- The rest stories of "Project Eva" #06 -

"殉教者たちの置き土産"

1

今私の目の前には、何だか浅黒い顔をしてにっこり微笑んでいるミサトがいる。あれから確実に一年が経過しているはずなのに、彼女はまるで一年分若返ったように見える。ひるがえって自分のことを考えてみれば、この一年で十年分老け込んだみたいに思えるのに、全くやっていられない。彼女と私で構成物質の差でもあるのかしら、などと考えてみたりする。そもそもこんな風に考えること自体、歳なのかも知れない。

まあ、いいでしょう。とりあえず事実を受け止めよう。そして、次のことを考えよう。これでも一端の科学者ですもの。


ネルフが解体して一年と少し経ったころ、ネルフ解体直後に忽然と消え去ってからこちら、連絡のひとつもよこさなかったミサトが、どこで調べたのだかいきなり職場の薬学研究所に乗り込んできた。

つてで入った会社にこんな風に乗り込まれるのは、正直迷惑この上ないのだけれど、一応親友ということになっているのでお茶など出してみたりする。

「はい」

お盆の上には、湯気の立つ緑茶が、二つ。お茶請けつきである。

冷静に何をやっているんだ私は。

目の前でかなり値の張る応接用のお茶がするすると親友の胃の中に納まっていったのを見届けてから、咳払いをして私は椅子に腰掛けた。

「久しぶりね」

どっと押し寄せてくる疲れを感じながら、一息ついて時計を見た。

四時だ。

今日はもう上がりにしようか、と考えながら、挨拶を無視されて目の前でぼーっと私の方を見ているミサトを見上げた。

「どうしたの」

「ご挨拶ねえ。久しぶりに会ったってのに」

久しぶりだろうがなんだろうが、こんな前触れもなく幽霊か妖怪みたいに現れられればそう答えるしかないんだけれど。

ま、いいか、今に始まったことじゃなし。大学時代からこの方、企画を立てるのはミサト、運営するのは私、と相場が決まっている。もうたっぷり十年続いた関係だ。常に「思い立ったが吉日」状態であるところの彼女はいつも突然行動を起こし、私がそれをフォローすることになる。

楽しくなかったわけじゃないけれど。

色々と考えてはみるが、何はともあれ、話をしないわけにもいくまい。そういうわけで私は、えらく健康的に日焼けしている彼女にいつも通り突き放して言ってやる。色白な私の恨みを込めて。

「ご挨拶ね、じゃないわよ。一年も音信不通でどこに行ってたの」

目の前のミサトは、応接室のソファに我が物顔で座り込むと腕を組んで何事か考えるように視線を泳がせた。しかし、彼女は追い込まれて力を発揮するタイプであって(昔から、彼女は一夜漬けとか締め切り一時間前とかに異様に強い女なのだ)平時に集中力が働くタイプではない。

何時まで続くかな、と腕時計で測ってみれば、考え込んでから顔を上げるまでものの二分半しか持たなかった。そんな時間ではフライ麺のカップラーメンだってできやしない。

ミサトは腕を組んだまま顔を上げ、きっぱりと言い切った。

「鎮魂旅行よ」

「加持君の?」

「そう」

「一年も?」

「ええ」

「溜まりに溜まった事後処理をほっぽり出して?」

きっぱりと言い出しはしたものの、そんな風に追求していくとミサトはうーむ、と唸ってじっと私の目を見た。私もその目を見つめ返す。この一年でゆっくりと濁りを増した私の目と対照的に、彼女の目は澄んでいた。

少し憎らしい。

たっぷり数十秒は見つめ合ってから、ミサトは視線を私から外さずに口を開いた。

「あのね、リツコ。悪いとは思ってるわよ。でもね、前の職場が解体して、あの子たちをとりあえず何とかして、私もうそれで精一杯だったのよ。エンプティーよ」

ミサトは全く悪びれずにそう答えた。そう言い切られてしまえば、ふむ、と今度はこちらが暫く考え込んでしまう。

結局、あの事件で私が責任を負うべきところは多かったように思う。ほぼ首謀者と言われても仕方ない位置にいた。

それに対して彼女は、基本的には巻き込まれた口だ。その時点で負うべきものは違う。確かに同居していた子供たちが精神的に不調をきたしたことはある程度は彼女の責任だろうが、それがどっこい、彼らは今現在は悪くない暮らしをしている、らしい。

事後処理レポートにおける観察対象になっているから分かることだけれど、現在シンジ君にはめでたく恋人ができ、アスカは自活して大学の部活や研究室で大活躍、だそうだ。

この結末には私自身かなり驚いている。あれだけ壊れていた少年と少女を、薬も使わずどうやって治したというのか。医学的に大いに興味があるところである。

そのことはさて置くとしても、確かに、お役御免だよ、と言われればそうかも知れないな、とも思う。

私がその思いに至るよう後押しした力が、この自信満々の口調だったとしても、だ。

「……ふう」

大げさにため息を聞かせてから、言葉を続けた。

「確かにね。それはいいわ、もう終わったことだし。でも、そのことと、今せっせと食い扶持を稼いでいる私の職場に乗り込んでくることとは別の話よ」

「ごめん、ごめん」

これまた全く悪びれずにミサトは答えた。まさに、何でもないことだ、というような口調。私はやや神経を逆撫でされながら、もう一度最初の疑問をぶつけた。もっと具体的に訊く。

「何の用?」

私が質問すると、ミサトはにやっと笑い、その刹那、私の目の前にひゅっと手を差し出した。軍人のこぶしを見切れるほどの運動神経は私にはない。私は情けなく声を上げ、反射的に目を閉じた。

そろそろと目を開けてみれば、彼女は私の鼻先でキーをチラつかせていた。車のキー。少し懐かしい彼女の車のキーだ。

彼女の言いたいことが何となく分かることが、腐れ縁というものの本質を私に教えていた。

2

で、私は消化していなくて溜まりに溜まった有給を初めて使ってこんなところにいる。

どうして?

