- The rest stories of "Project Eva" #04 -

"悪魔の証明 前編"

1

ある朝起きて、誰かがいないことに気付く。でもそれが誰だかは……分からない。確かに昨日まで誰かいたはず、なのに、誰がいなくなったのか思い出せない。ふっと思い立って周りを探してみる。当然のように彼(彼女かもしれない)の物は、何もない。洗面所の歯ブラシが足りない気がする。食器も足りない。あれ、あの部屋、空き部屋だったっけ?

そんな風に彼女(もしくは、彼)の不在を確かめるほどに、心に不安が積み上げられてゆく。彼(もしくは彼女)はどこに行ってしまったんだろう? 持ち物まで全部持って、自分の知らない間に、いったい、どこへ?

頭を抱えて、何か思い出せないか悩み、玄関のドアまで開けて探してみたりする。そして、ついにはめぼしい知り合いに電話を掛けて「そちらへ誰か行っていないか」などと訊いてみる。

しかし、返ってくる答えはどれも同じ。「知らない」「誰も来ていない」「良く分からないんだけど?」「何を言ってるの?」「誰?」誰に訊いても同じ言葉が繰り返され、二周目に入る頃には、多くの人々の口からこんな言葉が出始める――「ねえ、大丈夫?」「疲れているんじゃない?」……そして、ついに誰かが自分に告げる。

「そんな奴、もともといないんだろう?」

そう言われて、やっと自分がおかしなことを言っているのに気付く。そもそも誰かいたのか? もともと誰もいなかったんじゃないだろうか。自分の知り合いが誰も知らない人なんて、いるわけがない。彼女(か、彼かも分からない)がいたという証拠は、どこにもない。どこにも、見つからないのだ。

自分の、思い違いに過ぎないのではないか?

きっとそうだ。何の証拠もないのだから。そうとしか、考えられない。確かに誰かがいなくなったような気がする。しかし、それは多分気のせいだ。歯ブラシは最初からあれだけしかなかったのだ。食器は恐らく流しに置きっぱなしにしている物を置くべき隙間だ。あの部屋は、もともと空き部屋をもてあましていたのだ。

そうやって、自分の中にあるざわざわした気持ちに区切りをつける。


……しかし、本当に、そうだろうか?

あなたは、その『誰か』が『いなかった証拠』を、どこで見つけた?


これは、そんな類の物語だ。

2

アスカが目を覚ますと、見飽きた天井が目に入ってきた。ふっと寝返りを打つと、日の光が目に飛び込んできたので、反射的にきゅっと目をつむって身体を起こす。ううん、などと情けない声をあげながら時計を見れば、長身は文字盤の頂上、短針はその反対側にあった。

午前六時ちょうど。朝のニュースが始まる時間だ、早すぎる。

しかし。早すぎるとは言え、二度寝すれば今度は昼まで寝てしまうだろう。自分で起きなければいけない。アスカはそのことを強く念じて、睡眠を欲する身体に鞭打ち、動かない身体に懸命に命令を送って、ついに足をベッドから床に下ろした。

思わず「……勝った」と呟く。

そうして、とりあえずタオルを出して顔を洗おうとドアを開けると、見慣れた同居人の顔がそこにあった。

「おはよ、アスカ」

無視して通り過ぎようとするものの、その腕に阻まれる。

「何よー」

「何よ、じゃないわよ。幾ら低血圧でも挨拶ぐらいしなさいよ」

「はいはい。おはよーございます、家主様」

「何よその鬱陶しそうな声は。万年反抗期娘」

「うっさい。朝っぱらからテンション、高い。三十路が」

痛。アスカはしたたかに(と言っても、相手は軍人なのだから、かなり手加減されているのだろう)殴られた。やっぱりテンションが高い。……まあ、テンションが高くても仕方ない、か。そう考えて、アスカはかすかなため息と共に、誰に見せるでもない微笑を浮かべた。

ここ数ヶ月最悪の関係だった同居人にも、優しい気持ちになるというものだ、こんな朝には。


こんな朝?


