今日も第3東京市は暑かった。
「時刻は五時を回りました。みなさんいかがお過ごし……か。サタデー・ウォーターフロント・スタジオ、本日のファースト・チューンは……市の『日曜日は家でごろごろ』さんのリクエスト、キリンジの『太陽とヴィーナス』です」
雑音混じりのFM放送を聞きながら、シンジは煙草をもみ消した。軽快な音楽に乗せてコメントが読まれる。彼はアンテナを伸ばし、缶コーヒーのプルトップを空けた。
「『日曜日ともなるとつい家でごろごろしてしまいます、最近歩くこともめっきり減ってるのに外にも出なかったら太っちゃいそうで心配です。』確かにそうかもしれませんねー、ボクも最近めっきり歩かなくなっちゃいました、やっぱり浮いちゃうほうが楽ですからね。でも、この時間帯にはきれいにヴィーナスが見えるはずだから、ちょっと外に出てみては?」
そして、歌が流れ始めた。
未来のことを予期して作ったような「時は2015年」の唄いだしに、思わずシンジは口に含んだ缶コーヒーを吹き出しそうになる。まるで僕のことを歌ったみたいだと一瞬思い、しかしその自分らしくない自惚れに苦笑いを浮かべた。あのころよりずっと長くなった髪が少し揺れた。
「さ、行くか」
そう一人呟くと、シンジはキーを回し、エンジンをかけた。低い唸り声を上げてエンジンが動き出す。あれから7年、知り合いから知り合いに渡り、自分が継いだこの車は、今でも相変わらずの性能の良さと燃費の悪さを誇っていた。
クラッチを踏んでギアを入れ、一気に加速してギアチェンジする。接触ギリギリで追い抜かした前車の甲高いクラクションを背中に受けて車は第3新東京高速を走り出した。
街中を走れば、その景色は昔の「第3新東京市」を思い出させた。いつものことだ。
しかしここにあるビルの群れは昔のように地下に沈んだりはしない。その代わりに、街の半ばを過ぎたくらいから徐々に頬と額に当たる風に潮の香りが混ざった。
彼の運転する車はすいすいと街路樹の傍を走り抜けた。この時間にこんなところを走っている車など滅多にない。それどころか、車を使うことすら最近ではほとんどなくなった。おかげでシンジのように車に乗る人間は「旧世紀にの遺産にしがみつく愚か者」なんて自然保護団体に言われたりする。
放っておいてくれよ、と思う。
いや、その言葉はつい最近本当に口にしたことだ。
その時も今日と同じように海へ向けて走っていて、デモ隊に呼び止められた。
黄色く縁取られた醜悪な横断幕には「地球環境を汚す旧来の移動機関を止めて自然と生きましょう」とあった。
「黒き月」の信徒に違いなかった。
彼らはシンジの運転する車を認めるとぞろぞろと道を塞いだ。まるで甘い物に群がる蟻のようだ。その、自分のすることの正しさに一切疑いのない様子を見て、シンジは一瞬、そのまま彼らを道に均してやろうと思った。
人がいることにも構わずにシンジは車の速度を上げた。しかし、結局仏心を出し、彼らの直前でスピン・ターンをかます。
スピードを殺しきれずに何人かを吹っ飛ばしたが、気にすることもあるまい。きっと、けが人などいない。それが証拠に、彼らの何人かはするすると車から遠ざかり、信仰心の深そうな男が一人だけ恐る恐る近づいてきていた。
「あの、道をあけていただけますか?」
「あの。少し、お話させていただいてもよろしいでしょうか?」
親しげで下手に出る口調、彼らの常套手段だ。何も答えずに、ただエンジンの回転数を上げていく。どうして自分が真理を悟っていると思うと人間はこうも高慢になれるのだろうとシンジは思った。
「ねえ、お兄さん」
「なんですか?」
太陽を背にした男の顔は見えなかったが、きっと薄気味悪い笑い顔を浮かべているはずだ。
「遠いなあ……」
「はい?」
「真理に遠いんです、お兄さん。ねえ、お兄さんはお若い、きっと私よりもずっと上手に月の理力を使うことができるはずですよ?こんな風に地べたを走る機械に閉じ込められることはないんです」
