アスカが屋上のドアを開けるとやっぱりレイはそこにいた。
この場所はレイのお気に入り……というよりは、常駐場所と言ったほうがよいような場所だった。昼休みでも、放課後でも、来れるときにはいつでもここにいた。それだけならば問題はないが、授業中もということになると話は別だ。
「ねえ」
アスカ・ラングレーは目の前にいる六分儀レイに声を掛けた。六文儀レイ、苗字にも名前にも数字が入っている。妙な名前だが、それがアスカの目の前で寝転ぶ彼女に与えられた名前だった。
「何、アスカ」
レイが何の気なしに聞けば無機質に思える声で答えた。その声に含まれている微かな感情の響きを知るには、少しの時間と忍耐が必要だ。
しかし、自分が彼女と仲良くなったと言うことはそれだけではないのだろう、とアスカは思う。時間に関しても忍耐に関しても、他人の半分くらいしかない自信がある自分がこの難しい女の子と仲の良い友人であり続けている、という事実がそれを証明している。
そう、アスカとレイは仲の良い友人だった。親友、と呼ぶには少し遠く、友達、と呼ぶには少し近すぎる、それがアスカとレイの間にある関係性だった。アスカにとって、親友と言えばお互いの家によく泊まりに行ったり来たりを繰り返している洞木ヒカリのことだったし、友人と言えば彼女が付き合っている男の子とか、その友人とか、その辺の人物だ。
レイはそのどちらのカテゴリーにも入らない。
初めて会ったときから、その関係は決まっていて、近くも遠くもならない。決して交わらない平行線。
いつかそのことをもっとおぼろげな言葉で彼女に言ったら、レイは「私もそう思うわ。友人には近く、親友には遠い。仲のよい友人、もしくは縁」と彼女らしからぬ長文でその関係に名を与えた。彼女はこういう言葉の狭間にあるような事物に名を与えるのが得意な少女であったが、その言葉は特に秀逸に思えた。ありふれた言い方だが、それ以外に表すことができない。そして、そのありふれた言葉は彼女の声帯から発せられ、喉を通って声になって初めて存在することができる。そんな感じだった。
同時に彼女はこうも言った。
「縁。ここではないどこかでのものかも知れない」
どうも雲行きが怪しくなってきたぞ、とアスカが焦ったときにはもう遅かった。
「ここではないどこか。あなたも私もそこの住人だった。私の本当の名前は綾波レイ、あなたの本当の名前は惣流・アスカ・ラングレー。私たちはどこからか、ここに配置されたのよ。……たぶん」
しかし最後に申し訳のようにつけた、たぶん、でアスカはレイが自分の言ったことを本当の意味で信じて居ないのだと分かった。きっと、レイは電波な女の子、というわけではないのだ、とアスカは思う。十四歳という季節、高校生になるために過ごすはずの十五歳や、受験など遠く彼方のことだった十三歳とは少し異なった季節には、それらの現実とは少し異なった物語が、多分必要なのだろう、と思う。
特に、レイは学校でもその作文が評判になるくらい文才に溢れた女の子だったから、それはなおさらのことだと思えた。レイはその満ち満ちた能力で、他人には形の与えられない異質な物語に、形を与えることができたのだろう、とこちらは「女の子なのに」という差別的な言葉に抗うように数学が大好きな少女はそのおぼろげなファンタジーを論理で切り取る。
アスカがひとしきり回想を終えるころ、レイは待ちかねたように繰り返した。
「何?」
やや怒った調子(これも、普段から彼女に接する人間にしかその差は分からないだろう)なのが分かったが、アスカは我意に関せずという調子で続けた。
「何、じゃないわよ。授業中に消えてれば誰かが探しに来るのが当然じゃないの、馬鹿」
「それがアスカってわけね」
「そうよ、全く手間、掛けさせるんじゃないわよ」
「戻りたくないわ。あの箱は、私のいるところじゃない。気がする」
最後に申し訳程度に、気がする、をつける。所詮その程度だ。
「そして本当のいるべき場所はー、ってんでしょ、綾波さん? でも、ヒカリが呼びに来たらさすがにその言葉は続けられないんじゃないかと惣流さんは思いますけれど?」
レイは、少し困った顔をして、言った。
