scene 2

雲は遥か高みにありて

 

最後まであの人のことは惣流先輩としか呼べなかった。

「あ、いたいた。センパーイ」

俺が錆付いたドアを開けて手を振ると、あの人はいかにもうっとうしそうにそっぽを向いた。

「まぁた来たの? ったく暇な奴ねー」

「センパイこそいっつもいるじゃないっすか、ここ」

「あたしはいいのよ」

「なんで?」

「だって、大学出てるもん、もう。高校二年程度のテストなら楽勝」

最初は冗談だと思っていたのだが、その言葉は嘘ではなかった。

あの屋上でセンパイを見つけてから初めてのテストが終わった少し後で、試しに一階下にある二年生の上位成績者順意表(もう2018年だっていうのにまだこんなことをやっている)を覗きに行った。

トップではないが、ベスト20以内に惣流先輩の名前はあった。

次に会ったときにはその話をした。話題になるならなんでもよかった。

「てゆーかセンパイ、そんな頭いいのになんで今さら高校なんか通っちゃってるんすか?」

「ん? ああ、なんでだったかしらねぇ。ま、色々あんのよ、あたしにも」

「へえ」

それだけ言うと、ふっ、と鼻で笑って、

「無感動な奴ね。……あ、何それ」

「コーヒー牛乳。いります?」

「よこせ」

「はいはい」

俺がパックを差し出すと、惣流先輩はぱっとそのパックを引っ手繰った。

髪をかき上げながらストローに口をつけると、ちゅっ、と音をたてて牛乳を吸った。すぼめた唇が妙に艶かしく見えた。

そして吸いたいだけ吸い終わると口を離し、軽く唇を舐めながら牛乳パックを俺に突っ返した。

ほとんど空だった。気にも留めずに言った。

「微妙に美味しい。次も買ってくんのよ」

「へいへい」

いつでもこんな感じだった。俺はたまに学校に来ては屋上で授業をサボり倒すこのセンパイに何かと物を奪われる、つまりは体のいいパシリだった。

異存はなかった。

こんなところでとはいえ、いや、こんなところでだからこそ、二年のアイドルと噂される惣流・アスカ・ラングレーとパシリとはいえお近づきであるということはけっこう気分がよかった。