小さな子供を諭すような言葉をシンジはうんざりした気持ちで聞いていた。お前もつい数年前まではこの機械に頼らなければ生きていけなかったくせに、という当然の反論はあえてしなかった。今をときめく彼らに言ってもお決まりの言葉が返ってくるだけだ。
ただ、彼が背負う遠い太陽がもう少しだけでいいからこっちに近づいて、その華みたいに揺れる焔でこの男を焼いてくれればいいのに、とだけ思った。
だからシンジはそう答える代わりに思い切りへらへらと笑って「いえー、僕ね、女神様に個人的に許可を貰っているんですよ」と言ってやった。
そう言うと、意外にも男は顔を赤らめたりせず(少し前はその言葉を言った瞬間にぶん殴られそうになった)その代わりに思いきり冷たい目で彼を見た。
「そうですか、で、どのような知り合いで?」
迷わずシンジは言った。
「同級生です」
その答えを聞くと、今度こそ彼は怒り狂った。
「それは黒き月様に対する冒涜だ!」
シンジは何も言わずに笑ってパワーウィンドウを閉め、たっぷりと温まったエンジンを一気に吹かして彼らを突っ切った。
そんなことがあったのが、つい先月である。そして現在、目の前には同じく嫌な笑顔を顔に張り付かせた男がいた。
「ああ、お兄さんですか」
その声によく目を凝らして見れば、つい先月に話した彼だった。
「ええ、また会いましたね」
「これもお導きですかね」
「違うと思いますね」
沈黙。
「ふーむ、やはり真理には遠いのかなあ……」
そう言って彼は考え込んだ。
そもそも真理なんてものがあるのかすら怪しいと思ったが、シンジはとりあえず「かも、知れませんね、修行が足りないなあ、僕も」と言っておいた。そして「では、とりあえず明日くらいから修行、積むと思うんで、今日のところはこれで失礼しますね」そう言って、パワーウィンドウを閉めようとした。
が、男は窓から顔をどけようとしなかった。
「死にますよ?」とシンジは言った。
「死にませんよ」と男は答えた。
「ま、そうですね」とシンジは嘆息した。確かに、もうこの世界ではこの程度では人を殺すことなどできない。
「ひとつだけ、教えてほしいんです、お兄さん」
「なんですか? ひとつと言わずなんでもどうぞ」
シンジが間髪いれずに答えと、以前と同じように西日を背負っている男は言った。
「そんなに急いでどこへ行くんですか」
シンジは少し笑って、質問に答えた。
「彼女と待ち合わせしてるんです」
その言葉を聞き、彼は心底落胆したような顔をした。その目は既にシンジを見ていなかった。
「そうですか……あなたが真理に近づけるといいですね。お祈りしています」
「ありがとう、僕も祈ってますよ」
そう言うと、シンジはこの前と同じようにフルスロットルで走り出した。
レイは浜辺にいた。
「おかーさーん」
レイはそう言って母親を呼んだ、彼女にはそれ以外に方法はなかったからだ。
レイは名前を「黒き月の108の偽名」のひとつから貰った。全てを含み全てを従える高貴な名だ。しかし、その名とは逆に、今の世の中では彼女はともすれば哀れまれるような境遇にいた。
だから、レイはただ母親を呼ぶ。しかし、その声はわずか数メートルしか届かない。
あるいは彼女の近くを注意深く見れば、彼女の肩に掛けている可愛らしいポシェットに、それと似つかわしくない高価そうな指輪が引っ付いているのを見て、彼女が捨てられたということに気付くかもしれない。
しかし、誰もいない海辺では望むべくもないことだ。
「おかあさーん……」
ひたすらに不安を取り除くように呼び続ける。その顔には、今だ必死の表情が浮かんでいた。捨てられたかもしれない、という絶望はまだ、彼女の意識の外にあった。
「おか……さーん……」
ぐずりながら呼び続けるが疲れたのか、レイはその場にへたり込んでしまった。遂には声を上げるのもやめてひたすらに泣いていた。レイはここに来てようやく己の現状に「もしかしたら」という甘い幻想つきでだが気づき始めていた。
