- The rest stories of "Project Eva" #07 -

"静止軌道 前編"

1

ある人はかつて彼女をこう評した。

「あれはよくできた妻だった。……すまなかったな」

またある人もかつて生きているときに彼女をこう評した。

「憎らしいほどに科学者だったわ。違う、憎らしいのね、私、あのひとのことが」

今生きる人の中にはこんな風に彼女を評する人もいる。

「彼女は実に魅力的な女性だった。どこが? 美しく、理知的なところがだよ」

既に死せる人の中にはこのように彼女を定義した人がいた。

「さあね。彼女はこの世界の真実の鍵……俺にとってはそれで十分だよ」

そうかと思えば彼女をこんな風に言う人もいる。

「アレでしょ、天才科学者なんでしょ。まあ、人間としてはどうなのかしらね? ダメなんじゃない?」

その一方で彼女についてこんな風にしか言うことができない人もいる。

「どうかな……あんまり、覚えてないから」

こんな風に評した人もかつてはいた。

「世紀の大犯罪者にして、聖母だ。あれほどの腹黒さと、聡明さを併せ持つ人間はそうはおるまい」

打って変わって、こんな風に言ってしまえる人々もいる。

「そりゃあもう、凄いかただと思ってます! でもでも……」

「はぁ。凄い方だとは伺ってます。でも、勝手なのも、魅力の一つかも知れませんね」

「多分、凄いひとなんでしょうね。尊敬するかって? まさか。手も足も出ない女のひとに興味はないっすから」

また、はっきりこんな風に評する人もいるから大変である。

「正直、好きじゃないわ。こういう女性」

さらには、彼女をこう評してしまう人さえもいたのだ。

「一番の元凶よね、結局」

そして、今では彼女の客観的な情報を評することしかできないものもある。

「碇ユイに関する情報 a.女性 b.碇ゲンドウの妻 c.……」


レイは大きく深呼吸をして、ノートから顔を上げた。さっきまで西日の差していた部屋は徐々に薄暗くなってきている。細い指で一通りノートを繰ってからそれを閉じ、ぱちっ、とゴムを巻く。立ち上がって、とんとん、と上下を抑えると、そのノートを机の右端の決められた位置にきっちりと置いた。

分厚いゴム付きリング・ノートには「碇ユイについて」という副題が書いてあった。元々は数ミリの厚さしかないはずのノートは、間に挟まった大量の書類とメモによって、その数倍の厚さになっている。

ノートを定位置に設置すると、レイは部屋を後にしようとした。しかし、彼女はドアの直前で立ち止まり、小走りで机のところまで戻ってきた。机の電気をつけ、机の上に無造作に置いてあったブロックメモを一枚千切り、何かを書き付けて、さっきのノートをその端に乗せ、重しにした。

その切れ端には、「あなたはかつて私であったもの。あなたは何者?」とだけ、書いてあった。

足音が机から遠ざかり、立て付けの悪いドアが閉まる音が部屋に響いた。部屋は暗闇に閉ざされ、そこには誰もいなくなった。

2

あの時から地球が太陽の周りを数え切れぬほど回った後でも、間違いは間違いのまま宇宙を漂い続けている。


『……ミスった。私としたことが、何たるミスなの』

ユイは誰にも聞こえぬ声で、誰かへの発言とも自分への感想とも分からない言葉を呟いた。呟いた、というのはあくまでも彼女の感覚で、である。彼女はもう声を出すことはできない。いや、たとえ声を出したとしても、ほぼ真空であるこの空間で分子を伝わる波などが届くはずもない。例え精神波として放ったとしても、その声を聞き取ることができる者もいない。

彼女がいる場所は、ほぼ真空で、一つの恒星の重力圏内で、しかも、彼女と一時は六十億にも及んだそのかつての同類たちが「火星」と呼んでいた場所のすぐ近くだった。

彼女は一人だった。もうかれこれ光が手近なこの銀河系を2000か3000往復するほどの間、たった一人で過ごしている。知ろうと思えば、いまだに動いている時計を使って今が地球の人間が使っていた時間概念で何年であるかを調べることもできたが、もはや人間の時間が意味をなさない彼女がそんなことをするはずもなかった。

