- The rest stories of "Project Eva" #05 -

"悪魔の証明 後編"

6

アスカは玄関を走り抜けると、家を根こそぎひっくり返して「証拠」を探し始めた。どこかに証拠はないか? 彼女(か彼)がいた証拠は。洗面所の歯ブラシが怪しい。食器は? あの食器棚のスペースは何?……あの部屋、あの空き部屋は何故空いてるの?

ミサトの目の前で、彼女に気付かないままアスカは部屋のあらゆるところを探している。それが何かも分からない、あるかどうかすら分からないものを探して、代わり映えしない洗面所や、まだ食器をしまっていない食器棚、そして、物置部屋を調べている。アスカは必死だった。その常軌を逸したような表情を、ミサトは目に涙を浮かべながら見て……ゆっくりと、玄関のドアを閉めた。

「もしかしたらあなたの話は間違っていないかも知れない」などとは、死んでも言えない。

7

リツコは冬月が自分に語ったその奇妙な説を、ミサトとアスカに伝えた。もちろん、自分が碇ユイに似てるなどと言った彼の戯言を除いて、だ。

「何よ、それは」

部屋に訪れた沈黙を破ったのはミサトだった。隣に座るアスカは、何も言わず俯いている。ミサトは立ち上がって、執務室の机を叩きながら言った。やっと自覚した「自分の家族」を守ろうとするように。

「何なのよ! 何が『ハンカチ』よ、何が『つまみ出す』よ! そんなの全部、机上の空論じゃない!」

はっと顔を上げたアスカが目を見開く。ひくひく、と肩を動かす彼女の表情には、怯えがあった。ある日自らが「狂っている」と宣告されてしまった怯え。ミサトの言葉は、その意図とは裏腹に守るべき者をぐっさりと傷つけてしまっていた。

「空論……」

ぽつりとそれだけを述べたアスカの顔を振り返ったミサトは、しまった、という表情をしてから視線を前に戻し、声のトーンを落としてリツコに言った。

「……ありえるの?」

「まさにさっき言った『悪魔の証明』だけれど、ありえない、とは言えないわ。確かに、この世界のものが、精神に支配されることが分かった以上、意味空間の書き換えは、物理空間の書き換えと同義よ。誰かがこの星に住むモノの精神・意味・意識、どう表現してもいいけれど、それらを根こそぎ書き換えてしまえば、物理的事象も、それに則して変化していく。ねえ、ミサト。『複雑系』という言葉を知っている?」

「物理用語は範疇外よ」ミサトはあっさりと言い切った。

リツコはため息をついて説明を始める。

「気象、人々の動き……この世界におけるマクロな事象は『複雑系』であると考えることができるわ。このような系では、多様な因子が絡む上に、それぞれの因子同士も影響を及ぼしあうから、振る舞いを一般的な方程式として解くことはできなくなる。そうね、じゃあ、『カオス』なら知ってるかしら? これは複雑系とは少し違うけれど、非線形方程式で表されたこの系は、初期条件の違いによって予想もつかないようなとても複雑な振る舞いをするの」

「カオス……あの、『東京で蝶が飛べば』――」

ミサトは戦術理論で少しだけ習ったことを口にした。リツコがその言葉を続ける。

「『ニューヨークで嵐が起こる』俗にいう『バタフライ効果』ね。そう、解かりやすく言えばそういうことになるわ」

「要するに、どういうことよ?」

「この世界は私達が思っているよりもずっと不確定だってことよ。振る舞いだけじゃないわ。究極的には物質の存在さえ、確率で表すしかない……それがこの世界なの。つまりね、もし、私たちの精神が根こそぎ書き換えられてしまえば、そのことが物理的な確率に有意に作用する可能性がある。それによって生じる偏りの一つ一つは、とても小さいけれど、それらが結果的には系全体――私たちのいるこの世界全体に大きな影響を与える可能性がある。かつてなかった物があったかのように事象が動き出し、記憶が書き換えられるということがありうる。そうなってしまえば、私たちはそのことに気付くことはできない……」