昔から、自分のせいで母親は迷惑を受けてきたのではないかと思う。彼女はこの世界に生を受けて7年しか経っていないが、その短い間でもよく分かった。狂いそうなほどに母親が追い詰められ、その原因が誰にあるのか。
神の理力を信奉する宗教の子供が、理力に見放されているなんて。なぜ? 決まっている、不信心だからだ。なんと罰当たりな。周囲の声は大体そのような感じだった。彼女に向けられる蔑む視線。忌み子。自然とそんな大人たちの態度は彼ら子へ伝染し、限度を知らぬ子供の言葉はさらに過激に忌み子の母へと牙をむいた。
母親の育て方は間違っていないはずだった。
『人を信じ、恐れるな。』
ちゃんとその教えを実践した。一番熱心だった程だ。
だからこそ、そんな視線にも怯えずレイは耐えた。
しかし、そんな子供を神様は見放した。一番、残酷な方法で。
レイは目が見えない。
『神の加護から見放されたものがその目で神を見れば目を潰される。』
そう言われたからだった。
レイの上のまぶたと下のまぶたは上手に縫い合わされている。少しの光がさすことはない。涙が流れ出すのみだ。
そんな少女は、ただ音だけを頼りに母親を探した。
あたりは不気味なほどに黄金色に染まっている。逢魔ヶ時、そんな非日常だからこそか、その景色は見る者をどこかへ連れ去りそうな威厳があった。黄金色の海、そして橙色に燃える空。レイには見えないその景色の向こうに、
『彼女』はいた。海の上に立ち彼女を見つめる巨大な人影。
そして、その人影の真正面でそれを見つめていたシンジが、ぽつんと海岸にをさまよう女の子に気付いた。シンジのいる防砂提から、ちょうど数メートルのところに彼女はいた。
シンジは、彼女が泣いているのに気付いた。
駆け出した。
シンジはレイのもとに駆け寄った。しかし、その歩みはレイの姿をはっきりと見るとともに、徐々に遅くなっていた。
レイは、「黒き月」の信徒のスモックを着ていたからだ。
「黒き月」はここ数年で全世界的に力を伸ばしている新興宗教だ。彼らは人類に目覚めた新しき力「理力」を伸ばし、名もそのまま「黒き月」という女神の導きに沿うことを教条にしている。
その力は圧倒的だった。
何しろ、目に見える形で起こる奇跡を説明する宗教など、前代未聞だったからだ。 それは世界の人々に救いをもたらした。説明がなければ不気味な超能力も、神のご加護という「形」さえ与えられればとたんにありがたい信仰の「褒美」なのだ。
自分が知っている彼らが生きていてくれれば、とシンジはいつも思ったものだったが、それもかなわぬ夢だった。
「黒き月」は永遠に失われ、海外にあったネルフの人々も、ある者は永遠に口を閉ざし、ある者は己の理解を超える出来事に黒き月に帰依した。
だが、それも仕方ないことだったのかも知れない。壮大な「黒き月」の神話を作り出したのは、他ならぬ惣流・アスカ・ラングレーだったのだから。
間違ってはいない、と今ならシンジは思える。あんな状況の中で、世界を壊さないためにはこの方法しかなかった。
たそがれて逃げ回っていたシンジよりは、よっぽど頑張ってこの世界に適応したのだと思う。例え、事の起こりからの当事者による「用意された答え」が、この歪んだ世界をますます歪ませることになったとしても、彼女を責めることはできない、そう、シンジは思う。
そして今でも彼女は責任を取り続けている。彼女の今の肩書きは、何よりも強い「理力」を有し、人々を導く「隻眼の巫女」。
とんだ羊飼いだ。
彼女は今でも、逃げだした僕を恨んでいるだろうか。
そんなことを考えるうちに、いつの間にかシンジはレイの隣にたどり着いていた。靴に砂が入ってしゃりしゃりとした感触を覚えた。
その音に反応してレイは顔を上げ人がいるであろう方向へ顔を向けた。
「どうしたの?」とシンジは声を掛けた。