長い年月だったが、予想とは裏腹にすることには欠かなかった。こっそりデータとして保存してあった様々なデータを『思い出し』たり、新たに触れる宇宙を観察したり、新しい物理理論を考えてみたりして時を過ごす。

星の海に出る前は、何もやることが思いつかない時は眠りにつくように意識を止めてしまえばいいと思っていた。しかし、宇宙は神秘に満ちていて、その程度の時間では到底彼女の知識欲を満たすには足りなかった。彼女はこれまで、ただの一度も自分の意識を止めたことはない。

彼女が、当初の予想通り外宇宙に出てしまえば、彼女はずっと自分の見知らぬ星々の間をすり抜け、もしかするとグレート・ウォールの切れ目や、ヴォイドなどをこの目で間近に見ることができたかも知れない。

しかし、何の因果か。慣性とほんの少しの力でたどり着いた場所はこの銀河の重力圏内だった。この銀河の重力圏の境目にあと数十光秒というところで、無情にも彼女の身体は、見落としていた重めの星の重力圏に引っ掛かり、その星に落ちないように力を加えてみれば、今度はさっきとは真逆である銀河の中心方向に向って飛ばされてしまった。

S2機関をもっとしっかりと起動させれば、あるいは手に持つ槍を使えば、その流れに逆らうことは不可能ではなかった。しかし、彼女は敢えてそれを選ばず、流れに身を任せることにしたのだ。

それが失敗だった。偶然もあるものだ。この大きな銀河系の中で、彼女はまるで宝くじにでもあたるように(実際にはもっともっともっと小さい確率だったが)彼女が出発した太陽系に帰ってきてしまった。

それが、さっきの言葉の理由だ。

『……ま、いっか。あ、火星か、久しぶりね。形が変わってる、チェックしとこうっと』

さっきふと頭に考えたことなど忘れたようにユイは新しい出来事に関心を向ける。

しかし、彼女が何に関心を向けようと、彼女の行く先には必ずあるのだ。

そこには確かにあるはずだ。彼女が「逃げ出した」地球が。

3

レイはチャイムを鳴らした。少しの時間がたった後、はーい、と声がして、戸が開いた。

「こんばんわ」とレイは挨拶をし、会釈した。最近覚えた作法だ。意識せぬまで習熟するまでにはもう少し時間が掛かる、とアスカに言ったところ、失笑されてしまった。不都合のない生活をするには、まだ時間が掛かるらしい。

そんな、日常生活初心者であるレイに、アスカは半眼で「……来たわね、野良猫」と呟いた。

確かにアスカの言葉は正しい。毎日決まった時間――つまりは、夕食時に葛城邸に夕飯を食べにきて、夕飯を食べればすごすごと帰っていくレイは、確かに野良猫と呼ぶに相応しかった。

その言葉に、しばし視線を中に浮かせたレイは「……では、あなたは飼い猫?」と答えた。

レイの言葉も、また正しかった。

「……確かに。うまいこと言うわね、あんた。んじゃ、猫は飼い主に餌を貰うとしますか。ほら、片付かないから早く入んなさい」

そして葛城邸では、いつもの夕食が始まった。


数年前のことだ。葛城がついに帰ってこず、シンジとアスカは葛城邸を譲り受けることになった。何時の間に手を回していたのか、彼女が死ねばその権利は彼らに委譲されるようになっていたのだという。

私がいなくなっても、ここにいてね――そんな彼女の呪詛にも似た思いが見えるようで、彼と彼女は怖いんだか嬉しいんだか、ただ笑うしかなかった。

結局、それが決定的に駄目になっていた二人の関係を結ぶ絆となった。二人とも何となくこの家を出ることができなかったのだ。それを考えると、葛城の申し出は彼らに与えられたチャンスでもあったのかも知れない。その呪いのお陰なのかは分からないが、彼と彼女はたっぷり一年ほどを掛けて関係を修正し、とりあえず気軽に話ができる程度の仲にはなることができた。

そんな彼と彼女のリハビリテーションが終わりを迎えようとしている頃、それに重ね合わせたかのようにレイは唐突に帰って来た。彼女は、まさにレンズが像を結ぶように、シンジとアスカが食事をしているそのテーブルの上に現れたのだった。