自分にはついていけないほどスケールが大きくなっていくリツコの話とそれを語る彼女の倒錯した表情に、ミサトは深いため息と共にいからせていた肩を大きく落とした。ミサトは頭を振りながら立ち上がり、アスカの後ろに立ってその肩に手を置いた。リツコの視線の上で二人が一つに重なる。リツコははっとして口をつぐんだ。彼女の前にいるミサトはいつになく深刻な表情をしていたからだ。二日前……戦略自衛隊との戦闘の時には見せなかったその表情は悲壮ですらあった。そこには戦闘の時にいつも、何とかしてやるという闘志をほとばしらせる彼女ではなく、家族に起きた危機に不安を感じ、それを真剣に悩む女がいた。

肩に手を置かれたアスカが、不安げな表情でリツコを見た。

「……ねえ、あたしはどうすればいいの?」

「……さっきの説は、あくまでも仮説よ。実際には……」

「それを言うなら」

リツコの話をアスカが遮った。声は弱々しいが、はっきりとした口調だった。リツコは、目の前にいる少女がこの歳で大学を卒業した才媛だということを思い出した。

「全ての科学理論は『反証されていない仮説』よ」

「そうね。……でも、例えそのパイロットがいたとして、彼、あるいは彼女は、元の世界を拒絶して、自分のいないこの世界を創った。神のごとく振舞ってね。たとえリリスや初号機、そしてアダムが人類に比べて強大な存在であるとしても……ヒトの意思は無視できないもの。この世界は、彼か彼女が望んだ結果だわ。それなら……彼か彼女を探すのは、意味が無いわ。そして……その可能性と、あなたが病気であるという可能性は、等価なのよ。あなたは病気であるとも言えないけれど、違うとも言えない。だから……薬は出さないでおくから、ひとまず休みなさい、アスカ。今まで頑張ったんですもの、例え十年休んだって、誰にも文句は言われないわ」

そう言うとリツコは、ミサトを見上げた。

「あなたもよ、ミサト。事後処理が心配なのは分かるけれど、身体を壊しちゃ身も蓋もないわ。どうせ、この組織は解体される。でも、私もあなたも、公務員なんだから身分は保証されるわ。心配なんてしなくていいの。何も考える必要なんてないのよ。私も疲れてるわ。もう髪もパサパサよ。……だから、そう、休憩しましょう」

そう言ったリツコの顔には、疲れた末の微笑が張り付いていた。そうか、とミサトは今さらながら、彼女が愛する男を失ったのだということに思い当たった。そうだ、私たちには休養が必要だ。身体と、そのあり方を決めるという心を休める休養が。

踏ん切りをつけるように、はあっと息をついたミサトは、アスカの頭をぐりぐりと撫でながら言った。

「よし、帰ろうアスカ。何か美味しいもの食べに行って、ぐっすり寝よう。ね、リツコ、一緒に行かない」

「いいわね、行きましょう」

アスカは、二人の顔を交互に見て、一度俯き、それから顔を上げて、言った。

「うん。……ありがと」


部屋を後にした三人は、ミサトの提案どおり少し値の張るレストランに食事をしに行った。代金はリツコ持ちだ。彼女はどさくさにまぎれて、かなりの金額を手にしていた。「もう、そんなに意味はないけれどね」と言った彼女の表情からは、その金でしようとしていた、後ろ暗いことや、希望に満ちたことが知れた。

そして、彼らはつつがなく食事を終えて、マンションに辿り着いた。

「ごちそうさまでしたっ」

そう口を開いたアスカは、すっかり元気になっているように見えた。

「どう致しまして。でも、次は同居人のお姉さんに奢ってもらわないとね」

「はは。……じゃ、ミサト、あたし、先戻ってるから」

「え?」とミサトが驚いた顔をした。

「三十路の女同士積もる話もあるでしょ。あたしは遠慮しとくから、ちょっとその辺でも回ってくれば?」

ミサトが「何言ってるの」と言う前に、リツコが口を開いた。

「そうね、そうさせて貰おうかしら。それじゃあ、お疲れ様、アスカ。よく休むのよ」

「ええ、ありがと、リツコ。そんじゃ、行ってらっしゃい、お休み」

ミサトがついに何も言えぬまま、アスカは柱の影に消えた。そして、暗い車の中には彼女の倍以上は生きている女二人が残された。

リツコは何も言わず、ゆっくりとクラッチを上げ、車を出した。

8

ガラガラの道を進む車の中はただただ無言だった。だが、その無言に耐え切れず、ついにリツコが口を開いた。

「多分……アスカは『彼か彼女』を探すつもりなのよ」

「分かってる。んなことは。目、見れば分かるわ。あんたも、副指令も、よくもあんな残酷なコト言ってくれたわね。あの子がこれからどうなると思うの? 下手すりゃずっと、いない人間の影を追って生きなきゃならないのよ。親友じゃなかったら、あんた、殺してるわ。確実にね」

