それは、彼らがちょっと大人になった頃、鈴原家のとある夕飯時……
チャイムを聞いて玄関のドアを開けると、中学以来の友人の碇シンジが立っていた。
「は−い。ちょっと待ってな、と……お、なんや。センセやないか。どないした?」
「こんばんは、トウジ。あの、ちょっと……」
「まあ、玄関で立ち話もなんやし、上がりや」
「あ、うん。おじゃまします。ごめんね。こんな遅くに」
「遅い言うてもまだ七時になったくらいやろ。気にすな気にすな」
「うん、ごめんね」
「ま、狭いリビングでなんやけど、座ってや。せや、センセもビール飲むか?」
「あ、僕はいいよ。ごめんね」
「おう。ほんならワシ、勝手に飲むで? すまんな」
「うん、僕の事はいいから」
「ほうか。……で? 今度は惣流とどないな喧嘩したんや?」
「え、け、喧嘩って」
「隠しても無駄やで。センセが一人でワシの家に来るなんちゅうたら、惣流と喧嘩した時だけやないか。この前かて、喧嘩した言うて惣流がヒカリに愚痴こぼしに来やったんや。ああ、またかいな、と普通は思うで」
「う、うん」
「ところでまさか、またこの前みたいに喫茶店のウェイトレスの姉ちゃんと話しただけで惣流が怒った、とかそんなんやないやろなあ。あれぐらいでは普通怒らへんやろ? まあー、話を聞いた時はあきれたで」
「はは、それはまあ、アスカだから」
「さよか。まあセンセが納得してるならええんけどな。で、今回はなんや?」
「うん、実は、マナから電話があって、それで……」
「お、ちょい待ちい。マナ言うたら女の名前やないか? 珍しいのう、センセが惣流以外に女の子の名前を呼び捨てるて。うーん、センセも実はスミにおけへん男やったんやなぁ。惣流以外にも親しい女の子がおったなんて、ワシ知らんかったで」
「いや、親しいなんて、そんな。マナはただの友達だし……」
「そうは言うがなあ、センセ。普通は、親しい相手やなかったら名前を呼び捨てにはせえへんもんやろ?」
「そ、それはまあ」
「まして? 男が、しかもセンセが女の名前呼び捨てにする言うのはよっぽど親しいとしか……ん、ちょっと待てや? マナって……」
「うん、トウジは覚えてるかな? ほら、中学の時に転校してきた、霧島マナって子」
「きりしま、霧島って。おー、おー、霧島マナなあ。うん、うん、そんな子もおったなあ。………………って、なにー!? 霧島やて!? あいつ戦自の女スパイやったんちゃうんか? え、あれ、生きとったんか? 死んだんちゃうん? え、何で今頃? 六年も経って今更なんでや。あ、すまん。えーと、あーなんか頭が混乱してきよったで」
「うん。実は生きてて……同じ大学にいたんだ。偶然って、不思議だよね」
「『偶然って、不思議だよね』って、何をさわやかに言いよんねん。そんなうまいこと偶然が起こるかい! 完璧にセンセ狙いやないかい。大丈夫なんか?」
「えーと。青葉さんには大丈夫だって言われたけれど」
「青葉さんて? ……ああ、ネルフの人か。ほなかまへんのか。あー……ええんか?」
「まあ、今は普通の大学生を楽しんでるって、マナは言ってるし。いいんじゃないかな」
「うー。まあセンセがええ言うんなら、ワシがどうこういってもしゃあないか。うーん……霧島ねえ」
「同じ学部だし、ゼミも一緒でね。それで、電話番号を教えてくれって言うもんだから」
「で、電話で話をしてとった、と。ほんで惣流が怒りよったんか。うーん……」
「マナは友達だよって、アスカには言ったんだけど」
「せやけど、大学で会うんやから、何も電話せんでもええやろ。そない大事な話やったんか?」
「えっと、今度のゼミの合宿旅行の事だったけど」
「ほーん。旅行なー。お、なんや、センセと霧島で旅行をするんか?」
「まあ、僕達だけじゃなくて、他にも人はたくさんいるけど」
