- The rest stories of "Project Eva" #01 -

"いつかの少年"

1

飲んだ次の日の朝はいつも最悪の気分だ。酒に強いわけではないのに飲むのは好きなのは、飲んでいる間は他人と心が繋がっているような感じがするからだろうか? そういえば、友人といるときは飲もうという気分になっても、独りで飲む気にはどうしてもなれない。鏡にはそんな他人志向の男が一人、俯いた形で映っている。彼は俯いたまま洗面台のコックを上げて湯を出し、軽く口をゆすいだ。

彼――碇シンジの飲み会明けの朝はこうして始まった。

何故独りで飲む気にならないのだろう。碇は再び考える。今は昔、彼という人間が一度決定的に失われてしまったあの一年間、彼には名目上の保護者だった女性がいた。彼女などは、独りでも他人とでも、常に飲んでいた。

今なら分かる気がする。あれはきっと、飲まなければやっていられなかったのだ。そのことを、あの時は分からなかった。だが、あの頃の自分の歳よりあの頃の彼女の歳の方により近くなった今なら、少しは分かる。

「……それを考えりゃ、まだ、マシか……うわ、ひどい顔」

鏡を見ながら独り呟く。髭の伸びた顔、あの頃は母親の面影をごく強く残していたにも顔も(それでも、彼女のお陰で作りとしてはかなりマシではある)父親の面影が現れて久しい。頬と顎を撫ぜると、二週間ほど放っておけばきっと顔周りを一周するであろう無精髭が少し生えてきている。熱い湯を出し、歯ブラシ立てに立ててある剃刀を出す。顔を洗顔料で洗うついでに、髭を剃っていく。右の耳の傍から下へ、顎骨から、首にかけて。それが終わったら、逆を。それから、残せば泥棒みたいになって気持ちが悪い口の上と頬の髭を、特に念入りに剃った。

もう一度鏡を見た。そこにあるのは、洗顔料と熱湯、そして剃刀の洗礼を受けて、先ほどよりはこざっぱりとしたいつかの少年の顔。髭を剃れば、その顔はやはり中性的な印象を与えるそれだった。

「……『冴えないわね』」

いつかの少年は、いつかの少女に言われた言葉を思い出す。あの頃、まるですれ違うように出会った女の子は、今では遠く彼岸に佇んでいる。

ふと、手の中にある剃刀に目が行く。数秒その刃を見つめた後、いつものようにゆっくりと、手の中の刃を歯ブラシ立てに戻した。


彼の朝食は基本的に洋食である。それは洋食と言って差し支えない。食パンに、スクランブルエッグとベーコン、軽いサラダ、インスタントのスープ、紅茶。余裕があればサラダとスープを、少し工夫する。まるでどこかの喫茶店のモーニングセットのようだが、それが自分のほかに誰に食べさせるわけでもないのに彼がただ一人で続けている毎日の朝食だった。抜かしたことはほとんど無い。

昔から彼は料理をしていた。小さいときは、一人で食べるために、そしてあの頃は、二人の同居人にも食べさせるために。彼が食事を一手に作っていたあの頃、自分では「させられている」そう思っていた。しかし今考えると、あれは自分も救われていた面があったのかも知れない。そう思う。もし何もしていなかったら、もっと、ずっと早く自分は潰れていたかもしれない。

ふむ、と彼は考え込む。どうにも今日は昔のことを思い出す。もうかれこれ九年も前の話だ。自分は中学生で、親に捨てられた根暗な子供で、何故だか戦闘機械のパイロットだった。不可思議で、どこまでも非日常だったけれど、やっぱりどこか日常と溶け合っていたあの戦闘の日々。人知れず(そう、世界の大部分の人は世界が滅亡の危機に瀕していたということを今もって知らない)戦い、傷つき、噛みつき合い、いつかは憎しみ合った。

しかし、彼らを憎しみ、愛し続けることはできない。あの頃一緒にいた人々の多くは、今はもう向こう側の人間だ。彼女と同じように。自分と残された数人の中にその残滓だけを残したままで、彼らはまるで元からそうであるかのように消え去ってしまった。

自分の前からいなくなってしまった人のことを憎み続けるのはひどく辛い。いなくなってしまった人は、自分を憎み続けてはくれない。自分の想像の中には、自分の望んだ彼らしか出てきてはくれない。記憶の中の彼らはあの頃のまま、そして自分は歳を取り続けて、その隙間を誤魔化すみたいに、どちらも気の抜けた炭酸水みたいに優しくなってしまう。

