scene 4

運命は戸を叩く

 

わたしは机から顔をあげて、先生がこちらに気づくのを感じると、ちょっとだけつばを飲み込んで、声をかけてもらえるのを待った。

そして先生がやってくると、にやにや下品に笑わないように気をつけて、解法を書いたノートを先生に見せた。

「できました!」とわたしは小さく叫んだ。それはそうだ。この問題はかなり難しくて、なんでもないように解くのはかなり大変だった。

「もう、できたの?」

先生は驚いて言ってから、あわてて口を手で隠して、それからわたしの耳元に小声でささやいた。

「これだけの線形代数の問題が解けるなら、今日の宿題は簡単すぎるわね。あとで部屋にいらっしゃい、特別の課題を出してあげましょう」

わたしは嫌がるそぶりなんかちっとも見せないように、完璧な笑顔でほほえんだ。

「やれやれ、あなた」とわたしの先生は、約束の放課後に職員室で言った。「早く解きたいのはわかるけれど、だからって間違っていたらなんにもならないのよ」

「すいません」とわたしは答えた。

背の高い先生はゆっくりと腰をかがめ、わたしと目の高さを合わせた。胸元に、小さな十字架のペンダントが光っていた。きれいな十字のペンダント。いつかあなたにあげるわね、と常々言っているそれをふくよかな胸に光らせながら言った。

「どうしてそんなに背伸びをするのかしら? ねえ、あなたが頭のいい女の子だってことはわかっているの。それでもまだ背伸びをしなけりゃいけないということは、何か、とても大事な理由があるのね」

わたしはどうしようと思って、先生の後ろの壁にかかっている古いかべかけ時計を見たり、本棚に入っている重そうな本を見たりしたけれど、どこにも答えは書いていなかった。

わたしは諦めて、先生以外の誰にも聞こえないように小さな声でしゃべった。

「大事な理由です。かんたんに言うと……エヴァなんです」

先生はにっこり笑って、わたしの頭を撫でた。子供扱いされているみたいでむず痒かったけど、嫌いではなかった。

「『エ』はエヴァの略号ね?」

「はい、先生」

「でもね、アダムの奥様のためにあなたが成績を落とすのを、黙って見てはいられないわ」

「また、お薬を飲まなきゃいけないんですか?」

頭をよくするお薬は、あまり好きではなかった。

「いいえ」

先生は聖職者らしく、手で軽く十字をきって、そっとわたしの頬に触れた。

「ねえ、あなたはここでは一番の成績よ」そしてしばらく、何か悩むように考え込んで、口の中で小さく聖句をとなえた。それから「だからね、この施設としては、あなたには色々注目しているの」そして、厚みのある柔らかい手で、またわたしの頬をなでた。

「だいじょうぶ、何にも心配することはないのよ。――さ、もう行っていいわ。今日の宿題は、しっかり丁寧に解いてね。夕食には遅れないように。お母様からあなたをあずかっているんですから」

わたしは立ち去って、教室に戻ってしばらく勉強した。

その日先生は、放課後に廊下を通り、ちらりとわたしと目が合った。先生は手元にある携帯電話にずっと何かをしゃべりながら、わたしをちらっと見たのだった。

遠すぎて、何を話しているのかはわからなかった。

でも先生のその目は、ほんの一瞬だけでもわたしの頭に強く残った。ほめてくれるときのような、それから、泣いているときにかわいそうにと抱きしめてくれるときのような、まるで、わたしの家の裏にある古い池のようだった。あの池は、いまはどうなっているんだろう?