そうだ、今日は、サードインパクトを越えてやっと辿り着いた安眠の朝なのだから。多少同居人のテンションが高くても、許してあげてもいい。

「って言うかさ、何でこんな時間に起きてるのよ? どうせ泥みたいに寝てると思ってたのに」

「それを言うならアスカだって同じよ。もっと寝ててもおかしくないじゃない」

そう問われて、アスカは少し思案した。何故今日は、こんなに早く起きたのだろう。考えてみても良く分からなかった。ただ「このまま睡眠欲に身を任せていては、ちょっと困ったことになるだろう」そう思ったのだった。それだけだ。

だからそのまま訊き返してみる。

「何でだろ」

「いや、私に聞かないでよそんなの。……ん、疲れすぎて寝れないのかもね、あなたも私も。ま、いいわ。シャワー浴びてらっしゃい。ごはん、買ってきたげるから」

そんな風に適当な理由付けをしてミサトは話を打ち切った。しかし、言いながら、少し違和感を感じる。普段って、どうしてたっけ? そんな思考が一瞬、頭をよぎる。そして、まあ、当然か、と思い直す。確かにここ数週間、今彼女の目の前で少しだけ可愛げのある小生意気な表情をしている少女と一緒に朝食を取ることはほとんど無くなっていた。あったとしても、お互い、早く終わらせたい思いで一杯だったから、その内容などろくに覚えていないのだ。

こんな風に優しい気持ちで朝を迎えられる日が来るなどとは思えないほどだった。

だが今は、目の前にいる女の子の方がこんなに何事もなかったような優しい表情をしているのだから、きっとそれでいいのだろう。全ては、過ぎたことだ。

アスカは笑ってミサトの申し出に答えた。

「あ、サンキュー。あたしデニッシュね。卵の奴」

「了解。それじゃ、お茶でも入れといて」

Ja, sicher.(かしこまりました)」


バスルームに入り、蛇口をひねる。熱い湯に流されてべたつく寝汗が落ちてゆく。本当は朝風呂が好きだったのだが、時間がないし、仕方がない。それに、いちいち風呂の湯を調節するのは面倒くさい。

……何だ、使徒との戦いが終わった途端、自分は老けちゃったのか?

そう思い、ちょっと切ない気分になる。

明日からはまた入ろう。そう決めて、アスカはバスルームを後にした。

頭を簡単に拭くと、食器棚からポットを出して、水を入れて火にかける。今日は水道水ではなくミネラルウォーターを使う。庶民的だが、少し贅沢気分である。ぼうっとコンロで沸いてゆく水を眺めていると、何だかむずがゆいような変な気分になった。平和すぎるからかな、そう思いながら、沸いた湯をカップに、ティーバッグをポットに入れる。

そしてちょうどカップが温まったころ、玄関の戸が開く音がした。

「ただいまー」

「お帰りー、お茶、入ってるわよ」

買ってきたパンと、淹れたての熱い紅茶。悪くない朝食だ。これで手作りだったらもっといいのだけれど、贅沢は言えない。

「今日、どうするの?」とアスカは訊いた。

ミサトは自分の分のパンを紅茶で飲み下してから答えた。

「とりあえず本部に行く、でいいでしょ? どっか行くとこでもあるの?」

「まさか。でも、入れるわけ? あたし死んでもイヤだからね血だらけの廊下とか歩くの」

「それは……大丈夫よ。だって、死人なんて、そんなに出てないし。発令所は生きてるから」

「そっか、ならいいけど」

爽やかな朝に似合わずその会話は少しえげつないが、戦争をしていた昨日に比べれば、全くましだった。もう少し時間が経てば、罪の意識などに悩まされる日が来るのかも知れない。しかし、今は感覚も麻痺していて何も感じなかった。記憶も混乱して、ところどころ飛んでいる。

