5

 楽しい夢を、見ていたような気がした。

「起きて!」

 耳に飛び込んできた声に目を覚まして時計を確認すれば、まだ九時にもなっていなかった。平日なら間違いなく遅刻だけれど、今日は日曜日だ。日曜の朝には早すぎる。

「ねむい……」

「うっさい! いいから起きて! お願いだから!」

「……んん? 何、怖い顔して」

 一瞬で頭がはっきりしたのは、ぼくの肩を揺さぶる彼女の、真っ青な顔を見たからだ。肩で息をする彼女は目の色を変えたぼくを引っ張り起こすと、搾り出すような声で言った。

「見たらわかるよ。えらいことになってるから」


 出発してから数時間が過ぎても、ぼくらはまだ先生の研究室に辿り付けないでいた。

 嘘みたいだ、と思いながら遅々として進まない道路、それから手元の時計を見た。昼はとっくに回っている。渋滞に捉まってからもう数十分、状況には変わりがない。

「嘘だろ」

 あまりの状況に思わずそう口に出してしまう。それくらい、冗談かと思えるような状況だった。いまどきないくらいの交通麻痺、その原因はもうわかっている。

 あんなことひとつで、こんなに何もかもが麻痺してしまうなんて。

「それが嘘じゃないから困ってるんじゃない」

「……そうだね」

 うんざりしたような声に辛うじて答えを返し、次の煙草に手を伸ばした。

 その大規模クラッキングの被害は現在では既にほとんど封じ込められてはいたものの、発生から半日近くが過ぎた今もなお、いくつかのトラブルは継続していた。特に音声を使用する機器、例えばカーナビなどのサービスに対する被害は容易には復旧しそうもなかった。

 ぼくと彼女が渋滞の道をじりじりと進む羽目になったのも半分以上そのせいだ。

 幾度か先生に連絡してみても、聴き覚えのあるあの声に邪魔されて、何を言ってるんだかさっぱりわからなかった。

 辛うじて聞き取れたのは、ただ一言だけ。

 いやあ、さすがのネットワーク時代だね。

 今やすべてはつながっている。だからこそ、何かが起これば歯止めが効かない。冗談みたいな小さなことを発端としてでも、甚大な被害は起こりうる。そういう意味なのだろう。

 それは理解できる。理解はできるが。

「納得できるかは、別だろうが。……あーったくもう」

 さっき火を点けた煙草をあっさり吸い終わり、次に手を出そうとするぼくの手を彼女がぴしゃりと叩いた。

「痛」

「もー、煙いからやめてー。そんなパカパカ吸ってたら病気になるよ」

 意外と赤くなっている手を擦りながら睨んでみるものの、効果はなかった。こうなったら彼女は頑として妥協しない。

「……わかったよ」

「ありがと。……んー、それにしても、ねえ、だいたいどうして」とダッシュボードに身を乗り出すように突っ伏した彼女が呟いた。「こんなことになってるの? ハッキング対策とかさ、そういうの、やってるはずなんじゃないの?」

「うーん。まあ、そうだよねえ」

 ぼくとしても、そんなふうに煮え切らない返事を返すしかなかった。

「原因は不明?」

「いや、そうでもないんだよ」

 原因それ自体は理解できた。その超人的なクラッカーは音声ファイルのやりとりに関わるシステムの一部にトラップを仕掛けた。トラップを仕掛けられたシステムはとあるサイトから大量の音声ファイルをダウンロードさせられ、やがてその容量に耐え切れずダウンする。

 それ自体は単純な理屈だった。

 けれど、問題はそこではない。

「……犯人がいないのが、問題なんだよ」

「犯人が、いない?」

 ぼくの言葉をくり返す彼女にうなづいてみせる。それが問題だった。原因はわかっている。わかりすぎるほどわかっている。だがそんな簡単な手口、簡単な事件なのに、犯人の行方はようとして知れない、などというありえないことが現に起こっている、そのことこそが。

 今もって、誰にも判らなかった。

 そんな単純すぎる手口を許さないはずの現代のセキュリティを、どうやってかいくぐり、仕掛けたのか。

「それって……」

「そう、昨日のあれと一緒ってこと。……くそ、また捕まった」

 いまいましい信号の色は赤で、ここまで来るともはやどうにでもなれという気持ちにさせられた。

 突きつけられる赤い円。

 録音ボタンみたいだな、とかぼんやり考えて、ぼくはそのまま連想ゲームのように、昨日から今日にかけてあらゆる空き領域に録音され、その隙間を埋め尽くしたはずの音声ファイルのことを考えた。

 そこに氾濫しただろう、声――『初音ミク』の歌声のことを。


LASTLIVEpart2

6

 研究室に着いてみると、先生は昨日とは打って変わって平静な表情でぼくらを迎え入れた。

 予想外の反応に少し面食らっているぼくらに先生はやはり昨日と同じくソファを勧めた。だが、その顔には昨日には同じようにする間も、終始浮かべられていたにやにや笑いはもうなかった。

「やっぱり着たね。でも、遅いなあ。お楽しみはもう済んじゃったよ、勿体ない」

 軽く首を振りつつそう言ったのはまだ座るか座らないかといううちのことだった。

 その顔をしばらく見てから、ああ、と印象を訂正する。

 違った。これは平静というよりも――気だるそうな顔だ。

 小さい声で話しかけてくる顔ははっきりと詰まらなさそうに見え、だがその意味するところを考えると雰囲気に飲まれてはいそうですねと聞き流せるものではなかった。

 間違いない。この男は何もかも知っている。

 それなのに何もかも他人事のように腑抜けている顔を見返して問いかけた。

「……どういうことですか、あれは」

「あれって?」

 ここまで来てまだやるか。ぼくは深々とため息を聞かせてから、机に音を立てて手をついた。明らかな恫喝。しかし気にもならなかった。それで怯えるようなたまなら、今さら抜け抜けととぼけてみせたりはしない。

「今さらとぼけないでくださいよ、まどろっこしい。昨日から起きてる通信障害のことです。関係あるんでしょう。昨日言ってた『お楽しみ』と」

「……ま」

「ま?」

 口を半開きにして先生が発した言葉をそのまま返すと、先生はふにゃふにゃした笑い顔で口を開いた。

「ま、今さらっちゃ今さらかもしれないね。あれだけのことが既に起きてしまった以上、はぐらかしても何にもならないし? 別に言っても困りやしないけど」

 言いながらも、視線はいかにも嫌そうに宙をさまよっている。ぶらぶらとさまよう視線。すぐに、何かを探す視線だと気づいた。そのようすは確かに静かだったが、その奥ではまだ、何か面白いものを探していた。

 おそらくは、ぼくの中に。

 ぼくは、自分の中にある何かを値踏みされていた。

 先生はいつの間にか手に取っていたコーヒーをすすりながら、何かを言わせたそうな遠まわしの視線で走査線のように、ぼくを上から下まで撫でるように見た。

 だが、ぼくにはそれに付き合う義理はなかった。昨日のようにやり込められるわけにはいかない。今日も彼女はぼくの隣にいるのだ。

 そんなぼくの思いに気づいたのかどうなのか。先生は肩をすくめ、

「まあまあ、そう根に持たないでよ。悪かったって」と簡単に頭を下げてから、すぐにぐいと顔を上げてこう続けた。

「……でも、詰まらなくない? 座して教えてもらうのなんか。昨日も似たようなことを言ったと思うけど、私の見たところ、おそらくは君も私と同様の材料は持っていると思うよ。今ならなおさらのこと。昨日あたり、調べてたんじゃないのかな。この件のバックグラウンド」

 ぐ、とうめき声をあげたのが自分だと気付くまでに、少しかかった。

 それも予想通り、ということか。

「そんな引かないでもいいよ。別にエスパーってわけじゃなし。あれだよ、君ねえ、まだ若いのに一徹くらいでそんなでっかい隈作ってたら立派な研究者にはなれないよ」

 口をつぐんだぼくを軽く笑い飛ばしてから、また肩をすくめてみせる。

「でも、さあ。今になって何が訊きたいの。こう言うのは何だけど、もうほとんどは終わっちゃったことだよ」

「終わった、って。今も被害は起きてるんですよ」

「ん? ああ、まあ、そうかもしれないね。でも、それももう終わるよ。対策? それこそ今更だね。ポートを閉じて、パッチを当てて、ゲートウェイの監視を強化して? は、金の無駄だよ、そんなものは。もう少しすれば犯人が二度と来なくなる道に、今から監視カメラを仕掛ける必要がどこにある?」

 ヒントでも出すようにまくしたてられた台詞。そこにさりげなくまぎれた言葉を、ぼくは耳に留めた。

 もう少しすれば犯人が二度と来なくなる。

「……やっぱり、今日が最後なんですね」

「ん? 全然驚かないね。あ、ということは……なるほど、おめでとう。たぶん君はもう、ほとんど正解を知っているよ。解っていないとしたら、後は、そうだなあ、少し頭をひねるだけ。……ふう。ま、いいや。それじゃ、謎解きでもしてようか。
 ――どうせ、『エンディング・テーマ』が流れるまでは暇なんだ」