怒りや憎しみや愛情のエネルギーは、こうした隙間を埋めるために消費されていく運命にある。いつしか、そう考えるようになった。エネルギーは系全体で保存されるのだ。どこかでエネルギーが使われれば、使った分のエネルギーはきちんと自分のどこかから失われていく。残念ながら彼には永久機関は無い。永遠の時をすごすためのスーパーソレノイド機関はないのだ。だから、時間の流れが隙間を開く分だけ馬鹿正直に怒りも憎しみも愛情も失われていく。

それなら――彼らとあれほど憎しみ合えたのは幸運なのかもしれない。たとえそれが先延ばしにしか過ぎなくても。いつか、憎しみや愛情や思慕のエネルギーが全て失われたとき、まるで、虚数空間に飲み込まれるように彼らは本当の彼方にその姿を消してしまうのだろう。誰にも観測できない事象の地平の向こう側。

連れて行ってくれればよかったのに、と今でも少し思う。でももう遅い。もう死ぬには遅すぎる。もうおれは、大人になってしまった。あのまま終わらない夏の中で永遠に十四歳を続けるでもなく、例えば十八歳の手前あたりをぐるぐる旋回するでも無く、きっちり十五歳になり、二十歳になり、そして24歳になった。どこか不自然で、でもやはりここにしか彼がいる場所は無い。本当は、そんなものどこにもないのかも知れない。


そこまで考えて、ハッと時計を見た。八時四十五分。九時の出勤にはギリギリで間に合う。そそくさと服に身を通し、靴を履く。数年前からちっとも代わり映えしない誰も居ない部屋を振り返って、一言だけ、呟く。

「行ってきます」

これも、彼の大切なルールだ。

2

「おはようございます、部長」

「おはよ、シンジ君」

仕事部屋に入って声を掛ける。部屋の中には一人だけ、やや小柄な女性がコンソールの方を向き作業を行なっていた。現在、碇はこの彼女の助手である。彼女はこちらを一瞥もせずに作業を続けていた。ふと、その姿が昨日仕事を終えた時に見た姿と重なり、碇は恐る恐る声を掛けた。

「……もしかして、昨日からずっとですか?」

突然椅子が百八十度回転し、作業をしていた女性がこちらを向いた。やや童顔で健康的な表情は見ようによっては二十代にも見えるが、実際は三十代の中盤に差し掛かっている。あの頃はショートだった髪は、ここ一年ほどは、ロングの髪を後ろでゆるく束ねていた。不精なだけだが感じは悪くない。明るいが少し神経質そうだった表情は、今では温かい表情に変わっている。しかし今日はあの頃が戻ってきたような表情である。生物進化研究所研究部長、伊吹マヤ。彼女はその顔にやや不満げな表情を浮かべて述べた。

「そんなわけないじゃないの。部下が合コン行ってるときに、何が悲しくて一人徹夜で残業しなきゃならないの?」

そう、そんなことをする程に忙しいわけではない。少なくとも、あの頃、三、四日当たり前で作業を行なっていた日々に比べれば。ただ、今日は。

「ただ、朝早起きして、先に作業を始めていただけだよ。オバサンですから」

確かに自分は歳を取った、と伊吹は思う。ちょうど九年がたった。自分は三十歳の大台を数年前に過ぎ、今ではあの頃の先輩方を追い抜いてしまっている。『まだ二十九よ!』その言葉も、あの頃はいまいち実感が湧かなかったが、今なら、分かる。分かりすぎるほどに。

自分は何をしているのだろう。そう思うときが伊吹には今でもある。何度も答えを出したはずの疑問は、ちょうどこういう節目節目に性懲りもなくよみがえってくる。「何故、あれだけのことがあって、まだこの仕事をやっているのか」仕事を始めた年から数えて、ちょうど十年。十年……かなりの年月だ。その間に、自分はあの頃敬愛していた女性の歳を追い抜き、目の前にいるあのときの少年は、あの頃の自分と同じ歳になった。