「そ、そしたら、混浴の温泉かなんか二人で入るんか? 『マナ、君はずいぶん女らしくなったね』とか『シンジこそ男らしくなったね』とかそんなん言いながら」
「え、そ、そんなことは」
「あれ、今のは?」
「おお? ああ、あれは台所やな。おーい! 大丈夫か?」
「なにやっとんかのー。いやな、ヒカリが台所でちょっと料理をな」
「ああ、ヒカリさんは台所?」
「おう、センセに挨拶もせんとすまんのう。ちょっとばかり難しい料理を作ってるみたいでなあ」
「ううん。僕は別にいいけど。そんなに難しいの?」
「うーん。まあ料理のことはワシはようわからへんねやけど、まあ難しいらしいで」
「そうなんだ」
「そうなんだ。と、そらそうとセンセ、霧島と旅行するんやったな。やっぱり混浴か?」
「こだわるなあ。だから、混浴なんてしないよ。大体ほかにも大勢いるんだから、そんな事したら大変なことになるよ」
「それはそうなんやろうけど、センセは昔も霧島と箱根の温泉にいった前科があるやないか」
「そ、そんな、それは中学の時の話じゃないか」
「えー」
「ああ、台所や。おーい、大丈夫なんか?」
「えーと……様子見たほうがいいのかな」
「あー……へ、下手に手出すとえらい怒りやるからなあ。ほっとこ」
「う、うん」
「キョウスケが生まれてからこっちそんな凝った料理は作られへんかったし、まあ、色々あるらしいからなあ」
「ふーん。ああ、キョウスケ君は?」
「ああ、あっちの静かなところで、寝かしとる。まあ、寝てる時は天使やで、あれも」
「そんな、キョウスケくんは起きてる時もかわいいじゃないか」
「センセは、そう簡単に言うてくれるけどな。最近はいはいができるようになったからもうちょっとも目が離せんようになってなあ。大変やで」
「そうなんだ」
「ああ大変やで。まあ実際のところ、センセと惣流には感謝しとるんやで。ちょくちょく手伝いに来てくれたからなあ」
「そんな、僕達は何も。ただ遊びに来ただけで……」
「そんなことあらへんて。色々助かったんや。ワシら二人だけやったら大変やった。ほんま育児は大変やで。恩に着とる。と、ちょっとビール、飲ましてもらうで。温なりよる」
「あ、うん」
「……ふう。で、や、センセ。その恩返しとちゃうけど、ちょっとばかりおせっかいをさせてもらおうと思うんやが」
「おせっかい?」
「ああ。なあ、実際のところ、シンジは惣流をどない思っとるんや?」
「どうっていうと?」
「まあ、好きとか嫌いとかか、そういうことや。センセたちは中学の頃からもう五年近く同居しとるし、今更聞いてもどうかとは思うねんけど」
「あ、う、うん」
「前にな、ヒカリが言うたんや。惣流は不安なんちゃうか、て」
「不安?」
「うん。ワシにはようわからんのやが、女はちゃんと言うてくれんと不安なもんなんやと」
「う、うん」
「だからな、センセが惣流にはっきり気持ちを伝えたら、不安も消えて、あの焼きもちも少しは収まるんやないかと思うんやが。なあ、どうやろかセンセ。この際、バシッと言うたったら?」
「……」
「なんや、下向いて」
「……」
「なんやねん、黙ってんと言わんかいや」
「僕は……アスカが好きだよ。でも、僕はアスカにひどい事をしたんだ。好きになる資格なんてないよ」
「うーん、資格なあ」
「? 台所がどうかしたの?」
「ああ、いやいや何でもない。……でもなあ、センセ。人を好きになるのに、ほんまに資格とか要るんか?」
「……それは、でも」
「たとえばやな、しっかりとした収入がないとアカン、とか言い出したら、学生の内は恋愛でけへんことになるで」
「うん」
「好きなもんは好きなんや。資格とか条件とか関係あらへんやろ」
「うん」
「それになあ。まぁ、詳しくは聞かんけど、その『ひどい事した』言うのは、いつのことなんや」
「まだ、エヴァに乗ってる頃だけど」
「なら、もう五年以上経ってるやないか。そろそろ、時効なんと、違うか?」
「時効? でも」