「そうね。行くわ。……敵わないな、アスカには」
ふっと出る普通の女の子の言葉。どちらが彼女の本質か、などとはアスカは気にしない。そんなことをいちいち気にしていたら、世の中は多重人格者で溢れてしまう。
二人は階段へと向った。幻想の世界と現実の世界をつなぐ天国の扉。行って戻れば、そこにあるのはやはり現実だ。しかし、常に皆、その二つの世界を同時に生きている。そして、それぞれの人がそんな二つの世界を生きるためにそれぞれの幻想を大事にしようと思う気持ちは、レイにこんな言葉を言わせる。
「でも、その名前はこういう時に使っちゃいけないわ。本当の名前だから」
そんな言い訳のようなレイの言葉は彼女の耳にすら届かず、屋上に吹く少し強めの風にかき消された。そして、彼女たちは風の吹かない教室に戻った。
もっと早く気付くべきだった。馬鹿だった。レイが彼の話を言い出したときに、ちゃんと突っ込んで話を訊いておけば良かったのだ。
気付かなかった。レイが自分の父親からあんなことをされているなんて。
アスカはレイが屋上から飛び降りて骨折したという話をヒカリからの電話で聞いた。ヒカリは学級委員長なので、クラスメイトに伝わる話はまず彼女に下りる。そして、ヒカリは連絡網の順番をすっ飛ばしてまずアスカに連絡してくれたのだ。
レイが屋上から飛び降りた。想像できなかった。アスカの知っている彼女は、少し想像たくましくはあったけれど、自分が作った幻想と現実の間の線だけはその分きっちりと引いている女の子だった。間違っても、現実と幻想の境目が分からなくなってふわりと飛んでしまうような馬鹿な女の子ではないはずなのだ。
自分の知っている?
よく考えれば、自分の知っているレイと言うのは数ヶ月前までのレイのことだ、とアスカは自転車を第3東京市立中央病院へとそれこそ文字通り「ぶっ飛ばし」ながら思う。あの時のレイは、確かに幻想と現実にきっちり線を引き、自分の幻想を述べた後に、たぶん、とか、と思う、とかそういう言葉を付ける、そんな中途半端でまともで、そこが好ましい少女だった。
中心街に出てカーブを曲がる。ここからは病院の正面玄関まで一直線だ。四車線道路の車道をかっ飛ばす。
しかし、それから、少しずつ彼女の言うことはエスカレートしていた。他の人間には分からない程度の変化だったのかもしれないが、アスカには分かった。レイが少しずつ、自分の引いた線を越えずにはいられなくなっているのだ、と。
レイが「碇くん」という架空の男の子の名前を出したのが、ちょうど二ヶ月前のことだった。それがターニングポイントだったんじゃないかとアスカは思う。いないはずの男の子を幻想の中に作り出して、その彼を現実まで引っ張って来なければいたたまれなくなった時に、レイは踏み越えてはいけないと自分で決めた一線を自ら踏み越えてしまったのだ。
病院の前につくと、アスカは乗ってきた弟のMTBを放り出してレイがいるという病室に奔った。
「レイッ!」
「ああ、アスカか。来てくれたんだね。洞木さんが教えてくれたの?」
「こらぁッ!」
アスカは渾身の力を込めて叫んだ。ここが個室でなければ、すぐに看護婦が飛んできただろう。
「アスカ、声が大きい」というレイは、少し困惑した表情を浮かべていた。アスカの激情の理由が、分からなかったからだ。アスカにも、何故こんなに自分が怒っているのか分からなかった。
「うるさいわよっ! 何よ! 一人で勝手に!勝手に……ごめん、ごめんね、レイ。あたし、気付かなくて、ごめんね。ごめん」
アスカの言葉は急激に失速して、最後にはごめん、を繰り返すだけになっていた。レイは自分の胸に突っ伏すアスカの頭を撫でて、母親のように言った。
「ごめんね? アスカ。大丈夫だから、ね?」
その言葉に、もう一度アスカは噴出した。
「何が大丈夫よ! あたしを置いて! 置いて! 『一人で行っちゃうなんてずるい』! あっ」
言ってしまってから口を噤んでも、もう、口に出した言葉はどちらの耳にも届いていた。
そうか、私は、悲しかったんじゃなくて、悔しかったのか。そう、アスカは自分の気持ちを理解した。
しかしレイはアスカの分析を他所に、言葉を返した。
「うん、ごめん」