彼らは再会を喜ぶより先に、盛大に叩き割れた数々の食器を片付けなければならなかった。

テーブルを片付けた後に、何だかバツの悪そうな顔をしているレイを見た彼らは揃って「これも、プレゼント? ……呪い?」と口走り、口の端だけを吊り上げて笑った。

その日は、シンジの誕生日だった。


レイがひょっこりと帰って来た時、一番泣いたのは意外にも赤木だった。彼女はレイを全力をもって保護し、様々な手段(その大方は、生物学的な偽装――即ち、サンプルの偽造であったが。碇ユイのサンプルを使えばそれはわけはないことだった)を使って彼女が人間ではないことを隠し通した。しかしレイは、そんな罪滅ぼしを快く受けつつも、私があなたを引き取る、という彼女の申し出だけは固辞し、かつての廃墟のようなマンションに未だ住んでいた。

しかし、レイが自活をするとなるとやはり無理が生じる。十四歳のままで帰還した彼女は、無数の錠剤で命をつないでいたあの時のままだったからだ。

そのため、見るに見かねたシンジは「ご飯だけでも、食べにおいで」とレイを諭し、それからもう数ヶ月に渡ってその関係は続いている。アスカもそれに反対することはなかった。既に自分よりもずっと年下になってしまっているレイは彼女にとって言い争いの相手にはなりえなかった。

今では、仲の悪い姪っ子というか、似てない妹というか、そんな感じでアスカはレイを位置づけていた。

そうして、彼女が何のために帰ってきたのかは不問に付されたまま、奇妙な平和が訪れていた。

4

火星を過ぎて、ユイはまたしばらく力に身を任せた。流れに任せて真空を漂う。もうずっと繰り返してきたことだ。

段々と火星から離れ、地球に近づいていく。ユイはふわっと身体を回転させ、太陽の側を仰ぎ見た。視界に黄色い恒星が飛び込んでくる。

「!」

一瞬、強い光に目を焼かれた。彼女にとってその時間は一瞬にも等しいものだとしても、しばらく暗い一帯を流れてその明るさに慣れた彼女の視覚には、久々に間近に見た恒星はかなりのものだった。視覚に入る光量を落とし、調節した。

『ああ……』

地球に近づくに連れ、ユイはまた見慣れた星々を見つけることができた。

金星。太陽から少し離れた視界の端で、明星は明るく輝いている。

ユイは水星を探した。小さい星だが、どこかにあるはずだ。それから少しの間探したが、太陽の方向に近すぎて、既に人の身ではないユイの目でも捉えることはできなかった。

それでも目を凝らして見れば(もちろん比喩だ)、通り軌道には見えなかった木星が太陽の側にその巨体を浮かべている。太陽の放つ黄色の光に邪魔されたが、その美しい縞を(形はユイの知っているものと違ったけれど)辛うじて確認できた。

『惑星を見るのなんて、久しぶり。……当たり前か』

宇宙空間にはボケてもツッコんでくれる人はいない。思考が虚しく自己完結するまま、さらに流されていった。

しかし、それでも地球はユイの前に姿を現さない。

ユイの目前には、太陽の光を受けて光る、懐かしい衛星があった。

『月か……』

今ユイのいる側からはちょうど月が地球を覆い隠していた。しかし、ユイが地球にもう少し近づく頃には地球が見えるはずだ。しかし、なぜだろう、あまり、帰りたくない。

おかしな感情だった。奇跡にも近い確率でここに帰って来たこと自体、何かの思し召しと思われるような事態なのだ。ユイは神の使いを殺すモノを作った癖に神の存在はあまり信じていなかったが、この確率の奇跡は、確かに奇跡だと思えた。

なのに、どうして気が進まないのだろう。

宇宙に出てからこれまで、いや、地球にいるときからも、ユイはかつて一度もこんな気持ちを感じたことはない。と思う。いつでも、新たな世界や自分の成せることを考えて、前向きに生きてきたつもりだ。

『なんなんだろう……まあ、いいか。行けば分かるわ』

久しぶりに感じる人間じみた欲求をもてあましながら、ユイは軌道を計算した。

現在、ユイは地球重力圏内、離心率0.8の楕円軌道に侵入できる軌道にいる。月の周辺を通っているが、幸いにもここで月に引っ張られてしまうことは無さそうだ。そして、その後に近づくであろう地球にも、少しだけ力を出せば落ちることもなさそうだ。地球を周回した後にほんの少しだけ力を加えてあげれば脱出軌道に乗ることができる。

