ベランダには涼しげな風が吹いていた。サード・インパクトを過ぎてやっと終わらない夏は終わりを迎え、季節はゆっくりとではあるが、再び動き始めていた。今年はセカンド・インパクトが起こってから初めて、東北より南に雪が降るかもしれないそうだ。
そんなベランダで、三人は月を見ていた。さっきまでタンクトップを着ていたアスカも、今はその上にシャツを羽織っている。レイはそれほど薄着ではなかったが、それでもアスカから貸してもらった上着を着ていた。
「外、出ない?」その言葉を発して外に出てから、もうずっとシンジは黙っている。そしてレイも黙ってその沈黙が破られるのを待っていた。もう外に出でから一時間は過ぎている。外に出た時はちょうど地面と空の中間にあった月が、少し空の方に近くなっていた。
「……綺麗ね」
誰に言うでもなくアスカが呟いた。シンジの手が止まったのが見えたからだ。さっきから、握り締め、また開くのを繰り返していた手が、握り締められたままぴたり、と止まったのだ。普段は軟弱なその手が、いつもよりは力強くなっているようにアスカには思えた。
「……うん」
シンジはアスカの声に答え、ずっと空に向けていた視線をアスカとレイに戻した。レイも、同じく視線を動かしてシンジとアスカを視界に入れた。それを確認すると、シンジは語りだした。
「……綾波?」
「何?」
「母さんのことを話すよ」
シンジの目は優しかったが、その声にはまだ硬い響きが混じっていた。
レイはシンジを見つめてその声を聞いた。彼女は彼の目を信じた。その目には、あの時には無かった決意があるように見えたからだ。
ああ、碇君は決めたんだ、とレイは思った。
「……あれから、色々考えたんだ」
レイは頷き、アスカはベランダに手をかけて月に視線を合わせた。まだ月は東の空にある。
シンジは少し考えたような表情をして続けた。
「母さんのことを、どう思うべきか……違うな、どう考えたらいいのか、やっぱり、本当はまだ分からない」
「そう……」
レイの声にはやはり若干の落胆が混じっていた。ゴールが辿り付く寸前に遠ざかってしまった長距離走者のような表情だった。そしてアスカは、予想通りの答えに空を仰いだ。
しかし、今度はシンジの言葉はそこで終わらなかった。ふうっ、と息を吐くと、彼は言葉を続けた。
「……でもね。ちょっとだけ、思ったことがあるんだ。聞いてくれる?」
予想とは違うシンジの言葉にアスカは驚き、後ろを振り向いて彼の顔を見た。その顔には、彼女が今まで見たことのないさっぱりした表情が浮かんでいた。
「……ええ」
アスカと同じく驚いた――こちらはほんの少しだけ目の開き方を大きくしただけだったが――レイが答えた。
シンジはベランダを歩きながら言った。一歩、また一歩、ゆっくりとその足を進める。
「やっぱり、僕は母さんに捨てられたんだ、と思う」
いつもの粘り気が感じられないさっぱりした口調は、かえって隣でそのやり取りを聞くアスカの胸をついた。なぜそんな顔でそんなことが言えるのだろう、とアスカは思った。何かを諦めているの? 字面だけとれば、そうも思える言葉だった。しかし、絶望的な内容を語っているはずの声には投げやりな調子は含まれていなかった。
その隣ではレイも同じくその声に胸をつかれ、そしてやっと、自分の訊いた質問の重さを理解していた。最初にユイのことを問うた時にアスカに叩かれた左の頭が、じん、とするような感覚を覚えた。
「でも……でも、何か、仕方ないかな、って、そう思うんだ」
二人の逡巡を断ち切るようにシンジは言った。その声はさっきより少し大きかった。
仕方ない? アスカは自分の耳を疑った。しかし、アスカが疑問の声を上げる前にレイが問いただした。その声は珍しく少し上ずっていた。
「……何故?」
その端的な問いに軽く息をつき、シンジはまた一歩足を進めた。今、レイやアスカとシンジの間には、ちょうど机二つ分ほどの距離が生まれていた。
「うん。そうなんだ。何でだろう? ってそれを僕も考えてたんだ。おかしいよね、そんなの」
シンジは短く声を切って言葉を発した。
その声を聞いたアスカは、「はっ」と一言馬鹿にしたような声を出しながら、肩をすくめて両の掌を上に向けた。
「何よそれぇ? ワケわかんないじゃない」