先生の目の中にある池はそんなふうに、可愛らしい天使が出てくるみたいにも、おそろしい悪魔が出てくるみたいにも感じられて、わたしは下を向いて、ルームメイトのユミコがやってきて、遊びに行こうと言うまで、ずっと勉強していた。

わたしとユミコはずっといっしょだった。他のみんなにはなくて、わたしたちだけにあるものがあった。わたしたちだけが一緒に持っているあこがれがあった。そうじゃなければ、学者の子供だけを集めてこんなに勉強をさせる所で、いい子ではいられない。現に、ほんの小さなクラスの子たちの半分よりもっと多くは、もう授業が何をやっているのかさっぱりわかっていないのだ。

ちゃんと勉強をして、それから遊ぶ時間が残っているのはわたしとユミコくらいで、わたしたちは他の子をちょっとだけ馬鹿にしていた。

だからその日も、わたしたちはかくれんぼをして、みんながお互いを探しまわっている間にそこを抜け出して、秘密の道を通ってその場所に来たのだ。

秘密の格納庫には、巨人がいた。とても大きくて、首を頑張って動かさないと全体が見えなかった。初めて見たときには、ちょっとだけ腰が抜けそうになったくらい。

でも、今日は秘密の道もつめたい扉で閉じられていて、その先には進めそうもなかった。

「どうしよう?」わたしは凍える手をさすって言った。上は暑いくらいなのに、ここはとても寒い。

「まだ夕ごはんまで時間はある?」

「うん」

「じゃあ、部屋に帰って、ゲームでもしようよ」

「うん」

それからわたしたちは部屋に帰って少しだけゲームをして、それからおしゃべりした。もう知っている話も多かったけど、それでも、楽しみが少ないここではとても役に立った。想像力がないと、ここは地獄だ。

「ねえ」と、ふっとわたしは言った。

「なに?」

「早くおとなになりたいね」わたしはクッションを抱いて、もう一度言った。「早くおとなになりたいな。あれに触れるくらいに。よい子を止められるくらい」

そうだ。そうならなきゃならない。それには、選ばれないと……そう、選抜されないと。

ふたりして黙っていて、時間が過ぎているのに気づくのが遅れて、先生にまた怒られた。

「わたし、戦うわ」

ごはんを食べ終わり、いつも通り二人でお風呂に入っているときにわたしは言った。頭をすっかり流し終えてから、彼女は訪ねた。

「ひとりで?」

「そうじゃなくちゃいけないの」

「ふうん、そうか……」

わたしは湯船から上がってシャンプーを取り、手早く頭を洗った。

「でも、それだったら、あたしも戦ってるよ」後ろから声が聞こえた。

彼女には見えないけど、わたしはシャンプーの泡の下で、にやっと笑っていた。

「そうくると思ってた」わたしはシャワーに負けない声で言った。「他の子は、きっとこの戦いにはあんまり興味がないんだと思う。でも、わたしたちはそうは行かないよ。このまま、選ばれるのを待つのね」

お風呂を出ると、わたしの部屋で、宿題の答え合わせをした。わたしは間違っていた。彼女も。彼女は、わたしが口ごもって言わなかったことをはっきり言った。

「機関の人たちが選考作業するの、あなたは志願できない。待たないと」

「わかってるわよ」

「待てるのね? おとなに、本当におとなになってしまって、もう駄目になってしまうときに、お酒でも飲んで、夜にふらついている研究員の人みたいに、なにか変なことを叫ぶの?」

わたしはぶるぶると首を振る。彼女もそうした。

「……あたしはいやだ。そんなの……」

そのとき、誰かが戸を叩いた。

「いるの?」

「先生!」わたしたちは叫んだ。「どうして?」普段は夜には、お仕事をしているのに。

「連絡よ。あなたは、明日、授業は休み」

わたしの肩に手をおいて、先生は言った。わたしはびっくりして訊き返したけど、先生は、休み、の一点張りだった。

そして次の日、わたしは授業の代わりに呼び出された部屋で、それを見た。

突然カーテンが引かれた窓から見えたものに、わたしは息を飲んだ。何を言われるのだろう、という恐怖はそのときにはもうなくて、その代わりに、別の感情がさまざまに浮かんできた。

その綺麗な赤い赤い巨人が闇の中に浮かび上がったとき、わたしは彼女のことを考えていた。ねえ、ここにいま、あなたとわたしのふたりでいられればいいのに。わたしにはその姿が本当だとは信じられなかった。あのとき秘密の通路を抜けた先で、ふたりいっしょに見た巨人と同じ姿をしていたのに。

