- The rest stories of "Project Eva" #02 -

"あの日、残された少女"

1

機上の人となって久しぶりに祖国を出たとき、改めて時の流れを実感した。そしてその実感は、目的地、日本に近づくにつれてより確かになっていった。

しかし――だからこそ、否応なしに気づかされる。自分はもう、あの場所からあまりにも隔たった所にまでやって来てしまった。

ふと手が耳元に触れた。彼女の人差し指の先は、耳朶で抑えめに自己主張するピアスに触れていた。あの頃、背伸びして挑戦しても子供の意地としてしか受け取られなかったアクセサリーを、今の自分はそれほど意識もせず、自然に身に着けている。

既に彼女はあの頃憧れながらもどこかで忌んでいた「大人」というものになって久しい。なってみれば――自分に訪れた変化を受け入れてしまえば、大人になるということは実はそれほど悪くは無かったんだな、と今さらながら気付く。そして逆に、どうしてこんなことに、あんなに憧れ、そして嫌悪していたんだろう、と考えて、苦笑する。

大人に憧れている内は子供、子供を懐かしむようになるのが大人、とはよく言ったものである。

ともあれ、彼女は年を経た。時間がそうしろと言うがまま。時間は全てのものに対して――この地球に流れる時間の流れの中にいる限り――平等に全てを過去に運び去る。それは否応無く、全てを飲み込んでしまう流れだ。

「それでも、時間は経ってゆく、か」

ぽつりと呟いた。使い古された言葉。しかしそれは変えようの無い真実でもある。もしかすると、この何もかも不確かな世界の中で、唯一信じるに値する真実なのかも知れない、と彼女は思う。抗うことなどできない。早めることもできない。時間は、ただ流れる。

気付くのが少し、遅かったのかもしれないとも思う。そう思ってから、彼女はまた、何度も繰り返したことのある思考を反復した。

そうだ忘れよう。なぜなら――

「過ぎたものは、取り戻せない」

考えた言葉の続きを呟く。とめどなくあふれる記憶、記憶の中にしかない、自分が失くし、亡くしたものたち。今まで思い出しも、思い出そうともしなかったこと。思い出すには辛すぎたこと。

もう取り返しのつかないこと。

彼女は実に多くのものを失った。プライド、自分を保護してくれるはずの親、精神の安定、友人、などなど。実に多くの自分にとって得がたく大切だったものたちが、望む望まないに関わらずその手から零れ落ち、失われた。その中に本当のものなど何ひとつなかったのかも知れない、と自嘲を込めて思うときもある。それでも何かを失うことは耐え難い痛みだった。

全てを失った彼女は、そこから人生を再開した。それはまるで全てのことにリセットをかけたように穏やかな日々。穏やかで、しかしそれまで大切にしていたものは何もない日々。泣きそうになるときもあった。現に最初の一年はずっと俯いて過ごしていた。

しかし、と今となっては思う。あらかじめ全てが失われていたのに、何かがあると思い込んでいたあの頃の自分と、絶望を味わったが、本当のことを知った今の自分との間に、それほどの違いはない。

今は「自分の手には何も無かったということ」を彼女は知っている。昔は、知らなかった。ただそれだけのことだ。

今も昔も、手の中に何もないことは変わりはしないのだ。

じっと、手を見る。蚯蚓腫れのような紅く引きつった傷痕が、まるで腕を二つに割るように、手のひらから袖口に至るまで続いている。

人差し指で傷痕をなぞれば、あの日の痛みの記憶が、ぼんやりと頭の中に浮かんできた。だが、それだけだった。

それがあの何も無い日々が彼女にしてくれたことだった。それは彼女を癒してくれはしなかったが、ある程度の慰めにはなった。例え完全に忘れることができないと思えることでも、その記憶が薄れていくなら残りは忘れた振りをしてしまえばいいのだ。辛いことは思い出さなければいい。この腕の消えない傷痕のことを、普段は忘れた振りをして生きているように。

そうして生きればよかった。

あの頃の思い出を、否応無しに失った他の全てのことと同じように、忘れた振りをして、見えないところへ埋め立てるという道も彼女には残されていたのだ。上手く忘れた振りをすることと、忘れることの間にいったいどれほどの違いがあるというのか?