この出会いは奇跡だ。次はもう戻ってくることはないだろう。

隠れていた月の裏から、じりじりと地球はその姿を現し始めていた。青い星。かつて彼女がその中で過ごした海も、山も、空も、彼女がいたときと同じかは分からないが、少なくともいまだにそこにあった。

さっきの計算結果が頭を過ぎる。今度この太陽系から出てしまえば、もう帰ってくることはできない。

『そう……これで見納めなのね』

そう考えると、さっきよりはずっと自然な気持ちで今の状況を捉えることができた。良く考えてみれば、自分が地球行きを嫌がる理由など、何も存在しないのだ。何をうろたえていたのだろう、私は。

なんだか自分がひどくバカバカしいことを考えているように思えた。


そうだ、自分が言うべき言葉は一つ。この懐かしい故郷への、帰還の言葉だ。もう、2度とは帰らざるこの星への。

『……ただいま、地球』

5

夕食も終わり、時は午後九時。リビングに三人はいた。

今も昔も三人が座った机、昔は葛城とシンジとアスカが座った机に、今はシンジとアスカとレイが座っている。レイが夕食後も帰らずいるのは少し珍しいことだ。

「……で? 何よ、今日は」

テレビもひと段落といったところで、珍しく黙っていたアスカが口を開いた。

レイがアスカを見て、それからその隣のシンジを見た。アスカの蒼い瞳が、シンジの黒い瞳が、レイの紅い瞳を覗き返す。

数年前なら、お互いの瞳を覗き込むことなどかなわなかっただろう。しかし今は、それができる。唯一、レイを除いては、だが。

レイは、この世界に現れてから、徐々に相手の目を覗き込むことをしなくなった。昔は臆面もなくしていたことだが、今ではとてもできない。シンジに瞳を覗き込まれ、アスカに瞳を覗き込まれると、レイは身動きが取れなくなる。そんな気がする。

しかし今日は、レイはシンジとアスカの瞳を除き返した。それは、ここに来たばかりの彼女がシンジやアスカの瞳を覗き込むことができたのとは、少し異なった出来事だ。その瞳はもはや無為ではない。

「……調べ終わった」

何を、とは二人は訊かなかった。訊く必要がなかったからだ。

レイは帰ってきてしばらくしてから、碇ユイのことを調べ始めた。まずシンジとアスカに訊き、それから他の人にも訊いた。そんなわけで、レイが碇ユイのことを調べているということは周知の事実だったのだ。

レイは一言言ったっきりで黙った。シンジもアスカも、レイを問い詰めるようなことはしなかった。

「……お疲れさま」

ただシンジがそう声を掛けた。

しばらくの沈黙。テレビがから音が鳴り、火に掛かったやかんからは湯気が出始めていた。粘り気のある時間が流れる部屋の中で三人はじっとタイミングを待った。


やかんの口から音がした。沸騰の合図だ。

シンジはそれを一瞥すると立ち上がり、キッチンへと向った。

アスカはそれを合図に口を開いた。

「……で? どうだったの?」

シンジはティー・バッグを湯を注いだポットに入れる背中で、その声を聞いた。そして無言のまま、三つのカップとポット、それに砂糖の瓶が乗った盆を抱えてシンジはキッチンから戻ってきた。シンジはぽん、とレイの肩に手を置いて、静かに言った。レイは振り返って自分の肩に手を置いたシンジを見上げた。その顔には彼女たちををなだめるような表情が浮かんでいた。

「お茶、入ったよ」

「ありがとう、シンジ」

「……ありがとう」

アスカとレイも静かにそれに答え、紅茶に口をつけた。

にわかに緊張した空気が緩む。

レイは深く息を吐き、顔を上げて語り始めた。

「よく、分からなかった」

シンジもアスカも、レイをじっと見て、その言葉を聞いていた。アスカが生唾を飲む音がして、シンジが小さく肩を揺らした。

「……分からなかったわ。たくさん調べた。けれど、誰に何を訊いても、彼女を掴めない……」

それが、レイの結論だった。


碇ユイのことを調べようと思ったとき、レイはまず、自分の一番身近にいる、そして一番彼女に近いであろう人々から始めた。それが、シンジとアスカである。かたや、彼女を母に持つ少年。そしてかたや、母親に去られたエヴァ・パイロット。確かに、彼女のことを訊くには一番適しているとレイには思われた。

