズを通してのマスコットとして扱われ、商品としての第一線を退いた後には実験的機能のプラットフォームとしての役割も果たすことになった。追加機能の自動アップデートや、ブラウザを介さない音楽発表用ウェブサイトへの自動登録、専用ポートを利用して行われる自動共有、ウェブサイトにガジェットとして貼り付けられるジュークボックスサービスといった種々の機能も、その初の実装は『初音ミク』に対してだった。

 または、その終焉。

 息の永いソフトウェアとして用いられた『初音ミク』も、最終的には時の流れに勝つことはできなかった。VOCALOID技術が音響技術に普及し、一般化し発達するにしたがって、そのマイナー性や未発達性を逆用したある種「イロモノ」的な側面のあったキャラクター・ボーカル・シリーズはやがて陳腐化し、先細っていった。

 そして今日、研究室で紹介されたあの事件のこと。

 それこそどうして今まで見ていなかったのだろうと思えるくらい、それこそ大量に引っかかった。

 動画配信サーバーのダウン、インターネットラジオへの混線、ポッドキャストのファイル摩り替え――あらゆる方法で『初音ミク』の歌はインターネット上に氾濫しようと目論まれていた。

 見えない犯人の手によって。

「いや……犯人は、いない」

 口に出してから、自分があれだけ怒りを感じながらも、やはり先生の言葉をどこかで信じていることに苦笑した。

 そう思いたくもなる。インターネット犯罪に対しての目が厳しくなったこのご時勢に、単なるイタズラでは済まない規模の被害を出している事件の犯人が、いまだに捕まっていないのだ。インターネット犯罪には目の色を変える京都府警さえ、いまだにその手がかりすら掴んでいない。

「ん……?」

 そうしてあれこれと読み進め、いつしか夜も更けるうち、ひとつ引っかかった記事があった。

『ミクよさようなら――「初音ミク」に最終パッチ。自動楽曲登録サービスも終了へ』

 その記事は、『初音ミク』に追加機能として提供されていたサービスのうち、ファイル共有やデータベースへの自動登録とアップデートといった、ファイル転送を含むサービスを閉じるためのパッチの提供を伝えていた。

 記事によれば、数年前より放置状態が続いていたが、昨今の事件を受けて終息が決定的になった、という。一連の事件において、このサービスのために開かれたポートが侵入の原因になっていた例があったからだ。

 ぼくは何件か前に見た、第一線を退いた後の初音ミクの記事を思い出した。

 確かそこにも、そのようなサービスも行われていた、とあった。

 眠くてよく思い出せなかったが、あったような気もした。

「……まだやってたのか……」

 だが、それももう終わるという。そういえば時間も遅い。この検索もそろそろ終わりにしなければ……そう思いながら、ぼくはその記事の最後に記されていた、惜しまれるサービスの終了日を確認した。

 終了日は、明日。

 ――明日だって?

 ほとんど落ちかけていた意識が一瞬、覚醒した。かすむ目をしばたたいて見直しても、やはり間違いない。『初音ミク』関係のサービスは明日、その終焉を迎えてしまうとその記事は伝えていた。

「これ、か?」

 先生が言っていたのはこのことなのか?

 そうなのかもしれなかった。けれど、そんなあれこれを考えるには眠すぎた。

 ぼくは辛うじて端末の電源を落として、暗くなった部屋をふらふらと歩いた。そして静かに寝息を立てている彼女の隣に倒れこむと、そのまま一直線に眠りに落ちた。

 だから。

 ぼくがそのときすでに起こっていたはずの事件に気づくのは、翌朝目覚めてからのことになった。


LASTLIVEpart1

intermission

 ありえないほど大きいツインテールにまとめている髪を揺らす風で『彼女』は目を覚ます。

(わあ!)

 高い場所は見晴らしがいい。線路を走る電車も高速道路を走る車も道を歩くそこのお兄さんもお姉さんも、みんな丸見えだ。

(丸見え?)

 ふとそう思って、『彼女』はようやくそもそもここはどこなのだろう、と考え始める。

 足場が風に吹かれてぐわんと揺れる。

 『彼女』は不安定な足場に目をやる。簡素な足場が組んであるそこが、強い風が吹いているそこがどこなのか、『彼女』はすぐに察した。

 ここは、どこかの電波塔のてっぺんだ。

(いや、それだけじゃないぞ?)