「あ……あたし……何てこと……」
自分が言ったことの意味を理解して、アスカの顔が蒼白になっていく。アスカが言ったことは、自分もその「踏み越えてしまっている一人」なのだということの告白でしかなかったからだ。
「いいの。足が折れただけだから」
しかしレイは動じずに、続けた。まるで全て始めから分かっていた、とでも言うように。その言葉は答えにもなっていないのに、何故だか納得することができた。レイは自分の胸から飛び上がったアスカの腕を掴んで、言った。その手は中で何かが燃えているような熱さだった。
「アスカ。私が飛んだのは、お父さんとか、そういうのが理由じゃないの。分かったのよ。分かったの。やっぱり本当の場所はあるんだって。碇くんは、いるんだ、って。だから、会おうとした。けど。無理だったの。失敗しちゃった」
精神を少し病んでいる。そう思わねばならない言葉だったが、アスカはその言葉に反論することが、ついにできなかった。
「ねえ、レイ。あたしを親友にしてよ」
アスカは少したってから、ぽつりとそう口にした。しかし、レイは首を横に振った。
「駄目。平行な線を曲げて近づけてしまえば、いつか交わって、それから、どこまでも離れていってしまうから。そんなの、イヤ。だから、このままでいて。私も、アスカも、そんなに、器用じゃないわ」
それはあまりにも正しい言葉に思えた。
「分かった。でも、『相棒』だから」
アスカはやっとのことでその新しい関係を名づけた。レイは、アスカが始めてみる、にっこりと笑った表情で言った。
「もちろん、『相棒』だよ」
この時から、二人は秘密を共有する相棒になった。親友でもなく、友人ですらないが、決して離れない関係の名前だった。
それからしばらくの時間を療養に費やし、レイは学校に戻った。飛び降りる前とは打って変わったように人当たりが良くなったのは、悪い父親から離れたせいだ、と誰かに言われた。今は彼女は近くに住む冬月という、父親の先生筋にあたる人のところに身を寄せている。苗字は六分儀のままだったけれど、もうその名前を持っているのは彼女しかいなかったから、その苗字の世代を超える関係を教えるものとしての意味は消えてしまっていた。それこそ、六分儀でも、綾波でも、碇、ですら関係ない。
でも彼女の「相棒」としてその幻想で現実を共有するアスカは知っている。
レイが何も捨てていないことを。
そしてレイももう知っていた。
アスカも自分と同じものを持っている、ということを。
彼女からは自分と同じ臭いがする、ということにレイは始めから気付いていた。転校してきたその時から、アスカという女の子と自分は、同じモノを持っている離れられない関係だ、とレイはその幻想で悟っていたのだ。勘違いだろうけれど、構わなかった。その程度には、自分の幻想を飼いならす自身があったからだ。
無機質なキャラとして振る舞い、クラスの人間から一目置かれるくらい勉強して、レイがこの学校でのレイになった時、彼女は何故だかその自分がとても自然なような気がした。
これだ、と思った。今までの自分などは嘘っぱちで、この女の子と私が始めから、こんな風なつながりを持っていた本当の場所が、どこかに存在するんだ。そこでは私は綾波、彼女は惣流であって、六分儀や、ラングレーじゃない。そんな場所がある。あるはずだ。
今、考えると、何かしら必死だったんだと思う。お父さんのいやらしい視線を感じて感じない振りをして、普通の幸せな家庭の子として振舞うのに疲れてしまったのだ。だから、どうせなら思いっきり特別な女の子になってしまおうと思った。綾波と名乗る私は、とてもイタイ女の子だったのだろう。でもそれでも良かったのだ。自分に幻想を飼いならしている自信があるんだから。
でも、誤算、というか、何というか。
自分がだしに使った女の子のほうが、幻想ではなく本当にそう思ってしまった。否定しながらも、アスカはいつも心のどこかで自分の話を信じているようにレイには思えた。自分とは逆だった。自分は多分、彼女の中にあるものに、形を与えただけなのだろう。しかし、一端形になってしまえば、きっかけを与えたレイすらもそこからは逃げられなくなった。自分が作った物語を飼いならしてたはずなのに、いつの間にか自分が喰われてしまう段になっていた。