三人でいた時にはおくびにも出さなかった悪意を、今のミサトは隠さなかった。しかし、リツコもそれに驚くことはなかった。むしろ、リツコは彼女が今だに自分のことを「親友」と呼んでくれていることの方に驚いた。

「まだ、親友と呼んでくれるのね」

その言葉を聞いて、ミサトはすっと遠くを見つめた。人家の光に邪魔されない空には、雲間に星が光っていた。どれかがあいつかもしれないなどと子供のように思って、ミサトは言った。

「もう、あいつはいないもの」

「……そうね。お互い、男に置いていかれた女ってわけね」

そう言ったリツコに、ミサトは疑問をぶつけた。

「『置いていかれた』ってことは、もしかして……」

「そう、多分死んだわ、彼。何となく分かるの。夢を見たのよ」

「夢?」

「そう、彼を撃って、私も撃たれて死ぬ夢。彼に当たったのかは分からないけれど」

「……そっか」

目の前で黄色になった信号で停止する。第3新東京市が無くなって人が消えたこの暗い一帯で、律儀に信号で止まるのはいささかばかばかしくも思えたが、そういう風に生きてきたリツコには、ここでも律儀に止まるしか術はない。

信号が赤に変わったとき、ミサトはぽつりと言った。

「やっぱり疲れてるのね、私もあなたも」

「どうして?」

「私も夢を見たのよ。戦自の軍人に殺される夢をね。馬鹿みたいなのよ。初号機が起動しないもんで、何故か自分でケイジに行こうとするのよ。それで撃たれちゃうわけ。馬鹿みたいでしょ? 最後の言葉が『カーペット、換えとけば良かった』よ。辞世の言葉にしちゃ、情けないと思わない?」

そうミサトが言うと、リツコははっとした顔で、助手席に座るミサトを見た。信号が青になり、もう一度黄に変わってもリツコは車を動かさなかった。

「……どうしたの?」

「ねえミサト、ケイジには、自分一人で行ったの?」

馬鹿な質問をする、とミサトは内心思ったが、隣に座る親友の尋常でない表情に、改まって考える。信号はまた、青に変わった。もっとも、第3新東京市に向うための、既にほとんど車の通らないこの道路では、そんなことは全く問題ではなかった。問題はむしろ、その夢の方だ。

「誰かいた、かも知れない」

「どんな人物?」

ミサトは言われて、さらに思い出そうと試みた。しかし……既に半日以上前に見た夢のことなど、容易に思い出せるものではない。それでも、ゆっくりと記憶を辿れば、そこに誰かが見えた。

「分からない……けど、子供みたいな気がする。顔は……よく分からないわ。何か、写真をマジックで塗りつぶしているみたいな……。駄目ね、昨日のアスカの様子が頭に残っちゃったのかな。……ちょっとリツコ、そろそろ、車出してよ。……リツコ?」

リツコは、目を見開いて、ミサトを見つめていた。そしてしばらくじっと押し黙った後、ゆっくりと言った。

「ねえ、ミサト、怒らないで聞いてくれる?」


そしてリツコの言葉が終わった瞬間、ミサトはリツコの胸倉を掴んでその頬を思い切り張り飛ばした。助手席から女が降り、運転席に座っていたもう一人の女が彼女に引きずり出された後、車は引きずり出された女を置きざりにして、猛スピードで走り出した。

9

アスカが目を覚ませば、見飽きた天井が目に入ってきた。ふっと隣を見れば、日の光が目に飛び込んできたので、反射的にきゅっと目をつむって身体を起こす。ううん、などと情けない声をあげながら時計を見れば、長身は文字盤の頂上、短針はその反対側にあった。