伊吹は、改めて目の前にいる青年の顔をじっと見つめた。十年の年月が確かにそこに現れていた。「女の子」と言ったほうが信じられたその顔ははっきりと男の顔になり、女の子にも負けていた身長は、今では平均よりやや高いくらいだ。ただその表情だけに、昔の面影を残している。やや憂いのある表情。その何%かは自分のせいだと思うと、彼女は今でも少し申しわけなくなる。それが目の前の彼にとってはただ迷惑なだけだとしても。単純に憎しむには、相手は悪者のほうがいいに決まっているのだ。だから、この感情は、ただの自己満足である。

そして、彼に現れている十年の歳月を見ると、同時に自分に訪れた歳月も見えてくる。十年という時間は、伊吹の潔癖症をやや薄くし、その顔に確かに皺を刻み、愛する夫と息子と娘をもたらした。あの頃の自分が今の自分を見たら「不潔」と言うかも知れない、などと思い、少し可笑しくなる。あの頃、ただ汚れないように生きていくことがキレイに生きていくことだと思っていた。しかし今ではそんな自分も、あの頃の上司であり先輩でもあった人さえ、若いわね、と思える。考えてみると時間が止まったままの彼女はすでに、あの頃の年齢差と同じくらい自分にとって年下になっているのだ。あのころ自分を見ていた彼女の目で、今伊吹は彼女を見ている。だから、今なら、言ってあげられる。「それが、生きていくということよ」と。そう、厭うことなんかない。後ろめたくなんかない。汚くても、きれいでも、自分にできることをしていく。それが、生きていくということなのだ。

そう考えると、歳を取るのも悪くない。仕事はともかくとして、今、自分は幸せなんだろうな、と伊吹は素直に思う。そしてこんなとき、幸せを感じると同時に、いいのだろうか、という不安が襲う。自分は幸せになる資格など持っていないのではないか? 自分などと結婚した夫は、自分などの子として生まれた子たちは、私の報いを被って幸せになれないのではないだろうか? そう考えると、怖ろしくなる。

だから、きっとこの仕事を続けているのは、贖罪で、おとり作戦なのだ。どうか報いは私だけに向きますように、と。いつもと同じ答えを出す。そして目の前で「いや、そんなことは……」などとぶつぶつ言っている我が部下に、追い討ちをかけてやる。あの頃、あのひとが出来なかった分、子供っぽく。

「シンジ君みたいにねえ、出社時間ギリギリには起きられないのよーだ。旦那も悪ガキたちもいるんだから。いいんだ……もう三十路もとっくに過ぎちゃったし……このままオバちゃんになっていくんだ……」

いつものいじけた声に、冗談と分かっていながらも碇はフォローを入れた。

「そんなことないですよ。まだまだ美人ですよ、部長」

「微妙に嬉しくないー。……ボケツよ、それ」

「……いや、ほんと、すいませんでした。ちょっと考え事してて。すぐ入りますから」

考え事、その言葉が軽く碇を睨んでいた伊吹に軽い衝撃を与える。そうだ、今日はそういう日なのだ。私たちにとっては、忘れることなど出来ない。

伊吹は崩れてしまった表情をごまかすために眉間に手を当て、言った。

「あー、いいわ、私もちょっと休憩入れようと思ってたところだし、その後で。ね?」

どうしたのだろうか、と碇は少し訝しく思った。いつもなら適当に冗談を言い(いつものことだ)、まだ気力の充実している午前中に済ましておく煩雑なデータ処理に入るはずであるのに。何か、あったのだろうか? そういえば、何か違和感を感じる。どこか、小さいことが――そう思ってよく見れば、普段は「ますますオバサンくさくなるじゃない!」などと言ってコンタクトレンズを常用している伊吹が、今日に限って眼鏡を掛けていることに、今さらながら気付いた。鈍い、と自分でも思う。フレーム無し、ツーポイントの眼鏡。それは割りとやわらかいデザインのものを好む彼女の趣味とは少し合わない、硬質なデザインに見えた。

「あ、今日眼鏡ですか? コンタクトは?」

「あー、うん、気分。と、ちょっと泣いたから、昨日」

碇は少しギクッとしたような顔をした。少しの沈黙。

自分で作り出した沈黙に耐え切れず、おそるおそる、と言った表情で碇は尋ねた。

「えっと……あの、旦那さんと……何か?」

「シンジ君、不用意に入り込みすぎ。良くないよー」

「あっ……すいません」

こういうところは、付き合い始めから本当に変わっていない。少し変な入り込み方をするのは彼の悪い癖である。だが、それも仕方ない、と伊吹は思う。そんなに人はすぐに変われるものじゃない。それに、これは彼なりのやさしさでもあるはずだ。彼のこんなところをも含めて愛してくれる女性もきっといるはずだ。いつか映像で見た彼の母親のように。そうであって欲しい、と伊吹は願う。