「お兄ちゃん、誰?」
シンジからは女の子の表情は隠れて見えなかった。その表情は黒い髪に隠されている。「お兄ちゃん」か、もう見ようによってはおっさんなんだけどね。シンジは無精ひげをさすってそう自嘲しながら、言った。
「僕? 僕はシンジ、君は?」
「わたし? レイ」
その名前にシンジは軽い衝撃を覚えた。
「そう。いい名前だね」
「うん。神様の名前だもん。ひゃくはちの……」
「108の偽名?」
「うん」
108の偽名、マルドゥック機関と同じである。
実態は全てダミー、か、悪い冗談だね、アスカ。
ふと隻眼の巫女と呼ばれている彼女のことを思い出す。彼女は結局、レイ、今は人間からは遠く離れて女神になってしまった彼女を、最後まで人間として見なかった、人間だと認めたくなかったのだろう。だからこそ、皮肉も込めて、偽りの姿にふさわしい偽名だとしたのだろう。それは恐らくは彼女の、ささやかな復讐だった。
「『最も高貴な名前』」
「うん、そう、知ってるの? お兄ちゃん、月の民?」
月の民、彼らが自分たちをさして言う言葉だ。
「いいや。残念ながら違うんだ」
そうシンジが言うと、黒髪のレイは本当に残念そうに言った。
「しんりに遠いの?」
「みたいだね」
そっか、と呟くと彼女は悲しそうな、それでいて仲間を見つけた嬉しそうな声で続けた。
「わたしもなんだ」
彼女は顔を上げた。潮風に揺れ、巻き上がる髪の下から縫い合わされた目が現れた。
それを見て、シンジは久しぶりに死にたくなった。
これも、僕のせいなのか?
当たり前だ。そう心の中で自分に答えた。
「そう……頑張らなきゃね?」
辛うじてシンジはそう言った。
「うんっ」
「ねえ? お母さんは?」
そう尋ねると彼女は顔を伏せ押し黙った。辺りに静寂と波の満ち干きの音が響く。黄昏の時間は今だ終わらない。
「……ない」
その声は波音にかき消されるくらいの声だった。
「いっ……ない。お母さん、いなくなっちゃった…………わたしっ……が……しんりに遠いから……」
堰を切ったようにレイは泣き出した。
……捨てられたのか。何も言えずに彼女から海へと視線を動かす。見てよ、女神様。これが、彼女と、僕が創った世界だ。僕と同じように子供が捨てられる世界だ。
偽りの名で呼ばれる女神は陽炎のように薄ぼんやりとこちらを見つめていた。いつかの夏の日と同じだった。
相変わらず泣く彼女にどう声をかけようか戸惑う。その間にも彼女は体を震わせて泣きじゃくっている。浜に黒いしみが点々と打たれた。
シンジは彼女に近づき抱きしめた。それ以外にできることなどなかった。
『あれ……?』
おかしい。普通なら拒まれる。本当に「存在」を拒まれるのだ。そういうことが、少し前からこの世界では起こる。本来なら、見知らぬ男が抱きしめれば、弾き飛ばされるのが当然だ。だが、そんな兆候はない。ふと腕の中の女の子を見ると、彼女は一瞬驚き、怖がっていたが、それでも彼を拒みはしなかった。少しシンジの顔のほうに顔を向けてじっとしていたが、こちらが何もしないと思ったのか、レイは彼にしがみついて再び泣き始めた。
「もうっ……やだ……ぁ」
初めて弱音だった。見知らぬ、月の民でもない人だからというのも手伝ってか、彼女は大きな泣き声を上げた。
「かみさまのっ、名前……せっか、せっかくもらったのに。なんでわたしだけ……『おちから』ないのっ?」
そうか、この子は。シンジは悟った。この子は――
「プレゼント……なんじゃないかな」
突然の声にレイは顔を上げた。目が見えていたときの習慣が抜けていなかった。
「ぷれ、ぜんと……?」
この人は一体何を言っているんだろう。頭が疑問で一杯になった。
「そう。プレゼント。神様の、彼女の本当の名前と同じ名前の君への神様からのプレゼントだよ」
「ほんと、うの名前?」
「あのね、レイっていうのは、女神様の本当の名前なんだ」
なんで、どうして?
