ポイント・チェンジャー

1

ゲンは自分の名前が嫌いだった。

何でって、ゲンの本当の名前は「ゲンドウ」と言って、何だか難しい字を書くからだ。親は何か願いを込めてつけたらしい。でも、自分ではそんなこと、知ったことじゃない。ただ「変な名前」と言って苛められるのが嫌なだけだ。

ゲンは苛められっこだった。

何でって、ゲンはひどく目つきが悪くて、味噌っかすで、しかも小学4年にもなって25m泳げない子供だったからだ。小学4年にもなって泳げない子なんてあまりいない。でもゲンは全然、泳げなかった。そもそもゲンは息継ぎができないし、水を掻いても全然進まないのだ。けのびで幾ら頑張っても、せいぜい7m行けばいいほうだった。

ゲンは1人ぼっちだった。

友達はいないし、親もなんだかいつもゲンを除け者にした。外にご飯を食べに行く時も、ゲンは置いていかれた。夏、暑いさかりに、親だけクーラーのかかった部屋の中にいてゲンは扇風機も無い部屋にいるなんてしょっちゅうだ。

そういうわけで、泳げないくせにゲンは夏休みが近くなって短縮授業が始まるくらいになると、学校が終わった後は公営プールの監視員をやっているおっちゃんのところにずっといるのだった。

2

そんな夕方、ゲンがいつもみたいに小さい子用のプールにちゃぷんと浸かっていると、不意に、キーンという音が聞こえた。飛行機だ、とゲンは思ったけれど、空を見てもその姿は見えなかった。それどころか、太陽を見てしまって、ゲンは「うわっ」と声を出して目をつむってしまった。

そして、やっと目を開けた時、ふっと身体が影に隠れた。

「何してるの?」

その影はゲンに話しかけた。見上げると、ゲンに話しかけていたのは中学生くらいの男の子だった。最初は、さっき見た太陽のせいで、見えるもの全てがうす緑に見えたが、ゲンが何回か目をしばたたかせると、段々その姿がはっきりと見えた。男の子の姿が見えた。優しい顔をしている。色白で、細い。まっ黒い髪が少し長くて(と言っても、ゲンはいっつもスポーツ刈りだったから、誰だってゲンに言わせれば「髪が長い」になるけれど)ゲンの穿いているようなのよりは少し長い、ちょっとカッコいい柄の水着を着ていた。

「……別に」

男の子の姿を確認したとたんまた下を見て、ゲンはそう答えた。本当に、理由なんてなかったからだ。

「お父さんとかお母さんは?」

男の子は周りをきょろきょろと見回してから、飽きずにゲンに訊いてきた。周りでは、傾く太陽の中、どの子供も、家族も、続々と帰り支度を始めている。この男の子もきっとそんな1人なのだろう。心配してくれているのかも知れなかったけれど、ゲンにとっては迷惑なだけだった。ゲンは男の子をうっとうしく思いながら、また一言で答えた。

「家」

その無愛想な言葉に男の子はため息をついた。それでも、男の子はめげずに話しかけてくる。ゲンは。変な人だなあ、と思いながらも男の子と言葉を交わした。徐々に影が長くなる夕方のプールにいるのはもうこの2人だけになっていた。

「1人?」

「悪い?」

「いや、別に」

「ならいいじゃん。ほっといてよ」

取り付く島もない、という感じのゲンに、それでも男の子は話しかけた。

「ごめん、別に責めてるわけじゃないんだ。僕も独りだから」

1人、という言葉にゲンは反応して男の子を見上げると、その顔が見えた。さっきは優しい顔、としか思わなかったけれど、よく見れば彼はまるで女の子みたいなきれいな顔をしていた。少し悲しげだけれど柔らかく笑うその顔を見ると、何だかほんわかした気持ちになった。