しかし、国外への渡航がやっと許されると、彼女はさんざん逡巡し、それでも日本へ発った。

何故だろう。それをずっと考えながら、ここまで来た。かつて失ったものは、もはや何も取り戻せないというのに、今さら日本へ行って、何にある?

しかしそんな疑問は、答えが出ないまま窓の外の風景に吸い込まれていく。超高軌道から見える、黄昏が終わりかけている青紫の宙に映る星、月……そして、うっすらと姿を見せる日本。

日本。

窓の外に小さく日本列島が見える。超高軌道を往く軌道航空機の頑丈な窓からは、いびつに抉られたその姿が見えた。

「『日本は始めてですか?』」

窓の外を眺めていると、日本人であろうと思われるフライトアテンダントの男性が、流暢な独語で彼女に話しかけた。

「いえ、昔住んでいたことがあるんです」

彼女は、こちらは日本語でそう返した。とても流暢な、日本語を母語にしているとしか思えない発音だった。フライトアテンダントは少し会釈し、軽く詫びの言葉を述べた。彼女はさして気にせずに答えた。

「いいの。それより、日本は今、どうなっていますか?……その、東京とか」

ぶしつけな質問に面食らった彼ではあったが、そこはプロ、言葉を選んで説明する。

「東京ですか? サード・インパクトで、第3新東京市は破棄されて、相変わらず第2新東京が首都です。旧第3新東京に住んでいた人は、ほとんどが新潟……とか、岐阜とかに移り住んでいます。あの辺は、影響が少なかったですから。……そのくらいでよろしいですか? すいません、私は第2住まいではないので、あんまり詳しいことは分からないんです」

「いえ、それで十分。ありがとう」

「どういたしまして。お飲み物は?」

「いただきます。でも、もう日本が近いから……そうだな、何かジュースを貰える?」

「かしこまりました」

そう言うと、親切なフライトアテンダントはアップル・ジュースを注いでくれた。パックには、「100%ふじリンゴ」と、日本語のロゴがあった。

「ふじリンゴ」と、口に出して言ってみる。フライトアテンダントは笑って「おいしいですよ」と答えて、ゆっくりと歩き去っていった。


久しぶりに耳にする日本語が心地よかった。ほんの短い間しか日本にはいなかったし、決して良い思い出ばかりでは無かった……というより、良い思い出の方が少ないような日々だったけれど、やっぱりこの国は私に合っていたのかも知れない。今では彼女はそう思うようになった。

彼女は、九年前日本に住んでいた。というより、やって来た、というほうがイメージには合っている。あの頃、自分は大学を卒業していて、目の前で親に首を釣られて壊れてしまった子供で、それだけ取り出すとまるで冗談のようだが、「ロボットのパイロット」だった。

訓練に次ぐ訓練。そんな状況に幼い頃から慣れすぎて、とうに感覚が麻痺していた自分に「やっと訪れた」待ちに待った戦闘の日々。あらかじめ全てが失われ、その代償に過剰な自負と誇りに縋っていた自分が、高すぎるプライドと自己矛盾に押しつぶされそうで、実際に押しつぶされていく過程だったあの一年間。

それでも、あの場所の一年間のほうが、その前の十数年よりも自分として生きていた、そう彼女は思う。そこで初めて対峙した自分が、この窓から見える日本列島みたいにいびつに歪んだものであっても、その自分に耐え切れず今でもなお心に傷を負い続けているとしても。それでもあの一年の方が本物だった。

――少なくとも、今の私は人形では無いはずだから。

「『私は人形じゃない』か……」

自分と似ていて、だからこそ許せなかったあの女の子が、自分に向けて珍しく激昂して言った言葉だ。

またひとつ、返ってくるあの頃の記憶。思えば酷い言葉で彼女を罵ったものだ。それは、あの頃同居していた男の子にも同じだったけれど。あの頃、彼女は本当は自分に言うべきだった言葉の全てを、他人に向けて発していた。それが自分にも当てはまることを、見て、見ないふりをしていた。悪いことをしたな、と思う。

あの子も、死んでしまった。

何故自分だけが生き残ったのか、と彼女は今でもたまに考える。何故あの大人しい女の子でも、あの気弱な男の子でもなく、私だけがここに残されてしまったのか、と。いつかの少年と、少女。あの頃、まるで何かの事故みたいに出会った、今では遠い、見知らぬ世界に揺れる影のように薄ぼんやりとしか思い出せないその表情。彼らはもうどこにもいない。自分だけがこの世界に何も持たず残されてしまった。少し、恨めしい。しかしもう遅い。

