ふわふわのススキが一面を埋める野原からふわりと浮かび上がった彼女の姿を認めて「ああ、あいつなんだ」という言葉が口をついて出た。恐らくは、彼の他には誰一人としてその言葉を聞くものはいなかった。もし聞くものがいるとすれば、彼の前にいる女の子だけだ。そして彼女も、その言葉には気付いていないようだった。
その時はちょうど夕暮れ時で、ススキ野が日没に向けて弱くなっていく日光のせいで橙色に染まりつつあるころだった。今にも枯れそうに見えるのにさらさらふわふわと緊張感のないススキは、その音とあいまって、笑いながら死んでいく老人たちのように見えた。
あいつだ。と俺はもう一度頭の中で復唱した。俺ではない。
どうしてこんな風に俺はいつも何かしら乗り遅れるのだろう? 結局のところ、今回も俺は乗り遅れる側に入ってしまった。納得はしたのだが、やはり考えてしまう。
運命などという言葉は端っから信じないし、必然は嫌いだ。これから起こることが予め決まっていてたまるものか。予め決まっていることなんて言うのは――雨の天気予報とか、悪い収穫予想のように、結局のところは外すためにこそある。人間にいまだ分からないことがあり、未来は変えることが出来るという希望を示すためだ。少なくとも俺はそう思っている。
ではこれは偶然だろうか? それこそどうしようもない。今が全部サイコロの出目で決まっているのだとすれば、そいつにはおもりか何かが入っているとしか思えない。俺に回ってくるサイコロは4だの3だの当たり障りのない目しか出ないようになっているのだ。たまに6や1が出るときがあっても、それは無数の3や4に紛れて、結局はそれなりのところに落ち着いてしまう。
あるいは、逆かも知れない。他の奴らに当たったサイコロにこそ、大昔のやくざ映画に出てきたような1や6しか出ないイカサマのサイコロが紛れ込んでいて、そういうイカサマのサイコロをこそ必然とか運命とかいうのかもしれない。何か矛盾しているような気がする。知らね。
俺はどうでもいい思考を打ち切ると、いつの間にか足元を向いていた視線を遠くへと移した。風に揺れてさわさわと揺れるススキの向こうには、相変わらずそれと同じようにひゅるひゅると浮かび上がっている女の子の姿があった。
寝転んだ恰好で中空に留まっている少女は、抑え目のグリーンのTシャツと7部丈のジーンズという姿だった。緩めのシャツの首周りはでろっと伸び、中に着ている濃い色のノースリーブが見える。髪は柔い夕焼けに赤っぽく染まり、この季節とちょうど正反対、梅雨時に見られる紫陽花のような色になっていた。
「はぐれんなよー」と俺は言った。
その声を俺が発してから数秒後に、彼女はこちらを向いて答える仕草をした。動作とほんの一瞬だけずれて声が聞こえるような気がするのは、物理の理論に中途半端に毒されているせいだろう。
「分かった」
そののほほんとした声は眠気を誘う声だった。耳の奥の方、ちょうど頭のまん中の少し後ろの方をじんわりと刺激して、人を夢見心地にさせる。動作が段々と鈍くなるのが自分でも分かる。
俺は彼女の方を見た。生返事を返した彼女は、どうやらあと何回かは呼ばれないと動く気は無さそうだった。その小さめの手は、頼まれもしないのにススキの穂をしゃわしゃわと梳っている。
「……寝ちまうか」
そうひとりつぶやいて、俺は温かくなってくる後ろ首もとの熱と、その熱の侵攻に合わせてゆっくりと目玉の上を滑り降りてくる瞼に全てを任せた。
和菓子屋の軒先には見慣れた顔があった。かつての同級生、綾波レイの顔だ。でもそれは俺の知っている彼女ではない。
そこにいたのはレイ、商標名の「レイ」だった。あの日の彼女と同じ姿をした家電製品だ。