「……兄ちゃんも1人なの?」と、ゲンはさっきとは打って変わっておずおずとした調子で言った。

「そ。一緒だね」と、こちらはさっきと変わらない調子で答えた。

ゲンはちょっと嬉しくなった。そうすれば、またいつもの調子が出てきた。いつもみたいに、味噌っかすらしくふんぞり返った。

「なーんだ、一緒じゃん。俺、ゲン。兄ちゃんは? 今日はもう帰るけど、寂しいんだったらまた遊んでやるよ」

その生意気な態度に、男の子はくすっと笑いながら、柔らかく言った。

「ありがとう、ゲン。僕は、シンジ、碇シンジって言うんだ」

「俺、もう帰るけど、碇は明日も来る?」

「シンジって呼んで欲しいな。……うん、来るよ」

少々不満げな口調でシンジは答えた。ゲンは、やっぱり悪かったかな、と思いながら、それでも少しだけ生意気に言った。

「それじゃあ、また明日。シンジ。バイバイ」

「バイバイ、ゲン。また明日ね」

ゲンはプールを出て、自転車に乗った。近所の子のお下がりであまりカッコよくはないけれど、お気に入りの自転車だった。ゲンは自転車にまたがって、ぐっとペダルを漕ぎ出した。夕方の少し涼しい風が、頬をなぜる。

「明日も行こっと」と、ゲンは小さい声で言った。心から「プールに行きたいなあ」と思ったのは本当に久しぶりだった。

3

次の日の昼過ぎ、ゲンは昨日、独り言を言った時の様子とは違って、少し肩を落としながらプールに来た。そこには約束どおりシンジがいた。昨日よりは短かったけれど、やっぱりカッコいい水着を着ていた。いつからか分からないがプールサイドに座っていたらしいシンジは、ゲンを見つけると手を挙げた。足を水から上げ、プールサイドを歩いてゲンのほうに近づいてきた。

「こんにちわ、ゲン。早いね」

「……はあ」

ゲンがシンジの横を素通りし、その言葉に答えずにため息をつくと、シンジはその優しい顔の眉間に少し皺を寄せた。

「どうしたの? ため息なんか」

「……なんでもない」

どう見ても、話を訊いて欲しい、という調子だったが、ゲンの口からはその調子とは裏腹な言葉が出る。すたすたと大人用プールの横を歩くゲンを追いかけて、シンジは言った。

「なんでもなくないでしょ? 言ってごらんよ。聞いてあげるから」

しょうがないな、という顔をしたシンジにそう言われて、ゲンはやっと、いかにも嫌そうに今日の出来事を話し始めた。

「……今週の終わりに、夏休み前の水泳テストがあるんだ」

「うん」

「25m、泳がなくちゃなんないんだ」

そこまで言って、ゲンは俯いた。そのまま、辿り着いた子供用プールにちゃぷんと浸かる。シンジは、その様子を見て少し様子を伺ってから、そっと言った。

「……泳げないの?」

「……うん」

そう言ったゲンの顔は、自分から話題を出したにもかかわらず、物凄く不機嫌そうな表情だった。言っていることとしていることが全然噛みあっていない。しかし対するシンジはさして気にする様子もなく、ただそっけなく「……そっか」とだけ言った。


それからしばらく、シンジとゲンは黙った。真上……ちょっと西側から指す7月の日差しの中、ゲンは水の中に浸かり続け、シンジはプールサイドに腰掛けて、水中でぱたぱたと足を動かした。

そして、プールの真ん中にある時計の長身が半周ほどしたとき、シンジは今思いついたようにゲンに言った。

「ねえ、練習しない?」

ゲンは驚いた表情でシンジを見て、慌てて顔の前でぷるぷると手を振った。手に付いていた水が左右に水玉を作って飛んだ。

「何言ってんだよ。テスト、今週の土曜だよ? 間に合わないよ」

しかし、シンジはゲンの言い訳には耳を貸そうとしない。

「そんなの、やってみなきゃ分かんないじゃん。それとも、バカにされてもいいの? 他の奴に」

シンジが多少からかうような口調で言うと、ゲンは、この人も? というような悲しげな表情をしてから、さらに首の俯き加減を増した。ほとんど水に顔がつきそうなくらいだ。水の中に自分の足が見える。ゆらゆら揺れる足を見ながら、ゲンは諦めるように言った。