「過ぎたものは、取り戻せない」

彼女はもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。

かつては様々な感情を持ちあった彼らにも、もうそれほどの感情を持つことは出来ないでいる。全ては失われゆく。

それはかつて持っていたもののほとんどを無くしてしまった彼女の手から、最後の持ちものが滑り落ちていく過程だった。彼女が悩みながらも日本に発った理由のひとつでもあった。しかし彼女がそうやってささやかに反抗を試みても、やはり失われる過程は続いている。あるいはそれは終わることが無い。かつて持っていたものがすっかり失われてしまえば、次は彼女が新たに得たものがどこからか零れ落ちてゆくだろう。

そして――にも関わらず、彼女は全てを忘れることはやはりできない。例え具体的なものごとに関する記憶も、他人に抱いた気持ちすら擦り切れても、いや、それらが擦り切れていくからこそ、その時に自分が感じた気持ちだけが、かえって鮮明になっていく。絶望、殺意、叩き潰す快感、失意、失望、喜び。果たして自分に最後に残るものは、何なのだろう?

『当機はこれより着陸シークエンスに入ります。シートベルトをお締め下さい』

前の座席の背、取り付けられているモニタの隅に、小さく赤い表示が出た。彼女は考えることを止めた。いつの間にか、窓の外は夜に沈んでいた。それでも、目を凝らすと、かすかに海岸線が見える気がする。

そして、過去への思いと疑問はひとまず着え去り、彼女の頭にはただひとつの考えだけが点灯した。


ああ。やっと。日本に「帰って」これたんだ。

2

新東京国際空港(第3新東京空港)を出てタクシーを捕まえると、彼女はとりあえず予約しておいたホテルへ向かった。荷物を置き、食堂へと向かう。食堂では、まだ多くの人々が食事をしていた。彼女は目についたレストランへ入った。時計を見ると、九時五十分、ラストオーダーの時間を見ると、十時だった。彼女はメニューを素早く見て、ウェイターを呼び止めた。

「すいません」

「あ、え? はい。ご注文ですか?」

「ええ、えーっと……この、和風御膳、というのをいただけますか?」

「え? あ、はい、かしこまりました」

ウェイターは少し怪訝な顔をしたが、目の前の女性が小首を傾げたので、すぐに何もないという顔をして通常の挨拶を返した。メニューをまとめて下げる。

彼女のほうは、ウェイターが何故怪訝な顔をしていたのか、ということは大方理解していたが、特に問いただすことも無く窓の外へと目を向けた。

ウェイターの疑問も分からないではない。彼女、かつて惣流・アスカ・ラングレーという名を名乗っていた(法的なことを別として、彼女は今でも、自分のことを「惣流」だと思っているが)女性は顔立ちこそやや東洋的な(アジアの人間が見れば、その面影は日本人のそれであると気付くはずだ)ものの、金に近い明るい茶髪と蒼眼の、この日本では見るからに「外国人」といった風貌だった。そんな人間が、流暢に日本語を使い「和風御膳」などというあまりに日本的なメニューを注文したので(もちろん、国際空港なのだから、日本語を話す外国人はたくさんいるに違いないが)まだ若いウェイターは少しだけ面食らってしまったのだろう。

かつての彼女だったなら態度が気に食わず怒っていただろう。直情型の彼女は、特に自分の「中途半端」な容貌に関しては軽いコンプレックスを持っていたからだ。しかし、彼女も大人になった。もう、それほど腹も立たない。今はただ、懐かしい日本の風景と食事を楽しみたい。そう思った。もっとも、風景も何も、もはや外はすっかり闇の中に沈んでしまっていたが。

窓を見ると、ガラスに自分の姿が映っていた。あれから九年がたった今の自分。背はそれほど伸びなかったが、身体つきはかつてのあまりに細い身体よりは、随分マシになった。それでも、華奢と分類されるような身体ではあるけれど、その細さは病的なものではない。あの一年の最後に、拒食と心神喪失で栄養失調寸前にまで痩せ細り、生理も止まって全ての肉がこそげ落ちてしまっていたことを考えれば、ずいぶんとふくよかになったとも言えるくらいだ。とにかく、九年を経て、彼女は「女性」と言って差し支えないくらいに成長していた。