「レイ」――正式名称「綾波レイ」がリリースされたのは、割と昔のことだ。俺がかなりどうでもいい感じで3流と呼ばれるような大学に進学し、留学のために友達も作らず日夜しこしこと勉強していた時にそれは正式発売された。
汎用人型なんとか綾波レイ、というその名前はどう考えてもあのエヴァンゲリオンの2つ名のパクリで、始めて見たとき、そのとんでもない状況にも関わらずテレビの前で大爆笑してしまったのを覚えている。初めて零度の近くにまで温度が下がる寒い冬が来て、これまた初めて使うこたつの中で小指をぶつけて悶絶した日のことだった。
端的に言って綾波レイは良く売れた。
最初は色々と先鋭的な反対活動を行なっていた人々も、そのハイスペックと愛らしい表情にほだされ、オセロの駒のように1人ずつ立場をひっくり返して行った。そして、その変化はこの社会に起きた変化の縮図でもあった。新しい生活様式に慣れるのにそれほどの時間はかからない。それが便利であればなおさらのことだ。
まるでかつての携帯電話のように綾波レイは勢いをつけて普及した。いずれ人間は彼女に淘汰されてしまうのではないかという意見が出そうになる程だった。
そして――ここからが傑作なのだが、実際、半分はその通りになった。
「いらっしゃいませ」と、目の前にいる着物の女の子――当然、綾波レイだ――が言った。彼女はそう言ったきり顔を上げず、頭を下げたままで戸を開いた。
「随分と礼儀正しくしてるんだな」と声を掛けてみると「仕事、ですので」という言葉が返ってきた。仕事。それは懐かしい彼女の言い草そのものだった。思えば彼女は掃除だって何だって「いい、仕事だから」と言いながらやっていたような気がする。あの部屋を鑑みるに、仕事じゃなかったら何にもやらない女の子だったのだろう。ふむ。実際にはそれほど言ってなかったのかもしれない。けれども、その印象が俺の頭の中に特徴的に残っているのは事実だ。
彼女のクールな顔の下に隠れていた部分を写すのは、あの時の俺には荷が重かった。もちろん、今だってそれほど変わるわけじゃない。そんなことができるなら――
「とっくに俺はこんなとこにはいないよな」
そういうことだ。
適当な菓子折りを買って和菓子屋を出て、薄暗い路地へと入った。今日は墓参りに行く日だ。誰って、俺の親父のだ。
親父はちょうど俺が中学を卒業するくらいに急逝した。その時期はちょうどネルフ解体が叫ばれていたころで、広報を処理するセクションにいた親父には相当の責任がかかっていたようだった。
無責任な奴はいい。文句を言って何もかも放り出せる。仕事ができる奴はいい。文句を言う前にこなしてしまえばいい。
問題は、全てをこなし切るほどに仕事ができるわけでもなく、全てを放り出せるほど無責任でもない人間だ。
そして、それが親父だった。
俺は親父のことを全て理解できたわけではないが、嫌いではなかった。だからこそ、なんであの人があんな風に死んで、後に残った無責任な連中と頭のいい連中が結託して大もうけしているのかということをずっと考えているし、こんな風に墓にも参っている。
そんなわけで、俺は路地を抜けて、その向こうにある寺に向う途中だった。
路地は昼間だというのに薄暗く、辛気臭い雰囲気が漂っていた。いつもそうだ。綺麗な表通りを一歩横にそれれば、こういう猥雑な路地があるのがこの街だった。
俺は斜め下を向いて歩いた。こういう路地でキッと前を見て歩くとろくなことがないからだ。俺はポケットに手を突っ込み、斜め下を歩いて早足で路地を抜けようと歩いた。
そのときだ。前から歩いてきた奴と肩がぶつかった。
まずい、と俺は思った。こんなところでトラブルに巻き込まれるとは。
俺は恐る恐る視線を上に動かした。四本の脚が見える。二本は男の脚、もう二本は華奢な女の脚。
そうかカップルか。ますます面倒くさい。男は女にいいところを見せようとするし、女は――綾波レイ?