「……慣れてるもん」

そのゲンの言葉に、ふう、っと息を吐いたシンジは、その肩に手を置いて言った。その声は、さっきゲンをからかったのと同じ人と思えないくらい優しい声だった。

「ねえ、だまされたと思ってやってみてよ。泳げるほうが楽しいよ、絶対」

「……シンジは泳げるからだよ」

ゲンがまたも拗ねたような声で言ってシンジを見上げる。するとシンジは一瞬きょとんとした表情になってから、少し恥ずかしそうな表情でにっこりと笑った。

「実はね。僕も……つい最近まで、泳げなかったんだ。恥ずかしいけど」

思いもかけない告白に、ゲンは思わず顔が水につきそうになった。

「なんだ。そうなの?」

自分よりずっと年上の男の子が、つい最近まで泳げなかったなんて――そう思い、ゲンは少々気の抜けた様子で訊いた。自分の恥部を全く隠さないシンジを見て、意固地になっていたゲンも、少しずつではあるが練習してもいいかなという気持ちになり始めていた。

「うん。だから……さ、やってみようよ」

下を向いたまま、少し口の端を吊り上げてゲンは笑った。久しぶりに笑ったような気がした。

「うん」

そう答えると、シンジはぽんっ、とゲンの肩を叩いた。


その日から、ゲンとシンジは練習を始めた。残された時間は3日間、その間に、25mを泳げるようにならなければならない。

最初の1日は、息継ぎもできなかった、先生は適当にしか教えてくれなかったクロールのフォームをシンジに教えて貰って、ゲンは初めて無理やり前に顔を上げるのではなく、ちゃんと横を向いて息継ぎをした。

その次の1日は、初めて、けのびではなくちゃんと息継ぎをして、15mも泳ぐことができた。もちろん大したことない記録だったけれど、ゲンにとっては、初めて泳いだクロールだった。

その次の1日は、シンジに応援して貰って、時々休憩を挟みながらもひたすら泳いだ。少しずつ記録は伸びていったけれど、途中からは段々バテてきて、記録が伸び悩んだ。4時を過ぎると、25mに少し足りないくらいのところで、いつも足を着いてしまうようになっていた。

4

そして、その日最後のクロール25mへの挑戦。もう時間は5時前、ほとんどの子供たちが帰る時間で、25mプールにはゲンとシンジの2人しかいなかった。そんなプールで、ゲンは必死に泳ぐ。

それから数十秒後、ゲンはやっとのことで20m泳いで、力尽きて足を着いた。危うく溺れそうになるところを、すっとシンジがその肩を抱いてやる。ゲンの息が溺れない程度に整ったことを確認すると、シンジは手を話して言った。

「はい、終わりー。うーん。20mかあ……惜しいね、ゲン」

「はあっ……はあっ……はあっ……やっぱり……無理だよ……」

必死で息をしながらゲンが弱音を吐いた。もちろん昨日も一昨日も弱音を吐いたが、今日のは特別だった。もう、次はテスト本番だったからだ。

「そう? 後たったの5mだよ?」

こちらはゲンとは対照的に、シンジは何の問題もないような表情と声でそう言った。ゲンは恨めしい顔でシンジを見た。夕方でもまだ明るい5時の太陽が、その顔を照らした。

「その5mがしんどいんじゃないか!」

ゲンが怒ると、シンジは眉をハの字にして両手を挙げた。そして、言った。

「ごめんごめん。うーん……そうだなあ……いい話、教えてあげようか」

いい話。シンジの口調が少し変わったのを、ゲンは聞き逃さなかった。

「……何?」

ゲンがそう言うと、シンジはどこか遠い所を見るような目をした。ゲンはまた耳の中で、最初にシンジに会った時に聞いたあの音を聞いていた。とても長い時間、沈黙が続いているように思えた。


しかし、実際には沈黙していたのはほんの一瞬だった。ゲンに訊かれて、シンジはしごくあっさりとゲンに答えた。

「僕さ、実は、君に25m泳がすために未来から来た未来人なんだ」

普通の顔をしてあまりにも変なことを言ったので、ゲンは思わず吹き出した。シンジの顔は何でもない、本当のことを言っている、という表情で、でもその口で言っていることはまるっきりおかしなことだった。幾らゲンが小学生でも、未来人、なんて嘘は通用しない。目の前にいる男の子は、ドラえもんのセワシみたいにぴったりしたスーツなんか着ていない、どう見てもその辺の中学に行ってるような普通の人だった。