まだ目が覚めていない街に尋ねても、答えが返ってくるはずもない。


会社からほとんど着るものも持たず車に乗ること十うん時間、私は大阪にいた。九州からここまでこんな短時間で来れるのか、とちょっと驚いてしまう。彼女の運転のせいかも知れない。何しろ、ここまでほぼノン・ストップで来たのだ。

三十一にもなった女のどこにそんなパワーがあるというのか。

そこまで考えて隣のミサトを見る。ぱたん、とドアを閉めた彼女は何でもないような顔をしていた。

「……元気ね」

「まぁねー。最近ずっとふらふらしてたから」

理由になってないなあ、と心底思いながら朝方の駅前を眺める。まだ始発電車が走り出して間もない駅には人影もまばらだ。すっきりと澄み渡った朝の空気が目を刺す。

「さて、これからどうしましょうか?」

「どこかでシャワーを浴びましょう。話はそれからよ」

「了解、赤木博士」

お互い、かなり汗臭かった。さすがにこんな恰好でシンジ君に会いに行くわけにはいかない。本当に何をやってるんだか、私たちは。


日付が変わった気がしないが、一応は昨日のことだ。私の目の前にカギをちらつかせてミサトはささやいた。

「ね、シンジ君とアスカに会いに行かない?」

いきなり何を言うんだろう。この私が今さらどの面下げて会いに行けばいいというのだ。

そう言おうとして口を開きかけた私の口に掌を当てて「大丈夫。博多明太子でも持ってきゃ何とかなるわよ」とミサトは続けた。

そんなわけないじゃん。と思いながらも、私はその自信満々の口調に反論することがついにできなかった。そして、その場で私は部長に今週いっぱいまでの休暇を願い出て、すぐさま会社を後にしたのだった。

幸運にも(不運にも、というべきだろうか?)有給をたっぷりと溜め込んでいた私は特に誰の反対もなく休むことができた。もっとも、彼女を見て親戚が何かが急な用事できたとでも思われたのかも知れないが。

私は机の上を、部屋を想った。当然、書きかけの書類も、処理しかけのデータもそのままのはずだ。事情を知らぬ人間が見れば、忽然と姿を消したと思われそうなくらい、私は何もかもそのままで会社を出たのだ。

あまりにも突然すぎる。莫迦すぎる。この子と私、どっちも、だ。

仕事中の人間を花嫁さらいみたいにかっさらって行くこの子も相当の莫迦だけれど、それに律儀に付き合う私もやっぱり大莫迦だと思う。


三十も過ぎてカプセルホテルに女二人で、なんて、まったくダサいことこの上ない。寝にくいベッドで少しの仮眠を取り、シャワーを浴びてそそくさと外に出てみればちょうど昼下がりだった。キャラクターを崩されすぎて頭を押さえる私に止めを刺すように、ぐう、となる腹の虫が恨めしい。

「優雅じゃないわね」

暫くの移動の後、空腹に耐え切れず入った定食屋で――ここに入ろうというのはミサトの提案だったが――うどんをすすりながら小さく呟いてみる。

何を莫迦なことを。

そんな風にもう一人の自分が答える。今まで優雅だったことなどないじゃないか。

もちろん恰好をつけて生きてきたけれど、そのほとんどは空回りに終わったような気がする。そんなものかも知れない、などとも思う。特に、目の前で恰好なんて特に気にした風もなくうどんをすすっているミサトを見ると、それは確信に近いものになってくる。

確実に何かを吹っ切ってしまったらしい彼女の様子が、やけに眩しく見えた。

「すいません、お茶をもう一杯いただけるかしら」

「あ、はい、ただいまー」

ぱたぱたとお茶を運んでくれた可愛らしい女の子に会釈すれば、ますますこの状況が悲惨なものに思えてきた。

目の前でまだうどんに専念しているミサトを他所に、しばし意識を遠くへ飛ばす。ずっと考えている疑問について考える。

私は何のためにここにいるのだ?

素直に答えればただの勢いなのだが、それも何か癪にさわる。何か、他に――

そんな風に思考の隘路に入っていたらしい私は、ミサトの言葉に全く気がつかなかった。

「ね、リツコ。……ねえってば」

「あ、え、何?」

ぼうっとしていたところに声を掛けられていささか間抜けな返事をしてしまった。ミサトが口のまん中をチェシャ猫のように吊り上げ、何か言いたげな目で私を見た。

そこまでは構わない。しかし、ここからが問題だ。ここで次の言葉を飲み込むのが私、あっさりと口に出してしまうのが彼女だ。

「何よう、出汁に映るシワの数でも数えてたの?」

「その減らず口、二度と開かなくしてあげましょうか?」

質問を質問で返す。莫迦ね、私が思考を邪魔されればこういうことになるのは分かっているでしょうに。

ミサトはやや引きつったような笑いを浮かべつつ、私の肩を叩いた。

「あんたのシワはまあどうでもいいのよ。ねえ、何で私がここに来たか、分かる?」

そう問われて考えてみると、どうもおかしかった。

時間はもう四時半を回っている。学校帰りのシンジ君と待ち合わせをするにしても、ちょっと悠長すぎはしないか。というか、そもそも目の前にいる彼女はシンジ君と連絡を取っている素振りもない。私が寝ている間か、もっと前に既に終えているのだろうか?