「センセのこっちゃ、ずいぶん長い間、後悔し続けてんねやろ。もう自分のこと、許してもええんと違うやろか?」
「……」
「そない情けない顔すな。大体やなぁ、ひどい事されたはずの惣流がなんで今でもセンセと一緒に住んでるんや? 一回ドイツに帰ったと思ったら、すぐに日本に戻ってきて、挙句の果てにセンセと同じ高校に編入するわ、また同居しだすわ、やろ? ほんまのところ、惣流はセンセの事をもうずっと前に許してるんやないか?」
「でも、アスカはドイツから帰った時に、『わたしに償いをしろ』って、言ってたし」
「そ、そんな事言われてたんか」
「う、うん」
「そ、それでもや。それでもひどい事された相手なら本当は顔も見たくないやろ。な、センセ」
「そうだよね、普通なら……」
「せや、普通なら、会いに来たりせえへん。惣流はセンセを許しとると、ワシは思うで」
「でもね、トウジ。僕には自信がないんだ」
「自信?」
「うん。もし、アスカが僕を男と見てなかったら? 家族だとしか、弟みたいなもんだとしか思われてなかったら? 告白して、断られて、ギクシャクした関係になってアスカがドイツに帰ったりしたら、僕はこれからどうすればいいんだろう」
「う、うん」
「それは今の状態が最高だとは言えないよ。本当は恋人として付き合いたいし、トウジ達みたいに結婚とか子供ができたりとか、きっと楽しいんだろうなあって考える時もあるんだ」
「ほんまか?」
「うん。だけど、告白が失敗して何もかもが無くなったらと思うと、とても口には出せないよ。今のこの関係すら無くなるなんて――そんなのはいやなんだ。怖いんだよ」
「えーと、うん、まあでも、そうやな。やっぱり怖いよな、告白するのって。うん、わかるでセンセ。ワシもそうやった」
「トウジも?」
「ああ、知っとるとは思うけど、ヒカリは弁当を作ってくれたり、入院した時もすぐに見舞いに来てくれたり、色々ワシのこと世話してくれてなあ」
「うん」
「いつの間にか、ワシはヒカリが好きになっとった。でも告白してもうまくいくかどうかはわからん。ひょっとしたら、ヒカリに友達としてしか思われてないっちゅう場合も、ありうるやろ?」
「うん」
「そんで、ケンスケに愚痴ったりしてな。……そしたら、ケンスケに怒られた」
「ケンスケに?」
「ああ、ここでちゃんとしなくてどうする、言われてな。ヒカリがどこかに引っ越したり他の男と一緒になったらどうする気や、と」
「そうなんだ」
「まあ、他にも、俺なんか付き合うこともできないのにとか、『相田君はいいひとなんだけど』とか『私よりいい娘がみつかるよ』とか言われた俺はどうすればいいんだ。そもそもなんて贅沢な悩みやとか、色々言うてたけどな」
「ははは……」
「まあ、確かにケンスケの言うように、どっかに行かれたり、他の男に取られたりする言うのも嫌やったしな」
「うん」
「言わんでも後悔するし、言うても後悔する。どうせ同じことやったら、言ったほうがええやろ。ということでな、告白することにしたんや。まあOKしてくれたから、よかったけどなあ」
「うん」
「センセが怖いという気持ちはワシもようわかるつもりや。そやけど、ちゃんと告白したほうがええのんと違うか?」
「……」
「高校の時にワシら四人で遊んだ時、センセも惣流もいい顔で笑っとった。キョウスケを見に来た時もせや。ふたりでええ雰囲気やった」
「そ、そうかなあ?」
「そうや。せやなぁ! ヒカリ?」
「今の、ヒカリさん? 声が」
「何言うとんねんもちろんやないかい。そうや、せやから、センセの場合は大丈夫や。ワシは、そう思うで」
「でも……アスカがもし僕の事が好きなら、もう少し優しくしてくれるんじゃないかな?」
「ま、まあそれはせやねんけど、あれや、なんちゅうか、えーと、そ、そうや、惣流は少し照れ屋さんなんとちゃう、かなー……」
「それにしても、お風呂が熱いとか、味噌汁の味がおかしいとか、わがままばっかりなんだ」