朝六時、いつもの時間だ。

アスカは眠そうに目を瞑り、そのままゆっくりと足を伸ばすと、床を探り当てて立ち上がった。

リビングに向けて歩く途中、空き部屋の前で足を止める。そっと、わずかな願いを込めてアスカはその扉を開けてみる。しかし、やはり今日もそこは空き部屋だった。


ミサトがあくびを噛み殺してリビングに入れば、美味しそうな味噌汁の臭いが鼻をくすぐった。暇になって、急に料理に目覚めたアスカが作る朝食だ。「家事は大体アスカがする。掃除は尻を叩かれたミサトがする」――そろそろ習慣となり始める頃合いである。

「おはよ、ミサト。ご飯出来てるわよ」

「おはよ、アスカ」

いつもと同じように繰り返される朝の風景。あの夜から、今日でもう一月が経っていた。第3新東京市はひとまず破棄されたものの、その外縁の街には徐々に人影が戻り、疎開して行った人々の一部もそこに戻りつつあった。

「今日からいよいよ学校ね」とミサトは会話を切り出した。

アスカはほんの数日前に再開された中学に戻った。もはや行く必要もないものだが、「しばらく中学生やってなさい」のミサトの一言で決まったことだ。

結局、アスカは日本に残った。その理由には、今だに「病気」が完治していないということもあったし、セカンドチルドレンの帰還に難色を示したネルフドイツ支部及びドイツ連邦政府の態度もあった。しかし決定的だったのは、故国への電話の後、アスカがどこを見るでもない視線で口にした「もはや惣流アスカが帰る場所は、あそこにはない」という言葉だった。彼女は、惣流・アスカ・ラングレー、とは言わなかった。

アスカはご飯をよそいながら、ミサトの言葉に答えた。

「うん。ヒカリが帰ってくるんだって。ペンペンも帰ってくるわよ。はい」

「あ」

アスカの言葉にミサトは思わず茶碗を取り落としそうになった。アスカが呆れ顔をしてから、今度は味噌汁の碗を渡した。ミサトはもう少しでこちらも取り落とすところだった。アスカは肩をすくめ、まるっきり馬鹿にした口調で言った。

「まさかあんた、あの子のこと忘れてたんじゃあないでしょうね。何よ、せっかく預かってくれてたのに」

「ついよ、つい」

「何よ、ついって。まあいいわ。でね、ヒカリ的には鈴原が帰ってこなくてちょっと残念って感じらしいわ。アイツ乙女心もわかんないのかね、すっかり大阪だか兵庫だかにいついてるんだって」

大して興味も無さそうに言いながら、アスカは席について味噌汁を啜った。ミサトは、サードチルドレン候補だった少年のことを思い出した。

「鈴原君か……洞木さん、ちゃんと連絡取ってるのね、偉いね」

「まっね。でもまあ、ここがちゃんとすれば、あいつもいずれは帰ってくるでしょ」

「そうね……頑張らなきゃね、私も」

「頼んだわよ! 地方公務員!」

「うるさいわね、心はいつでも国際公務員よ!」

アスカは中学生に戻った。それに対してミサトはと言えば、新しく公募されたこの市の職員採用枠に応募し、職員として採用されていた。もっとも「公募」とは言っても、集まったのはネルフ解体後に国連事務に戻らなかった、あるいは戻れなかった者たちが主で、蓋を開けてみれば、日向、青葉、伊吹など、ミサトにとっては見慣れた顔が並んでいた。そのお陰で作業が異常にスムーズに進み、物凄い勢いで都市が再建されつつあるのは、怪我の功名といったところかも知れない。

ミサトがそんな風に自分の状況を振り返っている間に、アスカは自分の分を食べ終え、鞄を担いでいた。

「さて、と。それじゃ、行ってきます」

「はーい、行ってらっしゃい、アスカ。洞木さんによろしくぅ」

「分かった。じゃ」

そう答えて、アスカは玄関を、マンションを出た。誰もいない朝の道をゆっくりと歩く。まだ余り人もおらず車も走らないこの一帯には、騒々しくない静かな風が吹いている。もう少しすれば、徐々にここも騒がしくなってくるのだろう。

歩きながら、アスカは少し感傷的な気持ちになった。独りで歩く道はやはり少し寂しい。昔から独りだったはずなのに。こんな時、今でも「もしかしたら隣を歩いてた素敵(かは分からないけれど)な子がいたのかも知れない」と少し思う。だから毎朝、やっぱりあの物置部屋のドアを開けてしまうのだろう。