「お兄ちゃん、そんなことを知ってるの?」
「それはね」
どこか笑ったような雰囲気。いたずらっ子のような笑みを浮かべてシンジは言った。
「僕が彼女の友達だからさ」
二人のいる浜には満ち潮の波が迫ってきていた。ゆっくりと西の海に太陽が沈み始めていた。
「友……達?」
「うん」
レイは閉じられたまぶたをこすると、顔をぱあっと明るくして喋り始めた。神様のことを全く知らないらしかった。きっと、自分の親が崇めている神様が目の前にいることも知らないのだろう。
「すごいすごいすごい! ね、お喋りとかするの? 今も会ったりする?」
「君の目の前にいるよ」
「! えっえっあぅっ!」
慌ててあちこちを取り繕った。スモックのすその砂を払い、髪を手ぐしですく。
「違うよ、海の向こうにいるんだ」
シンジがくすくすと笑って言うと、レイは口を尖らせて言った。
「わたし、見えないもん。しんりから遠いから神様を見たら死ぬんだ、って」
「彼女はそんなことしないよ。彼女は君が大好きなはずだから」
そのシンジの言葉にレイは俯いた。
「嘘つき。神様はわたしなんか嫌いなんだ。きっと、そうだ」
「何故そう思うの?」
「だって……だって……みんな『おちから』使えるのに……わたしは……」
「あんなもの、使えなくったって、構わないよ。」
レイの前に両膝をついて、はっきりとシンジは言った。言葉を切って、短く。レイはその声色に、出かけた涙を引っ込めた。
その言葉を合図に、シンジはスイッチが入ったみたいに、レイの両肩に手を置いて語り始めた。
「いい? あんなもの、使えなくったって構わないんだ。あれを――AT-フィールドをあんな風に使うのは、怖がりの証なんだから。君はフィールドを使えないんじゃない。もっと素敵な使い方をするために、心の奥にしまってあるだけなんだ」
「えー……てぃー……?」
レイはシンジが突然知らない人になってしまったように思えた。レイの怯えた表情にシンジははっとして、言い換えた。
「ごめんね。AT-フィールドっていうのは『おちから』のことだよ。あんなもの、使えなくったって構わないんだ」
もう一度、シンジは言い切った。しかし、レイは頭を振ってその言葉に言い返した。シンジの足元に涙がこぼれた。
「お兄ちゃんは……使えるからそんなこと言えるんだ……」
その言葉に、シンジはゆっくりと答えた。
「ううん。僕はもうずっと『おちから』を使っていないよ。あんなものなくたって、人間は暮らせる。あれは、そうさ、もっと素敵な使い方をするためにあるものなんだ」
AT-フィールド――サード・インパクトの後、この世界の人間に新たに与えられた力を、しかし人間は未だに「壁」としてしか使うことはできないでいた。その意味を、シンジはずっと考えてきた。どうして、みんなそんな風に嬉しがって壁を作るのか。僕は、自分がたった独りであることを証明するずっとこの力を呪い続けてきたのに。
違うだろう? そうシンジは思う。そんな使い方をすれば、僕らはどこまでも他人を、世界を拒んでしまえる。そういう風にこれを使った彼らは独りだった。どこまでも孤独だった。彼らは本当は誰よりも他人を求めていた。人類よりずっと。そうして寂しさに耐え切れずに最後は自分よりも他人を選んでしまうくらい寂しさにあふれていたのに。そうして選ばれた僕たちが他人を拒むなんて。
この力を得て、人類は本当に独りになってしまった。もはやここにいるのは人類とは呼べまい。人……独りぼっちの人の集まりだ。
どこにも、誰もいない。こんな世界なら、あの海の中と、ちっとも変わらない。
こんな世界を彼が見れば嘆くだろうか。この綺麗な心を持っている女の子がこんな仕打ちを受けるこの世界を。それとも失望するだろうか。こんな僕に。そして、だからこそ彼女は消えずに、遠くからこの世界の移ろいを眺め続けているのだろうか。
「すてきな、使い方?」
「うん。君は、君なら。きっと、できるはずだよ」
そうだ。できるはずだ。
「どんな?」
「何だってできるさ。女神様だって見える」
「目が……見えないのに?」
「大丈夫、君なら目をつむっても見えるさ」
「ほんと……?」
「うん。僕の手を握って」
シンジはレイの手を握ると、目を閉じた。潮が引き、砂が舞った。
そして、シンジが目を開けると、遠く夕日を背負って、懐かしい友達の顔が見えた。そのイメージは、AT-フィールドを伝ってレイに、そして海に突き出した潮騒の街、第3東京市の人々の頭に過ぎった。
「女の……こ?」
「見えた?」
「うん、綺麗なおねえちゃん」
「ね? 素敵でしょ?」
「うん!」
その言葉を聞いて、シンジは笑んだ。そうだよ、この力をこうやって使えるんだ、僕らは。他人を拒むためじゃなくて、他人と心を触れ合うために。そうだろう? みんな?