「そ、そうなんか……」
「言う方はいいけど、言われる方の身にもなって欲しいよ。うん」
「さ、左様でございますか……」
「……まあ、そのくせ、たまに寂しそうな顔も見せるんだけどね」
「へ、寂しそうな顔?」
「うん。やっぱり親御さんと離れて暮らしてるせいなのかもしれないけど、たまにね、寂しそうなんだ」
「ほ、ほうか」
「あの顔を見ちゃうとね。やっぱり僕がしっかりしなくちゃ、アスカを守れないなって、思うんだ」
「ほー……」
「何?」
「ん? なんでもないなんでもない。はーん、なんや、聞いとったら何のことはあらへん。センセ、惣流にベタぼれやないか」
「え、そ、そんなこと」
「そない言うたかてなあ、そんなけわがまま言われても許せるんやろ? ワシやったらとても耐えられん。そのうえ、惣流を守りたいなんてなあ。何やセンセ、自分ここにノロケ言いに来たんか?」
「ち、違うよ! アスカが出て行っちゃたから、トウジの家に行ったのかと思って」
「そうやろ。捜しにきたんやろ、まったく。――って、ちょい待ち。ちゃうちゃう。惣流が用があるのは、ワシやない。ヒカリや。そこんところははっきりしとってくれ。何も知らん人が聞いたら誤解するやないか」
「え、う、うん。もちろんアスカはヒカリさんに会いに来てるに決まってるよ。でも、トウジとヒカリさんは結婚してるから、結局、トウジの家に来ることになるし。……同じことじゃないか?」
「ち、違うわい! それは、事情を知っていれば、そう思うかしれん。せやけど、よく知らん人間は誤解するに決まっとる。まして、惣流が――あの焼きもち焼きが人づてにそんな事聞いてみい。ワシ、半殺しで済まへんで。ここはきっちりしとかなあかん。ワシの命がかかってるんや」
「大げさだなあ……まあ、そういう事ならちゃんと言い換えるよ。アスカがヒカリさんの家に行ったかと思ったんだ。でいいの?」
「うんうん。それが正解や。……とはいうものの。ワシもさっき帰ってきたところやし、惣流が来てるかどうかはわからんなあ」
「なんだ。そうなんだ」
「ああ、そうなんや、ははは」
「ははははは……どこ見てるの?」
「ははははははは、いや何でもない何でもない。なあ、センセ。話は戻るんやけど。やっぱり、いっぺんちゃんと告白してみるというのはどやろうか?」
「う、うん」
「センセが、そこまで惣流のことを思ってるんやったら、はっきり言葉にしたほうがいいと思うねん。ワシは」
「うん」
「まあこの際ついでや。ケンスケに言われた言葉をセンセに言わせてもらうで?」
「え」
「なあ、シンジ。惣流がどっかに行ったり、他の男とつきあってもええんか?」
「……」
「もしも、かまへん、それも惣流の自由や、っちゅうんやったら、ワシも、もう何も言わん。せやけど、そら嫌や、と思うんやったら、告白しなアカンのとちゃうか?」
「……」
「僕は……」
「うん?」
「僕は、嫌だ。独占欲が強すぎるのかもしれない。でも、アスカが居なくなるのも、他の男と付き合うのも、僕は嫌だ」
「……うむ」
「僕は逃げていたのかもしれないね」
「……お、おう」
「告白して、ふられて傷ついたり、嫌な思いをするのが嫌で、自分を誤魔化して」
「……うん」
「誤魔化すために、ひどい事したとか、資格がないとか、自分に言い訳をしていた」
「……まあ、そない自分を責めいでもええがな。今からや、今から」
「うん。今、トウジに言われて、気付いたよ。アスカを人にとられたくない自分に」
「よう言うた!」
「告白しなければ、アスカと一緒には、いられないんだね?」
「やろうなあ。今はまだええかもわからんが、いずれは、さすがの惣流も離れていくやろ」
「うん。そうか。そうだよね。言葉にしないと駄目だよね。いくら思っていても伝わらない事もあるもんね」