しかし、二人から帰って来た言葉は、全く違うものだった。

何ヶ月か前、レイが碇ユイについて訊いたときのことだ。シンジは困ったような顔をして「どうかな……」と言った。そしてそれっきり、黙った。しばらく考えた後で、ぽつりと「あんまり、覚えてないから」と、少し悲しげな表情で、小さく呟いた。

回答が得られなかったことにレイは少々拍子抜けして、今度はアスカに碇ユイについて訊くことにした。

アスカの部屋を尋ね、その中に通されて開口一番「碇ユイって、どんな人?」とレイは訊いた。シンジに訊いたときと同じ、ど真ん中まっすぐの直球勝負だった。

するとアスカは一瞬、どうしようかしら、という顔をした後「アレでしょ、天才科学者だったんでしょ……って、そういうことじゃないわよね、多分」と言った。

そして、唇を軽く噛んでから、「いい? これはあくまでもあたしの意見だからね?」と前置きした。

レイがこくりと頷くと、アスカはうんうん、と軽く首を縦に振って、意見を述べた。

「知らない人だけど、人間としては……どうかな。 結構、ダメなんじゃない」

レイはその言葉を聞き、少し考えた。紅い瞳が揺れる。

「あなたのお母さんは?」

するとアスカはもう一度、今度は、あー、そりゃねー、と声まで出して考えた後でその質問に答えた。

「どうだろう、あたしのママも……まあ、ダメっちゃあダメだと、今は思うけど。でも、あれは事故でしょ。シンジのママは、どうも確信犯だったみたいだし。それだったら、やっぱ、あたしなら許せないの、かなあ。自分を捨てたわけだし」

そこまで答えると、アスカは眉をひそめて一言「あんた、もしかして……シンジにも同じこと訊いたんじゃないでしょうね?」と問うた。

レイはあっさりと首を縦に振った後「どうしたの?」と目の前でうんざりしたような顔をしているアスカに訊いた。アスカは眉の間に深く皺を刻みながらこめかみに手を当てて、こちらは首を横に振った。

「どうしたの、じゃないわよこのニブチン。そういうこと、ストレートに訊いちゃダメだってのよ。あいつ、神経細いんだから。全くデリカシーの欠片もない子ね。……何て、言ってたの?」

「どうかな、良く覚えていないから、って」

「そうか……今、あたしに訊いたままのことを訊いたんだ? ……ねえ、レイ。そんなにシンジのママのことが知りたい?」

レイは無言で頷いた。彼女がなぜそう思うのかも、ユイの写真を見た今なら理解できた。

「そっか。それだったら……そうね、しばらく自分で調べなさい。いろんな人に訊いて、調べてみたらいいわ。……それでも分からなかったら、今度こそシンジに訊くといいわ。『お母さんをどう思う?』ってね。分かった?」

レイはもう一度頷いた。首の動きにあわせて蒼みがかった銀髪が揺れる。アスカはやれやれ、とため息をつくと、その頭を、ぱちん、と軽く叩いた。

「……痛い」

「我慢なさい。知らなくても、あんたがやったことは、あいつにとってはもっと痛いことよ。だから、あんたに訊く権利があるとしたら、自分でせいぜい調べてからね」

そう言うと、アスカは今度はぽんぽん、と優しくレイの頭を撫でた。その姿は少しも似ていないのに、まるで本当の姉と妹のようだった。


そしてレイは結論を出した。やはり、彼女を掴むことはできない、と。

レイは言葉を述べ終わると、シンジを見つめた。そして、まっすぐにその瞳を覗き込んだまま、訊いた。

「訊かせて。碇君」

ついに来たか、とアスカは思い、机の上で組んだ手に額をつけた。

「お母さんを、どう思う?」

シンジがぴく、と肩を震わせた。レイにはシンジが一瞬怯えた目をしたように見えた。しかし、その色は大量の水にインクを一滴垂らしたように、すっと消えた。

「……外、出ない?」

シンジは何かを吹っ切ったような表情でそう言うと、椅子から立ち上がった。

6

ついに私は帰ってきてしまった。とユイは思った。

自分の知る者が誰もいない地球。

言うべき言葉は決めて来たはずなのに、帰ってきてみれば何も言うことはできなかった。

今、地球をめぐる楕円軌道上にユイはいる。今、ユイの目の前に故郷・地球はあった。今から十分に減速すれば、地球に下りることもできる。あと少し加速すれば、もう二度と地球に帰ることはないだろう。