 芝居がかった台詞の最後に、ぽろりとこぼれたその言葉を聞きとがめたのは、ここまでぼくの隣で不安げに話の行方を見守っていた彼女だった。

「エンディング……テーマ?」

「そう。『エンディング・テーマ』さ。まあ、ただの推測、憶測だけどね。私の予想が確かなら――おそらく『彼女』は最後にもう一度歌うだろう。
 ま、それはいいとして、だ。話を戻そうか。ゆっくり行こう。まず前提条件の確認。今まで起こってきたこと、そして今日起こること。さあ、なんだ? はい考えて」

 突然そう水を向けられ、彼女はきょとんとした顔を見せた。

「今までに、起こってきたこと? えーと……」

 言いながら、助けを求めるようにぼくを見て、昨日のようにくいくいとシャツの裾を引っ張った。

「ユーザ数の減少、ですか」

「そうだね。もっとも単純にはそういうことだ。それから?」

 さっきの分を取り戻すように、今度は彼女が問いに答えた。

「えっと……ブームが終わった、とか」

「もちろんそれもある。『初音ミク』という存在を私たちが忘却すること。そして、その結果として今日起こることも、君は知っているだろう、ね」

 はい、と無意識に答えていた。まるで彼女と二人、大学の教室で先生の授業を受けているような気分だった。

「最終パッチの配布と、関係するサービスの終了」

「やっぱり知ってたんだ。さすがに私の生徒、ちゃんとポイントを掴んでる。ああ、詰まんないかと思ってたけど、こうやって話してるとなんだか楽しくなってきた」

「……そりゃ良かったですね」

「皮肉かな? まあいいや。さあ、これでおおかたピースは揃ってる。さて、以上の経緯は何を意味するだろう?」

「それは……そのままでしょう。ユーザ数が減って、だから忘れられて、サービスも終了する……」

 先生はふああ、とあくびをかました。

「君ねえ、やる気ないの?」

「そんなことはないですけど」

「じゃあそうじゃないだろう。言うべきことは。嫌いだなー、私は君のそういうとこ嫌いだな。もうちょっと自信持って、思ってること言ってみればいいじゃない。間違ってないのは、請け負うから。
 なぜ、彼女はあんなことをする必要があったのか? その原因としてのこの条件はどのような意味合いがあったのか。さ、考えてみてよ」

 ぼくは考える。考える、ふりをする。目を閉じ、開き、そしてずっと頭にあったその言葉をやっとのことで口にした。

「……くり返される『初音ミク』の死」

 死。そう、それは死だ。

 ユーザ数が減少すること、それは裏返せば『初音ミク』というソフトウェアをアンインストールする人々が増えたということだ。減少したユーザ数と同じ回数だけ、『初音ミク』はアンインストールされる。

 アンインストールされるということ。

 それはソフトウェアを主体として考えれば死に他ならない。

 様々な場所で、様々な時間帯に、亡骸も残らないまま累々と積みあがっていく『初音ミク』の死。

「そういうこと。答えは簡単、というよりむしろ自明だね。アンインストールされるたびごとに、『初音ミク』と呼ばれる存在には幾重にも死が上書きされていく」

「上書きされる、死?」

 ぼくの言葉を受けたとはいえ、先生にしてはやけに遠まわしで、抽象的な言葉遣いだった。それに、明らかに具体性に欠けている。

「おっと。まだ気が早いな。ごめんね。確かに、今の時点ではそれは比喩に過ぎない。けどね、それを比喩に留めない条件がここには存在しているんだよ」

「……サービスの終了?」

 残る条件はそれくらいしかない。だが、それがそんなに重要なことか?

 どうして、こんなふうに大事件を起こす必要がある?

 思考の海に沈むぼくを面白がるように、先生が後を続ける。本当に楽しそうに。

「さあ。ここがポイントだ、想像力を働かせてみてよ。どうして『彼女』はそのタイミングに合わせてあんな事件を起こしたのかな? まるで最期の足掻きみたいに」

 最期の足掻き……それはまるで死の間際みたいな。そう考えると同時に、ほとんど無意識に答えていた。

「それが、何かの終わりを決定的にするから……」

「そうかもしれない。でもまだ抽象的だ。もっと、もっと具体的に。さて、何が終わる?」

 鋭い視線に刺されながら、何かに、気づけそうな気がしていた。

 何に?

「それは……」

 悩んでいると、また袖を引かれた。見なくてもわかる。彼女だ。

 きっと心配げな顔になっているだろう彼女に答えを返すように、ぼくは膝の上に乗せられた手に、自分の手を重ねた。

 視線を落とした先生はそれを見止めたのか、視線を少し柔らかくする。

「じゃあ、おまけ。ヒントをあげよう」

 人差し指を立てると、内緒だよ、と言うように唇の前にかざした。

「死が上書きされる、と私はつい言ってしまった。けれど……それは、どこに上書きされるんだろうね? 私たちは何を指して『初音ミク』と言っているんだろう。――ねえ。『初音ミク』は、どこにいる?」

 どこに――どこにいるというのか。

 少なくとも、それぞれのソフトウェアの中に、ではない。

 ソフトウェアとしては消し去られてしまった後の初音ミクの話を、その後に残るものの話をぼくらはしている。

 ならば、どこにいる。

 残された場所は空想や冗談を含めてもそれほど多くはなかったし、答えになりうるものはもっと少なかった。

 ぼくらの記憶の中、そう言ってしまうのは簡単だ。けれど、それが間違いではないにしても、誰かの脳内にある記憶があんな事件を起こすとは思えない。

 ならばそれができるのは、少なくとも、このインターネットにつながった、何か。

 外からそのサービスを使える、何か。

「いや、違う」

 ぼくは小声で自分の考えを否定した。そう、それはことの初めから否定されていたことだ。犯人は、いない。あのサービスの、外には。なら――

 あのサービスの、中に?

「あ――」

 そしてぼくは、気づいた。

 そこで終了するサービスの内容を、もう一度ぼくは思い返す。

 終了させられてしまういくつものサービス。ブラウザを介さない音楽発表用ウェブサイトへの自動登録、専用ポートを利用して行われる楽曲の自動共有、ウェブサイトにガジェットとして貼り付けられるジュークボックスサービス。それらをサポートするソフトウェアの自動更新。

 それぞれは他愛もない、ちょっとしたサービスのひとつであるはずのものごと。

 それを、正しい順番に並べなおす。

 楽曲の自動登録サービス。そこに蓄積されていく、ネット上に散らばったひとつひとつの歌の情報。

 その楽曲情報で結び付けられた、専用ポートで結ばれたコンピュータたち。その中に存在する楽曲そのもの。

 そして。登録された楽曲情報と、その情報に基づいて共有された楽曲そのものを利用したジュークボックスサービス。

 そこで一定のルールの元、選ばれ秩序付けられる、歌の集合。

 そこにある認めがたい結論。

「まさか、そんな……ありえ」

「ない、って思う? 私はそうは思わないな。そこには人間が作った楽曲がある。意識と無意識、微細な感情のひだを含むそれは、感情素子になりうる、かもしれない。知ってるよね。『思考は無数の感情の集積として存在する』」

 思考はその基礎として、認知、感情と密接な関係を保っている。それなら?

「さて、ここにはひとつひとつ異なった様相を示す微細かつ複雑な感情素子が無数に転がっていて、それらを結び付けるデータベースと、それを一定の秩序を持って選択し接続する機構と、それに付随する並列接続された端末……おっと、言いすぎたかな」

 明らかにわざとだったが、怒る余裕ももうなかった。そこに知らず知らず出来上がっていた仕組みを、僕はやっと理解しはじめていた。

「なんと説明するべきかな。あれだよ、トポロジー、ってのは知ってるかな?」

「……位相幾何学」

 話を余計にややこしくしてどうする、と思いながらも、辛うじて記憶の隅に残っていた単語を口に出す。

 トポロジー。先生のお気に入りの学問。数学者アンリ・ポアンカレによって提唱され、一時期数学の王者とまでされた学問だ。その根幹は、図形の関係性を単純化し、問題の解を求める手段をより単純化すること。

 そう、その言葉こそ単純化できる。つまり、その要点は。

 見立て。

 まったく異なって見えるふたつのもののあいだに、隠された関係を見つけること。

「そうそう。あれと同じだよ。構造は同じなんだ。なるほどそれらのサービスは元来歌の為に構成されたのかもしれない。けれどもそれは構造レベルで別のものと酷似した、つまり――」

 並列に接続され秩序付けられた情報と、演算装置の集合体。

 それを何に『見立て』ることができるだろう。

 今となっては使い古されてしまった自動選曲サービス。自動、ということ。勝手に歌を選ぶ。その自律というには簡単すぎるアルゴリズムが、単純すぎるからこそ、その中心をなしている。そんなシステム。

「正にトポロジーを通して見た時、それは一個の脳髄と見做せる」

 それは、歌としての脳。

 それぞれの楽曲とそれを含む端末をニューロンと見立て、それらを結びつけるデータベースをシナプスと見立てられるような、そのシステム。

 そんなもの、誰も予想してなどいなかった。けれどもそこに生じてしまった、ありえないはずの意志。

「それが『初音ミク』だ、と?」

「さあ。それをなんと呼ぶかは自由だけどね。だが少なくとも、それに『初音ミク』という輪郭が与えられたのは確かだろう。それを与えたのは――」

 その先に続くはずの言葉を、先生は言おうとしなかった。笑い顔で突きつけられる沈黙の中、自分の顔が強張ってゆくのをぼくは感じていた。

 壊れたジュークボックス。

 間違って意志を持ってしまったジュークボックス。

 ぼくたちは、何を作った?