「そう、そうそうそう、そうや。言わんとわからん事もある。うん、センセ、ようやくわかってくれたか。ワシはうれしいで。そうや、もうこの際、人目も気にせずに抱きしめてキッスなんて、ど派手な告白なんかどうや?」
「え、人前でキス? いや、それなら別に、いつもやっていることだけど?」
「おお、おお、そうか、そうやろうなあ、センセと惣流はいつもやってる、人目を気にせず熱い接吻――って、なにー! いつもいつも人前でやっとるやとー!」
「な、なに?」
「ああ、また台所や。おおかたワシが大声だしたからびっくりしたんやろ。おーい、大丈夫か」
「や、そうや。でそれよりも! センセ、いつも人前でキ、キッスってなんでや?」
「えっとね、買い物につき合わされたりする時に挨拶がわりだからキスをしろとか、言われて。本当は恥ずかしいんだけど、キスしないとアスカの機嫌がすごく悪くなるから、仕方なく」
「……あんなあ、恋人ならともかく、仕方なく外で、人目をはばからずにキスするやつがどこの世界におんねん」
「で、でも、ドイツじゃあ、挨拶にキスするのは当たり前だって、アスカが……」
「ワシはドイツには行ったことはないけど、いくらなんでも挨拶のは普通頬っぺたにするくらいやろ。どうせ、センセ達はちゃうんやろう?」
「ま、まあ。唇が、唇と、まあ、えーと」
「ああ、皆まで言うな! 聞くのも恥ずかしい。しかし、なんやなあ。そんだけ外でべたべた『バカップル』やっとるっちゅうのに、告白はしてへんし、付き合ってる自覚もない、と……なあ、センセ、嘘やんな? 確信犯やんな? やっぱりほんまはワシにノロケ聞かせに来たんやろ? なあ、言うてみ、正直に言うたら許したるから」
「ち、違うよ! だ、だから、僕はアスカが心配でそれで捜しているんだって」
「……それにしては、さっきから延々ノロケ聞かされてる気がするんやけど」
「えー、あの、僕、そろそろ帰ろうかなあ」
「うん? なんや、さっき来たばかりやないか。どないしてん。ヒカリも何ぞ作っとるし、晩飯でも一緒に食うて行ったらええやん。まさか、旗色が悪なったから帰ろうとか」
「違うって。いや、ほら、アスカに告白する事にしたから、準備をしないと……」
「ふーん、告白の準備なあ。心の準備か?」
「うん。そのー、指輪がないと駄目かなって、思って」
「ゆ、指輪? シンジ君、君が何を言っているのか僕にはわからないよ」
「トウジ……それ、僕のセリフ。って言うか、言ったことあったっけ、それ? ……じゃなくて。あの、婚約指輪がね、いるかなって」
「婚約指輪って、ま、まさかプロポーズまで一足飛びにやる気か?」
「えーと……」
「ああ、台所や。まあ気にすな。無視や無視。で、プロポーズかいや」
「うん、ヒカリさんが言うようにアスカが不安になっているなら、形だけでもちゃんとしておこうと思うんだ」
「ま、まあ、ちゃんとするのには異論はないけどもや。いきなり結婚か? 恋人をすっとばして。まあ、ワシらもたいがい早よ結婚したから人にとやかく言えへんけど、少しは彼氏彼女っちゅうの、やってたで?」
「いや、別にいますぐ結婚するわけじゃあないよ、僕はまだ大学生だし。でも、他の男にアスカを取られたくはないし、約束だけでもしておきたいから……まあ、それもアスカに断られたら全てがおしまいで僕はただのピエロになっちゃうけど」
「それは心配してないけどな、ワシは。うん、まあ確かに約束だけなら、早過ぎると言う事もないんかなあ。……それだけ、バカップルやっとったら」
「う……じゃ、じゃあ、そういうわけで! 僕はもう行くね。おやすみ、トウジ」
「お、おう。気いつけて帰りや。と、そう言うたら、結局惣流は捜さへんのか?」
「うん、実は、ヒカリさんのところにいなかったら、後は僕には捜しようがないんだ。だから、先に指輪を買ってから、また捜そうかと思ってる。ひょっとしたら、もう家に帰っているかもしれないしね」