「とりあえず、着替えたら行くわよ。いいわね」

「分かった。……ま、先に着替え終わるのはあたしでしょうけど」

そういうとアスカは、はあー、と大げさに言って、目の前で気だるげにカレーパンの残りをぱくつくミサトを見た。外に行ってきた後だというのに、彼女は薄い肌着にジーンズの短パンという出で立ちだった。コンビニの店員に見せびらかして何が嬉しいんだか。っていうか、そもそもコンビニって、どこにあったんだ? アスカの頭に幾つかの疑問が浮かんだが、さすがは作戦部長、というよく分からない理由で肯定しておいた。


サード・インパクトから丸一日が過ぎ、世界はゆっくりとだが、また回りだしつつあった。サード・インパクトによって、なし崩し的にネルフと戦略自衛隊との戦争(後の歴史には「一日戦争」とでも記録されるのかも知れない)は終わった、ようである。日本政府とネルフ、もとい国連との間に何らかの話し合いがもたれ、アスカやミサトを始めとしたネルフ職員たちの名誉も回復された。そして今も、もはや隠す必要もなくなったジオ・フロントでは事後処理が行なわれているはずだ。

しかし。

サード・インパクトが何であったのかについては、未だ、誰にも分からない。皆が覚えているのは、サード・インパクトの始まりと、終りだけ。本当に「気がついたら」終っていたのだ。昨日いったい何が起こったのか。今日マギのレコードを見て、初めて、真実が分かる。

「行くわよー」

「ちょいまち。……おっけ」

玄関を出て、鍵を閉める。アスカは先を歩くミサトの肩に手を置いて、履きかけの靴に足を押し込んだ。

今日、ネルフ本部に久しぶりに主要メンバーが終結する。真実が明かされる場だ。是非とも、この目で真実を確かめなければ。アスカは静かに決意を固めた。昨日までは焦りだの苛立ちだのに支配されていたのに、全てが終ってしまった途端にとても殊勝な気持ちになる……なんて変だけれど、全てを見ること、それがただ……ただ一人生き残った、エヴァ・パイロットの役目に違いない、と、アスカは確かに思うのだ。


二人を乗せたすでにぼろぼろの車は、やっとこさ、という感じで走り出した。この車に良く似合うガタガタの道を、ゆっくりと走る。窓から外を眺めれば、そこにあるのは、湖ですらなくなって巨大なクレーターになった第3新東京市跡地と、そこかしこに乗り捨ててある熱で飴のようにひしゃげた戦車、そして、昨日と同じ青い空と入道雲だった。クレーターの中には、恐らく昨日の「白ウナギ」、エヴァ・シリーズの死骸があるのだろう。アスカが一度潰し、その後、恐らく初号機とそのパイロットが止めを刺したそれが。そして、最後の最後まで、アスカだけは守り抜いた弐号機の死骸――ママの抜け殻も。

おぼろげな記憶。昨日、あそこで戦ったと言うのに、それらはもう数年前の出来事のように思えた。

「……何か、大昔のことみたいな感じね」

ミサトが、まるでアスカとシンクロしているかのように言った。アスカは内心、気持ち悪、と思いながらも律儀に答えた。尊大に振舞っている外面を取り払えば、元来彼女はこういう律儀な性格なのだ。

「何言ってんのよ、あたしはまだ身体の節々が痛いのよ? お嫁に行けないわよ、これじゃ」

「なーに言ってんのよ。アスカがお嫁さん、ってタマ? どっちかって言えば婿取りじゃん」

そういうと、ミサトは、まるでクラスの男の子が噂になった男子と女子を相々傘を書いてからかうような感じで、くすくすと笑った。少しぱさついているその黒い髪が、風に揺られてなびいた。