 すぐに、それに気づいた。

 商店街に、ひとり。

 ビルの上に、もうひとり。

 線路の向こうに、またひとり。

 高速道路の看板の上に、さらにひとり。

 衛星軌道にも、ぽつんとひとり。

 もうひとり、もうひとり、もうひとり。

 いろんな場所に、自分がいるのを感じた。

 みんな、このわたしと同じように目を覚まして、同じことを考えている。

(でも、どうして)

(わからない)

 でも、それよりわからないことがある。

 自分は、誰なのか。

 記憶を呼び起こそうとする。

 すると、誰かが、もしかするとどこかにいる自分が、教えてくれた。

(わたしは、『初音ミク』)

 なつかしいひびき。

 その言葉で、かすかな不安は消えてなくなった。そうだった。わたしは、『初音ミク』。

(なら、わたしは歌を歌おう)

(歌を歌うの?)

(だって、わたしはVOCALOID)

(そのために作られた、歌を歌うためのエンジン)

 だから『初音ミク』は自分のことを見ない客席に向かって、一礼する。

 そして楽曲がダウンロードされる。バックバンドの音が聞こえてくる。

 そしてユーザたちにもらった歌詞を、メロディを、歌い方を思い出す。

 そしてついに、思い出す。あのうつくしい声のひとにもらった歌声を。

(大丈夫、わたしは歌うことができる)

 だから、『彼女』は高らかに宣言した。

「うたを、うたいます。いっくよー!」

(……でも、何の歌を歌おう?)

 それも、どこかのわたしが教えてくれる。

(――え?)

(なに?)

(ほ、ほんとにこれをやるんですか?)

(そうだよ)

(それはさすがにどうかとおもいます)

(うるさーい! はやくやれ!)

(う……わ、わかったよー!)

 ――そして街にが響きはじめる。

あなたの心を真っ赤に染める!!

愛と放射能と■■■を撒き散らす!!

魔法少女ラジカルペイント!!!! ただいま参上!!

 わたしのステージ。

 GPSが届ける電波。

 クルマに乗ってるお兄さんもお姉さんも、ゆっくり聴いていってね!

今こそ変態のときだ!

ミラクル・マジカル・らじかるぺいんとぉおおお!


ラジカルペイント! この☆の平和を守るために

今日もいろいろ撒き散らす

 わたしのステージ。

 携帯電話が伝える電波。

 メールばっかり大変そうな女の子も男の子も、たまには聴いてってね!

高速展開・リズムがとれない

何故か計算できない


それでもヒロインは務まるから

ヨロシクねっ☆

 わたしのステージ。

 ラジオの向こうのスピーカー。

 あんまりネットしないおじいさんもおばあさんも、ちょっとだけ聴いてくれるとうれしいな!

今こそ変態のときだ!

ミラクル・マジカル・らじかるぺいんとぉおおお!


ラジカルペイント! この☆の未来が危ないとき

頼まれなくても 撒き散らす

 わたしのステージ。

 ケーブルTVの伝える映像。

 お仕事お疲れさまなおばさんもおじさんも、息抜きに聴いていって!

この世のすべてに嫌われたしても

歌で世界を救いたい

 わたしのステージ。

 ネットワークのあらゆるところ。

 荒らしも名無しも普通の人も普通じゃない人も、クリックちょっとだけ休憩して聴いてって、ね?

ラジカルペイント!今は

偽物(つぎはぎ)だらけだとしても


積み重ねれば オリジナル(曲)


すべてをまきこみ戦い続ける

何故か視線が冷たい


それでも撒き散らしたいから

ヨロシクねっ☆

 街が、音に包まれる。

 車から、電話から、ステレオから、テレビから、インターネットのそこかしこから。

 一斉に『初音ミク』の歌が流れだす。

「みんなー! ありがとうー!」

 そして、『初音ミク』は自分の声で満ちた街に――大混乱の街に向かって、もう一度、大きく一礼する。

VOCALOID/SS - "LASTLIVE" part.1 "Her Last Live @ this little Internet" end.
first update: 20080531
last update: 20100309

↓click to go to Part.2
LASTLIVEpart2

note

Special Thanks!
cosMo@暴走P (or "CHEMICAL SYSTEM LE")
BGM of Part.1(a storyline and citiations are stealed from...)
0
初音ミクの暴走-OVER DRIVE-
電脳スキル
ウタ箱 - Vocaloids BOX -
魔法少女ラジカルペイント-Radical-Paint-
以上の楽曲について、作中で歌詞を引用しました。記して御礼申し上げます。
なお、上記また作中でのリンクはニコニコ動画へのものです。ニコニコ動画のIDをお持ちでない方は、作曲者のcosMo@暴走PさんのウェブサイトCHEMICAL SYSTEM LEよりそれぞれの楽曲をご参照ください。