ねえアスカ、そんな風に矛盾した教えで人間を試さなくてもいいんだ。
ねえ綾波、僕たちは君なしでだってやっていける。
ねえ、カヲル君、ミサトさん、トウジ、ケンスケ、リツコさん、委員長、ネルフのみんな……父さん、母さん。
気付けばシンジは泣いていた。枯れたと思っていた涙だった。隣では少女が変わらず凄い凄いとはしゃいでいる。
「ねえ。レイ?」
シンジは初めてその名を呼んだ。なあに? と振り返る彼女の向こうに女神の姿と太陽が重なった。
「お母さんを呼んでみようか」
「呼べるの?」
「どこにいたって聞こえるさ。お母さんに、みんなに、教えてあげよう、レイがここにいるって」
「うん。……お母さん、来てくれるかな?」
「びっくりしてみんな来ちゃうかも知れないよ?」
そうだ、世界中の皆に聞こえるように、大きな声で叫ぼう。
『お母さん。』
みんな。
『お母さん。』
聞こえますか?
『お母さん。』
声が聞こえますか? 彼女の、レイの声が聞こえますか?
太陽は既に西の海へ沈みかけていた。薄明の空に、女神像が溶け込むように薄く光っている。
シンジは開け放したドアに腰掛け、またラジオを聴きながら、紫色の空に光るその姿を眺めていた。
「時刻は六時五十分を回りました。みなさんいかがお過ごしですか。サタデー・ウォーターフロント・スタジオもそろそろお別れの時間が近づいています。
それにしてもさっきの『声』凄かったですねえ……、あんな使い方もできるなんてボクも知りませんでした。もうたいていのことには驚かないと思ってましたけど、やっぱ驚いちゃいますね。『黒き月』の人たちも知らなかったんじゃないかな? スタジオの窓からヴィーナスの浜に人が集まっているのが見えてます。あ。あれは巫女様かな? あの子、お母さん見つかったのかなあ。とまあ、色々と物議をかもしそうな土曜の午後ですが、残念ながら今日はこの辺でお別れです。
本日のラスト・チューンは、第3東京市の、え? またまたまた驚き、嘘か真か、ハンドルネーム『隻眼の巫女』さんのリクエストです。えーと、クラシック? 『アイネクライネナハトムジーク 第二楽章』」
シンジはラジオを見つめた。きっと彼女だろう、とシンジは思った。いったい何を考えて、彼女はこの曲をリクエストしたのだろう?