お前ら知らないだろう、この人、実際はこんな人なんだぜ。こんな風になるのは俺の前でだけだぞ。

そう思いながら俺は足しげく屋上に足を運んだ。


その日もまた、屋上の立て付けの悪いドアを開けた向こうに、金髪を風に吹かれるままにしている惣流先輩の姿があった。

「また来たの? あんたバカ? 終いに留年するわよ」

いつものように開口一番、叩きつけるように言った。

「いやいや、センパイほどじゃないっす」

「何を? あたしほどの天才少女をつかまえて言うわね凡人」

「どーせ凡人ですよーだ」

一瞬、間があった。

「開き直るな」

言って、口を真一文字に閉める。声はそれほど大きくなかったが、強い調子の言葉には普段はない妙な棘があった。

俺はびっくりしてごくりと生唾を飲み、どうにかその棘を折るために、肩を竦めて必要以上に卑屈にしてみせた。

「お、怒んないで下さいよ。だって、勝てないもんは勝てないんですもん。ビバ! 天才美少女!」

怯えてみせてから半端に褒め称えると、少し機嫌が直って、決まり悪そうに、とん、軽く俺の足を小突き、そのまま柵の外に向き直った。

そして柵の外の雲を向いて言った。

「……なんかさ、あたしにあんなこと言われた割に、やけに嬉しそうね、あんた」

「えー? そうっすか?」

「そうよ。なんでそんな投げやりなのよ」

投げやり? それは違う、と思った。俺はただ……

俺は惣流先輩の視線を追いながら答えた。

「投げやりっつーか、割り切ってるんですよ」

惣流先輩の視線は動く雲の向こう、空に固定されていた。

「割り切り、ねえ」

「だって、俺が逆立ちしても今大卒にはなれないし」

「まあそりゃそうだけど」

「でしょー? んじゃあ昔のことなんか考えたってしょうがないじゃないっすか」

昔のこと、しょうがない、そう言ったときにさっと空気が変わったことに気づいた。

爽やかそのものでむしろ暑いくらいの春の陽気が、突然北極の冷気にでも変わったように、空気がすっと冷えて、重くなった。

動悸がした。止まらない。さっきの小さな棘とは桁違いだった。

このひとといてこんな風に緊張するのは、考えてみれば初めてのことだった。

俺はかたく目を閉じた。

すると、ふっと空気が緩んだ。

目だけでちらりと隣を見ると、ちょうど口が小さく動き、喉を捻り潰して出したような声が出るところだった。

慌てて前を見た。雲も時間も、遅々として進まなかった。

「……そうよ、そうやって、そうやっていればいいのに、あいつも」

あいつ? 今度こそ隣を向くと、惣流先輩は唇を強く噛み締め、じっと鉄柵の向こうの空を睨んでいた。

右手で柵を握り締めたまま、彫刻のようにじっとしていた。

俺なんかには何も訊けないと思った。

「誰ですか」

しかし、言葉の方が先に口をついて出た。

こぼれてしまった俺の質問に、惣流先輩は冷え冷えとした目で応じる。

「聞きたい?」

引き下がれなかった。たとえ、もうこれで俺がここに来られなくなったとしても。

「誰ですか」

もう一度繰り返した。

「あんたが想像しているようないいもんじゃない」

顔に般若の面を写し取ったような怖ろしく昏い笑顔でそれだけ言って、くるりと後ろを振り返った。

そして、歩き出す。

ゆっくりとその背中が遠くなっていく。

「待ってよ」

離れて行く距離に焦ったのかもしれない。知らず声を出していた。ぴたりとその足が止まった。

「何だよそれ、あんたが想像してるようなもんじゃないって、なんで俺が想像してるもんがあんたにわかるんだよ」

一端口走り出すと言葉は止まらなかった。

「さっきだってそうだろ。あんた、俺がなんでああ答えたか、わかってなかったじゃないか。それでどうして、そんなことが言えるんだよ、そのひとのことだって、なんであんたがわかるんだよ」

言い返しているつもりが、いつのまにか話題は見知らぬ誰かにすり替わっていた。

どうして自分が見ず知らずの人間を庇っているのかよくわからなかったし、話の行く末も見えなかった。

「だから――だから、あんた頭いいけど、だけど、だからってわかんないもんはわかんないんだよ。だから、ここで空見てても変わんないし、だから、ああ、ええと、だから、そうやっていればいいって、それはそいつに言えばいいじゃないか、先輩」

最後だけは帳尻あわせ程度に先輩、とつけてみたが、酷いものだった。そもそも、この人に説教ができるほど俺は頭がよくなかったし、俺の言っているのは説教というには個人的な思いが入りすぎていた。

つまりは、俺は途中を説教っぽく装いながら長々と「何で俺の前で他の奴の話をするんだよ」とただの文句を言い散らかしていただけだった。

聞く人が聞けば、俺が惣流先輩のことが好きなのだということはすぐに気づくはずだった。

そしてきっと、惣流先輩も気づいた。

自分の言ったことがすぐに、しかも自分の手で覆されたのがわかった。それも手伝って、文句を言っているときよりずっと顔が熱くなった。

緊張がまた高まる。

身の毛がよだった。どうしてこの細い女の人が、これほどの緊張感を出せるのか。今にも叩き殺されるんじゃないか、と少し思った。

肩がぴくりと動く。俺は息を飲んだ。

来る――!

しかし、その緊張感はすんでで和らいだ。

「――かもね」

一瞬何を言われたのかわからなかった。

惣流先輩はさっきの緊張感が嘘のように、優雅にくるりと振り向いた。俺のほうに。

そこには意外にも、馬鹿にも皮肉りもしていない、何の作りも見えない笑顔があった。

俺は緊張から解放されたてほっとしたのと、その顔があんまり可愛かったのとで、喋ることができなかった。

「それは一理あるわ。覚えとく。……ありがとう、ごめんね」

物凄く珍しい言葉を聞いた気がした。

俺が目を点にしている間にまた惣流先輩は振り返り、そのままドアへと歩きだした。

今度はドアが閉まるまで一度たりとも振り向かなかった。


それっきり、この場所で惣流先輩に会うことはなかった。

元々学年も違うし、俺はあの人の携帯の番号も知らない。この場所で会う機会がなければ、もう話すことなどありえなかった。

最後まで、あの人のことは惣流先輩としか呼べなかった。

そして、その名前を呼ぶことがなくなった後も、俺だけがこの屋上にいる。

夕方とはいえ夏の日差しが辛い屋上で、それでも俺は日陰にも入らずじっとしている。

そして静かに思い出す。


あの後、いつか一度、廊下で惣流先輩と擦れ違ったことがあった。

その少し後ろには、女の子みたいな涼やかな顔の、ひょろりとした男子がいた。

擦れ違いざま、俺は振り向いた。

惣流先輩も振り向いていた。

目が合った。

(うまくいった?)

(もちろん!)

それだけを視線と軽いウインクで教えあい、そのまま立ち止まらずに歩き去った。


かなり前の話だ。その彼と間の話は、少し噂になって、しかし文化祭が終わって即席カップルのほれたはれたが話題になる時期にはその噂も途絶えた。

思い出すのを止めて、足元に長く落ちる影を目で追った。

自分が何か成し遂げた、なんて思わない。あの人は強い人だから、きっと俺が何も言わなくても、自分で何とかしただろう。

俺はただ、遠回りをして告白し、そして失恋しただけだ。赤点がやたら多い一学期の通知表と一緒に。

少し出っ張ったコンクリートの屋上の端で直角に傾く影を先端まで追うと、今度はそこから少し視線をずらして、鉄柵の下を覗いた。

「あ」

それを見つけて、思わず声を上げていた。

校庭には、特徴のある金髪が歩いて行くのが見えた。その隣には、いつかの彼。

ふたりは手をつないでいた。

俺は顔を上げた。そして柵の向こう、目に入った、あの日とは全く形の違う雲の浮かぶ夏の空を眺めた。

「雲は遥か高みにありて、遠くに恋しく思うもの――っと」

どこかで聞いた言葉を呟いて、遠くの街に夏雨でも降らせそうな夕立雲を、遠く東の空に見送った。

Get back to index (of the other stories)