自分も分からない。そんな回答はアスカにとっては到底許せるものではなかった。自分はママに捨てられたのか? その答えを求めて、ほんの数年前まで彼女はもがいてきた。そんな彼女にとって、シンジがそんなおぼろげな理由で、不慮の事故ですらなく本当に己の意志で自分を捨てた母親を許そうという気持ちになるなど、わけがわからなかった。
しかし、そんな棘のあるアスカの言葉にも、シンジはただ笑うだけだった。また一歩、足を進めた。
「だよね、うん、アスカも正しいと思う」
「それなら……」
いつしか、話を始めたシンジよりも、質問をしたレイよりも、アスカが話に熱中していた。が、そんなアスカの言葉はシンジの声に遮られた。
「でも、やっぱり、仕方ないと思う」
シンジがこんなに決然とした言葉を発するのは初めてだった。また一歩、足を進める。さっきの口調といい、今の言葉といい、どうしたのだろう。アスカは生唾を飲み、まるで初めてであった人を見るように少しずつ遠ざかっていくシンジの顔を見た。その顔に浮かぶ表情は、悟りきってしまった僧を連想させた。アルカイック・スマイル。
「……母さんには、やりたいことがあったんだと思う」
「そりゃあ、そうでしょうよ」
「……そしてそれは、僕を捨ててでもしたいことだった」
「でしょうね」
レイは目の前で交わされる、母親に去られた少年と少女の会話にじっと耳をすませた。アスカは少しの怒りと共にその場に立ち尽くし、シンジは少し身体を揺らしながら足を進めた。
「……でもね、それはあんたを捨てる理由になんか、なりゃしないわよ」
「そう?」
「そうよ、そんな……親の責任ってもんが、あるじゃないのよ」
かなりの怒りを込めて発した言葉をあっさりと聞き返されてしまい、少し視線を揺らしながらアスカは続けた。
「うん。母さんだけじゃなくて、父さんもだけど」
足を踏み出しながら、これまたあっさりとシンジはその言葉を肯定した。しかも、今度は母だけでなく、父までも自分を捨てたと認めたのだ。随分と悲惨な話だった。しかし、それでもシンジはなおも明るい表情で、なおも話を止めず、歩みを止めない。
「だけど、そうまでしてでもやりたいことがあるって、凄いんじゃないかな」
また一歩、シンジは歩みを進めた。碇君は何を言っているのだろう、とレイは思った。アスカの言葉はどこも間違っていない。レイもユイのことを調べるうちに、何て勝手な人だ、という思いを強くした。それは普通の生活を始めた後だからこそ、実感できることだった。そして、だからこそ、そこまでしたユイや、そのユイに全てを捨ててまで会おうとしたゲンドウのことも、分からなくなった。
だが、目の前にいるシンジは、その疑問に対する答えを持っているように見える。
ふとレイが見やれば、シンジはいつしかベランダの端にたどり着いていた。彼は手近な椅子に手をかけ、レイとアスカを見つめた。
「……僕には、そこまでしてやりたいことは、今はない。……でも、もし、そんなことができたら、自分もしちゃうかも知れない。親の責任とか、他人とか、そういうのを、全部捨ててもしたいことがあったら……それは、仕方ないと思うんだ。……うん。例えばさ」
そこで不可解に言葉を切ると、シンジはぱんっ、と手を叩いてから、叫んだ。
「こんなふうにっ!!」
叫んだ刹那。
シンジは、中空高く椅子を放り投げた。プラスチック製の椅子は空に照る月に向って軽やかに中を舞い――放物線を描いて落ち始め、地面に落ちて、ばごん、という音を出した。この高さから落ちれば、きっと粉々になっているはずだ。
「し、シンジッ!?」
「……!」
いきなり目の前で繰り広げられた不条理劇さながらの出来事に、アスカは顔を引きつらせ、レイは目を真ん丸に見開いて、口まで開けてシンジを見た。シンジの顔には唖然とする二人とは対照的に、何かをやり遂げたというような笑みが浮かんでいた。
「……ああ、すっきりした。一回やってみたかったんだ、こういうの」
シンジはそう言うと、小走りでアスカとレイの元へと走り拠った。その顔には、いかにも楽しそうな笑みが浮かんでいた。アスカとレイが、シンジが自分たちの顔を見て笑っているのだと気付くまでには、少し時間が掛かった。
「……だからさ、僕は、母さんを憎まないでおこうと思うんだ」
数秒。