「なんだよそれー! バカみたい」

ゲンは言いながら笑いが止まらなかった。息が苦しくなって、ひいひい言った。しかし、目の前にいるシンジは相変わらず普通の表情だった。ゲンはそのシンジの顔をみて、笑いながらも段々不安になってきていた。シンジは表情を崩さず、というより、段々と冷たくしていき、ゲンが笑い終わる頃にはすっかり真剣な表情になっていた。

「ところが冗談じゃないんだな、これが」

「だって、シンジって何も未来のもの、持ってないじゃないか。なんで未来の人がこの時代のプールに来るの? おかしいじゃん」

ゲンに言われると、シンジはちょっと考えるような顔をして、それから話を再開した。

「うーん……その辺はさ、色々あるんだよ。まあ聞いてよ。あのね、歴史の流れには『ポイント』っていうのがあるんだ」

濡れた髪を、西日に光らせながら、シンジはゲンの聞きなれない言葉を使った。ちょっとカッコいい言葉に、嘘だと高を括っていたゲンも少し興味が出てきた。

「『ポイント』?」とゲンがシンジの言った言葉を繰り返すと、シンジはゆっくりと頷いてから、話を先へ進めた。

「うん。そこでどう物事が動くかによって、その後の歴史が変わるんだ」

「物事って?」と、プールサイドに手を掛けてゲンは聞き返した。

「例えば、僕がテストで100点取れるか取れないか、とか」

「無理だよー」

ゲンの言葉にシンジは、「こう見えて僕、結構頭良いんだ」と言って少し笑うと、乾いた自分の肩や頭を水に沈めてから、また水面に顔を出した。水面から顔を出すと、手で顔を拭い、髪の毛を濡らす水を切った。さっきにも増して、その表情は真剣だった。ほとんど怒っているように見える。

「……でね、ゲンが今度の水泳の授業で25m泳げるかどうかも、その『ポイント』なんだ」

シンジの冗談にしては酷く真剣な調子に、ゲンはごくっと生唾を飲んだ。シンジを見つめる。その目は、少し悲しいような感じにも見える。ゲンがその表情を見て何も言えないでいると、シンジは付け加えた。

「しかも、そんじょそこらの『ポイント』じゃない。君が25mを泳ぎきれなかったら…………世界は破滅する」

そこまで言って、シンジは後ろを向いた。ゲンは一瞬、頭に疑問符を100個は並べてから、その背中に大声で叫んだ。

「ええ! 嘘ぉ! 何でそんなことになるんだよー!」

ゲンがそう言った途端、シンジはくるっと振り返ってゲンを見た。その顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。真剣に叫んでしまったゲンは、その顔を見て、あ、しまった、と思った。あはははははは、シンジはさっきシンジの話を聞いて笑ったゲンと同じように笑って人差し指を立て、ちっちっち、と左右に振った。

「そ、嘘。引っ掛かったね? ……でもさ、そう考えたら、きっと25mなんか泳げちゃうよ。……ね?」

くす。ゲンは少し笑った。だまされたのに、怒る気が起きなかった。嘘をつくシンジの表情がこの上なく真剣だったからかもしれない。言ってることは嘘でも、真剣に応援してくれてるのが分かって嬉しかった。

「……分かった」

こっくりと、ゲンは頷いた。

「よし、その意気だよ。応援してるから、頑張って。……じゃ、怒られないうちに、帰ろっか」

ぽんぽん、と自分の頭をなでるように叩くシンジの後ろに、ゆっくりと近づいてくる監視員のおっちゃんが見えた。

5

そしていよいよ、水泳の授業がやってきた。土曜日の4時間目。この授業が、1学期最後の体育の授業だ。出席順に1人ずつ名前を呼ばれ、コースと同じ6列になって並んでいく。ゲンは苗字が「ろ」で始まるので、男子最後の4列目で、しかも、一番仲が悪い渡辺ユウキとたった2人で泳ぐことになった。

1列目、2列目……先生の合図と火薬の音に合わせて、テストは進んでいく。3列目の6人が泳ぎ始めようというとき、ふと、ゲンは隣のユウキがちょっとおどおどした顔をしていることに気付いた。ゲンは、ここぞとばかりに小さい声でユウキにちょっかいをかけた。