「ああ、そうやなあ。…………」
「どこ見てるの?」
「ん? いや、なんでもない。なーんもない。うん。そうやな。家に帰ってる可能性もあるわな」
「うん、だから、そうしようと思って。と、ああこんな時間だ、僕はもう行くよ。また今度ね、トウジ。ヒカリさんにもよろしく。謝っといてね、せっかく用意してくれたのに」
「気にすな気にすな。お前の分までワシが食うたるから。……ほな、また。なんのお構いもせんですまんかったな」
「こっちこそ気にしないで。トウジのおかげで告白する決心がついたんだから」
「それこそ、気にするなやで。と、言い合いしとんのもアホみたいやけど。何にしろ、告白するて決めたのはセンセや。ワシはただ、ほんの少し後押ししただけでな」
「……ありがとう。じゃあ、またね」
「ああ、またな。センセ」
ワシの言葉が終わるか終わらんかといううちに、気ぜわしくシンジは出て行った。
ふむ、行ってしまいよったか。まあ、あのどん暗い顔が、いちおうでも笑顔になったんやから、良しとせなあかんか。
――さて、台所のようすでも、確認しよか。お嬢様がたのご機嫌はどないかな、っと。
「はい、お疲れ……と、ほいっ」
「……何やっとんねん」
「ははは……」
「ごめんね、あなた」
「ごめんね、やあらへん。うるそうてかなわんわ。こっちもひやひやしたで。あんなあ自分ら、いくらセンセがボンクラでもそない真横で騒いどったら終いには気付きおんで、普通。何のために隠れとってんな」
「な、何よ鈴原、えっらそうに。そんな騒いじゃいないわよ!」
「……けっこううるさかったわよ。ごめんなさいね、あなた」
「まあ、済んだことやから、ええけどな。おう、それより、良かったやんけ、惣流。シンジがプロポーズするんやて。て、聞いとったわな、思いっきり」
「ふ、ふん。ま、まあね。私の魅力をもってすれば、シンジの一人や二人、イチコロよ。まったく、今頃求婚なんて、遅すぎるくらいだわ」
「あんなあ……ほな訊くけどな、センセが来るまでさんざん愚痴を言い倒しとったんは誰や、ほんでおまけにヒカリと二人してシンジを何とかして告白させろて、ワシを脅したんは誰や。……まったく、ほんま、ワシはこういう色恋の話は苦手なんやで」
「えーと、まあ、悪かったわね。ふん」
「アスカ! ……もう。本当に苦労様、お父さん。でも、おかげで、碇君もプロポーズしてくれるし、アスカ、良かったね」
「う、うん。ヒカリ。それと、鈴原。…………あ、ありがとう」
「聞こえんなあ」
「あ! り! が! と! う!」
「おう、よう聞こえたで。惣流が礼を言うなんて、明日は槍でも降るのかのう」
「ぬわんですってぇ!」
「おお、怖。センセも良うこのじゃじゃ馬にプロポーズする気になったもんや」
「ふん、何とでも言えばいいわ。今の私は無敵のスーパーアスカ様よ。鈴原なんてちょちょいのちょいよ」
「いや、前から、ワシが勝てた試しはないし、戦う気も起きへんけども。……にしても、センセがプロポーズするとなったら無敵ときたか。ほんま現金なもんやで」
「ふふん、いいわ。今の私は機嫌がいいから、大宇宙より広い心で鈴原の暴言を聞き流してあげるわ。ありがたく思うのね」
「やれやれ、惣流にはかなわんわ。ボンクラのセンセとドあつかましい惣流で、お似合いのカップルやで、まったく、勝手にやっとってくれ。……そう言うたら? なんやったっけ。自分ら人前で、キッス、するのんも平気らしいしな。ほんま、他人の目なんか関係なしやな」
「あ、あ、あれは! 挨拶だからとか言わないと、アイツからは絶対キスしてこないから仕方なく……」
「はいはい、ごちそうさま。あ、それより、碇君は指輪を買うにしてもアスカの指のサイズは知ってるの? 大丈夫かしら?」
「ああ、それなら平気よ。この前から左手の薬指のサイズはそれとなく教えてあるから」
「そ、そう……」