「昔より、きれいになった……かな?」

確かに彼女はあの頃より美しくなっていた。もちろん、母親のおかげか、そのクオーターとしての生まれのおかげなのか、彼女の顔立ちは整っているといえた。幸運にもゲルマン系の形質と、東洋系の形質が、ギリギリのところでバランスを取っている。

しかしそれは本質ではない。

彼女の変化の本質は、表情の変化にあった。あの頃の彼女は、余りにもむやみに敵を作り、常に戦いながら独りで生きようとしていた。そして、その殆どは無駄に戦っていたのだ。しかし、あの時から彼女は戦うことを止めた。それは、ひとつには失意の内に気力が無くなってしまった、ということでもあった。しかし、それだけではない。

彼女は、ほとんどを失った末に、戦うということの意味を初めて理解したのだ。それは自らの命を削り、相手の命を削るということだ。そして、場合によっては相手を殺すということだ、と。それが、数千人という数の人員を独りで殲滅した彼女が、その命と引き換えに気付いたことだった。

それに気付いてしまった時、彼女は戦えなくなった。

とはいえ、誰にもそれを責めることはできない。彼女は子供であり、あまりにも心身を喪失していて、そして、彼女が認める認めないに関わらず、兵器の「一部品」だった。パイロット以外にも役割があったらしい他の子供たちとは違って、彼女は純粋にパイロットだった。それゆえに、彼女はパイロットで在り得なくなった時に壊れてしまったのだ。

主観的にも客観的にも。

同居していた保護者であり上司だった女性も、最後には彼女を愛さなかった。それはどう言い繕ったとしても、彼女を兵器の一部としてしか見れなかったことの証だった。

もちろん、今なら「仕方が無かった」と思える。そしてまた、憎しみも失われかけていた。あの頃の彼女はあまりにも助けの手を拒否していた。どうにも手が付けられない子供だったのだ。疎まれる要素は、全てクリアしていた。それでも――と、彼女は少しだけ思う。あまりにも酷かったのではないだろうか、と。

彼女が最後に聞いた彼女の言葉は「絶対、殲滅よ」というあまりにも無茶な命令だった。

やっぱり――予想していたものの、昔のことばかりが思い出される。忘れた、と思っていた幾つものことが、本当は記憶の底に眠っていただけだったのだと気付く。そして一方で、それがやはり様々に失われている、ということにも否応なく気付かされる。

何もかもが宙ぶらりんで、不完全で、やるせなくなる。

ふと時計を見た。十時。

「後二時間か……」

後二時間で明日になる。明日こそは、三度目の世界の終わりが訪れた日であり、人類にとっては二度目のカタストロフィーが訪れ、また、彼女にとっても一度人生が終わった日――サード・インパクトが起こった日だった。

3

その日、彼女の人生は終わった。

「セカンド・インパクトと同じく巨大隕石の落下が原因であるサード・インパクトは、第3新東京市(日本国)を爆心とし数十キロに渡る地域に被害を与えた。しかし、当時の第3新東京市は、その周囲数十キロが避難勧告地域に指定されており(第3新東京市に存在した研究所の爆発事故などの影響)人的被害はごく僅かであった」これが、彼女が落ち着いてから聞かされた、サード・インパクトの状況である。

しかし、それは恐らく嘘だろう、と彼女は感じていた。恐らく、多くの人々が死んだのだろう、自分が殺した人々も含めて。含めて、などという規模では無いかも知れない。それは今まで、忘れようとしてきたことだ。重い事実。

しかしセカンド・インパクトと同様、いつも事実は闇から闇へと葬られる。その方が幸せなのかも知れないとも、思う。

彼女が知っているのは、サード・インパクトの前と後だ。その途中のことは、おぼろげにしか覚えていないし、サード・インパクトが起こったときは、生きていたか死んでいたかもはっきりしない。恐らく死んでいたのではないだろうか、と彼女は思う。

「死」という、自分には知覚できないことに対して「確か」も「恐らく」もないものだが、自分が居た状況下、そして覚えている最後の状況を考えても、やはりあの時自分は一度死んだとしか思えない。あの時のことを思い出すと今でも頭がおかしくなりそうになるから(実際、今でも突発的な発作が襲うときがある)思い出しはしないが、きっと死んだのだろう。