「なんだよ、あんなに威張ってて、泳げないの?」

ユウキは、痛いところを突かれた、という表情をしてから、声を荒げて(でも、先生に気付かれないようにひそひそ声で)言った。

「うっせー、お前だって泳げないくせに、ヘタレゲン!」

そう言われると、昨日シンジに言われた言葉を思い出した。嘘だろうけど、今日俺が泳げなかったら、地球は終わっちゃうんだ。……25mくらい、頑張らないとな。

「……泳ぐよ」

「じゃあ、勝負しろよ! 勝負!」

勝負? 面白い。俺は絶対泳いでやる。それに……どうせ、俺が負けたら、地球は終わっちゃうんだから、別にいい。そうゲンは思った。

「……分かった。俺が勝ったら、もう俺のことバカにすんなよ」

いつものようにビビッて縮こまらないゲンの様子を見て、ユウキは体育座りをしながらもちょっと後ずさりした。

「……お、おう、いいよ。まあ、どうせお前、泳げないけどな」

「泳げるよ!」

ゲンがそう言って思わず立ち上がったのは、ちょうど先生が4列目の生徒に合図をかけようとしていたときだった。

「おっと、六分儀、元気がいいな。それじゃあ、次、六分儀と、渡辺、泳げー。……おい、六分儀、しんどかったら溺れる前に立ってもいいぞ」

「……大丈夫です」と、水に入ってぶるぶるっと震えたゲンは言った。

「そうか、それならいい。頑張れよ。よし、じゃあ、よーい」

パン!

その音を合図に、ゲンは泳ぎだした。最初の壁けり。そして、けのびの後に、水面に頭を出す。まだ、顔は上げない。

「どーせさ、またけのびの後に溺れるんだぜ」

クラスメイトの声は、泳ぐことで頭が一杯のゲンには届かなかった。いつも息が続かなくておぼれた7mを少し過ぎたあたりで、ゲンはゆっくりと腕を動かし始めた。

「……あれ? ヘタレ、泳いでる」と、またゲンをよく苛めている誰かが言った。

前に伸ばした両手。まずは右手から、焦らず、水を掻く。左腕は、沈まないように頑張る。息継ぎは、素早く、真横に口を出して。水の中を進む右腕が水面に近づく頃、耐え切れなくなったときに、左腕を動かす。まだおぼつかない息継ぎで崩れた体勢を、何とか持ち直す。そして、右腕を、ちょうど耳の横を通るようにして、水面につける。できた、クロールだ。

おお、とクラスの何人かから声が上がる。そして、そんなプールを、少し離れたところから眺めている者が、1人いた。

シンジだった。誰も聞くものがいない場所で、シンジは1人祈っていた。今はまだ、予定される未来に自分の父親になるはずの少年に呟く。

「……そうだ、頑張れ、ゲン……『父さん』。君が25m泳ぎきったら、あんなことは起きない。地球は、壊れないんだ」

ゲンはまだまだ泳ぎ続ける。15mを過ぎ、少しずつ苦しそうになってきても、まだまだ、その手と足を動かすのを止めなかった。シンジは、この時代から数十年後に訪れるはずの地獄を思い出した。赤い海、人間のいない白い大地。生命のいない地球の姿が脳裏に浮かぶ。

「……25m泳げたら……ゲンは強くなれる。死んだ母さんを求めて壊れたりしないんだ。それに……母さんと結婚する未来も消える。あんなのよりも、もっと、ずっと楽しい未来が待ってるんだ」

誰にも見えない場所で、シンジは1人ゲンの最初の成功を祈った。その目からは、一筋、頬を伝って涙が流れた。

プールの底に、20m、後残り5mの目印が見えたとき、やっぱりゲンは死にそうになっていた。手が持ちこたえられない。右手を動かし始めて少しすると、ゆっくりと左腕が水の中に沈んでいく。身体も、腰から下が段々水の中に沈んでいって、バタ足が水面に泡を作らなくなる。