「……どこにいるってのよ、どこに」

アスカは憮然として答えた。アスカの身近に男なんていない。学校の皆はとっくに疎開済みだし、チルドレンだって、残っているのはアスカだけだ。

その言葉を聞いて、ミサトは妙な表情をして視線を前に戻した。

「……そうね。何言ってんだろう、私は」

全く、変な女だ。そう、冗談でなく思い、アスカは今日何度目かのため息をついた。疲れている、ということなのだろう、彼女も。

ふと、会話が止まった。お互いに、その会話に何かしら違和感を感じていた。何か、喉の奥に骨がつっかえているような感覚が残る。やはり、ストレスで少し精神に来ているのかも知れない、とアスカは今度は自分も含めて考えた。短時間とはいえ、彼女達は紛れもなく殺し合いをやっていたのだから。

無言の二人を乗せたまま、車は「元戦場」を走り続けた。

3

事後処理に精を出す職員に少々悪いことをしているような気持ちになりつつ廊下を歩く。アスカや、その他、ある程度の地位にあった職員は事後処理には直接関わらない。表向きは「休暇中だから」だが、その本当の理由は、どうせしょうもないことなのだろう、とアスカは思う。

廊下を抜けてブリッジに上ってみれば、既に主要メンバーは集まっていた。どうやらアスカとミサトが最後らしかった。ここにいる人々は、誰もが避難し、戦線離脱する中、ネルフを最後まで動かしていた人々だ。サードインパクト直前会戦が始まる直前までかなり長い期間病院に居たアスカにとっては、久しぶりに見る顔が並んでいる。オペレーター三人組――青葉シゲル、日向マコト、伊吹マヤ。そして赤木リツコ。そして、副指令、冬月コウゾウも。

「……あれ、司令は?」

アスカはきょろきょろと周りを見回した。あの見慣れた黒い詰襟姿が見当たらない。

ミサトはアスカが気付くより前にそれに気付いていたようだった。さっと横にいる日向の肩を叩き、訊いた。冬月に訊かなかったのは、あんなことがあった後では、仕方ないのかもしれない。世知辛くなるので、アスカは深く考えるのは止めておいた。

「……日向君?」

「はい。司令は……どうやら、行方をくらましているようです」

「行方を? どういうこと?」

「それは、僕にも……」

どうも判然としない。日向もミサトも眉をひそめていた。アスカは息の詰まりそうな空気をふうっ吐き出し、もう一度ゆっくりと周りを見回した。もっと下の階層には未だ血で汚れているところがあるが、この階層は、手すりに銃痕が残る以外、ほとんど傷もない、最後に見たときのままの様子だった。そして、その辛うじて残った空間に、十人足らずの「主要メンバー」が集まっている。

しかし、「主要」とは言うものの、良く見てみれば、みんな何かしら不安げな表情をしていた。

この船の先のように大きいブリッジの上で、いい大人が雁首揃えて何をやっているんだろう、とアスカは思った。あの嫌な司令も、なかなか大きな存在だった、ということなのだろうか。


そこかしこで疑心を確認しあう彼らの思考を遮るように、冬月が言った。

「集まったようだな。……ここではなんだ、ミーティングルーム……ではどうかね? 赤木君?」

アスカ達の方を向き、冬月にちょうど背中を向ける恰好になっていたリツコは、少し憔悴した表情を浮かべていたが、それでも少し思案して、冬月の方を振り返り、言った。

「……ええ、構いませんわ。ここで行なうより、目立ちませんし」

そのリツコの言葉に従い、彼らはブリッジを後にした。アスカは、もう一度手すりから下を覗き込み、人の形に貼ってある白いビニールテープを見てから、彼らに続いた。


ブリッジから出て数分、ミーティングルームに主要メンバーが集まった。スクリーンを囲むように長机が並ぶ中、思い思いに席に着く。アスカ、ミサト、そして日向、青葉と続き、少し離れた位置に、冬月が座った。リツコと伊吹は、彼らとは逆側の、スクリーンの操作をする側に座っている。