「よろしい」

碇はほっと胸をなでおろす。気をつけてはいるものの、どうやら気が利かないのはもともとの気質のようで、彼はいつもその性質に悩まされている。先を促すように伊吹のほうを見ると、伊吹は少し微笑んで、言った。

「シンジ君が心配しなくても、旦那様とはラブラブでーす。これは、違うんだ。ほら、今日は、命日だから。だから、眼鏡」

伊吹はそう言うと、素早くキーを叩き、カレンダーを表示させた。カレンダーを見てやっと碇は今日の奇妙な記憶のリフレインと、伊吹の眼鏡の理由について納得した。

今日は、三度目の世界の終わり、人類にとっては二度目のカタストロフィーでもある、サード・インパクトの起こった日だった。

3

サード・インパクト、それは人類が経験した二度目のカタストロフィーであった。しかし、その事実は殆どの人々の知るところではない。

「やはり巨大隕石の落下が原因であるサード・インパクトは、日本、第3新東京市を爆心として十数キロを吹き飛ばした。しかし、奇跡的にも第3新東京市は、当時、研究所の爆発事故などの影響でその周囲十数キロが避難勧告地域に指定されており、人的被害はごく僅かであった」これが、一般に知られているサード・インパクトの全てである。

だが本当は、もちろんそんなことはない。それは「人間を新たなる生物へと進化させる」という狂人たちの計画のために仕組まれた災害であり、当時の第3新東京市に居た多くの人々が死んだ。もっともその殆どは碇が殺したことになる。実際のサード・インパクトでは、新たな死者はほとんど出なかったからだ。

あの後、まるで全ては最初から何もなかったかのように、ただぽっかりとクレーターになった第3新東京市。そこには、あの大災害のとき生きていたほんの数名だけが残されていた。

どうしてそんな風になったのか、今でも碇には分からない。

あの大災害の後、碇はたった二人で赤い海のほとりにいたはずだった。彼と、その同居人だった綺麗な女の子。だが、次に気が付いたときには、芦ノ湖から流れ出した透明な湖水の上に仰向けに浮かんでいたのだった。


「十年ですか、あれから」

「そ、十年一時代。私も歳取るわけよね」

短く会話を交わす。彼の視線の先、軽く自分で肩を叩いている女性、伊吹も、あの時帰ってきた一人だ。あの時、事実を把握していた人間の殆どは消えてしまった。組織の司令職にあった彼の父親も、副指令だった人物も、その他の人々も。残ったのは、虫の息で生き残った下級職員が数名(もちろん、事実は殆ど知らないような人々だ)と、伊吹、日向、青葉の、コントロールルーム最上階層にいて、最後まで辛うじて生き残り状況をモニターしていた人々、そして、彼――碇シンジだけだった。

伊吹は解体後のネルフ――「人工」の二文字が抜けた「生物進化研究所」に若き研究主任として残り、ドイツ支部、アメリカ支部の技術部の責任ある人々と研究を続けていた。エヴァと補完計画に関する技術は、その殆どを本部が握っていたし(エヴァシリーズを作った第三世界の国々は下請けであり、その本質的な技術は知りえなかった)、その他にエヴァに関する技術を辛うじてもっていたのは、弐号機を建造したドイツと、3,4号機を建造したアメリカだけだった。そしてその中でも、それを利用できるほどにしっていた人物はこの研究所に集められるほどでしかなかったのだ。

各国の軍隊及び国連軍などから出向していた人々に多くを負っていた、情報部、作戦部、諜報部の人々は、ほとんどがもとの職場に戻ることで事なきを得た。ネルフ職員は基本的に公務員であり、日本以外の国々では軍事組織との対立は表面化していなかった上に、日本のネルフ本部で生き残った職員は100人にも満たなかったので、出来ないことではなかった。

日向と青葉は、今では国連の他の組織に配属されている。使徒との戦いでのメインオペレータを務めた彼らは、ネルフに悪いイメージを持っていない外国の国連組織においては、ある意味尊敬の対象であった。