ゲンは、少しだけ、諦めそうになった。しかしその時、聞こえるはずのない、声が聞こえた。水の中にも聞こえるような大声だった。

「頑張れ! 六分儀ゲンドウ!」

あれは……シンジの声だ。駄目だ。今、止められない。あんなに一生懸命応援してくれたのに、今止めて、どうするんだ。

シンジの言葉を思い出す。「しんどいときは、足を動かすんだ。太ももから、大きく」ゲンは最後の力を振り絞って、足を動かした。動かない手を、動かない足を、必死になって動かす。

21m……22m……23m……24m……25……m。

ぶはっ、と顔を上げると、その手は、出発したのと反対側のプールサイドに、ちゃんと当たっていた。

後ろを振り向くと、おおっ、とクラスの皆が声を上げていた。隣を泳いでいたはずのユウキは、途中で底に足がついてしまっていた。

「スゲエじゃん六分儀!」と、2番目に自分を苛めていた子が言った。

「まさかヘタレがこんな頑張るなんてなー」と、他のクラスメイトが言った。

ゲンは、はあはあ、はあはあ、はあはあ、と息を荒げながら、それでも辛うじて言った。

「ヘタレじゃ……ないよ」

そう、もうゲンは味噌っかすのゲンではなく、25mを泳ぎきって、世界を救った男だった。

「……勝ったよ」

プールサイドで、ちょこんと座っていたユウキに、ゲンは声を掛けた。

「うるせえな!」ユウキは悔しそうに言い返した。

「あ、ごめん」

そのゲンの様子を見て、ユウキは肩を落として答えた。

「……いいよ、俺こそ、ゴメン」

「……うん。……あ、そういえばさ。俺が泳いでるとき、何か声、しなかった?」

ユウキは変な顔をして、答えた。

「え? いや、何も聞こえなかったぞ。息しんどくて、頭おかしくなったんじゃないの?」

そうかも知れない。とゲンは思った。それでも、ゲンは小さい声で「ありがと、シンジ」と呟いた。


その日も疲れてはいたが、ゲンはプールへ行った。しかし、今日はどこにもシンジの姿は見えなかった。ゲンは、監視台に座るおっちゃんに訊いた。

「……ねえ、兄ちゃん、知らない? 白っぽい、細い兄ちゃん」

監視台のおっちゃんは歩いてくるゲンに答えた

「ようゲン。今日もプールか、元気がよくていいぞ。……いんや? 見ないなあ……勘違いじゃないかい? 俺は、見たことがないなあ」

ゲンは口を尖らせた。この3日間、ずっと一緒だったのに、見てないなんて。

「もういいよ。もー、全然見てないじゃん、おっちゃん」

「悪い悪い」

そして、監視台を後にするゲンに、おっちゃんは後ろから声を掛けた。

「おーい、プールサイド走るなよー」

6

結局、その後いくら探してもシンジを見つけることはついにできなかった。しばらく落ち込んだ後、ゲンは、よく考えたら中学生なのだしそんなに市民プールに来るわけもないな、と自分を納得させた。シンジに会えないのは少し寂しかったが、もうクラスに友達ができていたので、その楽しさですぐにシンジのことは忘れることができた。

今年で、ゲン――ゲンドウは大学3年になる。あれから色々あったけれど、しんどいときはいつも「俺が頑張らないと世界が終わっちゃうんだ」と思えば、少しだけ頑張れた。今でも、シンジには感謝している。今生きていたら、ちょうど大学を卒業し社会人になってバリバリ働いているころだろう。俺を励ましてくれたように、また誰かを一生懸命、真剣に励ましているのかも知れない、と思う。

「でさ、それで俺は25m泳げて、クラスの味噌っかすを脱出できたってわけ」

大学のクラスの連中との親睦飲み会。酔うとたまにする「俺を助けてくれた中学生の兄ちゃんの話」を、またゲンドウは話していた。

「へえ……でも、その兄ちゃんも、親切っつか、奇特っていうか、変な人やんな」

「確かにな。……でも、感謝してる。ほんとに、感謝してるんだ。……じゃ、俺、そろそろ帰るわ」

「おう。……おい、ちょお待て、お前このか細い俺にこの潰れてる奴ら任せていく気ぃか。……おいこら! 外道!」

2,3人潰れる奴が出始めたところだった。明日1限に外せない授業があるゲンドウは、介抱を任されないうちにとその声に振り返らず店を出た。飲み屋を出て、ゆっくりと出町柳まで歩く。景気が良いからか、何だか金がうなっているような人々の間をすり抜けて、貧乏学生のゲンドウは下宿を目指す。