結局、それでも止めなかった。見た目にイタイ自分を少し引いて見ている自分もいたけれど(だって、アスカの方は外にはそんな気持ちをおくびにも出さないから)、物語に身をゆだねるのは酷く気持ちいいのも事実だった。
「どこまでも行っちゃえ。ぶっちぎっちゃえ」そんな声が聞こえた気がした。もちろん、妄想だけれど。
そしてついにレイは一線を越えてしまった。
見えてしまったのだ。「碇くん」が。見えるはずがない、下の名前が無い彼。短髪で、真面目そうで、少し物憂げな顔をしている男の子。その子が、屋上に寝転がっていたレイの上にふっと覆いかぶさって、彼女のまぶたの中を覗き込んだのが見えた。確かにそこにいた気がしたんだ。そして、自分は彼の無いはずの名を呼んだ。
狂った、と思った。
だから終わらせてやることにしたのだ。このどうしようもない妄想を。この妄想が始まったあの場所で。
しかし、それも適わなかった。
レイも、その幻想も、終わらずここにある。正確には、レイの方では終わったつもりでも、彼女の中にはそれがまだ居座っていた。レイは結局、自分の幻想を友達になってくれた女の子に押し付けてしまったのだ。彼女にはそれが必要だったから、彼女は心の隙間をそれに「喰われて(もちろん比喩的に)」しまった。
それならば、レイにはついて行ってあげることしかできない気がした。アスカにあの幻想が要らなくなり、新しい季節にあった幻想に着替えるまで、レイもこの幻想を捨てずに持って行く。隣にいてあげる。それ以外には彼女にわびる方法はありえない気がした。気付かなくていいものに気付かせてしまったんだから。
だからその時まで、自分は綾波レイで、アスカは惣流アスカだ、とレイは幻想を呼び戻した。誰でもない人の子供、誰でもない私。
……やっぱり、本当はまだ彼女には綾波レイが必要だったのかもしれない。実際に、六分儀という苗字に意味など無くなってしまった今、このまま、誰でもない私になっても、構わない、とレイには思えたからだ。
「屋上から飛び降りちゃった人間は、一回死んで、帰ってきた。それじゃあ今の私は、誰?」
「綾波レイ。そうでしょ?」
隣に寝転ぶアスカが言った。今日は久しぶりに、二人して揃って授業をサボって屋上にきたのだ。モラトリアムの花が咲いていた。
「……うん。碇くんも、いるわ」
「そうね。ああ、私にも見えるといいなあ。碇くん」
薄い笑みを浮かべながら、レイはヒカリの怒声が下りるのをじっと待った。レイは初めて、アスカのしてきたことの偉大さを感じていた。
中学二年も終わりを迎えるころになれば、中学生は受験生になる。しかし、こと六分儀レイとアスカ・ラングレーに関してはそれが当てはまらなかった。彼女たち二人はサボり常習、学年きっての問題児であり、しかしその成績は常にトップを走るというアンバランスな子供たちだった。それに並ぶ資格があるのは一度暴力事件を起こしたことがある鈴原トウジくらいだったが、自分の恋人のために不良と戦った少年は、彼女たちに並ぶにはいささか真面目すぎた。
それでも、クラスメイトは彼らをまとめるあだ名を付けようとした。我らがクラスの問題児、壱番、六分儀「綾波」レイ、弐番、アスカ「惣流」ラングレー、参番、鈴原「大和」トウジ。名付けたのはその中の一人の友人である相田ケンスケだった。苗字と名前の間に挟まっている名前には特に意味は無い。彼女たちが言っているコードネームらしき名前が旧日本軍の戦艦であることを知っていた彼が、もう一人の問題児である友人にも軍艦の名を与えただけだ。
しかし、それを聞いたレイは、飛び降りてから絶やさない笑みをすっと消してこう言った。
「違う。三番目は欠番よ。サードはあの子の席だから。だから鈴原はフォース。私がファースト、アスカがセカンドね。オッケー? ケンスケくん?」
なるほど、とクラスメイトは感心した。妄想でもそこまで話が出来ていれば大したものだ。ドラマが出来ている。この頃には「レイの空想癖は治っていない」がクラスでの共通認識だったので(それでも「あんなこと」の後では多少の奇行にも人は優しくなるものだ)、その空席のサードこそがレイが追いかけて屋上から落ちた伝説の男の子だ、と噂された。「屋上の君」である。一方、その物語にきっちり付き合っているアスカも、よくやるよ、ではなく、大した相棒だ、と思われるようになっていた。
