それで最後だった。目の前にいる先ほどまでは白かった化け物の腹から、紅い、それを染める返り血よりもなお紅い槍がまるで木の枝のように生えていた。
「状況終了」
静かにシンジは言って、目を閉じた。これで終わりだ。
もう、あの悪夢は起こることはないのだ。
「了解、シンジ」
ポップウィンドウにアスカの顔が現れた。その顔には笑みが浮かんでいた。
さらにもうひとつ、ポップウィンドウが現れる。今度は発令所からのものだった。
「よくやったわ、シンジ君……ありがとう」
ミサトの声、そしてその隣からは、彼女の恋人の声も聞こえた。
「ありがとう、シンジ君、お陰でみんな命拾いしたな」
「私には言ってくんないんですか加持さーん」
アスカの声が割り込む。
「ああ、そうだったな、ありがとう、アスカ、それに……」
「ワシもいてまっせ」
「……私も」
ふたつの声、参号機と、零号機からの通信である。
それを皮切りに、幾つもの交信が初号機を介してなされた。楽しそうに沸く指令所の声がモニターを通して耳に届く。
シンジは時を遡った。あの日々をやり直すためだ。
少なくともシンジはそう思った。
だからシンジは、今度こそ上手くやろうと心に決めた。
そして、ついに今、やり直し終わった。
ほんとうに、これで全て終わったのだ。量産機を倒し、サードインパクトを阻止した今、あの赤い海が生まれる可能性はない。
綾波レイも彼の元にいる。
アスカも壊れなかった。
トウジも助かった。
これで良かったのかは分からない。たったひとつの冴えたやり方などなかった。
でも、今、シンジの耳には笑い声が聞こえる。それは、夢ではない。
これが、自分が考えうる限りの方法だ。
そう、考えうる限りの――
「……じ……ん……じ」
声がする。誰かを呼んでいるような声。しかし、シンジにはその声が誰を呼んでいるのか分からなかった。
「シンジ!」
シンジはハッとして声のするほうを見た。そこには、プラグ・スーツと同じように紅いドレスに身を包んだアスカがいた。
「もう、何、ボケボケっとしてんのよ。アンタ、自分が救世主だっていう自覚、あんの?」
両手を腰に当て、馬鹿にするような口調でアスカは言った。衣装のせいで、普段よりはキツさは和らいでいる。
「それを言うならお前もやろ、惣流。正義の味方が仲間割れしとったらアカンわ」
アスカの後ろから、トウジが声を掛けた。その恰好は普段のジャージ姿ではなく、きっちりとしたスーツだ。しかし、息苦しそうに顔をしかめてシャツの首をさする姿は、服に着られているという感じだ。
「そーそー、せっかくの衣装が台無しよ? ほら、あっちを見てみなさい」
そんな風に冗談めかしに声を掛けたのはミサトだ。彼女はドレスではなく、正装の軍服を着ていた。
ミサトが指差すほうにはレイがいた。こちらはアスカと対照的な薄青のドレスを着ていた。多少冷たい感じを受けるが、確かにアスカよりはそれらしい感じには見える。
「ふん、どうせあたしはおしとやかからは遠いわよ。いこ、ヒカリ」
と言うと、アスカは隣にいたヒカリの腕を掴み、別のテーブルへと歩き去った。
「あちゃあ、怒らせちゃった」
「ええんですミサトさん。ああゆうのには一遍、ガチンと言わしたらなアカンのです」
トウジが力説した。ミサトはその言葉にすまして、
「そう、なら――私の代わりに、その、ガツン、っての、お願いね?」
と、やんわりと言った。
そうしてトウジが行ってしまうと、ついにシンジが自分自身で一言も発さないままで、騒動は収まってしまった。
「さて、と……シンジ君?」
「はい?」
久しぶりにシンジは口を開いた。口を開けるときに、上下の唇から、ぱり、と音がしたほどだ。
実際、他のパイロットの二人がよく話すお陰で、シンジはほとんど喋らずに済んでいた。アスカに「ファーストみたいよ、あんた」と呆れ顔でいわれた時も、苦笑しか返せなかったのだ。
「大丈夫?」
ミサトは染みこませるようにゆっくりとシンジに訊いた。
「どうしてですか?」
シンジは訊き返した。ミサトは少し困ったような顔をして、「いや……」と頬を掻いた。