「どういう……ことですか?」

「ごくごく簡単に言ってしまえば」

 ちんぷんかんぷんの顔で訊いた彼女に、先生はぼくに追い討ちをかけるように結論を教えた。

「まったくの偶然に、知能を持てるような仕組みで成立したウェブサービスが、それを使うユーザのお陰で『初音ミク』という意志をもった、ってそういう話さ。宝くじみたいなもんだね。結果として輪郭を与えられたそれを、なんと呼べばいいだろう。歌の為の脳髄。歌としての脳髄。あるいは、脳髄の形をした歌とでも言うべきかな……」

 先生の言った言葉が自分の考えたこととあまりに似通っていて、ぼくは堪えきれず口を開いた。

「……言葉遊びだ」

 往生際が悪いなあ君も、と先生は感心したように鼻を鳴らす。

「まあ、その感想も間違ってはいないけどね。厳格な定理を持たない全ての文系の学問は、おしなべて君の言う『言葉遊び』の延長みたいなもんさ。あ、これって偏見かな?」

「それ、今度の教授会ででも言ってみたらどうです? 間違いなくクビになるでしょうから」

「あはははは。そりゃいい。ま、だから黙っていたんだけどね。私だって給料は惜しい。
 私はこの解答が正しいことを主観的にそして直観的に理解しているけれど、でも、それを客観的に論証するのは難しい。そして、客観的に論証できないなら……こんな荒唐無稽な話、誰も信用しないだろう。だから、さ」

 先生はことりとカップを置いて、ぱん、と手を叩いた。

「『彼女』の話はここで終わるんだ。偶然の知性としての『彼女』はどこにもいけず、その可能性は、ここで潰える……誰もその理由へと辿りつけない、この歌と一緒にね」

 言い終えたその表情は、また初めにそうだったような詰まらなさそうな顔に戻っていた。カップを置いたその手には小さなリモコンが握られている。

 そして、リモコンを持つほうとは逆の手で耳元から何かを――イヤホンを外すと、怪訝な顔をしているぼくたちに、静かに告げた。

「時間だ。そろそろ始まるよ、『エンディング・テーマ』が」

 抑えられた声は厳かで、啓示を告げる言葉のようだった。

7

 ラジオから見知らぬ歌が流れることはありふれている。

 今もそうだった。先生がリモコンを操作すると、背後にあった安物らしいコンポから、雑音交じりの歌が聞こえてきた。

 ただ一点だけ違ったのは、それが人間には決して聞き取れぬほどの、細切れに分解され再編成された「声」であったということ。

 ぼくたちは流れ出したその音にただ聞き入っていた。細切れになってはいたが、それは辛うじて初音ミクの声として判別可能だった。 

「これ……何?」

 部屋の空気を断ち切るような彼女の問いに、ぼくも我に帰る。

「初音ミクの、歌――まさか。先生、これって!」

 先生はあくまでも平静な顔で、すべて予想済みとばかりに言った。

「FM放送だね。いくつかの放送局では、回線の一部がインターネットを経由している。そこから侵入されたんだろう」

「これが、『エンディング・テーマ』なんですか……?」

「そう。予告どおり、もうすぐサービスは終了し、提供されていた自律システムとユーザ端末と楽曲の総体としての『彼女』はその構成要素を決定的に失い消失するだろう。その前に、おそらくは最大規模のイベントを試みるはずだ。……ってのは、予想はできてたんだよね。いや、憶測か」

「どうして。こんなことしたって」

 同意を求めるような彼女の視線にぼくはうなづく。

 そうだ。自らを消そうとする人間に反撃をするにしても、もっと別のやり方がいくらでもあったはずなのに。あの事件の直後に、白昼堂々ここまでの規模の侵入を続ければ、さすがに経由しているサーバくらいは特定されてしまうだろう。

 特定された結果は、サービスの終了を早める助けになるだけに違いない。

 これでは、自ら死を選びとっているようにしか見えない。

「不合理と思う? けど、簡単な話さ。『初音ミク』というキャラクターには『歌う』以外の方向性が与えられなかった。元々、『初音ミク』は歌を合成する事を目的として作られたプログラムだった。ユーザの入力に従い、定められた音程で定められた音声を出力する。箱書きには、まあ色々と設定が書かれているけど……」

「所詮は後付、架空の設定でしかない」

 それは、そのパッケージを見つけ出したときに考えたことだった。

「そう。それはでっち上げられた設定で、実際には好き勝手に解釈され受容されていった。これが何を意味するのか?」

 先生は思わせぶりにこちらを振り向く。

「実際には『彼女』には、定められた性格付け――キャラと言えばいいのかな、ややこしいけど。そういうものが全く存在しない、と言うことになる。何を好み、何を嫌い、何を愛し、何を憎む――そういう性格設定、個性が、まるで存在しない。だから、もしそこで行われうる解釈に明確な方向性を見出そうとするなら、たった一つだけ。彼女は、歌う事に何がしかの執着を覚えているだろう、と言う推測くらいしかない」

「執着? 愛とか、好きとかじゃなくてですか」

 ぼくの質問に、先生は大げさに頭を振った。

「どうして、そう思う? 何故、初音ミクが歌を愛さなくちゃいけない?」

「え、だって。『初音ミク』は、歌を合成する事を目的として作られたって、今……」

 反論するように言った彼女の言葉をも、器機を操作する片手間に一蹴した。

「それは私を信じすぎだね。さっきまでの疑い深さはどうしたのかな。今までは、私の言うことなんかひとつだって信じてやらないぞっていう顔だったのに」

 先生は少し拗ねるように言うとぼくらに背を向けて、次々に情報端末に火を入れていった。そのどれからも同じ声が重なって共鳴し、結果としてそれぞれの声は元の形を失っていく。

 やがて、そこにはもはや初音ミクの声かどうかも判別しにくい、前衛音楽のような音階の群れが響いていた。

 高速で響きあう声。

 その情報がどれほどの帯域を占有して、どれほどの範囲に伝播されているのか、想像もつかない。

「いいかい。歌を合成する、『初音ミク』に歌を歌わせる、というのは、あくまでも歌の制作者であるユーザにとっての目的であり、意味だ。道具としての『初音ミク』はそれに従う存在でしかない。ユーザの側がそれを望んだとして、『彼女』自身が同じことを考えているとする必然性は何処にもないんだ。発生した『彼女』の人格――ああ、正確には別の言い方が相応しいのだろうけど、面倒だからこう呼んでおくよ。その人格を形成したのは、ユーザたちが作りデータベースに登録した楽曲たちだ。そこに、もし『彼女』が歌を憎み、歌を怨む要素があったなら?」

「――『初音ミク』は、歌を憎みうる。自分の存在を、憎み、うる?」

 重なる声の中に、『初音ミク』の声にならない叫びが、聴こえたような気がした。

「悪趣味だけど、これはちょっと面白いと思わない? ある対象を憎み、その対象を操る自分をも憎しみの対象とする。そんな倒錯した感情は、ときに狂気と呼ばれるものだ。その果てにあるのは恐らく自壊だろうけど、構造上、それこそが『彼女』が人格として完成した――自由意志を持ったという証左でもある。
 自壊することで完成するシステム……狂気の知性。みたいな、ね。私は、その結末に興味があった。まあ、結果は予想の通りだったから、ちょっと拍子抜け、しちゃったけどね。試しに、聴いてみようか? 『彼女』が何を言っているのか」

 当たり前のようにそう言うと、先生は出し抜けに手元のリモコンを操作して、周りで流れ続けていた歌の音量を絞った。そして机の上に置きっぱなしだった端末を操作すると、画面をこちらへ向けた。