次々と現れる疑問をなだめながら、とりあえず話の先を促した。

「どういうこと?」

「なぜなにリツコちゃんね」

何だかいやらしい笑い顔のミサトが言った。私は肩をすくめて、降参の白旗を掲げた。

ミサトはそんな私の仕草を見て勝ち誇ったような顔をして「実はね、私、シンジ君の行く場所、知ってるのよ」とまるでエスパーか何かのようなことを言った。とはいえ、わざわざ突っ込むのもどうかと思い、私は口をつぐむ。

「あ、すいませーん、こっちにもお茶、ください」

ミサトはさっきの可愛い店員さんを呼び止めて、にっこりと微笑んだ。店員さんもにっこりと笑いを返す。愛想笑いという感じではない。育ちがいいのかしら、あの子。

そんな店員さんに対して、こっちは酷く意地の悪そうな笑みを浮かべている。友達、辞めてしまおうか。と少し考えさせる顔だ。あくまでも意地の悪い笑みを絶やさぬまま、ミサトは中断した話を再会した。

「でね、何でかと言うとね、ひひひ」

「止めて、気持ち悪いから」

「……シンジ君の彼女がここでバイトしてるのよ。だから、シンジ君は毎週この日になると、ここにうどんを食べに来るってわけ」

何がそんなに嬉しいのだか分からないが、満面の笑みでミサトは私にそう言った。そんな風に無邪気に笑えるのが、家族の証なのだろうか、と少し感慨深くすら思えてしまう。でも、要するにただ悪趣味な年増女だ。……思考の地雷を踏んだような気がするが、思い切って無視することにしよう。

とにかくは、この悪趣味な女に言い返さなければならない。

「……で? 恋人と逢瀬をしているところに現れようってわけ? あっきれた。まるでオバサンの発想じゃないの」

「オバハン、よ。大阪だもん」

「そんなことはどっちでもいいわ。――で、その彼女っていうのは、どこにいるのよ」

親友の根性の悪さに呆れはしたものの、レポートでは彼女がいるということと、その名前しか分かっていないので、私も興味がないといえば嘘になる。どうせシンジ君に会うなら、そっちも確認しておきたいのは研究者の性というものだ。

言い訳をしつつも、結局私もオバサンなのか、と心のどこかで諦めにも似た感情を覚える。まあいい。とりあえず、興味を優先させる。それが、科学者というものだ。きっとそうだ。

「そこよ」

ふふふ、と笑いながらミサトが箸で示した先には、さっきの店員の女の子、そして、彼女に話しかける懐かしい顔――シンジ君がいた。

シンジ君は最後に見たときより少し背丈が増していたが、線の細さは相変わらずだった。少し伸びて眉にかかるようになった髪が、割と似合っていて少し可笑しい。

そしてその隣で微笑んでいる女の子は、さっき私たちに応対したときよりもっと自然にころころと微笑んでいて、その仕草は少しうらやましいくらい可愛らしかった。その様子は程ほどに熱く、程ほどにぽわんとしていて、傍目に見ても、あ、いいなあ、と思わせる雰囲気をかもし出していた。

かもし出す。

初めて使うような言葉だが、確かにそんな感じだ。

なるほど、確かに彼らは親密そうに話し込んでいて、お似合いのカップルに見える。そう結論づけて目の前に視線を戻せば、ミサトが少し身をかがめながら様子を伺っていた。

はあ、と大げさにため息をついて見せてから、やっぱりそれに律儀に付き合う。

そして、ひっそりとシンジ君がカウンターに座るのを見届けると、私たちはおもむろに席を立ってシンジ君の肩を叩いた。

私たちを見てまるで幽霊でも見たように目を丸くし「うわあっ!?」と声を上げたシンジ君を見て、その昔を思い出させる様子に不謹慎にも思わず笑ってしまった。

ミサトが伝染って来たのかしら、と思いながらも、笑いをこらえられず、私たちはしばらく二人して笑い続けた。

3

そしてここは滋賀の山奥で、私は明太子の袋を膝に乗せながらフロントライトに照らされるアスファルトを見ている。ムードも何もないけれど、この状況でそんなものを求める方が間違っていると私は思う。


またも夜の山奥をぶっ飛ばす車の中、一袋少なくなった明太子を眺めながら深夜ラジオに耳を傾ける。今も昔も、深夜のラジオと言えば『オールナイト・ニッポン』だ。紆余曲折あったけれど、私が生まれるずっと前から今まで放映が続いているのだからやはりこれは大したものだ。

ガーガーという雑音の向こうで、お馴染みの音楽に乗って知らない芸人がオープニング・トークをしている。人は違っても、雰囲気は昔と同じ。懐かしい。

だが、そろそろ限界だった。雑音だらけの放送を切って、私は数時間ぶりに言葉を発した。

「可愛かったわね、彼女」

思ったよりずっとぼそっとした響きになって、何だか嫌な感じだ。一端は笑ったものの、やはり素直に喜べない、というか、違和感が先に立ってしまったのだ。

確かにシンジ君は、話してみれば昔を思い出させる表情も垣間見せた。だが、全体的に見ればほとんど別人のように明るくなっていた。この年頃の少年などそんなものだ、と言われてしまえば、それを否定することなどできないけれど。何か、変だ。

……まあ、いいか。おかしくしたのは私だ。健康になったのに変だなどと言ったらばちが当たる。神の使いと戦っておいてばちも何もないものだが。

「そうね。なかなかやるわね、シンジ君。さすがあの司令の息子、ってとこ?」

暗闇をかなりのスピードで飛ばしながらミサトは答えた。平日の第2東京市内なら間違いなく事故にあう速度だが、滋賀の山奥の高速道路がこんな時間に渋滞しているわけもなく、車は軽快に暗闇を走った。