どん。

ゲンは、ちょうど出町柳の駅前で、人とぶつかった。女の子だ。小学生か、ひょっとしたら中学生くらいの女の子。ちょうど、ゲンが25mを泳ぎきったあの頃くらいの歳だった。

女の子は快活な関西弁で「ごめんなさい」と言った。ゲンは、転んだその子に手を貸して起き上がらせ「いや、こっちこそごめんな」と言った。利発そうな子だった。

「ありがとうございます。……大丈夫ですか?」

少し心配そうな声で、女の子は言った。ゲンは、大げさに「いたたたたたたた!」と言ってから、舌を出して「大丈夫だよ。でも、ほんとにこんなこと言ってくる、怖い人がいるかも知れんから、こんな時間に出歩いたら危ないよ」と少し説教臭く言った。

「そうなんですけど……塾で。……しんどいからちょっといやなんですけど」

そう言って、女の子は自分の鞄を示した。ゲンは肩をすくめた。

「あー、大変だね。……頑張ってね。ま、その頃から勉強してれば、京大くらい軽いって」

「あ、もしかして京大の人なん? 凄いなあ」

「そ、そ。俺、これでも教授が目標なんだよ。……あ、いいこと教えてあげようか?」

普段はこんなにしゃべらないのにな、俺、酔ってるのか。とゲンドウは自分で自分を笑いながら、シンジに言われた言葉を、その女の子に言った。女の子もやっぱりあの時の自分のように、あはは、と笑った。

「なにそれー、アホみたい。でも、ちょっと面白いですね」

見ず知らずの人にこんな話をされて、それでも物怖じせずに女の子は感想を言った。ゲンはあの時のシンジのようににっこりと笑いながら、ぽんぽん、と女の子の肩を叩いた。

「ま、おまじないみたいなもんだよ。……と、遅くならないうちに帰りな? 家の人、心配するから」

ゲンの言葉に、女の子はふと左手の時計を見て、あっ、と言った。

「電車来てまう! それじゃあ、さっきはごめんなさい!」

そういうと、女の子はぱたぱたと地下に通じる階段へと消えた。

ゲンは笑ってそれを見送った。

ふと、ゲンはまだ、その女の子に言うことがあるような気がした。小学生をナンパなんて、俺、ロリコンなのか? という心の声が聞こえたが、別に引かれるというわけではなくても、何だか、言い残しがあるようで気持ち悪かった。

ゲンがそんな気持ちで階段を見ていると、とんとん、と階段を駆け上がる音と供に、さっきの女の子が顔を出した。

「何?」とゲンドウが言うと、女の子は笑って言った。

「お兄さん、教授になるんでしょ? じゃあ、私が京大行ったら声、かけます!」

ゲンドウは笑って言った。

「勢いがあってよろしい。俺は六分儀ゲンドウ、君は?」

女の子は、にっこりと笑った。その顔は、あの時自分に笑いかけた、シンジによく似ていた。

「私は、ユイ。碇ユイです!」

「碇ユイか。よし、覚えとこう。未来の京大生さん」

碇。シンジと同じ苗字か……もしかしたら、あの人の親戚か何かかもしれない。そう思いながらゲンドウはあの時シンジがしてくれたように、彼と同じ苗字を持つ未来の京大生の頭を、ぽんぽん、となでるように軽く叩いた。

それが、この世界での碇ユイと六分儀ゲンドウの出会い方だった。

note

The referential book(citiations and storyline are stealed from...)
さとうだいすけ『25m(ジャンプ1998年に読みきりとして掲載)』
liner notes
ゲンドウ主人公という、うわー。さとうだいすけの「25m」をふっと思い出して、思い出し思い出し書きました。記憶に頼っているので全然違うかも知れませんが。感動SFな、とってもいい話です。短編集とか、出てないのかなあ。
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