口火を切ったのはやはりミサトだった。周りをぐるり見回した後、リツコと冬月を少し睨み、言った。

「さて、教えていただける? 昨日、何があったのかを」

そうして語られた内容は、大方理解していた通りだった。エヴァ・シリーズは弐号機が一時的に殲滅した後、復活。起動した初号機に拠って殲滅。しかし、レコードのデータからは、司令の思惑は止まらず、地下のリリスと綾波レイによって結局サードインパクトは不完全ながらも起こり、それは初号機を巻き込んだ後、アンチAT-フィールドとAT-フィールドの一時的な対滅現象(と、言うらしい)を起こした。そして、固体生命の一時消滅が起こった後、AT-フィールドが再構成された、と考えられる、らしい。

アスカにも容易には理解できなかったが「私たちは一瞬、消えちゃって、復活したってこと?」そのミサトの言葉が、殆どが理解したところを、ほぼ正確に表していた。

「初号機は?」

アスカは訊いた。リツコは言った。

「宇宙の彼方」

「それって……!」

「そう、パイロットと、共にね」

そうだったのか、と、アスカは何故だか少し、肩の荷が下りたような気分を感じていた。しかし、すぐに、強烈な違和感を覚えた。そして、ぐるりと周りを見て、その理由を理解した。人類が始めて実現した永久機関――S2機関と、それを得たエヴァによって、初号機パイロットは生き続けるだろう。それはつまり、そのパイロットの彼(か、彼女)は、永遠の孤独に放り出されてしまったということだ。彼が狂うまで……いや、狂っても、彼は死ぬこともできず、永遠に独りで星の海を漂い続ける。しかし、それを知ってなお、それを悲しむ者が、誰一人としていなかったのだ。

自分を含めて。

そして……ここに来て、気付く。

初号機のパイロットって誰だ?

名前が、思い浮かばない。いや、それだけではない。アスカは「彼か、彼女」そう考えた。ということは、つまり、その「彼か、彼女」の性別すら、彼女は覚えていないのだ。必死で考えてみても、何も思い出せない。男か女かから始まり、次々と、考えていく。人種は? 年齢は? 髪の色は? 目の色は? 肌の色は? 髪型はどうだったっけ? 痩せていた? それとも太っていた? 顔立ちは?

そして、思いつく物を全て確認してから、アスカは驚愕した。何一つ、思い出せないじゃないか、と。

少しずつ事実を飲み込んだらしい他の人々が部屋から徐々に消えて行っても、彼女は呆然と椅子に座りこんだまま、そのことを考え続けた。

4

声を掛けられても、しばらくそれに気付かなかった。

「アスカ? ……アスカ!」

はっと気付いて見上げれば、かなり長いこと呼びかけていたのだろう、ミサト、リツコ、そして伊吹が、心配そうな表情でその顔を覗き込んでいた。

少しの苛立ちと共に、アスカは言った。

「……何よ」

「何よ、じゃないって。どうしたの? そんなに、泣いて」

え? そう思ってアスカが自分の頬を拭ってみれば、確かに彼女は泣いていた。掌をじっと見つめる。そして、彼女はすぐ近くにあるミサトの腕を引いて、訊いた。その顔は、不安になった子供が浮かべるような、必死の表情だった。

「……ねえ? 何であんたたちは、そんなに平気なのよ?」

アスカの必死の表情にも少々引きつつも、ミサトはむしろその言葉に疑問を抱いた。

「何言ってるの? アスカ」

「だって……だって……パイロットは! パイロットはどうなるのよ!? 宇宙の真っ只中に、たった独りで放り出されたんだよ? なのに! 何であんたたちはそんな平気な顔してられんのよ!?」

ミサトの耳元で、アスカは叫んだ。また、アスカは泣いていた。何が悔しいのかも分からなかったが、酷く悔しかった。自分がパイロットのことを覚えてあげていられていないのが、悔しいのかも知れない。朦朧と、そんなことを考えた。

ミサトは、目を見開いて……ゆっくりと、アスカを抱きしめた。ふわり、とアスカの鼻梁にミサトの髪が触れる。何もつけていない髪から、ほんの少し、シャンプーの臭いがした。

「……ごめんね、アスカ。大丈夫なわけ、なかったよね?」

「……何? どうしたの?」

今度は困惑しきって、アスカは訊いた。首を回せば、そこでは、自分を見て泣く伊吹がリツコに慰められていた。自分は、何かおかしいことを言っているのだろうか?