そして碇は、彼の同僚であり同居人だった女の子や、同僚だったもう一人の女の子はなれなかった、高校生になった。

かくして、彼らはそれぞれに新たな道を歩き始めた。

「でも、シンジ君がここに来るなんて、驚いたよ」

「おれも驚いてますよ」

おれ、なんていう一人称を使い始めたのは、いつのことだろう、碇は高校生になり、大学生になり、院生になり、修士課程を終えると早々に生物進化研究所に入所した。それは予め決まっていたことのようにスムーズだった。もしかすると既に、それ以外の道は彼の前から予め失われてしまっていたのかも知れない。

時とともに傷は少しずつ、新しい肉に覆い隠されていった。しかし、その傷跡は9年を経てなおも残り続けた。入所の一因は、恐らくそのせいであろう、と碇は分析していた。

「でも、なんだか、ここに来なきゃいけない気がして。それに何か、悪くないかな、っていう気もしたんです。やっぱり、向いてたのかも知れないですね」

その言葉通り、碇はこの仕事には基本的に向いている人材だと言わなければならなかった。彼がここに入所した理由にはそれも加えなければならない。純粋に彼は研究者として、この研究所の研究に興味を持ってもいたのだ。修士を終えた程度の者が入れるような職場では本来はないにも拘らず、彼はこの数年でめきめきと力を伸ばしてきていた。彼は研究者としてのある種の直感を持ち、忍耐力もあった。知力も申し分ない。伊吹などはたまに「私より向いてるかもね。天才研究者の息子、ここにありって感じ」と、碇のいないところで他の職員に漏らしていた。

「そう思うなー。今シンジ君あの時の私と同い年じゃない? 絶対シンジ君の方が仕事できるよ」

「うーん……でもリツコさんとか、母さんとか、惣流博士とか、何か遠いですよね。息子の自分が言うのもなんですけど、ちょっと凄すぎ、って感じで」

確かに。伊吹はそう思う。彼女らの研究は今もって、研究の柱として高くそびえている。伝統的にネルフの研究者は女性が多いが、碇、惣流、赤木親娘の四名は別格であった。

「確かにね。あの時の先輩より人生ケイケンは豊富になったけど、技術的にはうーんって感じ。でもシンジ君なら、追い抜くかもねぇ、どっちも」言いながら伊吹はころころと笑った。