「やっぱり可愛いところがあったのかしら、彼にも」

「私がそれ訊いたら、あの娘、顔赤くしてたわよ。思わず、えっちー、ってからかっちゃった。今時の女子高生とは思えないくらい初々しいわぁ」

「……訊いたの? まあ、とにかく、うまく行ってるみたいで良かったわ」

私は痛む頭を押さえながらそんな風に話を打ち切った。彼らのことに踏み込みすぎることはない。彼らが幸せであれば、それが一番望ましいことなのだ。

アスファルトばかり見ていても詰まらないので、窓の外に目を移してみた。暗い山道では星がよく見えた。琵琶湖の上にさそり座が鎮座して雄大な姿を見せている。ほお、と息を吐いて、星を眺めた。きっと、隣のミサトには初めて天体観測に連れてきてもらった子供か何かみたいに見えるのだろうけれど、気にはしなかった。

星なんて眺めたのは何年振りだろう。改めて自分の猫背っぷりに驚いた。ここ数年、ずっと下ばかり向いていた気がする。

もしかすると、本当は一度も天を見たことなどなかったのかも知れない。こんな空を見た記憶が全くないことを考えれば、そうも思えた。

星空ばかりではない。いつでも、自分がはるかな高みだと思って目指していたのは実はただの天井だったかも知れない。

母さん、ユイさん……その天井が余りに高くて気付かなかったけれど、私が見ていたのは彼女たちの見ていた高みとは違う。私たちは彼女たちのようにはなれない。女として子供をも放り出して死ぬことはできず、研究者の信念にしたがって旦那や全てのしがらみをも放り出して神様になることもできない。彼女たちがなった母にもなれないかも知れない。

そんな中途半端な女が、私だ。

それが証拠に、生物学の特許でかなりの金を持っている小金持ちのくせに、今、それでも私はせっせと会社で働いている。結局、日常の生活にしがみ付いているのだ。

とんだ小市民だわ。

そう思うと、なぜだか笑いがこみ上げてくる。自分の駄目さにも、柄にもなく感傷に浸ってる自分にも、苦笑してしまう。

そうだ、柄にもない。そう思ってずっと頭から追い出そうとしてきたことだけれど、今は素直に受け入れることができるような気がした。

この星いっぱいの宙のせい?

睡眠をとっていないせいでテンションが高くなっているの?

それとも、吹っ切りすぎて彼女たちの方に近しくなっているようにも見えるこの親友のせいなのだろうか。

そんな風に考えると、急に頭が良くなったような、それでいて本当に莫迦になったような変な気分になった。あ、私、吹っ切りかけてる。そう思えた。それっていいことなのだろうか? きっとそうだろう。だって、私はこんなにも――

「リツコ、寝たー?」

私の思考を遮るかのように――どうせ偶然だろうけれど――ミサトが大きな声で話しかけてきた。ふわふわとしたまどろみを邪魔されて、思い切り不機嫌な顔をしてやる。

「……起きてるわよ。全く、ムードも何もあったもんじゃないわ。何で加持君があなたと付き合ってたんだか……ごめんなさい」

不機嫌な気持ちに任せて、私は触れてはならないであろう場所に触れてしまった。しかし、ミサトは手をひらひらさせながら……この速度でハンドルから手を放すのは酷く危ないけれど……少し困ったような笑い顔を見せた。月のない暗闇の中でも、その柔らかい笑顔は私の目に届いた。不意に泣きそうになって目を逸らす。

今、ミサトはどんな顔をしているだろうか。……苦笑しているかも知れない。主導権を奪われたみたいで、心地いいけれど、少し悔しい。

「そっか、起きてるか」

ぽつりと言うと、ミサトはフロントガラスの向こうに視線を戻した。

「……ねえ、何で連れてきたの? 私を」

九州から大阪に来る道中にも訊いた質問を、もう一度。昨日は、何となくはぐらかされてしまった質問だ。

「うーん、あんたがあんただから、かなぁ」

答えになっていないわよ。その言葉を、今回は飲み込まなかった。

「……答えになってないわよ」

少々面食らった顔をしたミサトは、視線をフロントガラスの向こうに向けたまま、少し照れくさそうに見える顔をした。ミサトは私をこの旅に誘ったときと同じに、小さい声でささやいた。

「葛城ミサトには、もうあんたしか、友達がいないからよ」

「なんだ、それなら、私も同じよ。赤木リツコには、もうあなたしか友人と呼べる人間はいないわ」

自分のことを他人事のように言う、らしくないミサトの諧謔に、私は間髪を入れず言い返した。少し驚いたような顔をした彼女に、にへら、と笑いかける。壊れてるなー、と自分を冷静に分析しつつも悪い気分ではなかった。確実に、何かが変わりかけていることを感じていた。

……少しの勘違いはあったけれど、その予感は大方間違っていなかった。

しかし、そう、例えばプログラムを組むとき、序盤で設計を誤れば、先へ進めば進むほど、本来の道からは遠ざかっていくものだ。そして気づいたときには、いるべき場所とは遠く離れた場所にいる。

バグだらけの膨大なコード、その上走らないプログラム。

それと同じように、看過してはいけない勘違いがそこにはあった。しかし、何かを吹っ切れそうな爽快感の中にほんの少しだけ生じた違和感、ワイン瓶の底に残った澱のようなそれに私は気付いていたのに、そのことに無頓着を装っていた。

4

もう来るはずもないと思っていた第2新東京市。しかし、現に私はここにいる。

目の前にある赤い門をくぐりながら、人生は分からないものだな、と全てを諦観する老人みたいなことを考えていた。


第2新東京市についてみれば、やはり朝だった。また昨日と同じように、仮眠を取ってシャワーを浴びる。下着を変え、服もお互い最後の一張羅である。分かり切っていたことだけれど、二日連続で不規則睡眠をして、車の中に長時間座り、歩き倒せば、相応に目にも足に来る。体中に来ているのだから、わざわざ場所など限定しなくてもいいのかも知れない。

だが、しかし。隣のミサトを見てみれば、やっぱり昨日と同じように平気な顔をしている。その表情に、何か理不尽以上のものを感じるのは気のせいか。

どうして、彼女は疲れない?