しかし……その一方で、既にアスカはそれが「記憶の誤認」というリツコが言った症状に違いないことを大方は認めていた。しばらく休んでみれば、やっぱり使徒戦の記憶や、操縦システムの種類などを思い出すことができたからだ。

実験で搭乗したエヴァに半身を取り込まれて、父親に捨てられてしまった母親――ママの可哀想な姿まで、アスカは思い出すことができた。これが、偽物だとは思えない。アスカはそう思い始めていた。

ぐっと伸びをして、頭に手を置き、「ホールド・アップ」の姿勢で歩みを進める。手に、今もしぶとく使っているヘッドセットが当たった。飾りではなく、ヘッドセットそのものである。

あのサードインパクトの日から、アスカはこのヘッドセットをほとんど外していない。普段は頭につけて、頭につけていない時は腕や首にひょいと引っ掛けて、いつも持ち歩いている。どこかに置くことすらない。このヘッドセットはもともとそういうことができるように作られていたし、あの日をどこかに留めていたい、という思いもどこかにあった。そうすれば、他のことはうまく行く気がする、という、まじないめいた迷信だった。

そんなわけで、もう止めればいいのに、というミサトの視線にもめげずアスカはヘッドセットを愛用していた。

しかし。

「もう少ししたら、外してもいいかな」

そうだ、もう少し……明日の、ネルフの打ち上げの時までは外さないでおこう。そして、打ち上げが終わって、あの日に区切りがついたら……きっぱりとこの赤いエヴァ・パイロットの日々の象徴を外して、潔く捨ててしまおう。

そう決め込むと、アスカは小走りで学校へと向った。久しぶりに会うヒカリと何を話そうか、そんなことを考えながら。

10

あの夜から一月と二日、そして、ネルフ解体からちょうど一ヶ月。ネルフ有志は、とある居酒屋に集まって打ち上げを行なっていた。ネルフ解体からここまで、それぞれに忙しくてとてもそんなことができる余裕がなかったのだ。そのため、ネルフ解体から1月の区切りに、と日向や青葉がこの集まりを企画したのだった。

「とはいえ……集まったのはやっぱり、ウチに来た奴ばっかじゃん。見慣れてるっつーの」

不満そうに言うミサト、まだ宴会は始まってはいないが、ほぼこれで確定、という雰囲気だった。こじんまりとしたところを借りて良かった、と思いつつ、日向は答えた。

「仕方ないですよ葛城さん。国連事務に戻った奴らは、まだまだ事後処理に追われてるらしいですから。なあ?」

日向はそう言うと、隣にいる青葉に話を振った。

「そうそう。情報の三課に鈴木っていただろ? アイツなんか、直にこっちの処理担当になっちゃって、ろくに寝てないってさ」

「ふーん。……ま、地方公務員になった俺たちには、関係ないけどな」

日向は入り口のほうをちらちらと見ながら、気だるい表情で呟いた。青葉も同じような表情をして、こちらは室内を見渡していた。探している人物がいないことを確認すると、長い髪をかき上げ、隣の日向を見た。

「ごもっとも。……そういえば、マヤちゃんは? いないみたいだ」

「ああ、何か、赤木さんの手伝いで借り出されてるんだと。向こうも大変らしいよ」

その日向の言葉に、少し胸をなでおろしているミサトがいた。あの日以来、彼女はリツコに会っていない。次に会ったときにどんな顔をすればいいのかも思いつかない。

車の中で彼女たちが交わした最後の会話。アスカの話、そして冬月の話の中で、リツコが敢えて伏せていた可能性と、ミサトとの会話から導き出されたもう一つの推論。それらは、一月をかけてミサトの中で半ば核心に変わっていた。

そして、だからこそ、それをアスカに伝えることなどできなかった。

もしそれをアスカに伝えてしまえば、本当に彼女を泥沼に引きずり込んでしまう。彼女はもう十分苦しんだ。彼女が忘れさえすれば、もう、彼女が悩む必要などないのだ。それなら、この秘密は墓場にまで持って行く。ミサトはそう思った。リツコも、その思いが分かったのか、ミサトに連絡を取ろうとはしなかった。

この1月の間に彼女から入った連絡は、携帯電話のメールでたった一件「全部任せる。アスカがなるべく、苦しまないようにしてあげて。もう十分、私たちはあの子を犠牲にしたから」それだけだった。