地球に落ちない程度にほんの少し減速して、ゆっくりと――彼女が感じる速度はもう人間には当てはまらないが――地球に近づく中、ユイは大きくなって行く青い星を見つめ続けた。


私が人類の生きた証となろう。そんなことをユイが考え始めたのは院生の時だった。始めはふとした思い付きだった。彼女には生命工学を研究する中で経験的に分かったことがあった。即ち――生命はどうしようもなくこの星で生きていくようにできている、ということだ。

例えば同期の友人には、ゲームか何かに触発されて、火星への入植計画が人類の生きる希望だ、などと言っていた者がいた。しかしそう言われても、彼女にはどうしても、この星の生き物がこの星の外で生きていくことがイメージできなかった。

なるほど、彼の言っていることはもっともだ。火星でも、金星でも、なんなら木星でもいい、太陽系のどこかに新たな一歩を踏み出し、そして銀河系へ、そしてもっとその先へと生活圏を広げて行けなければ、結局人類ははその歴史を終えることになる。少なくとも五十億年後には、地球は太陽に飲み込まれてしまうのだから。

もしかすれば、人類は歴史のどこかで本当にそんな挑戦を試みるかも知れない。でも、どうしてもユイには、この星の生き物が――こんなにも、窒素と酸素とその他の物質がこの割合で含まれた大気に、物体を秒速9.8mで地上に引き付ける重力に、そしてこの星を覆う水に適応した人類が、この星の外で生きていけるとは思えなかった。もし、この星から他の星に生命をつなぐものがあるとすれば、それは人類とはもっと別の生命だ。もしたとえ、奇跡のような確率のもとで、その新しい生命が人類から出でたものだとしても、もはやそれを「人類」と呼ぶことなどはできないだろう。そうユイは思った。きっと人類という種は、この星に生き、この星に死すしかないのだ、と。

だから、ユイは「彼ら」を見た時に決めたのだ。私が、その証となろう、と。いつかは消えてしまう人類の証に。


そして、ユイの予感は恐らくは正しかったのだろう。火星には、人類の面影はなく、月の周辺にも、人類の足跡は残ってはいない。

しかし、地球のすぐ近くに、ユイは輝く輪を見つけた。

『輪……』

ユイの視線の先、地球表面から100キロと少しの円軌道上に、くるりと地球を取り巻く輪があった。その軌道の低さから見て、恐らくは、超長高度の軌道エレベーターを接続するリングではなく、もっと低軌道に作ることができるオービタル・リングなどに近いものだろう。

『作ったんだ……』

感慨を込めてユイはリングを眺めた。人類は少なくとも、ここまでは出てきたのだ。そして恐らくは、ここで力尽きた。火星に入植すると言っていた人々は子孫のふがいなさに怒るかも知れないけれど、そこまでやったのだから偉い、とユイは思った。宇宙服が無ければ宇宙にも出られない身体を持つ人間が、こんな場所までやってきたのだ。

そして、こんなに大きな構造物を作った。

これを見ただけでも、ここに帰ってきて良かった、と思えた。


親戚のつてで見た「彼ら」は人類にごく近い生命体だった。単なる収斂進化とは思えないほどに、南極大陸で見つかったそれは人類に似ていた。そして、同じものが日本にもある、と遠縁の歴史学者から聴いたとき、彼女は卒倒しそうになった。

目の前にある資料を見た。誰かが作った球状の地下空間。そしてそこにいた「彼ら」。物理学のことは初歩しか分からないけれど、人類とほとんど同じ遺伝子構造で、こんなことが実現できるなんて――そんな風に、新しい可能性に胸が震えたとき、耳元でそっと「私と一緒に歴史を作らないか」と囁かれた。そして、あの本を見せられた。裏死海文書。それは生物が使うことなどまるで不可能に見える複雑で高度な構文で書かれた歴史書だった。