そんな私の疑問をどこかへ追いやろうとでもするように、ミサトは明るい調子で疑問の表情を隠さない私に話しかけてきた。

「懐かしき我が母校、ね。十年ぶり?」

「私は、院の関係で適当に来てたわよ」

「そっか、んじゃ来てなかったのは私と、あいつだけか」

「『だけ』って三人のうちの二人じゃないの。来てたのは私だけ、と言うべきね」

私が努めて超然と言い切ると、ミサトは首を傾け、肩まで落とした。門の前で立ち尽くす私たちを何人かの生徒が邪魔そうに避けていく。昔と同じで、おしゃれな子と冴えない子が半々の割合でいる。それを見れば、ここは第2東京大学のキャンパスに間違いないと思えた。

「……不毛な議論ね」

やっと言葉を発したミサトに「ええ」と答えつつ、私たちは門をくぐった。


だいたい学校に一人くらい、何でもできる子というのがいる。成績が良くて、スポーツも万能で、おまけに人柄も良好、という絵に描いたような優等生だ。ミサトなどは最初の二つは良いのだが、最後で及第点を貰ってしまう性質だ。私は、スポーツの方で及第点にも届かない。

なぜこんなことを考えたかと言えば、私たちがアスカを尋ねに久しぶりに訪れた我が母校第2新東京大学で、アスカがその優等生……というよりも、どうやら伝説と化してしまっているらしいからだ。

それに気付いたのは、アスカのことを最初に尋ねた時だった。

今も昔も変わらず建物の奥のほうにある学生課で、今も昔も変わらずやる気のない気だるげな事務員にアスカのことを訊いたとき、その事務員は恐らくめったに見せないであろうやる気を見せて私たちに話しかけてきた。

「惣流さんのお知り合いなんですか?」

「ええ、まあ」

「凄いですねえ」

話の流れが分からず、隣にいるミサトともども首を傾げた。どういうことなのだろう。

「ええと、どういうことでしょう?」

私が訊くと、事務員は大体のことを教えてくれた。惣流・アスカ・ラングレーは、研究分野でもなかなかの成果を出し、部活動に関しては神の領域に達している。彼女は年齢の関係上、近くの高校のクラブに正式には属しているものの、これまで「非公式に」様々な大会に助っ人として出場している。その分野は、各種球技を始めとして、射撃から格闘技まで多岐に及ぶ。

それで性格が悪ければただの嫌味な優等生だが、性格はキツイが面倒見は悪くない、という。

熱い目で語る事務員に私は隣のミサトよろしく、はあ、と言ってそのまま私は固まってしまった。

正直、びっくりした。確かに優秀な子ではあったが、面倒見が悪くない、という評価はかなりの驚きだった。「あの」性格が矯正できたとは。シンジ君と同じく、この年頃の子供の成長力は侮れない、という驚きよりは、この短時間でどうして、という違和感が先に立った。

そしてその違和感は臨界点を越えた。

「どうしたのよ、リツコ。変な顔して」

私の頭に浮かんだ疑問を見透かすようにミサトが私に問いかける。見透かす? 被害妄想ね。そうだ、それで納得はできる。しかし、ひとまずはこの違和感に身を任せてみよう。なぜだかそんな気持ちになった。恰好をつけて言えば、研究者としての勘というやつだ。

何か、私は大きな見落としをしている。一本につながるはずの線を見落としている。そんな気がする。

「探すわよ」

「へ?」

ミサトは私の言葉を聞いて、何を言っているんだ、とでも言いたげな呆けた顔をした。キャラクターに合っていない? そんなことは分かりすぎるほど分かっている。しかし、元々は、これに私を着き合わせたのは彼女だ。責任はきっちりと取って貰う。

「……今の時間、惣流……いえ、アスカはどこにいるか分かりますか?」

隣でミサトが疑問の表情から状況を面白がる笑みの表情に変わったのが視界の端に映った。

「それはちょっと……でも、研究室に行けば、教えていただけると思います」

「ありがとう。ほら、ミサト、行くの? 行かないの?」

彼女が断るはずもなかった。

「了解、赤木博士」


――長々と私たちの行脚の過程を記しても仕方がないので、できるだけ簡潔にその要点だけを記すことにしよう。

あれから、まず、研究室に行き、そこで彼女の研究とともに教えて貰った、現在助っ人しているクラブの練習場に行き、さらに、そこでの彼女の活躍ぶりのついでのように教えて貰った、彼女が夕食を食べに行ったという定食屋に行き、しかしそこでは彼女の姉御肌の性格についてだけしか訊けず、結局行方を失った私たちはもう一度研究室に戻ってきた。

要するに私たちは常に一足遅れでアスカの足跡を追いかけていたのだ。……そのせいで、足を捻ってしまって数分間悶絶してしまったのはあまり言いたくはないが、事実だ。隣で響くミサトの笑い声がやけに耳に障った。

何をしているんだろう。そうも思った。こんなことなら、大人しく研究室で待っておけば良かったじゃないか、と。しかし、それは確かにしなければならないことだった、とも強硬に思っていた。

アスカの足跡を辿るうちに、私は何か言いようもなく懐かしいものを感じていた。それは母校に対する思慕などではなかった。それは、アスカからは感じえないはずのものだ。それは、恐らくは……いや、まだだ、結論はまだ早い。

結論は、アスカに会ってからだ。

見えなかった線が、今はおぼろげながら見えていた。

自分がこんなに感覚に拠った、証拠も不十分な論を組み立てるなどとは信じがたかったが、それは確かに全ての点を一本に結ぶ線だった。そして、今まで私が戦いに加担していたものは、証拠や理論展開など無しに、ただ仕組まれてこちらに降りかかる類のものだ。