「なんや、準備万端って感じやなあ。さしずめセンセはお釈迦様の手のひらの中で、飛んでる孫悟空やな」
「まあね。シンジごときが私に逆らおうと思う方が土台無理があんのよ。私の傍でおとなしくしてればいいのよ、シンジは」
「やれやれや。そない言うんやったら、お釈迦様がうまい事言わはって、センセに告白させはったらよろしかったんちゃいますのん?」
「だって、アイツったら、私のアプローチに気付かないし。おまけに、敵がやたらと多くて」
「だから、碇君と同じ大学にいけば良かったのに」
「ほんと、ヒカリの言う通りにしとけばよかったわ。おまけに今じゃあ大学だけじゃなくなってきてるの」
「へ、なんでや?」
「この前、シンジを私の用事でネルフに来させたら、もう大変」
「へ」
「どうして?」
「シンジを知らない若い女子職員がもう目の色変えて、あの人は誰ですかって、大騒ぎ」
「ふーん」
「へえ……」
「そこへ、マヤが碇司令の息子さんだなんて、教えるから、もう」
「あらまあ」
「あらー」
「背は高いし、顔はそこそこだし、司令の息子ならお金がないわけじゃあないでしょ?」
「うん」
「そうねぇ」
「もうめったにない好条件の玉の輿なわけ。だからもうほんとに困ったわ。どこにいっても敵だらけ、いくら私がアイツと腕を組んでても気にしないで声をかけてくるんだもの」
「なるほど。せやから、惣流は焦っとったんか」
「なんとか既成事実を作らないと他の女にさらわれちゃうからね。悠長にアイツの告白を待ってられないのよ。この私は……と、じゃあ、私も帰らなきゃ。じゃあね、ヒカリ」
「え、帰っちゃうの? アスカ」
「うん、だって、早く帰らないとシンジが指輪を買って来ちゃうもん」
「何や。何やかんや言うても結局センセが一番大事なんやなあ」
「当ったり前でしょ! これからは私の婚約者なんだもの。そう、だから、浮気は絶対に許されないんだからね、ふっふっふ……」
「あ、アスカさん?」
「えーと。なんや寒気がしとるんですけども、これはなんでしょう?」
「……そうそう、鈴原。そう言えば、さっきの話。マナがシンジと一緒に温泉に入ったというのは、本当なの?」
「……。あー、そ、そのへんはセンセに一度確かめた方がいいんじゃないでしょうか?」
(す、すまん、シンジ。ワシかて命は惜しい。それにワシには大事な家族がいるんや。まだ死なれへん。許せ、シンジ)
「そうね、鈴原の言う通りね。これから結婚する二人に隠し事はいけないもの。シンジに聞いてみよう。ふっふっふ……」
「え、えーと、アスカ! ほら、あのー、早く帰らないと、碇君が指輪を買ってくるんじゃない?」
(碇君、ごめんなさい。今のアスカは危険すぎるわ。鈴原家の平和の為にも早く帰ってもらわないと……ごめんなさい、碇君)
「あら、ほんと。もうこんな時間じゃない。じゃあヒカリ、ごめんね、私もう帰るわ」
「う、ううん。なんのお構いもしなくて、ごめんね。アスカ」
「そんなの、気にしないで。私とヒカリの仲じゃない。じゃあ、またね。あ、それから鈴原、あのー……、もう一度言っとくわ。ありがとうね。あの鈍感シンジの背中を後押ししてくれて」
「ふん、それこそ気にするな言うもんや。まあ、運の尽き言うたら、お前らと中学の時に出会ったのが運の尽きっちゅうことやろ。いつまで経っても、こんだけごたごたに巻き込まれるのも、まあ……なんや、『運命』やったんやろうなあ。ひょっとしたら遺伝子にでも刷り込まれてるのかしれへんで」
「へ、運命? 遺伝子? 鈴原にしてはずいぶんと高尚な言葉を使うじゃない。明日は槍でも降るのかしらね?」
「あんなあ、惣流。お前はワシをなんや思とんねん。その程度ワシかて知っとるわい」
「ふふ、アスカ、実はね、この人ったら相田君に古いアニメを借りて見てるのよ。だからね」
「ああ、アニメで使ってるんだ。何だ、それでか。でも、鈴原。付け焼刃で知ってる言葉を使うと後で恥かくわよ。覚えときなさい」