ユイにはもう抗うことはできなかった。

そして、ユイはゼーレの共犯になった。彼らが可能性として述べていた「人類補完計画」などという戯言も、彼女のことを愛しているように見えて、その実ゼーレのことしか見えていない六分儀も、全く関係なかった。ユイは、彼らや葛城博士が起こしたセカンド・インパクトを見過ごし、本当は六分儀のために協力してくれていたであろう赤木が自分にとっては若い彼と浮気をしていたことも黙認し、自分のことをかってくれていた冬月にもそ知らぬ顔で微笑み続けた。彼女は、自分の目的を愛していた。

いや、六分儀ゲンドウ――彼だけは、自分も少し愛していたかも知れない、と思う。

最後に彼は私を愛して狂ってくれたからだ。

「彼ら」に出会ってから、ユイはずっと前だけを見てきた。人間の証を残す。それだけのために生きた。5年間、ずっとだ。

出会った人は、みんないい人だった。

でもユイにはすることがあった。

悪いことをしたのかも知れない、とユイは思う。私にはしたいことがあった。人類の証を残したい。それだけが、したいことだった。ささいな夢だ。しかし、それに犠牲がいるということは予想外だった。

「『彼ら』は何も摂らなくても動けるが、私たちの欲望は誰かの血を吸わなければ動かない」

その厳然たる事実に気付いたのは、セカンド・インパクトで世界の半分以上の人々が死に絶えた後だった。


昔のことだ。ユイは不意にゲンドウに「怖い女だな、君は」と言われたことがある。出会ってすぐのことだ。それまで一度もそんなことを言われたことが無かったユイは少し不快に思いながらも、面白い人だ、と思った。しかし、何のことはない。彼だけが始めから一番彼女を理解していたのだ。


『……もう、昔のことよね』

思い出に浸っている内に、もう地球への最接近点はすぐそこまで迫ってきていた。リングは視界の中で徐々に大きくなっていき、その向こうに青い海に覆われた星が見える。そうだ、もうあの星には彼らのひ孫のひ孫も……いや、彼らの子孫の一人も生きてはいまい。今何を思おうと、もう全ては終わったことなのだ。ユイはそう考えて、考えるのを止めようとした。

しかし、ユイは逃げおおせなかった。

そこには「それ」が残っていたからだ。彼女の罪の証がそこにはいた。

ユイの眼下、リングの上で何かが動いたのを、その視覚は見逃さなかった。ただの物体ではない。「それ」には明らかに何らかの意志が宿っていた。

『何?』

ユイが疑問に思った途端、「それ」は尋常ではない速さで突然上昇しだし……彼女の目前で、ぴたり、と止まった。丁寧に相対速度まで彼女に合わせている。普通の物体の運動ではありえなかった。

目の前にいる自分の罪の証を見た。もしも彼女に見開ける目があったなら、間違いなく最大限に見開いて見ただろう。

「それ」は小さかった。

その体長は彼女のわずか30分の1程度しかなく、体表面は白っぽく光り、気密性などあって無いような構造をしている。そして、そんな表面がおまけ程度に布製のもので覆われていた。空気抵抗が大きそうな丸い先端部は青白いもので覆われ、その下に、紅いものが二対あった。「それ」は紛れも無く人間の姿をしていた。

その姿は、ユイがかつてあった姿と良く似ていた。

『こんにちわ。碇さん』

「それ」はユイに聞こえる言葉で話しかけた。AT-フィールドを使った精神波だ。ユイはこの宇宙に出て初めて話しかけられたというのに、無言でその姿を見た。

しかし「それ」はそんなユイの様子を全く意に解さない様子で、一方的に言った。

『私は、綾波レイ。初めまして、碇ユイさん』

そう言うと、レイはユイを見てにっこりと微笑んだ。この宇宙空間にあって、そこだけ風が吹いているかのようにその髪がふわりと揺れた。

- The rest stories of "Project Eva" #07-08 - "The great bad mother's RETURN and her next start" to be continued...
first update: 20041022
last update: 20060103

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作者:north
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