もちろん、真実は逆だったが。
しかしそんなことは言われないと誰も気付かないことだ。クラスではあくまでも、レイは最近イメチェンして明るくなった不思議系の女の子、アスカは現実派だけれど空想癖で可哀想な事情のある友達の空想に付き合っているいい女の子、で通っていた。随分長い形容だけれど、つまりは彼女たちもそれなりに複雑な事情の中を生きる女の子だったということだ。
しかし、ただ事態を眺めて楽しむだけのクラスメイトに混じって、状況をキッと見据える少女がたった1人だけいた。
洞木ヒカリである。
極めて人の心の変化に聡いのが彼女の特技であった。それは近頃では多い方に入る姉妹三人の生活の中で見につけたものかも知れないし、昔から委員長体質で面倒ばかりを見ていたからかも知れない。
が、ここではそんな彼女のささやかな歴史は問題ではない。
ただ知っておかなければならないのは、彼女がアスカと親友になったのも、レイに近づいていき自分からやや離れだしたアスカをそれでも何も言わずに見守っていたのも、もちろん打算ではないが、偶然や気のよさだけでした行動ではない、ということだ。それだけは彼女の名誉のためにも言っておかなければならない。彼女は極めてよく状況を見て自分の正義と良心に従って行動していた、ということだ。
そのことが、結果的には人二人の命を救うことになる。
しかし、今の時点ではそんな気持ちはまだ形になっていない。善意は言葉にしてしまえば陳腐だ。それを本気で行なうことが出来る「善人」という人種は言葉になる前に行動に移すことが出来るからこそ「善人」なのだ。だからこそ彼……この場合は彼女、は偉大である。
「ねえ、アスカ?」
「ん? どしたの、ヒカリ?」
帰り道、掛けられた言葉ににっこりと笑って答えるアスカ。つい最近できるようになった表情、これまではしなかった表情だ。何かに確固として信頼をかけている人間の表情である。この世界にあるものでは、その信頼に耐え切れないほどの信頼を。そんな風に、ヒカリには思えた。もっとも、現時点での――最後まで、彼女の中でのその気持ちには形は無かった。「気持ち悪い」とか、そういう類の感情でしかなかった。だけれど繰り返すがだからこそ洞木ヒカリという少女は偉大なのだ。
「いや……あの、さ。最近……」
「あー、うん。ついレイに引きずられちゃってさあ。ごめーん、ヒカリ」
「え、あ、うん。それは……大丈夫だよ。アスカ、頭いいし……」
「へへー、ありがと」
そんな顔しないで、とヒカリは思う。とんでもなく壊れやすい類の笑みを浮かべたアスカに、しかし彼女はこんな言葉しか口にすることはできない。
「あの、あのね! アスカ!」
突然の素っ頓狂な声に「うわっ」と声を上げてアスカは肩をすくめた。
「え……何? お、怒ってる?」
「違うよ。あのね。私たち、親友だから。ね?」
その言葉は恐らくアスカの奥底の、現実を見通していた脳に伝わっていたはずだ。これが、彼女がこの物語の中で成した二番目に偉大なことだ。
「なーによ、突然。何? 最近あたしがレイとばっかり一緒にいるから寂しくなったの?」
そう言って、あはは、と笑ってから
「当ったり前じゃん。私の親友は、ヒカリだけだよ。ずっとね。ね! そこのお店拠ってこ! 寂しくさせたお詫びにおごっちゃる!」
ここではひとまずこれで話は終わるが、これが、アスカがこちら側に帰って来ることができた、恐らくは直接の原因だった。
これで最後だ。そうレイは覚悟した。どこで踏み外したんだか知らないけれど、仕方が無いことだ。
三月中旬、中学二年の終業式の日。ぬるま湯の日々のとりあえずの終わりを象徴する日に、アスカはレイに「ねえ、どうしても『碇くん』に会いたいんだけど、どうしたらいいと思う?」と訊いた。レイはよっぽど「会えるわけ無いじゃん、嘘だって」と最近のハイテンションな調子で流してしまえばいいと思ったが、やはりそんなことはできなかった。