だからこそ私はそれと戦い損ねたのかも知れない、と今は思う。

そして……それならば、この線だって、考える価値はある。考えなければならない。もしかしたら今私が見ている問題も、遅れて突きつけられた「その類のもの」かも知れないのだから。


そして、やはり私たちは、研究室に入ろうとするアスカを直前で見つけ、その肩を叩いた。


まるで口裏でも合わせているかのように、アスカは私たちを見て目を丸くし「うわあっ!?」と声を上げた。ミサトはまた莫迦みたいにひいひい言って笑い転げたが、私は今回は笑わなかった。

アスカが怪訝な顔をして「……ねえ、リツコ、あたしの顔に、なんかついてる?」と訊いた。

その言葉には、聞き覚えがあった。

5

第3新東京市跡。全てが始まり、全てが終わった場所。私たちはここに戻ってきた。

どうして? とは訊かない。

既に答えは知れていた。始まったまま終わってないものがあったからだ。


私とミサトは、第3新東京市跡に立った。何も言うことのない景色が広がる。そこにあるのはがらくただ。全てが終わった土地。しかし、終わってない問題……問題たちが、ここにいる。

「ミサト。あなたは、何をしたの、あの子たちに」何の前後説明もなしに、私は訊いた。少し、手が震えた。

「するべきことを」何の淀みもなく、ミサトは答えた。瞳すら揺れなかった。

それで十分だった。

「あれは、あなただったわ。あの子たちの中に、あなたがいた」

「……赤木博士にしては随分感覚的な説明ね」

「構わないわ。感覚でも何でも、構わない。確かに、あれはあなただった。彼らに、あなたが『混じって』いた……あなたは何をしたの? あなたは、誰なの?」

私はそこまで早口で言った。自分の言葉のあまりの荒唐無稽さに、それをまた口の中に押し込んでしまいそうだったからだ。

そうだ、確かに、彼らにはミサトが「混じって」いた。シンジ君に対して感じた違和感と、その癖にどこか懐かしい明るさも、アスカに対して感じた違和感と、その癖に懐かしい口調も、煎じ詰めればそこへと至る。

あの明るさは、あの口調は「ミサトのもの」だ。


「今は、何か楽しいんです。彼女もいるし、もう完璧って感じで」

そう言ったときの、にやりという笑い顔を浮かべたシンジ君。

「あの時に楽しめなかった分、今、最大限に楽しむのよ、あたしは」

そう言って「だからバカシンジみたいに、恋愛してる暇は今はないわね」と続けたときのアスカ。


どこかで聞き覚えのある科白だった。どこかで見覚えのある仕草だった。私は隣に「本物」がずっといると信じていたから、それに気付かなかった。しかし、本当は、隣にいる彼女の仕草こそが、見知らぬ仕草だった。明るい調子、尋常じゃないタフネス、強引さ――それら、ミサトをミサトたらしめるものを彼女は確かに持っていたが、そこにいつも、奇妙な異物が混ざりこんでいた。

ここから得られる奇妙だけれど納得できる結論はひとつだ。

何らかの方法で、ミサトの中から私が知る『ミサト』は失われている。

ならば、彼女は誰だ?

私の疑問を背中に受けたまま、ミサトはしゃがんで石を取り、湖へ放り投げた。石が水に落ちる音がして、水面が揺らぎ……しかし、すぐにまたもとの平坦な水面に戻った。私はただ黙って彼女の次の言葉を待った。

「……葛城ミサトは、葛城調査隊の中心である葛城博士の娘として、南極へと赴いた」

沈黙を破り、突然湖のほうを向いたままのミサトの口から、まるでその口をついて誰か別の人間が言葉を発しているかのように、硬質な言葉が飛び出た。私は最悪の予想をなぞる展開に頭を抱えながら、その声を聞いた。

「そして、葛城調査隊はセカンド・インパクトを起こし、唯一、葛城ミサトだけが、そこから帰還する」

ミサトは私の方を向いた。その顔にはミサトのものとは異質の笑みが浮かんでいた。

「でもね、リツコ。『あの方』に直に触れたものが、何も変わらぬままであの塩の柱の海を越えて帰ってこられると思う?」

「それは……」

私は、それきり口をつぐんだまま、次の言葉を待った。しかし、一向に言葉を発しようとしないミサトが作り出す沈黙に耐え切れず、言葉を重ねた。

「……無理よ。だから、あれは奇跡としか……」

「いえ、必然よ」

ミサトはそう、酷然と言い切った。それは他の解釈の一切を許さないかのようにはっきりとした口調だった。私は、そのミサトならぬ口調に怯み、何も言い返せなかった。そして、ついに彼女は核心に触れた。

「あの海からの生還。それは、ヒトならぬモノとなった彼女の、必然」

「どういう……ことよ」

「言葉通りよ。あなたなら分かるでしょう。疑問に思わない? なぜ、葛城ミサトは調査隊に参加していたの? たかが『十四歳』の子供でしかなかった彼女は、なぜ南極に連れて行かれたの? あれだけの傷を負って、どうして生命を取り留めることができたの? あの傷は『何を抉り出した傷跡』なの? 第1使徒が現れて、その次に第3使徒が現れた。第2使徒はどこへ消えたのかしら? ……ふう。あなたには、これくらいで十分よね」

彼女は一通り情報の断片を並べ終えると、満足そうに口を閉じた。

十四歳。そうだ、確かにあの年、私たちは十四歳だった。エヴァの適合者と同じ年齢、精神が完成する寸前、最もシンクロに適した時期だ。そして、あの時南極に言った未成年の子供は一人しかいない。

そして、ミサトの胸の傷。あの傷は、本来は致命傷になっていてもおかしくない。そして確かにあれは、何かが抉られた後に見える。何が、抉られた?