「大丈夫、何も心配しなくていいのよ」

ぽん、とアスカの頭にそっと手を置いて、ミサトは、ゆっくりと諭すように言った。

「初号機には、誰も乗っていなかったんですもの」


モニターの前で、アスカは目を見開いていた。そこには、対使徒戦初戦からの映像記録が映っていた。

「何……何、これ?」

そこには、見慣れたはずの記録があった。

パイロットがいないことを除いては、だが。

「初戦からの映像記録よ」

努めてそっけなく、リツコは言った。彼女にとっては、多少動揺はしたが、予想の範囲内の出来事であったので、あくまでも、決めていた基準に沿って行動した。彼女の主治医としてだ。

「パイロットが……いないじゃない」

「ええ、初号機は、無人機だったもの」

「無人機?」

「そう、無人機。正確に言えば、TPMM――テイクド・イン・パイロット・マニピュレーション・モデル。初号機は、ネルフ総司令、碇ゲンドウの妻、碇ユイを取り込んでいて、初号機は基本的には彼女の意思と、外部命令によって動かされていた」

「でも……あたしは……」

「アスカの機体、弐号機は、HPMM――ハーフ・イン・パイロット・マニピュレーション・モデル、アスカのお母さん……惣流・キョウコ・ツェッペリンの一部を取り込ませた機体を、その血縁者が動かす、コア交換が可能なユニット・システム。そして、零号機も、ほぼ同等の技術で動作していたわ。そして、量産機には、その技術の廉価版のAPMS――オート・パイロット・マニピュレーション・システムが採用されたわ。……覚えて、ないのね? それを」

アスカには、リツコの述べた、聞いたことがあるはずの言葉が、初めて聞く言葉のように思えた。

「そんな……パイロットが……パイロットが……いないなんて」

ただ、呟き続ける。リツコは、そんなアスカを見てその肩に手を置き、言った。

「ねえ、アスカ、こっちを見て」

「……?」

「はっきり言いましょう。アスカ。あなたの『症状』は、精神的ストレスによる一時的な記憶の誤認と考えられます。私は主治医として、少し……そうね、一月の自宅療養と、薬を処方します」

「症状……? 何言ってんのよ。あたしは、どこも、おかしくなんか、ない」

そう言って、アスカは顔を上げた。駄目だ、ここで妥協したら、自分はただの、病気だ。

「そうよ、おかしくなんか、ない。確かに、あたしはパイロットを知ってる。ただ、思い出せないだけ。それだけよ」

「何故、思い出せないのかしら? ……もともと、いないからよ」

はっきりとその症状を「病気」と告げた以上、もはや誤魔化すのは無駄であると判断したリツコは、ただ淡々と、論理によってその発言の矛盾を突いた。

しかしアスカは、どうにか理解した先ほどの彼女の言葉を使って、反論した。

「……どうしてそんなことがわかるの? さっき、言ったじゃない。『再構成された』って。一度は消えちゃったんでしょう? それなのにどうして――どうして、ここに今あるものが、消えてしまう前にあったものと同じであるなんて言えるの?