あの後、数分のうちに母親が姿を現した。レイを置いては帰れず、防波堤の影からずっと見ていたのだという。
母親の姿を見つけて、レイは緊張の糸が切れたみたいに浜にへたり込んだ。スモックの尻に、裾に水が染み込んだが、それを気にすることもできないようだった。
「お……かあさん……」
それを見て、シンジは息をつくと姿を消した。もう彼は必要ない。レイの母親はもう自分の娘を捨てることなどできないだろう。そうとも、彼女はもう、世界にその存在を知られたのだから。
母親と娘は抱き合っている。娘は泣きながら母親の胸を叩き、母親は娘に謝り続けていた。
シンジはゆっくりと踵を返し、防波堤の向こうに停めた車の方へと坂を上り始めた。砂だけだった柔らかい地面が、草交じりのそれに変わっていく。
しかしそこで、シンジは手を引かれた。
「待って!」
そこにはレイがいた。その向こうでは、母親が目を点にして娘の奇行を見つめている。当然である。AT-フィールドを目一杯強く張った「結界」の確固とした領域にいるシンジは、人間には見えないはずだった。母親には、レイが誰もいない空に向けて話しかけているように見えているはずだ。
「僕が見えるの?」
凄いな、この子は――そう思いながらシンジが訊くと、レイは憮然として言った。
「見えるわけないよ」
そうか、そうだった。この子は――
だからシンジは、彼女にプレゼントを上げた。
「ねえ、ちょっとだけこっちを向いて、じっとしていてくれる?」
「なに?」
「いいから、僕を信じて」
「うん、いいよ」
あっけないほど簡単にレイはシンジの言葉に従った。このまま育ったら、少し困ったことになるかも知れない。そう思って苦笑いしながら、彼はさっきの海辺と同じようにレイの前に跪いた。
「ちょっと痛いけど、我慢して」
「う、うん」
そう言って、レイが顔を彼女が感じたシンジの方に向けた瞬間、シンジはレイの両のまぶたをすっとなぞった。
「痛っ!」
そう言って、レイがまぶたを触ると、紅いものが手に触れた。
「血……?」
レイが見たものは血だった。それに驚いた彼女は、そのすぐ後に、自分がもっと驚くべきことを驚いていないことに気付いた。
「あ……目……見える……」
薄ぼんやりとだが、レイの目にはものが見えていた。まぶたが開いたのだ。
「プレゼント。危ないから、この使い方は真似しちゃ駄目だよ?」
シンジはレイの頬を撫でて、言った。遠くから、レイの母親が走り寄って来ていた。
「それじゃあ、僕には行くところがあるから。元気でね、レイ。さよなら」
「行っちゃうの?」
「うん、このままここにいたら、アスカが来ちゃうから、僕はもう行かなきゃ。レイが、この使い方をみんなに教えてあげてよ」
「あすか……巫女様?」
「うん」
「知ってるの?」
「うん。昔のね」
レイがおずおずと訊いた。
「友達じゃ、ないの?」
「嫌われてるんだ」
シンジがレイから目を逸らして答えると、彼女は少し声を荒げて、ことさら明るく言った。
「だいじょうぶだよ! 巫女様はしんりに一番近いんだから! それに、女神様と友達だったら巫女様とも友達になれるよ」
「そうかもね。でも……おっかないんだ、情けないけど。……ね、悪いけど、僕の代わりに『よろしく』って言っておいてくれない?」
「……うん、分かった。それだけ?」
レイはそう言って、シンジを上目づかいに見た。その目には敵わなかった。
「……それと『仲直りしたい』」
それを聞いて、レイは笑った。
「かっこ悪い〜! 分かった! 言っといてあげる!」
「ありがとう。それじゃあ、お母さんが心配するから、行ってあげなよ」
その言葉を聞いて、レイは後ろを振り返った。母親はもうすぐ近くまで来ていた。
「うん。それじゃあ、またね」
「うん、またね、レイ」
そして母親はレイに追いついた。ごめんね、その言葉にレイは微笑んで、うん、と答えた。レイは振り返ったが、そこにはもう誰もいなかった。
ラジオでは、DJがメッセージを読み上げていた。
「『隻眼の巫女』さんからのメッセージです。『仲直りの話、レイから聞きました。よろしい、仲直りしましょう。覚えている? 私たちが最後に別れた海岸で、逢いましょう。それと、レイを助けてくれてありがとう。では、待ってます。』ふむふむ、意味深ですねえ……喧嘩別れの友達か、彼氏彼女か……あの『声』のおかげかも知れませんね。それでは、そろそろお別れです。うまく行くといいですね『隻眼の巫女』さん。それでは、皆さん素敵な週末をお過ごしください」
そして、ラジオからはゆったりとした旋律が流れ出した。ここからあの海岸まではこの車の最高速度で、きっかり五分ちょっとだ。終わるまでに来いということか。
「参ったなあ、相変わらず無茶ばっかり言うんだから。ねえ、綾波?」
ため息をつきながらシンジは、星が光り始めた濃紺の空から海辺の道を照らす女神を一瞥し、笑いながらスロットルを吹かした。