さらに、第2使徒……盲点だった。黒き月に鎮座していたリリスが、第2使徒である、そう一般には思われる。私もそう思っていた。しかし、それは私たちの推測に過ぎないのだ。実際には、リリスに始まる系とアダムに始まる系は、生物学的に別系統だ。それを1つの系としてナンバリングして振り分けるというのは、控えめに言っても大雑把な仕事だ。となれば、第2使徒は。

このややこしい三つの事実を総合して、得られる知見は、ただ、一つだ。あの時の、アダムへの遺伝子ダイブ実験の被験者こそが――

私がその目を見つめていることに気付いた彼女は、言った。

「そう、私こそが、第2使徒。あの時に生まれ『あの方』に最初に触れた葛城ミサトに巣食ったモノ。死海文書に見落とされた、名の無い天使」

目の前が真っ暗になった。そのまま明るくならなければ良いのに、と思った。

6

今だ立ち尽くしている私をにこにこと見つめて、名の無い天使は、つまらない探偵小説で犯人がトリックを独白するように、淡々と説明を続けた。

「あの子が私に気付いたのは、随分と後だったわ。初めて人を殺した時よ。サード・インパクトが起こる直前……つい一年前ね。その時、あの子は自分の中に、人を殺しても何も感じない誰かがいることに気付いたのよ」

何かを懐かしむように、両手を組んで、もう一度離す。

「そして考えて考えて、ようやく気付いたの。使徒を憎んでいたことも、加持君と分かりあえなかったことも、自分が、使徒でもあるからだ、って。それに気付いて、彼女は贖罪を始めたのよ」

何が楽しいのか、名の無い天使は笑いながら、トン、トン、と湖の淵の石を蹴った。いくつかの石が湖に落ち、虚しく波紋を広げた。

「簡単なことよ? あの子の一部を、みんなにあげるの。シンジ君やアスカちゃんだけじゃないわ。いろんなな人にあげたのよ」

「そんなことが、できるはずが……」

私の反論にはあまりにも力が無かった。最後まで言い切ることもなく、その言葉は空に消えた。その言葉を聞く彼女の顔はどこまでも透き通っているように空っぽだった。

「ないわけ、ないでしょう?」

その通りだった。

「あなたが最後になったのは、悪いと思っているわ。でも、どうしても、あの子たちを『起こして』からじゃないと、あなたの番にできなかったのよ。そうじゃないと、あの子たちはずっと、ミサトに縛られ続けてしまうから」

『起こす』か。そう言えば、シンジ君に会う時も、アスカに会う時も、彼らは彼らを驚かしたっけ。そうか、そういうことなのか。

それにしても……気になる言葉がある。

「最後? 何よ、最後って」

「言葉通りの意味よ。あなたで最後なの。あなたにあげてしまえば、あの子――ミサトはそれで、おしまいになるのよ」

まるで、温泉が枯れてしまったぞ、とでも言うように、残念そうに名の無い天使は語った。

「ねえ、知ってる? あの子『私の残りは、全部リツコにあげて頂戴。迷惑、かけたし。……恥ずかしいんだけどさ、私、友達ってあいつしかいないのよ』とか、どうしようもないことを何の曇りもない魂で言うのよ。感情もないはずなのに泣けちゃったわ、私。だからこそ、これを任せるのはあなたしかいなかったの。よく、気付いてくれたわ。やっぱり、あの子の親友ね」

私は何も言えなかった。

涙すら出なかった。

そして名の無い天使は、今度こそ正真正銘、私を連れてきた理由を教えた。

「……それで、ね。本当に申し訳ないんだけれど、私を、殺してくれないかしら?」

その内容の深刻さとは裏腹に、まるでお使いを頼むような気軽さで名の無い天使はそう頼んだ。フィフス・チルドレンといい、この女といい、何で使徒という人種は自分の命をまるで一円玉か何かのように容易に捨て去ってしまえるのだろうと、少しだけ腹が立った。しかし、その程度の怒りは、襲ってくる戸惑いの前には焼け石に水だった。

「なぜ?」と私は尋ねた。

「ひとつ、ミサトを全部あなたにあげるには、ミサトに引っ付いている私ごと殺さなければならない。ふたつ、ミサトが私に、死んでくれないか、と頼んだ。みっつ、私は人間に引っ付いたまま15年も生きてきたものだからか知れないけれど、私たちよりも、あなた達を気に入っている。これで、いいかしら?」

十分な理由だった。妥当で、文句のつけようもない。

ミサトは、ジャケットから拳銃を取り出した。懐かしい彼女の拳銃。これで彼女は初めて人を殺し、自分が偽物であることに気付いたのだ。

私は少しだけ頷いて、その銃を受け取った。

「ねえ、使徒さん」

私が話しかけると、少し悲しげな顔で名の無い天使は嘆願した。それはまさに嘆願、という表情だった。それは、絶えず笑みを浮かべていたフィフス・チルドレンだった少年よりはずっと人間らしい表情に思えた。

不覚だったが、その表情は少し私の胸をついた。

「申し訳ないんだけれど、名付けていただけない? ミサトも結局、あんた、としか呼んではくれなかったから」

「これから死ぬ人に、名前が必要?」

彼女の嘆願に私は嘲笑で返した。これではどちらが人でなしなのだか分からない。

「ご挨拶ね。死に至る階段を上ろうとするものにこそ、名前は必要なの。分かるでしょう?」

ミサトの口からそんな哲学的に含蓄を含む台詞が出てくることに吐き気がする思いだったが、私は辛うじてこの、醜い癌のような生き物に名前をつけた。

「そうね……なら『ウリエル』でいい?」

「何それ、皮肉? 火なんて出せないわよ、私は」

「……違うわ。あなたは天使として生まれて、人として死ぬからよ。だから、あなたにその名前をあげるの。それにね、そんなに聖書に詳しいわけではないのよ、私も。それで我慢して頂戴」

私の言葉に、使徒――ウリエルは「心底面食らっています」というような表情で私の目を見つめた。私が知っているミサトは決してしないであろう酷く高潔な、まさに天使の笑みを浮かべて私の手を握った。

「我慢だなんて。嬉しいわ。とてもね。本当よ? 『神の炎』の名前を貰えるなんて、思ってもみない光栄だわ。……ありがとう」

そのあまりにも本気の口調に、何も言えなくなった。

私はまた間違いをしでかそうとしているのではないのか?