アスカの言葉に、ぐっ、とリツコが言葉に詰まった。

確かに、そうだ。再構成されている以上、今あるデータや記憶が、何者かによる捏造でない、とは証明できない。確かに、それはその通りだ。

そして、彼女の科学者としての思考が、考えられる可能性をあげていく。その可能性を否定できない。ならば、少しでも、自分に不安があるなら、軽々しく他人を病気であるとは判断できない。

たっぷり数十秒黙ってから「それなら」と、リツコはアスカに言った。

「判断を保留したいわ。……少し、時間をくれる? アスカ。明日もう一度、ここに来て。ミサトも、連れてね」

そういい終わると、金髪の科学者はまた、思考とデータの海に沈んだ。そこにあるかも知れない、小さい穴を探すために。

5

翌日、リツコの研究室に現れた二人に、リツコはゆっくりと会釈した。未だ、彼女達は待機状態が続いている。

「来たわよ、リツコ。何か面白いこと、聞かせてもらえるのかしら?」

すっかり借りてきた猫のように大人しくなったアスカの変わりに、ミサトがそう啖呵を切った。

「……あるいは」

そう切り出して、リツコは自分の考えたこと……、そして、それに伴う、ある男とのやり取りについて話し始めた。

「いい? この世界は、恐らくサード・インパクト後に再構成されたものよ。それは、地球の位置などの観測結果を見てもほぼ間違いないわ。サード・インパクトの影響は、この星の重力圏内での出来事であると考えられるから、これは確実。……でも、気になって調べていたんだけれど、マギのレコーダーが止まっていた時間と、実際の経過時間の間に、数時間のズレがある――即ち、サード・インパクトの発生から、世界の再構成までに、ほんの数時間、間が空いたことになるのよ」

「……それって、どういうことなの?」

アスカの問いに、リツコがあっさりと言った。

「解からないわ」

「ちょっとリツコ? 何を言うのよ」

「嘘は吐けない。……ただ、そのことで、副指令が、意見を述べられたのよ」


リツコは、結果を確認すると、冬月の元へ急いだ。自分を除けば、この類の話に1番確かな見解を持てるのは、形而上、即ち哲学の専門家である彼しかいないからだ。

「……何かね? 赤木君」

訝しげにそう問うた冬月は、しかしリツコの話す内容を聞くと、静かに頷き、考えた。

「すまないが、少し時間をくれないかね? そうだ、さっきのミーティングルームで、待っていてくれないか」

しばらくして、ミーティングルームに冬月が現れた。

彼は、ゆっくりと部屋の奥に歩き進んだ。部屋の奥には今さら、という感じでホワイト・ボードが置かれている。

冬月は、ホワイト・ボードの前で立ち止まると、そのつるつるした面に磁石で張り付いているペンを取り、きゅ、きゅ、きゅ、きゅ、とひし形のようなものを描いた。図形の辺は曲がっていて、ゆらゆらと揺らめいている。そして図形を描き終わると今度はその中に、きゅるきゅる、きゅるきゅる、と波線のような模様を書き込んでいった。

一通り図を描き終わると、彼はホワイト・ボードの横に立ち、こちらを向いた。その姿は司令の隣に立っていたときにも増してとても自然で、この人が先生をやってたというのも、嘘ではないのだな、とリツコに思わせるのには十分だった。

そんな感想を抱いている彼女を他所に、彼はゆっくりとその、奇妙な説明を始めた。

「例えば、世界を二次元の……実際には三次元だが、の布だと想像する」

そうか、その図は、布の絵か。と今さら気付く、まあ、見えなくはない。

「すると、これには皺……『世界の歪み』がたくさんある。ちょうどこんな風に」

そう言いながら、図に波線を増やしていく。数秒で、まだ奇麗だった布の絵は、皺だらけのくしゃくしゃの布の絵に変わった。布を書き換えてしまった彼は、今度はボードの逆側に立って、言った。

「残念ながら、ここにはアイロンはない。しかし、皺を伸ばすことは可能だ」

何を言っているのだろう? 意図が分からない。これでも博士号を三つ持っているんだけれど、と思うも、さすがに本職の哲学者の話にはついていけない。リツコは眉を寄せて、首をかしげた。典型的な「分からない」の表情だった。