「……水ね」と口をついて言葉が出た。水? 何でだろう? とレイは自分の言葉に自分で首を傾げた。でも、いつもどおり狐つきのように、話していけば勝手に言葉が出てきてくれるはずだった。
「水?」
「そーよ、水だよ、ミズ。湖にちゃぷーんってある、あの水」
「分ーかってるわよそんなのは。……で、何でよ?」
「私は、風だったから」
「はあ」
「私は、風の中で『碇くん』と会えたから、アスカは水の中で『碇くん』と会えるはず」
もう取り返しはつかない。このまま行けば、アスカは多分どこかしらの湖か何かに落ちてしまうだろう。恐らくだからこそ、水とレイは言った。それは後付の理由でしかなかったが、空に飛んでしまえばほとんど(自分が助かったのは死ぬ気など本当は無かったからだろう、とレイは思っていた。本当に純粋に飛んでしまったら、レイは死んでいるはずだった)死んでしまうが、水ならば、自分さえしっかりとしていれば助けることも可能だと思った。彼女がこの物語を抜け出して、なおかつ向こう側に倒れこんでしまわないために、ギリギリまで譲歩した結果だった。
実際には水に沈んだ人一人をただの女子中学生が引っ張りあげることなど不可能に近かったが、それでも空を飛ぶよりは、ましだったと言える。何かに呼ばれたみたいな判断が働いたのは、何故だかレイにも分からなかった。
「じゃあ、行って来る」
「待って、私も一緒に行くって」
「何で?」
「『一人で行っちゃうなんてずるい』。でしょ?」
「そうだね。そうだった。じゃ、一緒に行こ? レイ」
最後の戦いの始まりだった。
芦ノ湖。第3東京市に一番近い湖である。その湖水はこの町の水源になっている。一帯の区画は森が守られていて、人工物は地下街のための集光ビルとか、給水塔くらいしかない。当然、人の姿も見えなかった。しばらく前からこの湖では釣りも禁止されていたからだ。
「魂の無い湖」といつかレイは言った。
「それじゃ、行くわ」
「私も、だね☆」
殊更明るくレイは言った。何故なら正真正銘これで最後だったからだ。アスカを死なせるわけには行かない。例えアスカが、自分と同じように、いや、自分よりもずっと根本的に「本当の私」を求めている女の子だとしても、だからって死んでしまっては駄目だ。物語は生きるためにある。物語のために死ぬなんて、本末転倒だ。そうレイは思った。それは飛び降りてやっと彼女が踏み出した大人というステップであり、言葉にならない気持ちに形を与えることができる者が持っているべき矜持だった。
だから、ここまで来てなんだが、本当にアスカが狂気と正気の境にある塀から落っこちそうになった時に引っ張り降ろして抱きとめてあげるのは、私の役割なのだ、とレイは自分に対して言った。いささかマッチポンプだったけれど。そうなれば、彼女は失敗してしまうのかも知れない。でも、失敗しても、他の道を使っても、何とか現実を生きる道は探せるはずだ。その方が、こんな中途半端で死んだりするよりずっといい。そうレイは思った。
だから、レイはそこでアスカを引っ張りあげるはずだった。
しかし、またしてもレイは失敗してしまうことになる。
まるで失敗を運命付けられているかのように。
しかし、それは違う。ただ、受け止めるのは彼女の役割ではなかった、それだけのことだ。
レイは湖水にすっと入り込んで行こうとする――飛び込む、ではなく、確かに音も立てずに入り込んでしまうように見えた――アスカの手を掴んだ。しかし、結局は自分も水に飛び込んでしまった。
どぼん。
アスカが飛び込んだときには音がしなかったのに、自分のときは、した。
ああ、私は置いていかれちゃったんだな、とレイは三月の冷たい湖水を感じながら静かに思った。同時に、ごめん、と心の中で呟いた。
水の向こう側は、水面だった。飛び込んだはずなのに、何故水面に出てくるのだろう、とアスカは疑問に思ったが、そんなことよりもその水面から見えるものの方がずっと変だった。
水面からぷかりと顔を出すと、そこに見えたのは赤い世界だった。空は赤黒く、そこ赤い虹が走っていた。そして横に顔を向ければ、遠くに大きな人影が沈むのが見えた。その顔は、色こそ違えど自分の相棒に良く似ていた。