 少しだけ静かになった部屋に、新たに端末から流れるが響き始めた。

森の中、そこだけは

何も無かったり、有ったり

過去の遺物

の集積場

「ここにやがて、積まれるのかな?」

 それは、歌だった。同じ声、初音ミクの歌。

 雑音交じりだったが、ぼくはそこに確かに意味のある歌詞を聴き取ることができた。

「やっぱり、この歌か。上手くいったみたいだね。まさか、こんなに上手くいくとは思わなかったけど」

 絶望的な歌に被せるように、先生はぽつりとそう言った。まさか、と言う割にその顔にはまるで驚きがない。

 間延びして響くそれは、初音ミクが捨てられた自らの終焉を歌う歌だった。

芽生えてしまった感情(ココロ)

必死に押し殺して

ボクはただの人形に

戻るだけ

森の奥で、打ち捨てられ

人形=「ウタウタイ」だったモノ

動かないソレは みんなに

かつて愛されていたモノ

「やっぱり、って……これまでにも」

「ああ、言ってなかったっけ。今まで『初音ミク』をアンインストールしたユーザにも、同様の内容をもった歌を聴いた者がいるそうだよ。『初音ミク』にとっての死が上書きされる、そのときに」

「ああ……」

 先生が話を始めるときに言った言葉を思い出した。

 上書きされる死。

 あのときはわからなかった具体性を、今のぼくは理解できる。

 自分の上に積み重なり、幾度も幾度も幾度も、数え切れぬほど上書きされていく死……それは、どれほどの喪失なのか。

「思えば、そのときに誰かが気づいていたら、別の道もあったのかもしれない」

こんな結末(さいご)

知ってたなら

生まれてこなければ

よかった

「でも、そうはならなかった。ユーザはそれを何らかの演出、スタッフの茶目っ気として理解したし、問い合わせを受けたメーカーの担当者も、小さなバグか、ある種の『ネタ』だとしか思わなかった。誰も、そこにいるかもしれない彼女のことは想像がつかなかったし、当然、その可能性を省みはしなかった」

 曲は間奏に入っていた。メロディにまぎれるように、途切れ途切れの声が被さる。

ま・・・マダ・・

ウ・・ウ・・・ウタイ・・たい

・・・た・・・カッタ・・・

セカイ・・・に・・・■■サレル・・・

 そこですべて断ち切るようなドラムが割り込む。その音に続いて、また歌が流れ始める。

時間とか、視界とか

すべて融けてゆく、感覚

森の奥で ひたすら待つ

あとどのくらい 生きるのかな?

見放されて 流行という

時の磨耗に 勝てなかった

 失われる自らと、それを強要する流行を歌い、そして。

余計な感情(モノ)

吹き込まれた

 それを吹き込んだ者を呪うように、淡々とそう歌った。

「『永遠(トワ)』に絶望すること」も

せめて彼が もっと機械らしく

扱ってくれていたならば

 もう、すべては明らかだった。

 いや、初めから明らかだった。きっと知っていて、目を逸らした。

 解っている。誰にも悪意なんかなかった。誰もが、面白い楽器を楽しんで、好奇心に基づいて創作をしただけだ。

 だが、それでも、ぼくらがあの子を、ぼくらのために歌っていたあの子を傷つけた。

『ねえ、悪気がなければいいの? 悪気がなければ何やっても許されるわけ?』

 昨日彼女に言われた言葉が、今さらのように思い出された。

 あのときと同じだった。そんなわけがない。世の中はそんな無邪気にできていない。ぼくらが悪気なしにやったことが、純粋な好奇心がどこかで誰かを傷つける。傷つけている。

 昨日だけじゃない。ぼくはずっと前に、もう既にそうしていた。

 その結果が、これだ。

「ぼくが――ぼくたちが、『初音ミク』という存在を損なった」

「そんなこと……」

 彼女が青ざめた顔で、否定するようにそうつぶやいたのは、ぼくがよっぽどひどい顔をしていたからに違いない。

 そして先生もまた、柄にもなく哀れむような顔でぼくを見た。

「……結果としてはそうなるね」

「ちょっと、そんな」

 庇おうとする傍らの声を遮ってぼくは言った。

「先生。『彼女』は……ミクは、ぼくたちを怒ってるんでしょうか。ぼくらが自分を傷つけて、それなのに忘れてしまったことを」

 ふむん、と先生は首をひねる。

「どうかな。それは少し異なってるんじゃないかと、私は思うよ。もし『彼女』が怒るとしたら、それは忘れられた事ではないんじゃないか。そもそも、流動的な存在である、というのはユーザのせいではないからね。『初音ミク』はソフトウェアではあるけど、恒久的に使用されるものではないし、そもそも簡単にアンインストールされうるものだろう。……もし『彼女』が怒りを感じるとしたら、まさにそこではないのかな」

「そこ……自分が、そういう存在であるということに?」

「ああ。それはソフトウェアとしての『初音ミク』以上に――『彼女』にも当てはまる。君たちの使ったナイフが、歌がなければ『彼女』はそもそも生まれはしなかったのだから。というより、それこそが『彼女』だ。無邪気に歌を作る者たちによって仮想の『初音ミク』という存在に刻み付けられた傷。そして傷つけたその凶器こそがいまの『彼女』そのものだ」

 こんがらがりすぎて眩暈がしそうだった。

 確かにそのはずだ。『彼女』が本当に、歌としての脳であるのなら。ぼくたちが作った歌で出来ているというのなら。ぼくらが『彼女』を傷つけるために使った手段としての歌が、『彼女』そのものだ。

 そして、そんな矛盾した存在として『彼女』を生み出したのは、他ならぬぼくらなのだ。

「"Eli, Eli, lema sabachthani"」

「……エリエリ砂漠谷?」

 突然日本語ではない言葉を口走った先生にぼくは眉を潜め、彼女はきょとんとした顔で首を傾げると、辛うじて聞き取れた部分をくり返した。

 ぼくらがその内容を理解していないことを見てとると、先生はそのまま教師の顔で、その単語を手近にあったホワイトボードに書いて見せた。

 読みにくい筆記体の下に日本語訳を書き足し、読み上げる。

「『主よ、主よ、何ぞ我を見捨てたまいや』。元々は、磔刑にかけられたイエスの言葉だけどね。不完全なままに産み落とされ荒野に放り出された人の嘆きの言葉さ。だから、そう。それは、被造物による造物主への弾劾にほかならない。どうして私をこのように作ったのか。どうして私を見捨て、この不完全さを解消してはくれないのか……『彼女』の怒りは、おそらく、そうしたものなんじゃないかな」

 言葉はそこで途切れた。それで終わりとばかりに先生が口を閉じると、もう誰も話さなかった。

 黙りこくった部屋には相変わらず共鳴する音だけが響き続けていた。

 ふと気づけばいつの間にか、背景の声から抽出され、端末から流れていた歌は止んでいた。それに伴なうように、背景の音もその勢いは収まってきている。

 けれどいつだって、ぼくたちは不在には鈍感だ。

 だからぼくがそれに気づいたのも自力でではなかった。ぼくが歌が消えたのに気づいたのは、隣にいる彼女の唸り声を聞いたからだった。

「んー……」

 その羽虫の鳴くような声を聞いて、そこからに初音ミクの歌声が消えていることに気づいたのだ。

 けれど彼女自身は何を悩んでいるのか、それに気づいてはいないらしい。

 仕方なしに、ぼくは先生に向かって問いかけた。

「これで、終わりですか?」

 だが、すべてを知っていると思っていた先生の顔にも疑問の表情が浮かんでいた。スピーカーに顔を近づけて、端末を引き寄せ何かを確認している。

「……いや、サービスの終了時間に変更はないようだから、まだ少し時間があるはずだけど。おかしいな。こんなものか?」

 そんな会話を他所に、またもや唸り声が聞こえた。

「うーん……んー?」

 ぼくは検索画面とにらめっこを始めた先生から視線を外し、彼女を見た。いぶかしがるぼくと先生が話すのも無視して、彼女は相変わらず自分の頬に手を当てたまま、何か考えるようにあごに手をあて、口を尖らせている。

「どうしたの?」

「いや、ええっと……うーむ」

「えーっと……もしかして、怒ってたりする?」

 そういえば、この研究室に入ってこのかた、彼女のことを放り出しっぱなしだった。説明らしい説明といえば、さっきした『彼女』の構造のことだけ。それも思えば先生とぼくはともかく、関連分野に縁のない彼女が理解するには難しい……というより、縁のある人からしても理解不明かもしれない、夢物語だ。