「……?」

少し経っても疑問の表情のままのリツコに、冬月は突然「すまんが、君の白衣と、そのヘアピンを貸してもらえんかね?」と言った。

彼女は、さらに眉の皺を深くして白衣を脱いだ。そのまま、冬月に手渡す。

ちょうどボードに書いた絵と同じように皺々の白衣と、何時から付けっ放しなのか分からない脂っぽいヘアピンを手渡されると……彼はそれを、ボードに引っ掛けた。パタパタと、磁石で留める。ボードのインクが白衣に付くことが気に入らない彼女が嫌な顔をしたが、それはお構いなしだ。

そして。

「即ち、こうだ」と言うなり、冬月は白衣のまん中をつまんでひねり上げ、ヘアピンで留めた。

「ほら、こうやれば皺……即ち、『世界の歪み』は見た目のうえでは解消されるというわけだ」

確かに。その白衣は、引っ張られる力でぴんと張り、ボードに張り付いている。恐らく、ボードから引っぺがせば、全面に彼の描いた絵が写っているだろう。

「……そして、歪みはつまみだされ、私達……この机の上の地平に住むものからは見えなくなる」

「そんな……!?」

リツコは疑問の表情を隠さなかった。確かに、考え方としては理解できる。が、しかし、それは……

「それは、科学ではありません、副指令。反証が、不可能ですもの」

反証可能性。提唱された仮説が間違っているか否かを証明する方法が存在すること。もっと簡単に言えば、その理論が、なんらかの証拠によっては覆される可能性があることだ。観察でも、実験でも良い、何らかの方法で、仮説は証明でき、また反証できなくてはならない。実際に反証はされなくとも、科学的な仮説はその性質を備えていなければならない。

それが無ければ、科学的な仮説とは、言えない。

「ポパー、か。確かに、この説は、仮説ですらないかも知れないな」

「……でしょう?」

リツコは言った。口の中が乾き、異常に喉が渇いた。しかし、目の前にいる男は全く動じてはいなかった。

自らの思考の枠組みが崩れることに、全く動じない。

強い。

――これが、哲学者というものか。リツコの思いを受けるように、冬月は答えた。

「しかしだ、赤木君。私達はもう、"精神が物質に優越する"ことを、"精神が物質の在り様を決める"ことを知っている。精神は即ち、意味、言葉、思い……AT-フィールドとは、そう言う存在なのだよ。そして、AT-フィールドにしろ、槍にしろ、形而上のモノが形而下の物質に影響を与えうることは、証明されている。この使徒戦でな。解かるかな? もう既に、私達は、前世紀の科学者たちや哲学者たちとは、別の地平にいるのだよ」

「しかし……そんなこと、ありえませんわ!」

あくまでも既成概念に縋るリツコに、冬月は最後の一撃を加えた。

「既に、『ありえないこと』を君は幾つも見たはずだろう。なのに、何故、これが無かったと言えるのかな?」

リツコは、その意地悪い――そして、自分に何を言わせるのか明白な言葉に、無理やり笑みを作って、言った。

「それは『悪魔の証明』です、副指令」

「そうだ。だが、それはあくまでも、責任の問題なのだよ、赤木君。真実は、誰にも分からない。神以外に知るものは無い」

「見つけた神様で罪を犯したために、受けた罰ではないのですか?」

そう言うと、冬月はふっと笑って、懐かしむように言った。

「あいつが君を愛した理由が分かる気がするよ。君は、ユイ君に似ている」

リツコは冷たい笑いを浮かべた。聞いた者が全く嬉しくない、最悪の世辞だった。

- The rest stories of "Project Eva" #04-05 - "Who asked you to flatten out this world ?" to be continued...
first update: 20040925
last update: 20060103

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作者:north
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悪魔の証明(powered by Wikipedia)
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