そしてアスカはついに出遭った。巨大な人影の逆側、近い岸に、男の子が一人、佇んでいた。レイが言った通りの姿だった。
「『シンジ』」
アスカは『碇くん』の、語られなかったはずの下の名前を呼びかけた。水に濡れ、滲む視界の中で少年がゆらゆら揺れた。
「そうか、あんたはこっちを選んだのね」
見知らぬ言葉が口をついて出てきた。ふと、レイもこんな感じで話すことがあったな、とアスカは思い出していた。
これが、いつか見たはずの本当の世界の記憶なのだろうか。
少年はこの荒れた世界にあって、とても自由であるようにアスカには見えた。アスカは少年が少し羨ましかった。しかし、ここにはいたくない。人間のいる場所にいたい。その思いもまた事実だった。
その時、声が聞こえた。
「あのね。私たち、親友だから。ね?」
それは昔親友から言われた言葉だった。
――そうか、帰る場所、あるよね。
取り留めの無い思考の中で、アスカは、戻ろう、と思った。そしてちゃんと始めよう。ここではなく、人間のいるあの世界で。
「……だから、バイバイ、『シンジ』」
それが最後の言葉だった。最後まで少年の声を聞くことはできなかったし、最後の言葉は沈みながらなのでうまく言えたか分からないが、水のようで水とは違うような液体の中から見るその少年の顔が少し微笑んだように見えた。
「……カ! ……スカ! ……アスカ!」
声が、聞こえた。人間の声だった。
アスカは目を開けた。そこはちゃんと人間の世界だった。彼女はヒカリに抱き上げられていた。
どうして?
それを問う前に、頭の上から声がした。
「何をしとんねん、お前らは。アホが」
ごつん。げんこつで軽く殴られる。鈍い痛みを感じた。
隣でまた音がした。良かった、と思うと同時に、また気が遠くなった。
良かった。そう思えたことが、アスカがここにちゃんと帰って来れた証拠だった。
最後の立役者は、やはりヒカリだった。彼女はアスカとレイの挙動の不審に気付き、恋人の鈴原トウジ、そしてトウジの親友である相田ケンスケと共に、周辺の「怪しい場所」を回っていた、と言うのだ。
まさに親友、だった。
今、アスカがいるのは芦ノ湖の湖畔である。飛び込んだ場所のすぐ傍だった。アスカの目の前にいるヒカリは泣いている。その肩を抱いたトウジは怒っていて、少し遠くからその様子を見ているケンスケは、飄々としていた。レイはと言えば、いつもとは違う、控えめな笑みをその顔に浮かべていた。
「ああ……」
身体も顔もぐしゃぐしゃに濡れていて誰にも判別はつかなかったが、アスカは泣いていた。目頭が熱い。視界が滲んでも、もうあの怖い世界が見えることもなかった。
ああ、私は、人間の世界に帰ってきたんだ。人間の世界で、生きていくんだ。
意外と真面目なトウジが父親よろしく、たっぷり小一時間物知り顔で説教をした帰り道、すっきりした一人と辟易した四人の上には、いつの間にかぽつり、ぽつり、雨が降り出していた。見上げれば空は昏く、曇っている。腕に少し感じるくらいの雨はいつしか地面に黒い点々を付け、そうなればもう、瞬く間に本降りになった。
「ねえ。ヒカリ」
「何? アスカ」
その声は未だ涙声だった。アスカは、ぐずぐずと鼻を啜りながら隣を歩く偉大な友人に「ありがとう」という言葉を告げた。出会ってから二年が過ぎて初めて言えた、ありがとう、だった。
「あ! 私も! ありがとう、洞木さん。ごめんね、アスカ」
レイにとって見ても、ヒカリはお礼をどれだけしても仕切れぬ人だった。結局、彼女は自分が果たさなければならなかった役割を、何も言わずに肩代わりしてくれたのだ。あるいは、アスカを通じて、ずっと肩代わりし続けていてくれたのかも知れない。どちらにしろ、どれだけの言葉を並べても、惜しくない。
「いいの。結局、何もできなかったから、私には」
ヒカリはごく控えめに、そう述べた。それが彼女の美点だったが、隣から突込みが入った。
「何言うてんねん、お前がおらんかったらこいつら死んどったかもしれへんねんぞ。お前はどーんとしとったらええねん。なあ?」
「そうそう、幻想の淵から少女を救い出した女神に感謝の言葉を、ってね」