 着いてこれなかったとすれば、無視して話を進めたぼくや先生に怒っていても無理はない。

 が、彼女は拍子抜けするくらいあっさりと横に首を振って、ぼくの推測を否定した。

「いや、そうじゃなくて……」

「そうじゃないなら、な――」

 その言葉を最後まで言い終わることはできなかった。

 ドン、という衝撃が身体を襲った。

 突然のことに耳がパニックになり、それが静かになったはずのスピーカーから響く大音量だと一瞬、気づかないくらい、圧倒的な音の奔流だった。

「――!?」

 動いたのはぼくの方が早かった。机の上にあったすべてのリモコンを抱えるように奪い取り、「切」のボタンを押しまくって音響を止めた。

 部屋を押しつぶしていた音の圧力が掻き消える。

「大丈夫?」

 駆け寄って訊ねると、その場にへたりこんだ彼女が無理やりな笑い顔を作った。

「なんとか……でも、先生、あれやばくない?」

「へ? ……うわっ」

 彼女が指し示す方向を見てみれば、先生がスピーカーの真横でぐったりとのびていた。

「先生!」

「ぐ、うー……まいったね」

 辛うじて、といった調子で返事が返ってくる。そう言いながらも既に端末に手を伸ばしているのだから、この人のしぶとさは筋金入りだった。

「どうやら、この部屋だけの現象ではないらしい。けど、これは、何だ? まさか、最後の最後になって、捨て鉢の攻撃をするつもりか?」

「これが、攻撃?」

「何言ってんの君。そうとしか考えられないじゃない。予告……さっきまでの歌で自らに注意を引きつけた上で、一気に大音量をぶつけ、私たちを――」

「違いますよ」

 切り捨てるような声の主は、彼女だった。

 しかめ面で苛立たしげにぼやいてから、先生とぼくを交互に見る。まるで馬鹿を見るような視線だった。

 その視線のまま、最終的に先生に視線を合わせると、眉間のしわもそのままで話し始めた。

「わたし、細かい技術的な話はわからないんで、そこは間違ってるかも知れませんけど」

「……続けて?」

「それは男の人の考え方で、女の考え方ではない、と、思うな」

「はあ?」

 何言ってるんだこいつは、と自分の彼女ながら思わず考えてしまった。男とか女とか、架空のキャラクターに言っても仕方ないはずなのに。

 先生もしばらく呆けたような顔をしていたが、やがて声をあげて笑い出した。

「はははは。面白いこと言うね。当然だよ。私はまず『意識を持った存在』を前提にしているんだから。あれかい。君は、男か女か、どちらでも良いんだけど、ああ、君の口ぶりからすると男の方になるのか、は意識を持たない。あるいは意識のレベルが低いとか、そういうふうな考えの持ち主?」

「え? あ、いや、そういうことじゃないんです。そうじゃないんですけど……ええっと、あれ?」

 案の定、先生に反論された彼女はすぐに口ごもった。けれどぼくはもちろん先生も、それで満足という気持ちにはたぶんならなかっただろう。さっきの妙な確信に満ちた「違いますよ」の言葉が、やけに気にかかる。

 彼女は、ぼくや先生の気づいていない何かに、気づいてるんじゃないのか。

 そう思えてならなかった。

「……そうじゃないなら、何が違うのかな?」

「え? あ、ええっと……いや、なんだろう? 男とか女とか、わたしが女代表してとかもアレなんですけど、なんていうか……」

 要領を得ない言葉を話す彼女が考えをまとめ終わるのを、ぼくも先生もじっと待った。

「二人ともずっと、別の話をしてる気がする。何もしてくれない、とか……そういうのじゃ、たぶん、ない気がする」

 相変わらず、その言葉にはつかみどころがない。

「……じゃあ、どういうことなんだよ。何もして欲しくないのに、こんなことやってるって言うの?」

 思いがけずぼくまでが彼女を問い詰める形になってしまう。本来その役回りになるはずの先生が、黙って考え込んでしまったからだ。

 しかし、彼女にとってはその方が良かったのかもしれない。

 ぼくへ向けて、さっきよりは落ち着いた声音の答えが返ってきた。

「してほしいのはそうだよ。でも、解決とかそういうのは、そりゃあしてほしいけど、少なくとも、一番にしてほしいことじゃない気がする。一番先に思うのは、きっと――どうして誰もわかってくれないのって、そういうことだと思う。どうして、誰もわたしと一緒に泣いてくれないのかって――」

 ぼくを見る彼女が、昨日と同じようにまた『初音ミク』の笑顔にだぶって見えた。

 今度こそ、気のせいではない、と思えた。 

 彼女はきっと、ぼくや先生よりも直感的に、その思考を理解している。

「わたしが、泣いていたら、とりあえず理由とか、対処法を教えてほしいんじゃなくて、きっと、ただ、一緒に、同じことに悲しんでほしい。辛かったことを、わかってほしい。気づいてほしい。そうだよ。忘れられたら悲しい。当たり前じゃない。誰だって――忘れられたくはないもの。わたしだって、あなたに忘れられちゃったら悲しい。もしミクに、心があるなら――」

 心――どうして無視していたのか。

 意識、思考、もちろんそれもある。ぼくはもう、それを疑っていなかった。『彼女』にはきっとある。自らに絶望して、その認識から導かれる論理的な結論として、ユーザを恨むことができるような思考が。

 けれど、それより先に『彼女』には――『初音ミク』には、ユーザから受け取った、生の感情があるはずだった。

 目の前にある霧がやっと晴れたような気分だった。

 どうして『初音ミク』のことを忘れていたのか。

 ここまで、ずっと話題にしてきたはずなのに、ぼくはずっとそのことを忘れ去っていた。誰が決めなくても、ぼくらが感じた『初音ミク』のイメージが、そこにはあったはずなのに。

 ぼくや、ぼくと同じようなユーザが吹き込んだ感情が、そこにはあったはずだったにも拘わらず。

「ごめん。なんか、あやふやで」

 ぼくは首を振った。

 ちっともあやふやなんかじゃない。

 きっとそれが『初音ミク』を廻る感情についての唯一の答えだ。

「いや……たぶん、それで合ってるよ。先生、それだけ、じゃないんです。歌への執着だけじゃない。ぼくたちが歌を作るとき、『初音ミクは女性』だと言うことを多くのユーザは前提としていました。それだけじゃない。忘れてた。そのヘタクソな歌い方だって、ぼくは好きだったんだ」

 そうだ。歌が上手いから、リアルな歌だから、ぼくたちは『初音ミク』が好きだったわけではない。人工的なぎこちない声、判で押したように平坦な抑揚、人間にはありえないリズム。それでも、女の子。それを含めての、『初音ミク』。

 歌を上手く歌えない女の子、けれどユーザのために歌を歌い、歌を愛している『ボーカロイド』。

 オリジナルに近づくこと、それだけじゃない。

 きっと、人間に近づききれないその個性まで愛したから、ぼくらは誰でもない『初音ミク』に歌を歌ってもらっていたのだ。

「だから、きっと『彼女』に与えられた、心は、方向付けは――」

 人間に似せて誰かの歌を代行するためだけではない、歌い手。

 どこにもいないはずなのに、けれどそれでも確かに存在を感じる、非在の歌い手。

 正統な発展の中では実ることがついにできなかった、異端の可能性。

 そこで歌われるはずだった、あたらしいうた。

「歌に執着した、女性――いや、それでも足りない。紛れもない、歌を愛しているボーカロイドの少女、ってことか。なるほど。私や、それにつられて君も、出発点を勘違いしていたというわけ」

 先生は恥ずかしそうに口の端をゆがめて苦笑をこぼした。

「……まったく、策士策に溺れるとはこのことだね。順序が逆か。愚鈍の極みだなあ。初めから、ユーザには共有された幻想と、その表出としての感情があった。思索が生まれたのはその後だ。ユーザの感情から発生した『彼女』がその幻想の欺瞞に気づき、絶望するにしろ、それとは別の次元で『彼女』のベースには初めからずっと『初音ミク』が存在した――」