彼女が覚えているのは、サード・インパクトが起こったであろう時間の前、自分の搭乗していた「エヴァンゲリオン弐号機」の秘密を知って、覚醒し、見知らぬ怪物を斃す兵器だったはずのそれで何故だか人間を屠り、その後、自分が屠られたこと。そして、サード・インパクトの後の、あやふやな記憶の中にある二つの世界だ。結果から言うと、その内ひとつ――今に続いているほうが事実で、もうひとつは、客観的には「夢」ということになる。

しかし、確かに気付いたとき(あれが本当のサード・インパクトの後、だと今でも思っている)彼女はたった二人で赤い海のほとりにいたはずだった。彼女と、その同居人だった繊細で、臆病な――かつてはただ「根暗」と断じていたが――男の子とで。

だが、次に気が付いたときには芦ノ湖から流れ出した透明な湖水の上に、仰向けに浮かんでいたのだった。

何がどうなったのか、今もって分からない。あの赤い絶望の世界は夢だったのか。それとも、何かの力で、今の世界が新たに生み出されたのか。もしくは、あの世界から、自分だけがこちらの世界に抜け出してきたのか。どれも信じがたいし、どれも本当のような気がする。ただ、もしも自分だけがこちらの世界に来たのだとしたら、彼はどうなったのだろう? それだけが気になった。もしかして、彼は今でもあの赤い世界に独りきりで生きているのではないだろうか? 内罰的なあの子のことだ、きっと自分を責め続けているに違いない。そう思うと、酷く悪いことをしたような気分になった。

しかし、ともかくも、彼女はこの世界に生きていた。

「そう、生きてんだよね……他の人、どうなったんだろう?」

窓の外の闇に尋ねてみても、返事は返ってこない。今、あの頃自分が知っていた人々のうち、誰が生きていて誰が死んでしまったのか、彼女は全く知らない。

彼女が目覚めてまず最初に取った行動は、逃亡だった。ふらふらの身体で芦ノ湖の湖岸に泳ぎ着き、近くに残されていた民家に押し入り、服を盗んだ。そして、プラグスーツを芦ノ湖に捨て、ただひたすらに歩いた。大学を出た頭で、必死になって考えた末に向かった先は、第2新東京のドイツ領事館だった。ネルフが頼れず、日本政府も頼れないアスカが縋ることが出来たのは、皮肉にも自分がもっとも軽く見ていた「国籍」しかなかったのだ。

幸運にも、彼女が惣流の名を伏せて「アスカ・ラングレー」として父親の名を告げ、サード・インパクトで被災したことを告げると、領事館は迎えてくれた。それには、他にもサード・インパクト前後に被災していた在日独人が多数居たことも幸運だった。彼女は運よくその中に紛れ、父親と連絡を取ることに成功したのだ。たとえ自分を捨てたとも思えるような父親でも、やはり頼るほかは無かった。

こうして、最後に残った絆やプライドをも次々と失いながら、彼女は辛うじてドイツに逃げ延びた。その後、彼女の素性を確認したドイツ当局はネルフから情報を隠蔽し、彼女は名を変えた。そして――晴れて、彼女はその記憶と、精神へのダメージ以外、積み上げて来たものの全てを失うことになった。

しかしそれも、もう全て昔のことだ。

「九年か。早いなあ」

もう一度窓の外に尋ねた。やはり何も返っては来なかった。自分からの声さえも、深く暗い闇に沈んだまま、姿を表しはしなかった。


彼女は目を覚ました。外は暗い。どうやら、食事から戻ってそのまま寝てしまったらしい。「寝たら朝まで」の彼女だが、さすがに時差には勝てない。

「時差ボケかぁ……全然時間、経ってないじゃん」

そう呟きながら時計を見た。午前二時。空港の近くにあって歓楽街から遠いこのホテルには窓の外から物音ひとつ届きはしない。腕を伸ばし伸びをすると、夜の静けさが身体に染み込む。全てのものが眠っているような雰囲気だが、もちろんそんなことはない。

例え真夜中でも、時計は動き続け、電話は鳴り出す。

彼女は突然鳴り出した電話を取った。受話器からは何の音もしない。そこからは無言の圧力だけが伝わってくる。何の冗談だろう、とため息をつきながら、彼女は受話器の向こうの誰かに向けて言った。