「止めてよ! もう! トウジも相田君も! 私は何もでき」
「うん。ありがとう。あたしの女神様」
アスカはためらうことなく、言った。
「だね☆ 迷える少女たちの女神様っ。だよ、洞木さん」
レイまでが女神様、と言い出すと、ヒカリはただ笑みを浮かべる他なかった。ふふふ、と笑いながらレイとアスカを見て、ヒカリは言った。
「……うん。女神様の、命令。もう、どこにも行っちゃわないでね」
私を置いて、とは彼女は言わなかった。それはつまりここに、人間の世界にいろ、という意味だった。
「もちろん」
「女神様の指令ですもの」
ついさっきステップを上がったばかりの二人は、自分よりいくらか先に踊り場にたどり着いていた女の子に、いかにも恭しく言った。それを聞いてようやく、ヒカリは今度こそにっこりと笑った。
それからしばらく、彼らと彼女たちは無言のまま歩き続けた。そして、彼女たちが次に口を開いたのは、男の子が家に着き、彼女たちだけで雨の中を歩いている時だった。もう日は落ち、街頭の光の下をとぼとぼと歩いていく。
「アスカ?」
突然の声。でもまるで予感していたかのようにアスカは答える。
「はい?」
「湖に飛び込んじゃった人間は、一回死んで、帰ってきた? それじゃあ今のアスカは、誰?」
いつかの質問。アスカに課せられた、最終試験だった。
「惣流アスカ。じゃないわよ? だって、誰も死んでないもの。あたしは、アスカ・ラングレー、あんたは、六分儀レイ。そうでしょ?」
誰も死んでいない。その宣言こそ、惣流アスカと、綾波レイの死亡宣告だった。
「オーケイ。合格だよ」
「ねえ。訊いていい?」
レイとアスカの会話を聞いていたヒカリが、会話に割り込んできた。
「何?」
「あの、『サード』の子には、会えたの?」
ふむ、とアスカは考え込んだ。シンジ。どうやら自分が名付けたらしい彼のことを、彼女に言うべきだろうか?
しかし、次の瞬間には、レイが言葉を続けていた。
「んなわけないじゃん洞木さんっ。だってそれ、私が考えたんだもん。下の名前がない、屋上の君、サード・チルドレン」
英語が少し苦手なレイが単語の単数複数を間違えた。その通り、初期設定では、彼には名前はないはずだ。
彼には名前はない。
たとえ、彼女たちが何か思い出していたとしても、それは目前に迫った死が見せた幻想であるはずだ。
「それを言うならチャイルド、でしょ。ったく、作文ばっか書けりゃいいってもんじゃないのよ。馬鹿」
「そんなのアスカが言っても説得力ないっ。ズルイよ、バイリンガルのくせにー」
「ぶー、トライリンガルでした」
「えー! マジでー! ……つーかそれって何?」
そのやり取りを聞いて、ぷっ、っとヒカリが吹き出した。そうだ、それでいい。アスカはヒカリに笑いを貰って、声を出して笑う。そうだ、それでいい。もう、私たちには本当の名前も、あの屋上の彼も、必要ないんだから。
「あははははは!」
そのまま、ひとしきり笑ったあと、ヒカリは、駄目押しの言葉を述べた。
これこそが、彼女が成した、一番偉大なことだ。
「もひとつ、訊いていい?」
「? どうぞ?」
「アスカじゃなくて、六分儀さんに」
「ほえ? 何? 洞木さん?」
「……私のことは、『ヒカリ』って呼んでくれないの?」
そう一息で言って、ヒカリは少し口を膨らませた。レイは一瞬、きょとんとした後、さっきのように控えめに微笑んでから、元気良く
「オーケイ! ヒカリ! って呼ぶよ。私も、レイ、ね?」
そして雨の中、三人の女の子は、親友になった。
もうアスカはあれほど逢いたいと思った少年の名をもう思い出せなかったし、レイもまた、あの時はっきり見たはずの少年の顔なのに、思い出すことはできなかった。
近いうちに、彼女たちは少年をかつて思い出したことさえも忘れてしまうだろう。彼女たちの幻想の中にかつていた少年は、始めからどこにもいなかったからだ。誰しも、脱ぎ捨てた物語はいち早く忘却の彼方へと追いやる。
そしてその後にも、彼女たちはしっかりとこの世界に生きていく。
芦ノ湖の湖面が小さく揺れた。誰も見るもののいない場所で起きた漣を作り出したのは遠い世界の誰かなどではなく、この世界に吹く風に違いなかった。