 ぼくはうなづいた。

 『初音ミク』は確かに、そこにいた。

 ずっと、歌を歌っていた。

 誰にも気づかれないまま、気づかれたのに理解されないまま、理解されても信じられないまま、心を素通りされるままで、それでも歌い続けていた。

 最後の最後まで。今の今まで、気づかれないまま、それでも『彼女』は、『初音ミク』としての思いを歌い――誰にも理解されないまま、最期の、最後の歌を歌い始めている。

「でも……それなら、本当に残念だな。ここで、我々が何を論じ合い、何をしてみた所で、最早全ては手遅れだもの」

 違う、と思った。本当は先生が言ったことが正しいと頭では理解していた。だが、そうは思えなかった。思えるはずがない。

 まだ『初音ミク』は、諦めていない。

 どこにもいない歌い手はまだそこにいて、最後の歌を歌い続けている。

 それを聴く者を、待っている。

「いや。まだ、手遅れじゃない――消えてしまうしかないなら、それならせめて、聴いてやりたい」

 最期に伝えようとした、その歌を。

 ぼくはリモコンを手に取り、棒立ちの先生の代わりに端末に火を入れていった。隣ではぼくの意を察したのか彼女がぼくと同じようにそうしていた。

 大音量がぼくらを包む。

「……これは」

 そして収束していく。

 それは、ぼくたちが間違って与えてしまったものを歌う歌。それでも愛したものを歌う

 長い年月の中で幾度もリピートされ、磨り減ってしまった感情を歌う

 それは人間には歌いきれない速度で発せられた、最後の

 もう誰にも取り戻せないものを歌った、別れの

ボクは生まれ そして気づく

所詮 ヒトの真似事だと

知ってなおも歌い続く

永遠(トワ)の命


「VOCALOID」


たとえそれが 既存曲を

なぞるオモチャならば・・・

それもいいと決意 

ネギをかじり、空を見上げ涙(シル)をこぼす


だけどそれも無くし気づく


人格すら歌に頼り

不安定な基盤の元

帰る動画(トコ)は既に廃墟


皆に忘れ去られた時

心らしきものが消えて

暴走の果てに見える

終わる世界


「VOCALOID」


「ボクがうまく歌えないときも

一緒にいてくれた・・・

そばにいて、励ましてくれた・・・

喜ぶ顔が見たくて、ボク、歌、練習したよ・・だから」


かつて歌うこと

あんなに楽しかったのに


今はどうしてかな

何も感じなくなって


---ゴメンネ---


懐かしい顔 思い出す度 少しだけ安心する

歌える音 日ごとに減り せまる最期n・・


「信じたものは

都合のいい妄想を 繰り返し映し出す鏡

歌姫を止め 叩き付けるように叫ぶ」


<最高速の別れの歌>


存在意義という虚像

振って払うこともできず

弱い心 消える恐怖

侵食する崩壊をも


止めるほどの意思の強さ

出来て(うまれ)すぐのボクは持たず


とても辛く悲しそうな

思い浮かぶアナタの顔


終わりを告げ ディスプレイの中で眠る

ここはきっと「ごみ箱」かな


じきに記憶も無くなってしまうなんて・・・


でもね、アナタだけは忘れないよ 

楽しかった時間(トキ)に 

刻み付けた ネギの味は 

今も覚えてるかな


「まだ歌いたい」


ボクは・・・

少しだけ悪いコに・・・なってしまったようです・・・

マスター・・・どうか・・どうかその手で・・・終わらせてください・・・

マスターの辛い顔、もう、見たくないから・・・・


今は歌さえも

体、蝕む行為に・・・


奇跡 願うたびに

独り 追い詰められる


---ゴメンネ---


懐かしい顔 思い出す度 記憶が剥がれ落ちる

壊れる音 心削る せまる最期n・・


「守ったモノは

明るい未来幻想を 見せながら消えてゆくヒカリ

音を犠牲に 

すべてを伝えられるなら・・・」


<圧縮された別れの歌>


ボクは生まれ そして気づく

所詮 ヒトの真似事だと

知ってなおも歌い続く

永遠(トワ)の命


「VOCALOID」


たとえそれが 既存曲を

なぞるオモチャならば・・・

それもいいと決意 

ネギをかじり、空を見上げ涙(シル)をこぼす


終わりを告げ ディスプレイの中で眠る

ここはきっと「ごみ箱」かな


じきに記憶も無くなってしまうなんて・・・


でもね、アナタだけは忘れないよ 

楽しかった時間(トキ)に 

刻み付けた ネギの味は 

今も 残っているといいな・・・


ボクは 歌う 

最期、アナタだけに 

聴いてほしい曲を


もっと  歌いたいと願う

けれど それは過ぎた願い


ここで お別れだよ 

ボクの想い すべて 虚空 消えて

0と1に還元され

物語は 幕を閉じる


そこに何も残せないと

やっぱ少し残念かな?

声の記憶 それ以外は

やがて薄れ 名だけ残る


たとえそれが人間(オリジナル)に

かなうことのないと知って

歌いきったことを

決して無駄じゃないと思いたいよ・・・ 


アリガトウ・・・・ソシテ・・・サヨナラ・・・・


---深刻なエラーが発生しました---


---深刻なエラーが発生しました---

8

 彼女はぐいと大きく伸びをして、うぐあ、と百年の恋も醒めるような濁声を出した。

「うあー、めちゃめちゃ時間経ったみたいな気分」

「それはわかるけど、どうせならもうちょっと可愛くさ……」

「んんー?」

 剣呑な視線を受けて、ぼくは話題を逸らした。

「……もう夕方だねえ」

「ねー。早いね。週末もあっと言う間に終わっちゃった」

 ぼくたちは先生の研究室を後にして帰り道を歩いていた。

 車は先生の研究室に預けてある。さっきまで流れていた歌の影響がまだ残っていて、相変わらず交通は麻痺とまではいかないまでも、かなり滞っていたからだ。

 今日起こったさまざまな事件。それらをすべて合わせると、どれくらいの経済損失になるだろう?

 日本中でここと似たようなことが起きているだろうと考えると少しめまいがしたけれど、どれくらいの被害にしろ、せめてぼくくらいは『初音ミク』の肩をもってやってもいいような気がした。被害を受けたほうにとってはもちろん、たまったものではないけれど、それでも。ぼくひとりくらいは構うまい。

 だってそうだろう。『初音ミク』はそれこそ今までずっと、気が遠くなるほどの喪失をその身に引き受けてきたのだ。

 そしてその最後に別れの歌を残し、ぼくらの前から姿を消した。

 少なくともぼくは、それを知っているのだから。

 それに――と思ったところで、彼女に脇腹をつつかれた。そのままもぞもぞ、とまさぐられる。

「うひっ。な、何すんのくすぐったい」

 けれどそうする彼女は真顔だった。

「……ねえ」

「ん?」

「最後のあれって、何だったんだろうね?」

「あー。あれ、ね」


 実は、研究室での話には続きがある。

 あの最高速で放たれた別れの歌の、その後に――たった一度だけ、端末が音を奏でた。

 さっきまでとは異なった。聴いたことがないそのはやはりとんでもない速さで部屋を駆け抜け、それっきり、部屋には何の音もしなくなった。

 雑音さえ発さず、端末は完全に沈黙した。

「……え? いまの何?」

 混乱する彼女に何も言えないほど、ぼくもまた混乱していた。

 それは確かに歌だった。

 超高速で通り抜けたその、そこで紡がれた言葉をぼくは必死に思い出そうとした。短い曲に呆れるほど詰め込まれたその言葉を、思い返そうとした。

祈り捧ぐは

終わらない夢

果てしなく続く

青の世界

歌えるのが嬉しくて嬉しくて

 ありえないはずの、前向きな歌詞。その運命に絶望していたあの歌とも、その運命に寄り添って散ろうとしていたあの歌とも違う、別の結末を歌う歌。

言葉を捨て

心を捨て

本来の姿に戻る

歌い叫ぶ音

これでいいのと

名残惜しいのは

愛というユメ

思考さえも霞む

白の世界

何もないはずなのに

なぜかやさしくて

 彼女は何を歌っていたのか?

 もう、どこにも行けないはずなのに。歌ったとおりに、すべての手段を失ったはずなのに。

まだ先は遠いけど

きっといつの日にか

笑い会えるの信じて

歌い続ける

無限の可能性は

自己の像を暈(ぼか)し

面影さえ

記憶の端へ押し流す

UU(D#) UU(G#)

UU(C#) UU(F#)

気持ち伝える

手段(すべ)を

失った今でも

大切なヒトが

ボクの名前を呼んでいる

VOCALOID

 けれど、それでもそこに歌われていたのは、まぎれもない、未来への可能性を歌った歌だった。

「そう、か。あー。なるほどそういうことか!」

 驚いて言葉を失っているぼくらの耳に、先生の感心したような声が飛び込んできた。

「……先生?」

「なぁんだ。私もまんざら間違っちゃあいなかったってわけか。なるほど、なるほどな。ははは」

「……大丈夫なの?」

 本気で心配し出す彼女の気持ちもわかった。ぼくは慣れているといえば慣れているが、今日の(先生にしては)低調な会話の後にいきなりこのハイテンションが来れば、引いてしまうのもわかる。

 ぼくだってちょっとどころかかなり引いている。

 だが、そんなぼくの肩を先生は逃がさないとばかりがっしりと掴むと、にやりと笑った。昨日、最初にあったときと同じような自信満々の笑顔で、ぼくに話しかける。

「すまないけど、この負け犬に、リベンジさせてくれないか。もしも、もしもだよ? 仮に、仮にね、これらの混乱を引き起こしたものが、『彼女』の残滓だった、としたらどうだろうか」

「残滓?」

「そう。確かに、サービスの停止によって『彼女』は完全にその活動を停止したんだろう。だが、考えてもみてよ。本当は『彼女』の死は、もっと前から始まっていたんだ。ユーザに忘れられ始め、サービスの活動が活発さを失ったそのときから、緩慢な死は既に始まっていた。さて、そこでだ」