「……どちら様ですか?」

『……』

返事がない。彼女はもう一度ため息を(今度は相手に聞かせるように)つくと、先ほどよりも多少ぞんざいに尋ねた。

「……誰?」

『あたしよ』

見知らぬ声。でも、知っているような気もする。徐々に不安になってくる。

「……だから、だれ?」

『覚えてもないんだ。いいご身分ですこと』

不安はますます高まり、それどころか自分が何か悪いことをしているような気がしてくる。

「……ねえ、ごめんなさい、本当にどちらさまですか?」

『来なさいよ』

意味が分からなかった。

「……どういうこと?」

『切るわよ』

「ねえ、待って。……ちょっと!」


そして彼女は今一度目を覚ます。寝汗でへばりついたシャツを脱いで、薄目を開けて時計を見た。

「……夢?……時差ボケかぁ……全然時間、経ってな……!?」

夢と同じことを言ってしまったのに気付き、慌てて口を塞ぐ。午前二時十分。さっきのやり取りが、夢だったのか本当だったのか、判然としなくなる。

そして、考えてみて――そのことに思い当たって、愕然とする。さっきの夢での会話の相手は、恐らく私――私だ。九年前の。何故さっきは気付かなかったのだろう? それに、「来い」とは、どういう意味なのだろう? どこに、来いというのだろう?

「来い……って……あ」

そうだ。彼女は気付いた。今日は、サード・インパクトの日だ。九年前、彼女が死んだ日。死んだ場所は――第3新東京市だ。あの土地には彼女の墓もあるはずだった。

来いというのか? 今、すぐに。

「……」

彼女は少しの間押し黙ると、顔と頭を簡単に洗ってから外へ飛び出した。

4

旧第3新東京市跡地、第三共同墓地。ここに、サード・インパクト前後に無くなったネルフ職員と、戦略自衛隊隊員の多くが埋葬されているらしい。

かつて自分が殺したかも知れない人々も、死体になってしまえば他の人々と区別などつかない。

それに、ここには死体など無いはずだった。記憶が確かなら、ネルフ職員は戦自の使用した火炎放射器によってその多くの死体が焼けているはずだし、ネルフの外部で戦闘に巻き込まれた戦自職員のかなりは、彼女がその力を使って、死体も残らないくらいに消し飛ばしてしまったであろうからだ。

だからここにあるのは、彼らの名を刻んだだけのただの石だった。

その向こうには、彼らはいない。

しかし――

「ここ……が……」

言葉にできない気持ちを抱え、彼女は墓地を歩いた。

墓碑は、まず、戦略自衛隊の人々のものが、そして、それに続いてネルフ職員のものが置かれていた。「惣流・アスカ・ラングレー(2001-2016)」と彫り込まれた彼女の墓は、墓地のちょうど中ごろ、ネルフの中心メンバーである、本部佐官と上位の尉官の墓碑が立つ場所にあった。

「特務二尉、死んで二階級特進で、三佐、か……バカみたい」

ちょうど、碇シンジの墓の次に彼女の墓は建てられていた。エヴァパイロットの墓は、きれいに三つ並び建っていた。

綾波レイ、碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレー。

もっとも、恐らくその中の誰一人として、生死をちゃんと確認できてはいまい。顔を上げ、ホテルの部屋からかっぱらってきた懐中電灯で照らせば、その他にも自分の知っている多くの人の墓を確認することができた。やはり、自分の知っている人のほとんどは鬼籍に入っていた。ただ、メイン・オペレータの三人だけは、その名前を確認することができなかった。

生きてるといいな、そう、彼女は小さく呟いた。

ふっ、と懐中電灯を消す。彼女の姿を含め、全てが闇に沈む。殺風景な墓地には電灯もほとんど無く、さっきまで懐中電灯の恩恵に与っていた目には星の光も映らない。

真っ暗な世界の中、彼女はただじっと、星が見えるのを待った。かつては俯き星も見なかった彼女だが、この時ばかりは星が見えるのを心から願った。星が見えなければ、真っ暗な世界から伸びる手に絡め捕られて、かつて見たディラックの海の中に自分も引きずり込まれてしまうかも知れないと思った。