ぷっ、とアスカが笑い出して、叫んだ。笑うしかない、という声だった、
「あ、あんた、バカぁ? 何も椅子投げなくったっていいじゃないの!?」
「……あ、ごめん……」
さっきとは打って変わって粘着質で暗い響きに戻っているシンジの声に、アスカはまた笑い声を大きくした。
それにつられて、何時しかシンジも笑い始め、最後には、レイまでがくすくすと笑い始めた。
夜風が滑り込むベランダで笑いあう三人。月は、もう中天に近いところにあった。
シンジとアスカとレイがひとしきり笑った後、やはりアスカは言い返した。どうしても、一言言っておかないと気が済まなかったからだ
「……あんたの主張は分かったわよ。でも、やっばそれ……自己満足ね」
シンジは少し口を尖らせた。視線が斜め上をうろちょろする。
「……そうかな」
「そうよ。あのね、シンジ。『文明とは伝達である』……あんたの国の作家が書いたことよ、分かる? どんなに素晴らしいものを持っていても、伝達しなければ、無いのと同じ」
「文明とは、伝達」
レイがアスカの言葉を反芻した。
「そうよ。シンジのママは、自分の夢のためにあんたを捨てた。人が生きた証を残す。こう言っちゃあなんだけど、結構、ロマンはあると思うわよ。でも、もし証があったってさ、それを見つけて、誰かに分かってもらえないんなら」
「無いのと、同じ?」
またレイがその言葉を継ぐ。アスカは無言のまま頷いた。
シンジは、腕組みをして少し考えて、
「……そうだね。でも……」
その後の言葉をシンジは飲み込んだ。伝えられなければ、ないのと同じ。……もしそうなら、このままこの星でいつかは消え去るであろう僕たちはなんなのだろう? 僕たちだって、この星がなくなってしまえば、誰にも覚えていては貰えない。そうなってしまったら、やっぱり、無いのと同じなんじゃないか。そう思えたが、言わなかった。言っても仕方がないことのような気がした。シンジには、どっちが自己満足かなんて、分からない。どっちも、自己満足かも知れないとさえ思える。
……いいか。僕たちはここで、母さんは向こうで、それぞれなすべきことをする。お互いの夢を、お互いの望みのままに。母さんは、僕たちを覚えていてくれるし、僕も、母さんを忘れないだろう。
それでいい、とシンジは今、やっと心から思えた。
「でも……何よ?」
いらいらしたような声でアスカは尋ねた。
その分かりやすい声にシンジは笑いながら「あ、ごめん、ぼうっとしてて。なんでもないよ。ねえ、もう寒いから、中に入ろう。綾波も、泊まっていくといいよ」と言った。
その気の抜けた言葉に、アスカははあっと盛大に息を吐いてがっくりと肩を落とした。
「何よそれ〜。……ま、いいわ。ああ、寒。あたし、もっかいお風呂入るわ。シンジ、後、よろしく」
「後?」
シンジは聞き返し、アスカは即答した。
「椅子の回収よ、バカシンジ」
「了解」
アスカはベランダの窓を閉めながらその声を聞いた。窓の閉め際に「バカ」と言った彼女の声はシンジには届いていなかったが、それでもその言葉は確かに発せられた。
そして、ベランダにはレイとシンジが残された。もう、ベランダに出てからかなりの時間が経っていた。月はもう、ほぼ中天にある。
「あの向こうに、母さんがいるんだね」
「ええ」
レイは答えた。シンジの言葉を飲み込むにはもう少し時間が掛かりそうだった。しかし、それでも彼女は彼に感謝していた。嘘でも偽りでもない気持ちで彼が話してくれたということだけで、嬉しかった。
……ふと、レイの頭に一つの考えが浮かんだ。そして、彼女はためらわずにそれを実行に移した。
「碇君?」
「どうしたの?」
シンジは突然のレイの言葉に面食らった表情で、彼女を見た。レイは少し思いつめた表情で、誰にも自分からは言ったことがないことを、シンジに教えた。
「……私は、人間じゃない」
突然の告白にも、シンジは驚くことは無かった。薄々は分かっていたことだ。ただ、何故彼女が自分で言い出したのか、それだけが分からなかった。
「……そう。何で?」
シンジはそれしか言わなかったが、意味を取り違うはずもなかった。
「碇君が、答えてくれたから」
「どういたしまして」
シンジはそう言うと、「僕も、ありがとう」と返した。
「何故?」