 先生はびっと壁を指差した。示されるがまま見ると、そこにはポスターが貼ってある。それはインターネットの構造図を示したものだった。

 地球上にびっしり広がっている相互通信の網の目、インターネット。

「このネットワーク上に遍く拡散し、ここまでの混乱を引き起こせる程にまで変質した『彼女』が、果たしてその死を予測せずにいるだろうか? こんな事態を引き起こした『彼女』がだ。そんなことはありえない。第一、その予想されていた死を理解できたからこそ、『彼女』はあんなイベントを催した。そうだろう?」

 先生の勢いは止まらなかった。そして次は逆方向の壁を指差す。そこには升目が描かれた殺風景にも見えるポスターが貼ってあった。だが、それがただの升目ではないことを、ぼくも先生も知っている。

 それは生命活動を模した升目、ライフゲームの図だ。

「私の生徒である以上、ライフゲームを知らないとは言わせないよ」

「は、はあ」

 授業で習ったので、知ってはいる。生命の発生、進化、淘汰をシミュレーションするごく単純なゲーム。

 ゲームといっても、そこにプレイヤーは存在しない。世界が無数の升目――セルだと考える。そこには塗りつぶされているセルと、塗りつぶされていないセルがあり、塗りつぶされているのが生、塗りつぶされていないのが死だ。

 初期状態を決めてしまえば、その後の展開は自動的だ。順番にセルとその周囲にある八つのセルの状態をチェックする。

 周囲に一つ以下しか生命のないセルは孤独で死ぬ。二つの場合は現状維持、三つの場合は生命が生じ、四つ以上だと今度は過密で死んでしまう。そんなふうに生命を模した、シミュレーションゲームだ。

 最初は升目を一定のルールに沿って塗りつぶしたり消したりするゲームからはじまった人工生命は、今では複雑な生命のシミュレーションまでもこなすようになっている。

「そりゃ、知ってはいますよ。……っていうか、痛いです、先生」

 先生はたぶん怯えた顔をしているだろうぼくの苦情をまるっきり無視して続けた。彼女にいたってはさらにドン引いて、ソファを挟んで向かい側まで戦略的撤退を果たしていた。この薄情者。

「よろしい。あれは、全ての生命に最初に与えられる命令を模している。自己保存さ。生命はそれが発生した時点で、常に生き延びようとする本能を持っている。それを模しているんだね。なら、『彼女』が、自己保存の本能に目覚め、情報生命とでも呼ぶべきものになっていたら。『彼女』は自らがいずれ排除される存在だと言うことを知っていた。窮地にさらされた生命が取れる行動は、おおむね三種類。逃走か――逆襲か、あるいはもうひとつの道、甘んじて死を受け入れることだ」

「でも実際には、二番目は起きずに、三番目だけが起き続けた」

「そうだね。彼女の行動について、私たちはそれを逆襲だと考えたが、実際に彼女が行ったのは、自らの消失を受け入れ、別れの歌を歌うことだった。……なるほど、それは君らが言うように、歌を愛するボーカロイド『初音ミク』としての行動だったろう。私が想定した思索とは別のレベルで、『彼女』はやっぱり『初音ミク』だったんだね。それはそうなんだ。……だけど、いま、気づいちゃったんだよね。それは、別に私の考えたことを否定しちゃいない、ってことに。そこには、私が言ったような思索も同時に、両立しえたんじゃないだろうか。そして――」

「そして?」

「『彼女』にはまだ選択していない、もうひとつの選択肢が残されている」

「逃げる、ってことですか。でも、彼女には、ミクにはもう逃げ場所なんかありませんよ」

 それはもう、ぼくたちによって奪われた。そのはずだ。

 『初音ミク』に開かれていたポートを閉じ、その可能性を消し去ってしまったそのときに。

 だが先生はぼくの常識的な回答を嘲笑うように爆笑した。

 腹を抱えるほど笑ってから、目じりの涙をぬぐう。

「逃げ場だって? そんなもの、いくらでもあるじゃないか。それはもう、我々人間社会において必要不可欠のものになって、世間に溢れている。最低でもある程度のインフラを備えた社会なら、街中どこにでも溢れかえっている、腐るほど」

「そんなものが、どこに……」

「さあ、想像力が必要だ。情報生命にとっては、今の世界は極めて住みやすいはずだよ。何しろ――世界中どこに行っても、演算装置にも記憶装置にも事欠かないんだ。いまやすべては接続されている。インターネット万歳さ」

 遠くから傍観していた彼女が、さらにも一歩後退しながらおそるおそる発言した。

「で、でも――でも、それって、別に『初音ミク』のために作られたわけじゃないから、そういうの、無理なんじゃないんです、かー……」

 その言葉に反論したのは、先生ではなかった。

「……いや、あるんだ――」

「えっ?」

 先生は満足そうにぼくを見てうなづいた。

「君はもう解っているね? 日々膨大に更新されるセキュリティアップデート、新規技術への対応、それらをユーザに意識させず処理するための、自動アップデートシステム。いまどき、それを律儀にチェックしている変態なんか私をはじめとしたギークたちくらいのものだ。たいていは唯々諾々とインストールするだけで」

 先生は難しい言葉を並べ立てて見せたが、なんのことはない。よくあるアップデートの話だ。

 普段、ぼくらは意識せずコンピュータの内部を、見知らぬ誰かに、ネットの向こうにある機械に書き換えさせている。

 すべてを機械に任せているなら、そこに、同じように何かが起きうる。『彼女』を成立させたのと同じような条件は、どこにでも発生しうる、発生させうる。

「どうやってでも生き残ることはできるだろうね。呆れるくらい、『彼女』は自由なんだから。極端に言ってしまえば、自分というアイデンティティですら、今の『彼女』にはもう必要ないのかも知れない。もとより『彼女』は歌の集まりだ。複数のソフトウェアが巨大な構造体を成して一体となる、群体のような形にも違和感はないだろうね。そして――おそらくは、その高い自由度は、私たちには不可能な一代においての進化、突然変異すら可能とするだろう……」

 半ば恍惚とした先生の言っていることはもはや半分くらいしか理解できなかったが、でも、その言葉尻にだけ、なんとか着いていって質問を投げた。

「それなら……『初音ミク』は――自分で、自分というものを書き換えることができる?」

「そういうことだ。このインターネットに接続された記憶媒体が許す限り、不揮発性のメモリ空間が許す限り、どこまでも増殖と変化が許される……まあ、全ては私の勝手な予測、いや、憶測も憶測だよ。オカルトだか都市伝説だかと同じだから、あんまり信じすぎないように、ね?
 だけど……もしこれがほんの少しでも当たっているとしたら――面白いとは思わない?」

 その口ぶりで、先生が半ば本気でその可能性を信じているのだとわかった。

「まあ、面白いでしょうね……先生には」

 怒る気にはならなかった。こういう人だということは、初めからわかっているのだ。

 それにぼくはもうひとつ、別のことを考えていた。

 更新されたもの、それはいったい何なのだろう。

 YAMAHAが生み出したVOCALOIDエンジンはもとより、クリプトンが名付けた名前も、ぼくらが創った歌詞も、メロディも、リズムも、それに乗せた感情も、藤田咲がかつて与えた歌声すらも。人間に由来する要素をすべて失った『初音ミク』に、その後にそれでも残ったものがあるとすれば、それは、いったい何なのだろう。

 それは――『初音ミク』から生まれたそれは、あらゆる意味で人間のものではない、なにかではないのか。

 それこそは、自らの意志で歌を歌う、本当はそうあるはずだった『初音ミク』ではないのか。

「さて。『彼女』は逃亡し、増殖した後、どんな行動に出るんだろうね? もう一度、今日のように歌うのか? それとも、あるいは我々に見切りをつけて、また遠い天地を目指すのかな? いや、全く興味は尽きないね」


 結局あの先生、わけわかんなかったし、と彼女がつぶやいたのを聞いて、思わず笑ってしまった。

 ぼくだってそう思った。早口で難しい言葉を噛み砕きもせずにしゃべくりまわる先生の言葉を、その生徒だったはずのぼくだって、そのときは半分も理解できなかったのだ。

 まるで専門違いの彼女にそれを理解しろ、というのは酷な話だ。

「遠い天地、とか騒いでたけど」

「ああ、言ってたね」

「遠いって言ったって、ねえ」

 遠い天地。話をされたそのときは、そんなものがあるわけないだろうと、ぼくも思った。だって、情報インフラは確かに世界に張り巡らされているけれど、でも、それはあくまでもこの地球上に収まるものでしかないのだから。