そしてふと、知らない足音が聞こえた。

ゆったりと歩く、誰か。

わたしには、それが何をわたしに言うために歩いてきているのか、わかっていた。

そして、わたしはその間もずうっと、どうしてわたしはひとりでここにいるのかということを考えていた。あのとき、ひとりで戦うなんて思ってしまったせいなのだろうか。

目の前に現われた女の人は、少し前までのママと同じように、朝から晩まで、部屋でも外でも、パーティにも白衣を着ていきそうな人だった。染みひとつない真新しい白衣だけれど、べったり血が染みているように重々しく見えた。

女の人の名前はナオコと言った。ドイツ人ではなさそうだったけど、とても上手なドイツ語できっぱりと言った。

相手が先生と、ときどきわたしを相手にずっと話していた言葉の中で、わたしがちゃんと聞けていたのは、ほんの少し。

「……適性も抜群で、知能指数も申し分ありません。訓練生活への心理耐性は少し心配だけれど、その分知覚には天賦の才がある。なにより、コアの……」

「はい」

「……マルドゥック機関による選抜の結果……」

「はい」

「……だから覚えておいてね。フロイライン・アスカ。あなたがチルドレンに選ばれたことは、誰にも知らせてはならないの」

フロイラインつきで呼ばれるのは、なんだか恥ずかしかった。

「だれにもですか?」

「わたしや先生は当然わかっています。けれども、他の人には知らせてはいけません。わかりましたね?」

「はい」

「なぜだか説明しておかなければならないかしらね」そう言って、ナオコは笑った。ママの笑い顔に、少しだけ似ていた。「これはチルドレンの秘密を保持するため、そして、安全を守るためなのよ。エヴァンゲリオンのパイロットになるには、全人類の中でほんの数人に入れるだけの才能と努力が必要なの。選ばれた天才しかパイロットにはなれない。その他の子供たちは、チルドレンとしてひとくくりにはしてあるし、今後ちょっとした選抜をして似たような訓練を受けるけれど、段階的に社会に戻ります。そして、あなたがしっかりとしたパイロットになるころには、すっかりみんな出直すことができる。誰が本当にチルドレンになったかはわからないままでね」

「はい、よくわかりました」とわたしは言った。

それから、手を挙げて訊いた。「あのう」

「どうしました?」

「わたしのクラスメイトがいるんですが、その……」

ナオコは手元の小さな機械をさっといじって何かを確認すると、答えた。

「詳しいデータはいま持ってないけれど、調べておくわね。大丈夫。エヴァはまだ何機か建造されるのよ」

「お願いします。ありがとう」

「それでは土曜日の朝、指定された場所に来てください、フロイライン・アスカ。それでは」

ナオコが行ってしまってから、先生は言った。

「おめでとう! アスカちゃん」先生はフロイラインなんて仰々しい言葉をつけてはいなかった。「これは素晴らしいことなのよ。世界を救うなんて、何て名誉なこと。私よりも、ずっと立派な聖職者よ」そう言って、首にかけていた十字を優しくわたしの首にかけた。

それはつながれた犬みたいで、少しだけ嫌だったけれど、わたしはおくびにも出さずに、かわいそうなわたしのルームメイトのことを訊ねた。

先生はまた優しく微笑んで「そうね、今日はあなたはママのところに行くといいわ。今日は木曜だから、一度ママにご報告しないとね。ママは関係者ですもの、きっと教えても大丈夫よ」

わたしはまだほんの四歳だけど、それでも、先生の言いたいことはわかった。そこに行ってしまえば、ママとも今よりもっと、ほとんど会えないのだ。ママも、あのエヴァンゲリオンを作っている人なんだから、もっと忙しくなる。

わたしは先生のいうとおりにすることにした。

でも、そこでも問題は彼女だった。彼女と顔を合わせるのはもちろんつらいけれど、でも、顔も合わせずにいってしまうのはもっとつらい。そして、わたしは彼女に、なんにも言うことはできないのだ。