今さら何よ、と、ミサトは自分の親友の実直さを呪った。

「Hello! っと、遅れてすいませーん」

アスカは集合時間から少し遅れて現れた。学校で何か話し込んでいたのか制服に鞄持ちといういでたちで、パーティに来るには少しラフすぎる恰好だったが、それでも彼女の明るい口調でそんなことは気にならなかった。

「いーのよ、まだ始まってないわ」

ミサトはやはり、この笑顔が崩れないで欲しい、と願ってしまう。たとえそれが欺瞞だとしても。

しかし……彼女の願いはかなわず、やはりその笑顔は崩れる。それは、恐らくは起こるべくして起こったことだ。抗いようもなく。


宴もたけなわになったころ、日向が何か思い出したような調子で、アスカの方を見た。それは恐らく、彼に取っては新たな話題を投入するという以上の意味はなかったはずだ。しかし、それはアスカにとっては決定的な意味をもつ言葉になる。机には、彼と、青葉と、アスカの三人。それはくしくも、あの日ブリッジに集まった三人だった。

「あのさ、最近は見ないけどさ、ちょっと前まで、変な夢、見てたんだよ、俺」

「またその話かぁ? 止めろよ、何か気持ち悪いし」

「まあ、アスカちゃんは知らないんだからいいじゃん」

自分の前で少し言い争う青葉と日向に、アスカが助けの手を入れた。ついさっきまで彼女に絡んでいたミサトは、今は別の職員に絡んでいる。よく見れば、あらかたの職員は帰り、店の中にはもう馴染みの数人しか残っていない。

「何の話ですか? それ」

「いやね、サードインパクトからちょっと後なんだけどね、見えたんだよ、幽霊みたいな奴が」

「だから、『夢で』だろ?」

日向の隣に掛けている青葉は少し強い口調で同僚に言ったが、既にかなり酔いが回っている彼はその制止も聞かずに言葉を続けた。青葉は少しため息をついたが、彼が言うのに任せた。

「それがさあ、やけにリアルなんだよ。初号機をモニターしてるじゃん、俺が。するとさ、見えるんだよね、その中に」

初号機、その言葉が出た途端、アスカは目を見開き思わず身を乗り出して日向の肩を掴んだ。

「何が、何が見えたの!?」

そのアスカの様子に驚いた青葉が、ゆっくりとその腕に自分の手を添え、言い訳するように言った。

「ごめんごめん、酔ってるんだよ、こいつ」

しかし、アスカはその手を放そうとしなかった。青葉の手を払い、日向の肩をガタガタとゆすって、問いただす。椅子が揺れ、机も揺れた。日向は目の前の少女の突然の豹変に驚いた様子で、とりあえず言葉を続けた。青葉に呼ばれたミサトがアスカに駆け寄ったが、日向の言葉には間に合わなかった。

「え、あ、ああ、うん。見えたのはさ、いないはずの『パイロットの幽霊』なんだよ。それも、初号機に入っているのは司令の奥さんのはずなのに、何だか高校生か中学生の男の子みたいな感じなんだ。ちょうど、アスカみたいな……って、あれ?」

日向が言葉を終える前に、アスカは鞄を引っつかみ、店を飛び出していた。

11

アスカは洗面所に立った。顔を洗う。何回洗っても次から次に涙が溢れて、キリがない。冷たい水で顔を洗っているのに、手には温かい液体が触れる。顔を上げても、そこには髪をばさばさにし、目を腫らした不細工な女の子がいるだけだ。

また水に顔を付ける。何回も顔を洗いながら、彼女は自分の家族が始めて明かした言葉を反芻していた。


部屋の中で、二人は対峙していた。ソファがひっくり返り、椅子が倒れ、机が逆さまになり、カーペットはくしゃくしゃで、棚が倒れている。そんな部屋で、アスカとミサトは、見詰め合っていた。ふと、ミサトはとても懐かしいものをみるような感覚に襲われた。そんな感覚の中、彼女はゆっくりと、隠し通すつもりだったことを話し始めた。

「……リツコは、私に、あなたには言っていないことを言ったわ。『記憶の書き換えが起こるとすれば、その影響が夢に出てくる可能性がある。夢は、記憶の整理を司るものだから。……だから、私やあなたが見た夢は、記憶の書き換え現象かも知れない。そして……その可能性が事実なら、その書き換えが完全に終われば、この世界は固定されることになる』」