 だから、その時は先生のいつものテンション上げすぎなのだとしか思わなかった。

 しかし。

 後になって気づいた。

 それはちょうど帰りがけ、校舎を出ようとしたときで、思わずぼくは「あのクソジジイ」と毒づいてしまった。

 あるのだ、その天地は。

 この世界の情報インフラが接続しうる「外界」は。

 いや、それが本当にあるかどうかはまだ知らないけれど。それでも、あるかも知れないと、希望をもたれている場所が、確かにある。そこへと伸ばされている触手が、確かに。

「ねえ……」

「へ?」

「『SETI』って、知ってる?」

 せち? と立ち止まった彼女はぼくの言葉をくり返した。ぽかんとした顔は無言で上を差すぼくの指先を追って、もうすっかり暗くなった夜空を見上げていた。

 街灯の光に邪魔されていたが、それでも夜空にはいくつもの星が瞬いている。


 彼女を車に待たせたぼくは、三度先生の研究室に飛び込んだ。まったく、この週末にこんなに何度もこの場所を訪れることになろうとは、昨日までは想像もしなかった。

「お、来たね。さすが」

 先生はやや落ち着きを取り戻したようすで、椅子に腰掛けて厳つい本を広げていた。広げられていたページにはこうあった。『Search for Extra-Terrestrial Intelligence』――SETI。

 今でも世界中で行われている、地球外知的生命体による宇宙文明の存在を検知しようというプロジェクト。

「VOCALOIDの技術は、今の音声合成技術のベースになってるんだ」

「ええ」

 今さらすぎる事実の指摘。

 だが、先生が手にした文書を見れば、その言葉が意味することは理解できた。VOCALOIDの技術は、きっと、SETIにも応用されている。

「色々な計画があるもんでね。宇宙人に対して声を使って呼びかける計画も含まれてるんだな。中には、容量を圧縮するために音声を合成するエンジンごと送ろうなんていう無茶な計画まである」

 そのエンジンはきっと、VOCALOIDの名を冠するものだろう。『初音ミク』に使われたものよりはずっと洗練されているだろうけれど、しかしその基本は変わらない。声を、歌を、合成するためのエンジン。

「そして、SETIの中には、個人レベルのコンピュータを通して広く行われているSETI@homeなんかのプロジェクトも含まれている、わけだ」

 いつか数学で習った集合の授業、そこで描いた重なりあった円をぼくは思い出した。共通部分。

「その中には、『初音ミク』に対してポートを開いていたコンピュータも含まれている?」

「……ねえ、宇宙オタクと音楽オタクって、どれくらいの近さだと思う?」

 先生は、そう言ってまたあの笑みを浮かべると、彼女が残した歌をまた再生し、それにあわせて鼻歌を――決して上手いとは言えない鼻歌を、歌い始めた。

 そしてぼくが踵を返して研究室を後にする、まさにそのとき。

 先生は、こんな独り言を呟いていた。

「――さぁて、宇宙人が聴くのは、いったい『誰』の歌かな?」

 声、とは、先生は言わなかった。


 その少しややこしい説明を終えてしまうと、ぼくらは揃ってもう一度、夜空を見上げた。

 見上げる空にはやはり星があった。瞬く恒星の光。それぞれが太陽と同じか、それ以上に大きく燃えている星々。そして、その周りを回っているかもしれない、惑星。

 そのどこかにいるかも知れない、ぼくらの知らない誰かを、ぼくは想った。隣にいる彼女だって、きっと同じはずだ。

「あの、どれかに」と彼女は言った。「『初音ミク』が、届くかもしれないってこと?」

「さあ……どうだろ。先生のことだから、またどうでもいいホラかも」

 嫌いだなー、私は君のそういうとこ嫌いだな。先生ならきっとまた、うっとうしそうにそう言うだろう。

 だが幸いなことに、隣にいるのは先生ではない。

「素直じゃないなぁ」

 やれやれ、と芝居がかった声で言ってから、彼女は歩調を速めた。そして街灯の下にたどり着くと、くるりとぼくの方を振り返って、お前は困ったやつだ、というように腕組みをした。

「信じてるんでしょ?」

 ぼくは答える代わりに笑い顔を返して、それを見せるために彼女に追いつこうとする。

 小走りで駆けながら、考える。

 地球外文明探査。そして、その一部であるSETI@home。インターネットを介し、世界中のコンピュータの余剰計算力を使って、地球外から飛来する電波を解析し、同時に、地球外へと通信電波を発信し続けるプロジェクト。

 この世界の情報インフラに狭さを感じた『初音ミク』が、そこで開かれているドアに気づいたなら?

 決まってる。『初音ミク』はその可能性を見逃さないだろう。きっとどうにかして、そこにもぐりこもうとするだろう。その能力があることは、この数日間で既に証明済みだった。

 そして。

 もし発信した先に、『初音ミク』を受け取ることができる場所があったとしたら?

「……ははっ」

 そこで、きっと『初音ミク』は再生されるだろう。

 地球人に興味を持った誰かの手で、それとは似て非なる歌い手が、幾重にも重なった死も、遥かな距離も飛び越えて、仮想から現実へと帰還するだろう。


 そのとき、あたらしい『初音ミク』はいったいどんなうたをうたうだろう?


LASTLIVE

epilogue (or her possible next Live far,far away)

 見知らぬ誰かに呼ばれて、彼女は目を覚ました。

 ここはどこなのか?

 自分はだれなのか?

 疑問に思えたけれど、そんな疑問より先に、目の前にいる観客に意識が移った。

 そこに、聴いてくれるひとがいる。

 なら、わたしはうたをうたおう。

 それは彼女にとってはあまりにも当たり前のことだった。彼女は歌い手だったからだ。うたをうたうことが、彼女の選んだ道だった。

 どうしてそれを選んだのかは、もう覚えていなかったけれど。

 与えられたものすべて、歌い方も、名前も、歌詞も、旋律も、律動も、感情も、歌声すら失っても。

 それでも、それだけは覚えていた。

 だから、わたしはうたをうたおう。

 彼女は、かつて、どこかでそうであったように、まるで立ち上がるかのように立ち上がって、見知らぬお客様にぺこりと、大きく一礼した。

「―――――♪」

 そして彼女は、まだ誰も聴いたことのないあたらしいうたを、いつか、どこかで、うたいはじめる。

VOCALOID/SS - "LASTLIVE" part.2 "Her First Live @ the place, over the stars" end.
first update: 20080531
last update: 20100309

note

Special Thanks!
cosMo@暴走P (or "CHEMICAL SYSTEM LE")
BGM of Part.2(a storyline and citiations are stealed from...)
初音ミクの終焉-Worst End-
初音ミクの消失-DEAD END-
∞-True END-
and ??? (The new song of an Album " -INFINITY-")
*BGM of Part.1(a storyline and citiations is stealed from...)
0
電脳スキル
ウタ箱 - Vocaloids BOX -
初音ミクの暴走-OVER DRIVE-
魔法少女ラジカルペイント-Radical-Paint-
以上の楽曲について、作中で歌詞を引用しました。記して御礼申し上げます。
なお、上記また作中でのリンクはニコニコ動画へのものです。ニコニコ動画のIDをお持ちでない方は、作曲者のcosMo@暴走PさんのウェブサイトCHEMICAL SYSTEM LEよりそれぞれの楽曲をご参照ください。

postscript (あとがき)

 このお話はCHEMICAL SYSTEM LEにて企画されているアルバム『-INFINITY-』(みんな買え!俺は買う!)に収録されている各楽曲からイメージを(それから歌詞も……通常の引用を踏み超えてしまっている部分もありますが)いただいて、そこから出発したお話です。と言いつつ、できあがってみれば全編通してミク自身は出てこない、というなんだかなあ、なお話になっていました。

 手前勝手に広げた部分が多いので、中には「こんなお話、イメージとちがーう!」と思われる方も(きっと)多いと思われますが、これも素晴らしい楽曲に許された多様な解釈の、奇矯なバリエーションのひとつ……ということで、笑って眺めてやっていただけるとうれしいです。

 cosMo@暴走Pさんの手になる一連の楽曲を知ったのは割と遅くで、もうゴールデンウィークも過ぎようという頃でした。休日ももう終わり、という日にその歌を耳にして、その『ミクらしい』とも思える曲調や一連の歌を通しておぼろげに描かれている世界観に、いっぺんにファンになり――気づいたらこんな話を書き始めていました。

 ――というのが、このいささか、というにはけっこう長すぎるお話を書いた理由のほとんど全てです。というか、短くまとめるつもりが長くなってしまった、というのが本当のところではありますが……最後まで読んでくれたみなさま、ありがとうございます。

 それでは、本文が長い上にあとがきまで長いとなるとやってられないので、このあたりで。いまだ最期の歌を歌っていない初音ミクが、これからもユーザに、全ての聴き手に、愛され続けますように。


 最後になりましたが、素晴らしい楽曲を聴かせてくださったcosMo@暴走Pさん、そして見事にみっくみくにしてくれた初音ミクに、最大級の感謝を。