「なんだか、抜け殻みたいに見えちゃって……燃え尽きちゃったんじゃないかって、ちょっち心配になっちゃったのよ」
「もともと、こんな感じです」
少々怒ったような顔でシンジは言い返したが、それだけだった。
ミサトの表情が真剣だったからだ。
「……なんだか、実感が湧かないんです。ほんとうにこれで全部終わったのかなあ、って。それだけです」
それでもなお目で問い詰めようとするミサトだったが、シンジが、そうですよ、と念を押すように答えると、それっきり何も言わなかった。シンジと一緒に会場を見回して、呟く。
「まぁ、全部が全部ってわけじゃないけど。シンちゃんにできる事は全部やってもらったわ。考えうる最高の結果を見せてもらった」
「そうですか?」
「そうよ? 感謝してるわ、みんな」
ミサトは来賓の言葉に拍手しながら言った。
「シンちゃんがいなければ、今、みんなは笑っていられなかったでしょうね。だから――もっと、偉そうにしたって、誰も文句なんか言わないのよ?」
そう言われても、シンジは偉そうにする気になどなれなかった。どうしても明るい表情にならないシンジに、
「そんな謙虚なシンちゃんにお姉さんからのご褒美」
と言って、ミサトは人目をはばかるようにシンジに口付けをした。血や硝煙の匂いがしない口付けだった。
絡めとられる舌。
その感覚が、どんどん遠ざかっていった。
唇が離れる。それも、どこか別の世界のできごとのようだった。
「後悔してるわけじゃない。やれることはやったと思う」
それはもはやミサトに向けて言った言葉ではなかった。
「でも……自分の分の幸せじゃない気がするんだ」
その言葉を言い終わったとたん、周りの風景は加速度的に遠ざかっていった。
まるで、星と星とが離れていくように。
「――僕は、ここにいたら、いけないんじゃないか?」
『そうよ』
誰に向けたものでもない言葉の答えに顔を上げると、そこは真っ白な空間だった。
上も下もなく、前後も左右もない。
ただ視界がすべて白く塗りつぶされているだけだ。
しかしその白い空間に、ごく薄くだが、輪郭が生じた。
その輪郭は見る間に明確な人の――正確には、自分よりずっと大きい人の――形を取り、シンジの前に現れた。
それは見慣れた顔、見覚えのある姿だった。
目を開いても驚愕に震えることもない。
それは、ほんの一年前に見た、人に近い、けれど人ではないものだった。
「――綾波」
彼女は言った。
『みんな、取り戻せない自分の時間を生きている』
シンジは彼女の目を見た。彼女の瞳に映る自分の姿は、今日着ていたはずのスーツ姿ではなく、あの時着ていた制服姿だった。
あの時逃げ出した世界。けれど、それはシンジの望んだ世界だった。シンジはもう一度会いたいと願った。誰に? 何かを思い出しそうだった――誰かがいたような気がする。
『なのに、碇君だけがやり直すのは、不公平、そうでしょう?』
真っ白な空間に溶け込むように浮かぶ彼女はそう言って、両手でシンジを包んだ。忘れ得ないあの場所の光景がよみがえる。すべてが死に絶えた世界、赤い世界、遠くに沈む巨人、そして――そうだ、あの場所には、もうひとりいた。
だから、彼女の手の中で、シンジは答えた。
「……そうだね」
そして、次に気がついたとき。そこは赤い海のほとり、過去に向って消え行く自分のすぐ後ろだった。
シンジは、すっと微笑んで、小さな背中に聞こえぬように「行ってらっしゃい」と声をかけた。
彼が消えてしまうと、遠くに小さく、紅い服を着た女の子の姿が見えた。
アスカだった。
アスカは海のほとりで、生命のない海を向いてひとり目を閉じたままだった。
シンジはゆっくりと歩いた。踏みしめる砂は柔らかく、きゅ、きゅ、と小さな音を立てた。
そして、シンジはついにアスカの元へとたどり着いた。
シンジは自分の掌を見た。ここへ着くまで、一年かかった。もう、待たせない。
ぎゅっと掌を一度握り締めると、シンジはアスカの肩に手を置き、言った。
「ねえ、アスカ?」
この場所から始めよう、とシンジは思った。