一月前、車の中で彼女が言った言葉だった。

「『私やあなた』……どういう……こと?」

「……私も、リツコも、夢を見ていたのよ。私は『初号機パイロットをケイジに連れて行く夢』、彼女は『司令に撃たれる夢』――日向君も、青葉君も、マヤちゃんも、みんな、『もうひとつの世界』を見てた……」

「……なん……で……黙ってたの?」

アスカが擦れた声で、辛うじてそう言った。激昂はしていない。裏切られたショックでそこまで気持ちが回らないという表情だった。ミサトは顔を歪めて、嗚咽を漏らした。自らの肩を抱き、俯いた。そして、途切れ途切れに言葉を押し出した。

「私は……あなたに……もう、苦しんで欲しくな……」

その言葉を聞いてやっとアスカは激昂することができた。怒りに任せ、力を振り絞って、彼女はその保護者の言葉を遮った。

「何よそれ……何よ……何がよ!?」

ミサトはもう涙で化粧がぐちゃぐちゃに崩れた顔で、アスカを見た。アスカもまた泣いていた。酷い顔だった。しかしそれでもアスカは、確固とした怒りを持ってミサトを睨み続けていた。

「何があなたよ! あんたの話のどこにもあたしはいないじゃない!……あたしは……そんなこと、頼んでない! そんな優しさなんか……要らない! あんたなんか要らない!」

そう言ってから、泣き顔の二人はお互いに、はっとした表情をした。言ってはいけないことを言ってしまった、言わせてはいけないことを言わせてしまった――それが分かったからだった。取り返しはつかなかった。

ミサトは、ぺたん、と、くしゃくしゃのカーペットの上に座り込んだ。もう、彼女には目の前の何もない場所を呆然と見つめることしかできなかった。

そしてアスカにも、そこから逃げ出すことしかできなかった。


彼女は顔を洗っている。何をするでもない。何もできずに、ただ顔を洗う。

そして……もう一度鏡を見れば、そこには自分ともう1人、酷い顔をした女が映っていた。

「……」

無言のまま、アスカは洗面所をどき、ミサトも顔を洗った。そして顔を上げると、彼女はまた無言でアスカの隣を通り過ぎ……ぱた、と立ち止まった。

「……アスカ。まだ、私は全部を教えていない。リツコはこうも言っていた。『「もうひとつの世界の記憶」の確信はアスカが一番強い。なのに、アスカ自身はそのことを何も覚えていない。それはつまり、アスカがこの現象の中心――特異点にいることを示している』」

アスカはただ、その言葉を聞いた。

「『それはつまり、アスカがこの現象を左右するということを意味している。「彼か彼女」をこの世界から摘み出している要素があるとすれば、それは必ずアスカの近くにある。アスカが、「彼か彼女」の存在を偽だと規定したままそれを捨てれば、その記憶とともに「彼か彼女」は消え……もしその要素を見つけ出して「彼か彼女」を真だと規定してそれを捨てれば、あるいはその「彼か彼女」は帰ってくるかも知れない。』……これで全てよ。私には、よく分からないけれど……あなたなら……。……ごめんね、アスカ」

そう言い残すと、ミサトはまた溢れてくる涙を拭いながら、洗面所を後にした。

「……ありがとう」

その背中に、アスカは小さく、そう言った。そして小さい明かりだけが灯る洗面所に、アスカは一人残された。

もう、泣いてはいなかった。


ミサトが部屋を去って数時間。まだアスカは考え続け、探し続けていた。あたしの近くにあるもの、あたしと、『彼』をつなぐもの。鞄? 違う。制服? そんなものじゃない。下着? 全然、違う、それじゃあただの変態。サルのぬいぐるみ? 違う、あれは自分以外の誰にも触らせない。クッション? CD? 部屋にあるものを、片っ端から思い浮かべていく。しかし、どれも、ピンとこない。

部屋の中のものをあらかた思い出したのを認めると、アスカはすうっ、と深呼吸をした。違う、そういうやり方じゃ、一万年経っても『彼』には辿り着かない。もっと、別のやり方でなくては。……そうだ、『彼』とあたしはどういう関係?