「ふ、ふん。うるさいわい。さっさと家に帰ったらどうなんや。はよせんと愛するシンジ様の方が、先に家に帰ってしまうど。行き違いになったらそらもう大変やで。今日中にプロポーズしてもらえなくなってまう。シンジも不安になってまた気後れするわ。ああ大変や大変や」
「あ、それは大変だわ。早く帰らなきゃ。じゃ、またね、ヒカリ」
「え、ええ、またね。アスカ」
バタン、という音を連れて、騒がしい客は今度こそどっちも帰って行きよった。
「……ふう……」
「……ふう……」
「やれやれ、これでどっちも帰った、か。まったく人騒がせな二人やで」
「私も肩凝っちゃった。本当お疲れ様、お父さん。そろそろ晩御飯にしますか?」
「ああ、そうやった。飯がまだやったなあ。ほな、もらおうかな」
「ええ、ちょっと待ってくださいね」
「やれやれ、と。まあこれでしばらくは惣流もおとなしいやろ。家も静かになるかな」
「お父さんたら、もう。まあ、アスカの愚痴も少しは少なくなるでしょうけどね」
「遊びに来るのはええんやが、喧嘩のとばっちりは堪忍やからなあ」
「本当、もう少しアスカが素直になってくれたらこんなにも揉めなかったのに」
「まあ、素直な惣流や、優柔不断やないセンセなんか、想像つかへんがなあ」
「そうね、ほんと、思いつかないわね」
「じゃあ、飯を食べたら風呂に入って早よ寝ることにするかな」
「そうね。今日は本当ご苦労様でした」
「どういたしまして、と。ま、連れのためやしな、これくらい、たいしたこととちゃうわ」
――なんて事があった二ヶ月ほど後、ワシはケンスケに電話をした。
「もしもし、ケンスケか?ワシやワシ。はあ、んなもん、ワシゆうたらこの鈴原トウジしかおらんやろ?なにがどちら様や」
「――?」
「はあ? ワシのどこが詐欺や、ええかげん目エ覚ませや。おお、それより、センセの結婚の話や、もう葉書はついたやろ?」
「――」
「ああ、やっとや。中学の頃から考えたらもう六年やからな。ワシのほうが先に結婚するとは思わへんかったけど。まあーここまで来る前にワシの家でなんやかやと散々騒きよってなあ。惣流は愚痴だらけやし、センセははっきりせえへんし」
「――?」
「ああ、ところがや。いざ、センセがプロポーズしたら、展開の早い早いこと。普通はこんなに早く結婚式はできへんもんや」
「――」
「いや、そんなにワシもセンセも早くはないやろ? 大体ケンスケやで? ワシに早く告白せんと人に取られる言うたんは」
「――?」
「そうやで。ケンスケにはっぱをかけられてワシらはうまくいったんや。だからできちゃった結婚まで……」
「――!」
「いや、そう言いてもなあ。そうそう、実はセンセにあの時のケンスケのお言葉を聞かせてやったら、えらい関心してなあ」
「――」
「そうや、センセの時もケンスケのおかげで、うまくいったんや。堂々と式にでたったらええんや。それに考えてもみい。出なんだら出なんだで、『なぜ、私たちを祝福しないのか』言うて、惣流に半殺しにされかねんで? 何か、それとも、惣流の事、まだあきらめてなかったんか?」
「――……」
「……ふーん、ま、ほんまにあきらめてたら式には出れるやろ? どうせやったら、センセに霧島とかを紹介してもらったらどないや?ええ娘らしいで?」
「――?」
「いやまあ、確かに結婚したら多少、不自由にはなるがなあ。中古車買うのに半年説得したりとか」
「――」
「でもなあ、一人でいてもつまらんやろ? 自分もそろそろ将来の事をなあ」
「――」
「おお、まあ、その辺はまた今度な。ああ、また次のディスク、貸してもらうわ。うん、じゃあまたな」
……ほんま、世の中言うのはうまく行かんもんや。ワシもセンセもケンスケの言葉でうまく行ったのに、そのケンスケ本人が未だに彼女なしとは、これいかに。
それもまた「運命」なんかなあ。