「買いかぶりすぎですよ」

慌てて手を振る碇に、伊吹はますます調子に乗って答えた。

「そんなことないよ? 私が同い年だったら惚れちゃうかもね。シンジ君割とかっこいいし。そういえば彼女いないの?」

「セクハラですよ、それ。……ああ、あの時は汚れを知らない女のひとって感じだったのに」

「それもセクハラね。いいの、あの時の私、扱いづらい潔癖症でバージンの小娘だったんだから。まあ、他の人がアレ過ぎたのかも知れないけど」

「そんな明け透けな。うーん……でも、あの時同い年だったら、付き合うかも……」

「今からでもどう?」

「旦那さんが聞いたら怒りますよ?」

「冗談よ、冗談。シンジ君は弟みたいなものだから、私には。そんなのは思わないよ。もう10年知り合い続けてるんだし」

「10年か……意外と、すぐ経っちゃうもんですね。……『ねえ、マヤさん?』」

マヤさん、彼にそう呼ばれるのは何年か振りだ。そう思って、伊吹はあの頃の、まだ女の子の影を残していた口調を模して答えた。

「『何? シンジ君?』」

碇は、いつもより少し高めの声で、なお問いかけた。

「『僕、変われましたか?』」

「『ちょっとね。でも、素敵になったよ。私は?』」

「『昔より、ずっと綺麗です。』……なんて」

「『ありがと、シンジ君。』……なんてね」

彼岸へと消えてしまったあの頃の親しかった人々に似て、彼らの心もまだほんの少しはあの頃に根を下ろしていた。

少し微笑んで、伊吹は手に持った紅茶のカップを、コンソール横の台に置いた。碇の肩をぽん、と叩き、自分もコンソールに腰掛ける。

「さ、仕事しよっか。午前中に#1179から、#1400ちょいくらいまで終わらせるよ」

「はーい」

そして、二人の研究者は、データの海へと潜る。

4

ふと、ウィンドウ下部の時計を見ると、既に五時を回っている。

伊吹はぐっと伸びをして、首を左右に倒した。そのたびに、ごりごりっ、という音が響く。その音を合図にして、碇も手を止め、伊吹の方を見た。

「よし、今日はここまで。お疲れさまでした」

そういうと、伊吹はぺこりと頭を下げる。これも、いつものことだ。碇も同じように頭を下げ、立ち上がった。

「今日はちょっと、キツかったですね」

「確かにネ。でも、ここを過ぎるとちょっと楽しくなるから」

「ですね」

そう言うと、碇はメインのコンピュータに、夜の間に行なわせておくタスクを入力して、自分のコンソールの電源を落とした。それを見届けると、伊吹は碇に声を掛けた。

「シンジ君? 今日、これから暇?」

碇はその言葉に、少し小首を傾げながら振り向いた。その視線の先には、あくまでも柔らかい表情の伊吹がいる。

「暇と言えば、暇……ですかね。でも、帰んなくて大丈夫なんですか?」

碇が訊いているのは伊吹の子供たちのことである。小学校低学年の子供たちはさすがに5時には家に帰る時間のはずだ。伊吹の家は親と同居しているが、それでも帰ってあげなければまずいのではなかろうか、と思った。伊吹はその口調から、目の前の部下が言わんとすることを察して、答えた。

「ああ、今日はいいの。旦那に頼んであるから。今頃、ぺったらぺったらハンバーグでも作ってるはず。……で? 私のお誘いを断るの?」

ハンバーグを作る手の動きを止めると、少し笑んで伊吹は訊いた。碇は嘆息して肩をすくめた。

「そんなそんな。もちろんご一緒させていただきます。『マヤさん』?」

「よろしい。『シンちゃん』」

「で、どこ行くんですか?」

「お墓参り。ちょっと遅いけど。この時期なら私たちが行くくらいにはまだ明るいわ」


旧第3新東京市跡地、第3共同墓地。ここに、サード・インパクト前後に無くなったネルフ職員と、戦略自衛隊隊員の多くが埋葬されている。かつては殺し殺された人々も、骸になってしまえば敵味方の区別など存在しない。それに、ここには死体など無い。ネルフ職員は火炎によってその多くが完全に焼けてしまっていたし、ネルフの外部で戦闘に巻き込まれた戦自職員のほぼ全ては、碇がその力を持って蒸発させてしまったからだ。だからここには、ただ彼らの名を刻んだ墓標がただただ等間隔に並んでいるだけだった。

「いつ見ても、殺風景ですね」

碇は、半歩前を歩く伊吹にそう声を掛けた。

かつては、ここに来ると自分の犯した罪に押しつぶされるような気がした。だが今では、仕方ない、と割り切れるようになった。それはあるいは開き直っただけなのかも知れない。しかし、確かに彼はあの時ただの中学生であり、ああするしか他に無かった。放り込まれた状況で、自分に出来ることをやろうとした。そう思える。何もしない方がいい。あの頃はそう思っていた。自分が何かをすれば、必ず良くない結果が生まれる。それなら何もしない方がいい。それもひとつの選択だ。間違っていたかもしれないが、それは初めて自分の意思で決めたことだった。そして、自分を最後の力でエヴァに乗せたひとの思い――例え先によい結果が見えなくても、出来ることをしなければならない、それも、やはりひとつのやり方だ。その思いがせめぎあい、彼はエヴァに乗った。誰もそれを責められない。

「そうね。……寒いわ。寒い」

そう言って、伊吹は自分で自分の肩を抱く。

寒くなどない。うだるような暑さでは無くとも、寒い、というような気温ではなかった。しかし、この土地はまるで冬を保存しておく空間のように寒さを常備していた。荒涼とした風景はこの世界で碇の記憶の中にしかない、あの「終わってしまった世界」を思い出させた。赤い海、赤い空、まるで生命の恩恵を根こそぎ奪い去られたかのような世界。彼らは今、消えてしまった人々に一番近いところにいた。

「……ん……」

碇があいまいに相槌を打つ。既に太陽は山腹に沈みかけ、彼らの影は長く尾を引いている。手に持つ花束の影が、遠くへ伸び。彼らは足を止めずただただ歩く。歩き続けて、墓地のちょうど真ん中で立ち止まり、その一群の墓碑を眺める。かつて彼らの同僚であったり、上司であったり、部下であったりした親しい人たち。今ではここにしか残っていない彼らの記録が、橙色の満ちた世界に並んでいた。