ふと、考えると、思いつかない。日向の言うところの、自分と同じくらいの歳の男の子。その『彼』と、自分との関係が、まったく思いつかないのだ。何故、自分が「選ばれた」のか。恋人、同僚、ライバル、同居人、家族……どういう関係を考えても、しっくりいかない。……ねえ、何故、あんたはあたしを選んだの?

ひっくり返ったソファの上に腰を下ろし、アスカは額に手を当てた。そのまま俯き、考える。

『彼』と自分の関係。

それを考えている。何故、『彼』はアスカを選んだのか。何故、アスカでなければいけないのか。何故、アスカは『彼』にこんなにも逢いたいのか。何故、あの時、あんなに悔しかったのか。


そして――――アスカはついに思い当る。あたしは、最後まであいつと一緒にいた。頭に、堰を切ったように、新しいイメージが流れ込む。首を釣る母親、壊れていくあたし、サードインパクト、エヴァ・シリーズ、陵辱、そして――

「……うっ!?」

思わず吐き気を催して、アスカはまた洗面所へ走った。吐ききって出るものがなくなってもなお、胃液がこみ上げてくる。

「うえっ……うええっ」

げほげほと咳をしながら、アスカは思い出していた。『彼』のこと以外の全てを。赤い海、黒い空、海に浮かぶ巨大な顔、白い陸地、乱雑にその姿が塗りつぶされた『彼』。頭の中に、写真をそこだけマジックで塗りつぶしたようなイメージが広がる。そして、『彼』の横でプラグスーツを着て、包帯に包まれたあたし。

そこまで考えて、はっと彼女は顔を上げた。後ろ頭に手を伸ばすと、ヘッドセットが手に当たった。

「……これ?」

これだ。あの日から、ずっとあたしの近くにあったもの。いつの間にかあって、ずっと着けていたもの。あいつと最後に逢ったときにも、着けていたもの。

『彼』とあたしを、つなぐもの。

アスカはヘッドセットに手をかけた。

そのとき、頭の中に二つ、別の声が響いた。

『いいの? 思い出したくない記憶を捨てられるのに。』

『止めてよ、アスカ。いいんだ。僕のことは忘れて。アスカは何も苦しまなくていいんだ。』

二つの思考、片方は自分の思考――だが、もう一つは、知らない誰かの思考だった。アスカは自分と、それ以上に、誰だか分からないもう一つの声に、言った。

「うるさい……うるさい……うるさいうるさいうるさいッ! あたしのことを、勝手に決めんな! あたしのことは、あたしが決める。……誰にも、邪魔なんかさせない」


そう鏡に向って言うと、アスカは目を閉じてヘッドセットをゆっくりと外し、その蔓を手折った。


そして、アスカが目を開けると、鏡の中には、涙を流す男の子がいた。

黒いズボンに白いシャツ、短髪に、少し神経質そうな顔。

アスカは、後ろを振り向き、その名前を思い出して呼んだ。サードチルドレン、碇シンジ。同居人で、ライバルで、同僚で、恋人にし損ねた男の子。確か、自分は彼がとても嫌いだったはずだ。しかし、もうそんな暗い思いは湧かなかった。ただ、目の前でさっきの自分のように泣く彼を見て、「バカね」……そう思った。

「……何で、何でだよ、アスカ」

アスカはそれには答えず、平手で思いっきり彼の頬を打った。そしてその後、殴ったほうの頬をすっと撫でた。その視界の片方がゆっくりと暗くなりだし、頬を撫でる手と腕から、ゆっくりと血が流れ始めたが、アスカは気にしなかった。

「……酷い顔ね。バカ」

「……うん」

その言葉を聞き届けると、アスカは叩きつけるように言った。いつものように。

「ねえ、色々言いたいことはあるけど、とりあえず言っとくわ。勝ち逃げは、許さないから。……お帰り、シンジ」

言葉を叩きつけ終わると、酷い顔のアスカは同じく酷い顔のシンジに、にやりと笑いかけ、すっと手を出した。握手を求める手だ。

その手を見て一瞬きょとんとした後、シンジは「……ただいま」と言って、泣き笑いの顔でアスカの手を握った。

握り合う手を、シンジはもう離せそうになかった。

アスカの勝ちだった。

- The rest stories of "Project Eva" #04-05 - "Who asked you to flatten out this world ?" end.
first update: 20040929
last update: 20060103

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作者:north
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