あの時、地下の水槽に浮かぶ「彼女たち」を屠ったときのことが、今さら脳裏に走った。

自爆した。私はどうしようもなく莫迦だ、と何の自嘲もなく思う。

そんな思いにとらわれている私の顔を見て、ウリエルは悲しげな顔を見せた。

「……あれはあなたのみの罪ではないわ。それに、あなたが屠らなければ、彼女たちはあの暗闇で永劫の煉獄を生き続けたでしょう」

「頭を……覗いたわね」

「流れてくるの。そうでないなら、シンジ君の場所も、アスカちゃんの場所も、分からなかったわ。もちろん、何重にも身元を隠したあなたの場所もね?」

確かにそうだ。ミサトごときに、私のかけたプロテクトが破れるはずがなかったのだ。あれを破れるとすれば、彼女が、恐らくは罪を自覚した大罪人にも等しい気持ちで謝り続けたであろう、諜報のプロだった彼女の恋人くらいしかいない。

もっと、早く気付くべきだったのね。ごめんね、ミサト。


夕焼けに紅く染まる湖の淵、私はもうこの世でたったひとりしかいない親友に銃を向けた。銃口がしばし揺れ、ぴたりと止まる。真っ直ぐに狙う。

「悪いわね、こんな事頼んじゃって。んじゃまぁ……頼むわ、親友」

あるいは、彼女の中に残った最後の「ミサト」が私に言った。

「そうね。毎回毎回、いい加減にしてほしいものだわ」

状況を取っ払ってしまえば昔とほぼ同じに見えるだろう、でも少しだけ確実に異なった掛け合い。何もかもが少しずつしか歪んでいないせいで、全てが取り返しもないほどに変わってしまったことに誰も気付けないような、そんな残酷に曖昧な穏やかさの中で、私は引き金を引いた。

ぱん。

黄昏た空気に気の抜けたような軽い音が響いた。

7

銃弾は軽い音と共に彼女を掠めて、彼女が帰れなかった天へと抜けた。

「どうして?」と、少し驚いた表情のウリエルが呟いた。

私は答えた。自分で自分に驚いて、それでも、こんな言葉が口をついて出た。

「ごめんなさいね。人殺しは、一年前に廃業したのよ」言ってから、少し考えて付け加えた。「それに、私は、あの子に養って貰うほど、落ちぶれちゃいないわ」

精一杯の強がり、私にはそれが必要だ。

結局、また私は戦い損ねたのだろう。彼女たちのように、吹っ切ることはついにできなかったのだ。中途半端で、何も成し遂げられない。とんだ小市民だ。

でも。

私は言い返す。

何かを成し遂げたあなたたちは人でなしじゃないか。

ああ、すっきりした。そうだ、何が悪いと言うのだ。恰好良く生きて、娘を捨てて息子を捨てて友達を捨てて、友達のために自らの命を投げ出した人を殺して、それで何も残らないのならば、私は、こっちを選ぶ。戦って、堂々と逃げ帰ってみせる。

何も吹っ切らないで、みっともなくここから始めて、どこへも行かず、ここで、自分の生活にしがみ付いてみせる。

それは、少なくとも、戦わずに逃げるのとは、違うはずだ。

結局、恰好悪いところに落ち着くだけでも、それでも、こっち方面の莫迦のほうが、あっちの莫迦よりは、いくらかましよ――そうでしょう? ミサト。

私はウリエルに笑いかけた。彼女は私の顔を見て一瞬きょとんとして、それからゆっくりと微笑んだ。

「……そう。もう、あなたの中に、あの子はいるのね」

極上に美しいものを見た、そんな表情だった。私は、こんな顔をするこの子をもう嫌うことはできなかった。正直に認めよう。私は恐らくは、ミサトの中にいたこの子も好きだったのだ。私が出合ったミサトは、彼女をも含んでいたのだから。

「友達はいいわね。それこそが、リリンの生んだ、文化の極み――」

唄うようにウリエルは言った。それはいつかフィフス・チルドレンの観察記録の中で耳にした言葉だった。

「常套句なの? あなたたちの」

「こちらの方がいい? 『わたしは人間たちの中で暮らすために地上におり、ミサトという名で呼ばれる』」

あの子が、ヤコブですって? 私はひとしきり笑ってから、言った。

「ミサトは、私が何とかしてみせる。あの、往生際を間違った子に溜まったツケを払って貰わないと、死ぬに死に切れないわ」

「……私は?」

「あなたも、あなたでどうにかするわ」

「適当ね」

「そうね。でも」

「でも?」

「口に出すと、何となくできそうな気がしてこない?」

「あの子に聞かせてあげたい言葉だわ」

そう言って、ウリエルは私の手を取った。「無様ねぇ」と答えて私は笑いを作り、彼女の中に居残っている最後のミサトと、死に損なったこの出来損ないの天使と、それから吹っ切りそこなった自分をすっかり罵倒してから、その手を握り返した。

- The rest stories of "Project Eva" #06 - "Angel half" end.
first update: 20041013
last update: 20060103

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作者:north
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ウリエル(in 天使の世界
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