結局、わたしは部屋にもどって、彼女の授業が終わるのを待った。

彼女は、どうしてわたしが家に一度帰るのか、それからどこへ行くのか、ほとんど訊かなかった。わたしは少しほっとして、いつもと同じようにおしゃべりをした。

もうこれっきりなんだ、と思うと、胸が痛くなって、そのせいで、本当に話に熱中すると、じぶんが普通の、ただのほんの四つの子供みたいに思えた。

でも、そんなことはなかった。わたしはもう、あの巨人の、エヴァンゲリオンのパイロットなんだ。

「じゃあ、行ってきます」

やがて出発の時間が来て、わたしが部屋を出て、玄関を出て、バスに乗り込もうとする少し前に、彼女は言った。

「アスカ――もう、待たなくていいのね? アスカ」

お互いに、何の話かはわかっていた。でも、わたしは答えるわけにはいかない。

「ママに逢いに行かなきゃ」

「あたしはそうかな、って思ったの。それでなのかなって。でも、それならいいよ。あたし、それなら許せる」

わたしは涙が出るのを必死に抑えた。そんなことをしたら、わかってしまう。そうなってわたしがもし資格を失ってしまったら、きっと一番つらいのは、目の前にいるあなただから。

「ねえ、明後日さ。また一緒に、あの秘密基地に行こうよ」

「わたしは……」

「うんって言いなさい。次の土曜日、研究員にばれないように、朝早くに」

わたしはうなづいた。

「いいわ。朝早く、ね。それまで、これ、預けとくわ」

わたしは先生から貰ったクロスをさっと外すと、彼女の首にかけた。

「オーケイ。ねえ、アスカ」

「なに?」

「あたし、まだ待つわ。いままでアスカがそうしてたみたいに、あたしも」

まだ建造される。その言葉を思い出して、わたしは言った。

「きっとすぐよ。そう、もうすぐよ」

わたしはむに、とほっぺたをひっぱった。すぐさま、ひっぱり返された。

よそ行きの服のわたしが乗り込んで、そのバスはすぐに夕焼けに向かって走り出した。風でスカーフが揺れて、スカートがはためいた。

その風に乗って、遠くに先生の声がしたような気がしたけれど、きっと気のせいだろう。

バスに乗っている最中、そして乗っている間もずっと、わたしはママのことと、あの子のことと、わたしが憧れたパイロットのことを考えていた。

最近のママはなんだかちょっと怖くて、やつれてしまってかわいそうだけれど、わたしがパイロットになったんだもの、すぐに元気を取り戻すに違いない。

昔の、きびきびしたママに戻るに違いない。

彼女とはまた会えるかわからないけれど、優しいあの子なら、きっと選ばれるはず。わたしと同じくらい頭がいいあの子なら、きっと選ばれるに違いない。

また、ルームメイトに戻れるに違いない。

もしかしたら、お母さんがいないあの子は、パイロットとして、わたしとママと一緒に三人で暮らすのかもしれない。

そうなったら、本当に嬉しい。あの子が、わたしの姉妹になったら。

頭がくるくると先のことを考え出して、止まらなかった。

わたしは少しずつ速歩きになって――やがて、走り出した。

階段を昇りながら、わたしはちょっと笑った。今日は、この階段を上るのもちっとも怖くない。

わたしはおとなになったのだ。

廊下の突き当りに、ママのいる部屋が見えた。

かわいそうなママ、今、行くからね。

ねえ、聞いて。

ねえママ、わたし、やった。

やったわ。

わたし、選ばれたの! 人類を守るエリートパイロットなのよ、世界一なのよ!

息が切れる。でも嬉しかった。

誰にも秘密なの、でも、ママにだけ教えるわね!

誰かがわたしの名前を呼んだ。でも、振り向く暇なんかなかった。

色んな人が親切にしてくれるわ、だから寂しくなんかないの。

ママ!

ドアはもうすぐそこ。もう、邪魔するものなんかない。

だから、パパが居なくっても大丈夫。寂しくなんてないわ!

だから、だから、ねえ、またわたしを見て、ママ!

そしてわたしはママのいる部屋のドアを勢いよく開いて、その中に飛び込んで、

- "a scrapbook" scene 4 - "E ist für Evangelion." end.

note

The referential book(citiations and storyline, words... all of interesting parts are stealed from Eva and...)
Ray Bradbury "R IS FOR ROCKET"
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