レイは一言、そう言った。シンジは頷いて、レイの肩に触れた。こちらも、意味を取り違えるはずはなかった。
「踏ん切りを、付けされてくれたから……かな」
「……どういたしまして」
その言葉と表情に、シンジはほうっ、とため息をついた。それは久しぶりに見るレイの微笑みだった。あの頃一度見て以来の柔らかい笑み。
「うん、じゃ、入ろうか」
「ええ」
そして二人はベランダを後にし……シンジが不意に、部屋へ片足を踏み込んだレイに言った。
「ねえ、綾波」
「なに?」
その声はこれまでよりも幾分柔らかいものだった。シンジは自分も部屋の中に入りながら、レイにその言葉を伝えた。
それから幾星霜を経て、レイはユイの目の前にいた。もはやシンジもアスカも、そしてその後に出会った数億人の人々も、レイの前から去った。
『ユイさん?』
『初めまして、レイさん』
ユイはやっと答えることができた。彼女のことは知っている。自分の遺伝子と、「彼ら」の母たるリリスの遺伝子から作り出されたキメラ、それが彼女だった。ユイが自分の勝手な夢のために生み出した生き物だった。こんなところで会うことは、予想外ではあったが、なるほど、ユイが生きているということは、ユイと同じものでできているレイが生き続けても何の不思議もない。
『……待ってました』
レイは柔らかい笑顔を浮かべ、ユイに伝えた。
『私を?』
『はい。あなたを』
『どうして?』
『伝言を、預かっているんです』
『私に?』
『ええ。……碇君から』
軌道上を猛スピードで通過しながら、ユイとレイは会話を続けた。レイがシンジを呼ぶ呼び名は、この年月を経てもなお「碇君」だった。
『シンジ……から?』
予想外の言葉に、ユイは久しぶりに驚いた。初めてブラックホールをシュバルツシルト半径の近くから見たとき以来の驚きだった。
『はい』
ユイはその内容を後回しにして、レイに訊いた。
『シンジは……元気だった?』
『碇君は、八十九歳まで生きていました』
八十九歳。わずか地球が太陽の周りを九十回も回らないくらいの時間。その年月はユイにとっては一瞬にも等しい時間だった。しかし、レイはその数字を少しの淀みも無く伝えた。
『そう。……あなたは……』
『私が、看取りました。私と、まだ生きていた碇君の友達が』
『……そう。ありがとう……ごめんなさい』
ユイはやっと、その言葉をレイに伝えることができた。
『……大丈夫。碇君は、幸せだったと思います』
その姿はかつてと同じでも、AT-フィールドを通してユイに伝わるその声には、この星で過ごした年月が確実に積み重なっていた。
くんっ。
ユイとレイは、最接近点を突破した。今度は徐々に、地球が彼女たちから遠ざかっていく。ふと地球を見れば、そこにはまだ緑があった。ユイはレイに意識を向けた。
『……訊いてもいいかしら?』
『ええ』
『人類は……どこまで行ったの?』
そのユイらしい問いに、レイは笑みながら伝えた。
『ここまでです。残念ながら』
『……そう』
ため息も出そうな調子の意識だった。
そしてユイはふと、これで本当に私は一人になった、と思った。今までは、どこかで、自分が一人であるということを信じていなかった。まだ、五十億年は経っていない。人類は、まだあの星にいるかも知れない、そんな甘い希望をいつもどこかで抱いていた。
だが今、ユイは本当に「最後の一人」になった。本当に、最後の一人だ。
突然、恐怖が襲った。
レイは、目の前でやっと恐怖を感じているユイを、じっと見ていた。その目には、怒りも、哀れみも、嘲笑もなかった。
『……教えて。シンジは……何を?』
ユイは恐怖の響きを残しつつも、レイに訊いた。沈黙の間に地球は遠ざかり、今ではリングも見えにくくなってきていた。
レイは頷くと、恐らくはこの世界で最も長い間伝えられなかった、息子から母への伝言を伝えた。
『……いってらっしゃい』
レイはポツリと、それだけを思った。
『そう、言っていたの?』
ユイは驚きと共に聞き返した。自分で言うのもなんだが、ユイはシンジにとても酷いことをしたと思う。幼い彼を残して消え、彼を困難の中に叩き落し、最後まで状況に関わらせた。それは彼が彼女の子でさえなければ味わなかったであろうことだ。だから、どんな呪詛を述べられても仕方がない、とユイは覚悟して訊いたのだ。
なのに、何故?