一言も発さず、ただ墓碑たちが橙色に落とす黒く濃い影が伸び、赤い世界を過ぎ、その影が深紫の夕闇に溶け込んで見えなくなるまで、彼らはただじっと墓碑を眺め続けた。


あたりがすっかり暗闇に沈んだ後も、しばらく彼らは動かなかった。

シュッ。伊吹からそんな音がして碇がそちらを見ると、赤い光が点っていた。それを見て、碇が実に数時間ぶりに言葉を発した。

「煙草、吸うんですか?」

「……ん……今日だけね」

伊吹はさっき碇がそうしたようにあいまいな調子で答えた。そして、碇のほうを見て、言った。

「先輩が吸ってたヤツなの。シンジ君も吸う?」

碇は少し逡巡して、手に持っていた缶を示した。

「おれはコレにします。置いて帰るわけにもいかないから」

「うん」

そうして、片方は煙草を、片方はビールを傾け、暗闇の中さらに数分、暗闇の中にあるはずの墓碑たちを眺めた。煙草の火に照らされて、伊吹の顔に一筋涙が辿ったような気がしたが、よく見えなかった。

しばらくして、二本目の煙草の火が消えた。すると、伊吹は碇の持っていたビールを奪い、まだ缶の中に半分ほど残っていたそれを一気に煽った。

「……さ、帰ろう。……すっかり遅くなっちゃったな、真っ暗」

「……ええ」

そして、彼らは来た道を帰りだした。死者にかける言葉はもはやなく、生ける者たちはただその記憶の中の死者に語りかけるしかない。彼らを忘れないように。そして、自分があの頃から忘れ去られないように。

数歩歩いて、碇は半歩後ろを歩く伊吹に言った。

「ねえ、『マヤさん』」

酔っていたから? そうかも知れない。でも、それだけではない。

「何、『シンジ君?』」

「『僕、ここにいて、いいんですか?』」

かつて、彼がずっと考え続けてきた疑問。考え続けることを選んだ疑問。今もって、答えの出ない疑問。それに、今日なら答えを出せるような気がした。

暗闇の中、感じる、真摯な視線。伊吹は柔らかい表情で答えた。

「さあね。自分で決めればいいのよ。少なくとも、私は寂しいよ。シンジ君がいなかったら」

伊吹は微笑む。この質問に答えられるのは、私だけ。十年歳を取った、私だけね。

それは彼女にだけ許された権利。そして逃げられぬ義務だった。かつて彼を追い込んでしまった人々の一人である彼女の。

「……ありがとう……ございます」

どういたしまして。そう言う代わりに、伊吹はいまだ答えを出せない碇の肩を抱いてやった。あの頃よりずっと大きくなった肩。でも、その中にある心は昔とそれほど変わらない。臆病で卑怯で、弱く、でも優しい魂。

「ねえマヤさん、怖いんです。いつか全部忘れてしまうような気がして。自分のしたことも、して貰ったことも、いつか、全部忘れてしまう……!」

「……大丈夫、忘れないよ。ずっと、覚えていられる。ずっと、覚えていてくれるわ。また、来よう?」

伊吹は嘘を吐いた。しかし、その嘘を嘘と分かってなお信じるから、人間は死者にこうして逢いに来るのだ、と彼女は思う。何時かは薄れてしまう記憶、でもその記憶は確かに存在していたということだけは忘れないために。

そして――彼がまだ気付かない可能性、薄れても消え得ない記憶の所在を忘れて、見えない思いにただ戸惑って潰されることのないように。

十年の年月は、伊吹を、嘘を吐ける人間にしていた。言葉は嘘だが、その中にある気持ちは、嘘ではない。

碇が何かを考えて黙り込んでいる間中、いつか彼がこの世界のほんとうの残酷さに気付いたときにも耐えることができますように、と伊吹は祈った。

「……はい」

「行こっか」

「……はい」

「よし、今日はシンジ君、奢ってね」

「……はい」

「……。お鮨ね、回ってないヤツ……」

「……はい。……ええっ!?」

「ぼーっとしてるからよーだ。さ、行くよ! 早くしないと帰りのバスが終わっちゃう」

「あ! はい!」

そうして、暗い道にかさかさと二人分、急ぎ足の靴音が響いた。それはもう何も失うことも得ることもない墓標の間で風が鳴らす音のように静かに響き続け、いつしか浸み込むようにすっかり消え失せた。

- The rest stories of "Project Eva" #01 - "Can I be here ?" end.
first update: 20040907
last update: 20060102

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作者:north
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