しかし、救いようのないことに、彼女はそれを願ってもいた。

それで罪が許されるなら、楽になるなら、そうして欲しい、と。

彼女の願い通り(願いとは裏腹に)星は見えた。月の無い空には満天の星々が瞬いていた。すうっと夜の空気を吸い込み、ため息とともに呟いた。

「……結局、どうしたいんだろう? ……何をしに……来たんだ」彼女は、日本に来ると決めてからずっと先延ばしにしてきた問いに対峙させられていた。

結局、自分は同じところをぐるぐると低回しているだけだ。昔のことを忘れたいのか、忘れたくないのか、捨てたいのか、失くしたくないのか。何も決められずに、自分は今、ここにいる。

「ねえ、何でこうなっちゃうんだろう?」

誰もいない暗闇に問う。星明りの下の独り言。返ってくるはずも無かった。


しかし、不意に暗闇から答えは返って来た。


『バッカねえ。あたしのことを忘れてるからよ』

「……え?」

『あたしを、忘れてるでしょう? バカアスカ』

懐かしい言葉。かつては同居していた少年に、よくこんな調子で話しかけたものだ。

「……忘れてる?」

言葉はまた、暗闇へと吸い込まれる。

『あたしを、よ。あんたねえ、このままじゃ、吹っ切ったんだか引きずられてるんだかもわかんないまま、どこへも行けない宙ぶらりんの根無し草になっちゃうわよ。わかってんでしょ? あんたにも』

キツいが、どこか子供らしい媚を含んだ女言葉。そして、何もかもはっきりと判断できるような考え方。諦めを基調にした今の私とまるで逆の、常時戦闘姿勢の勝気な女の子の声。それは確かに、彼女だった。九年前のあたし。……はっとした。


彼女は刻然と理解した。

彼女も、私だ。

否定しようもなく、あのどうしようもない少女は私の一部であり、それは、どんなに隠したって、隠し通せない。どれほど自分が変わっていっても、その出発点は、いつだって九年前の彼女自身なのだ。それを忘れたら……私は、誰でもなくなってしまう。

当たり前のこと、でも、忘れていたことだ。

そして、同時に気付く。

彼女はいつか忘れ去られてしまう。接点がどこまでも小さくなってしまえば、彼女が彼らを忘れてしまえるように、彼らも彼女を忘れてしまう。何もかもが中途半端のまま固定されえて、彼女は、何処へも行けなくなる。


それからしばらく、ただ彼女は立ち尽くした。

それまでは、闇の中に沈み、それらに対して罪の意識も感じることができないでいた墓たちが、急に意識の中に立ち上がってくる。恐怖を感じる。それは、自分が忘れられる恐怖、自分が、彼らに恨まれもしてもらえぬまま、その感情の対象ですらなくなってしまう恐怖だった。しかし、同時に、対峙するにはあまりに大きい罪にも、同じように恐怖を感じた。

ああ、やっぱりだ。私はどこへも行けない。


やはり答えはでないまま、彼女はただ恐怖に耐え続けた。そして、ついに耐え切れずに問うた。

「ねえ、私はどうすればいい? 苦しいのよ。全部忘れたい。でも、怖い。ねえ、怖いんだ」

いつの間にか、空は薄く明るんでいた。しんとした清浄な空気の中で、声が、自分の内から響いた。暗闇が明るみに追い立てられて消えうせて行くのと同様に、その声はとても小さかった。

『だから、あたしを連れてきなさいよ。ちゃんと忘れるために。そんでもって、ちゃんと覚えておくためにね』

この声は、外から聞こえる声ではないのだろう、と彼女は思った。これは、昔の自分の姿を借りた、今の彼女の中にある声だ。どこかにしまい込んでいた、彼女の何か。

でも、それでもいい。

私は、あたしを連れて行く。

「……うん」

朝日の中で、彼女は泣いていた。

来年も、こなければならない。それが彼女がしなければいけないことだ。これから、やはり色々なことを忘れていくだろう。忘れたいことも、忘れたくないことも。もしかしたら「それは消えようがないものだ」と、昔の自分を置き去りにしていた彼女が思い、悩んでいたものでさえも、今の彼女ならば忘れられる日が来るかもしれない。

でも。

「……でも?」

口に出して呟いてみる。

大丈夫。もう、あたしは私の中にいる。もう、手放さないから。

「また、思い出せるよ。きっとね」

明るみの中を歩きながら、確かめるようにそう呟いた。

- The rest stories of "Project Eva" #02 - "Reconciliation" end.
first update: 20040908
last update: 20060102

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作者:north
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