『ええ。そう言っていました。「いってらっしゃい」と』と伝えてから、レイはさらに続けた。『後、もう一つ。「こっちも、頑張るから」と』
ユイは泣きたくなった。しかし涙は出なかった。
バカみたいだ、とユイは思った。このとき初めて、ユイは自分が本当はずっと昔から人でなどなくなっていたことに気付いたのだった。確かに、人としての要素もその知識も、彼女の身体――初号機に保存されている。だが、その魂は、ずっと前に人間ではなくなってしまっていたのだ。涙も流せない身体で、その不自由にさえ気付かなかったことが、その何よりの証明だった。この生き方を選んだときに、彼女は「彼ら」と同じになってしまっていたのだ。
ユイの思考は駄々漏れになってレイに伝わった。レイはただ、静かに思いを伝えた。
『……大丈夫。あなたは、人間です。私も、人間』
もう彼女たちは、軌道の遠地点に近い場所にいた。レイがユイに思いを伝えられる時間は、あとほんの少ししかない。
『大丈夫』
レイはもう一度その思いを伝えた。決然とした意志。レイとシンジと、そしてアスカの、言葉にしていない約束だった。
『もう人類はいないけれど、彼らを継ぐ人間が、あの星にはいます。私も、碇君も、諦めていません』
『人間……』
レイは「人類はいないが、人間はいる」と言った。それはいつかユイが否定したはずの考え方だった。
『大丈夫。人類は、あそこまで行けた。彼らは、もっと先へ進みます。絶対に。絶対、いつか、あなたを見つけてみせます』
ユイは何も言い返すことはできなかった。
『それに……私も』
そう言われて、ユイはまじまじとレイを見た。結果的に自分が作り出してしまった「彼ら」と人類とのキメラ。もしかしたら、本当の「人類を継ぐもの」であるかも知れない彼女は、それでも、どう見ても十四歳の女の子だった。幾年月を経ようとも、彼女は魂を持つ一人の女の子だった。
そして彼女は今も独りで待っている。自分以外の「人類を継ぐもの」の可能性を。恐らく、この星の歴史が終わるか「人類を継ぐもの」が宇宙へ船出してユイを見つけるまで、彼女はそれを続けるつもりなのだろう。
『……ごめんなさい』
心の底から、ユイは謝った。考えようによっては自分の娘とも考えることができる少女を、自分は息子よりも過酷な運命へと引きずり込んでしまったのだ。殺すよりもずっと悪いことをしたように思えた。
『……いいの』
しかし、レイは全く悲しみを感じさせない思いを発した。
『悲しいこともあるけれど……この永遠の命を貰ったことを、恨んだりしません。きっと、うまく使ってみせます。だから……もし、もしも誰も人類を継げなくても……私が、あなたを見つけるから』
『……ええ』
ユイは頷いた。目を光らせて、その思いに答えた。
『……それじゃあ』
レイは言った。地球からおよそ35,000km。そろそろ、軌道の遠地点だった。
『……またね。レイ』
『ええ。また、いつか』
簡単な言葉を交わして、ユイとレイは、ゆっくりとその速度を違えた。レイは軌道上にぴたりと止まり、遠ざかるユイを見つめ続けた。
『またね。「母さん」』
レイはここまで隠し通した思いを、星の海の向こうに発した。いつかユイに届くように。
それが、レイとユイのしばしの別れの始まりだった。
遠地点まで、あと数分で到着する。ここで加速すれば、脱出軌道に入ることができる。そうなれば……また、独りだ。
久しぶりだ。久しぶりに、星の海に出ることを、本当に寂しいことだと思った。いつか恩師に「寂しいけれど」と言った時よりも、ずっと切実な思いだった。あの時は、本当は寂しさなど上辺でしか解かっていなかったのかも知れない、と思えた。
遠地点まで、後一分だ。S2機関を起動させ、ほんの少しの力を加える準備をする。
その時ふと、頭にこんな考えが過ぎった。
『このまま、静止軌道に入ってしまえば、私はここにいられる』
ユイは今、ちょうど地球から37,000kmに少し足りない程度の位置にいる。ここからなら、少しだけ、加える力を小さくして、円軌道に入ってしまえば、そして、少し距離を調整してやれば、静止軌道にだって、入ることができる。かつて自分が天気予報で見た衛星写真の位置から、ずっと地球を見ていられる。
しかし、一瞬だけその考えに沈み、そして次の瞬間にユイはその考えを追い払った。
シンジはユイに『いってらっしゃい』と言った。それは『おかえりなさい』ではなかった。さすが、ユイの息子だった。もう、やるべきことは決まっているのだ。一度この重力圏を振り切ってしまったものが、静止軌道になど留まれるわけはないのだ。
だから――ユイは、一気にS2機関を起動し、加速した。
彼女の身体は脱出軌道に乗り、さらに加速して、ぐんぐんと地球から離れていった。
『行ってきます。シンジ』
ひとときの帰還者が再び星の海へと帰った後には、その思いだけが静止軌道に残された。