俺は視線を完全に上げて女のほうを見ると、そう思った。女は透けるみたいに白い肌と、見るからに人間の外という感じの青っぽい髪の……それはどう考えても綾波レイだった。
何でこんなのを連れまわしてるんだ? 俺はそう思いつつ隣の男を見た。そして、今度こそ目を見開くことになった。
「……シンジ?」
目の前にいたのは確かに碇シンジだった。背は少し大きくなったが、目だけが少し大人びている以外は全然変わっていなかった。女っぽい端正な顔立ちも、男にしては細めの首もそのままで、そのうえ薄暗い路地に溶け込むようなタイトで黒っぽい服がますます細さを強調していた。
「……誰?」
「相田、って奴を知らないか?」
訝しげに呟いたシンジに俺がそう言うと、彼は口をぽかんと開けて小さく、あっ、と言った。
「ケンスケなの?」
「そういうこと。眼鏡はないけどな。……久しぶり、シンジ」
シンジは俺の言葉には答えず、素早く後ろを振り返ってから俺に問うた。
「どこかに雇われてる?」
「はあ? なんだそりゃ」
俺は大げさに手振りまでつけて答えた。言っていることが現実離れしすぎてる。突然会って、どこの手のものだ、ってそれは映画か何かの世界だ。確かに、ここで起こっていたことは映画か何かの世界の話に思えることもあったが、それももう終わって久しい。
けれどもシンジは、まるであの頃がそのまま続いているかのように、ほっとした様子で大きくため息をついてから俺に言ったのだ。
「ねえ、僕たち、友だちかな?」
俺は少し迷った。俺は最後にこの男と別れる時、酷く汚い言葉を吐いたような気がする。そんな俺が友だちを名乗っていいのか分からなかった。
目の前にシンジの顔があった。その隣には俯く綾波レイの顔。何だかわけありに見える。これで相談が「壷を買わないか」だったら笑うが、そんなこともなさそうだ。彼は、真剣で切羽詰った表情をしていた。
それなら、俺には選ぶべき道は1つしか残されていない。
俺は腹を括った。
「当たり前じゃないか」
俺の言葉を聞くと、シンジは顔をくしゃくしゃにして笑って――すぐに表情を捨て去って、俺の耳元に口を寄せた。
「……日が暮れるくらいに、僕が君にご飯をご馳走になった場所で」
そう言って、彼は俺の手に綾波レイの手を握らせ、歩いて来た方向とは逆方向に走り去った。
俺には、シンジの言い残した言葉と、俺の手の中にある柔らかい手の持ち主、綾波レイだけが残った。
気まずい。怖ろしく気まずい。狭い部屋の中に綾波レイと二人なんていう気まずさの極致のような状況は、そうそうあるものではない。誰かにこの状況を目撃されれば、マニアか変態がいいところだ。
俺はそんな風に自分の置かれた状況を思い起こしながら、俺は目の前にぽつねんと座って虚空を見つめている綾波レイに湯のみを差し出した。だかが家電に何をバカバカしいと思いながらも、あんなに優しく手渡された手の持ち主をモノ扱いすることは、ちょっとできなかった。しばらく悩んだが、どうにも結論が出ないので、昔の綾波のように接してみることにした。それが一番しっくりくるような気がしたからだ。
「ほい」
「え?」
「え、じゃないよ茶だよ茶。知り合いがきたら茶くらい出すだろう」
「あなた誰」
その言葉で、思いがけず綾波レイのほうから自分のバカバカしさを指摘される羽目になった。
そうだった。綾波レイはあくまでも綾波レイ。俺のことを知っているはずもないのだ。あいつが入れ込んでしまうのも分からなくはない。見た目は全く同じだ。しかし――やっぱり、俺やシンジの知ってる、この家電よりはずっと人間っぽかった綾波と、俺の目の前や、いまやどこの店先にもいる、彼女の形をした家電とは、やはり別なのだ。
「ああ、すまん、忘れてくれ」
俺がつい人間扱いを引きずってそう言うと、綾波レイは小首を傾げて湯飲みを見た。そして、しばらくの後、おもむろに湯飲みを手に取り、中身を一気に飲み干した。ごくっごくっごくっ。割と盛大な音を出して茶は彼女の胃に収まった。
俺はそれを見て、世間ずれしてないなあ、と改めて感心し、同時に疑念を抱いた。普通、綾波レイには出荷時に基本的な動作が刷り込まれているはずだ。そりゃあ商品なのだから、出荷したときからちゃんと動いてくれなければ困る。だが、彼女の行動はそんな常識を全く無視していた。靴を履いたまま家に上がろうとするし、さっきみたいに湯飲みの茶を一気飲みしたりする。
これはどういうことだ? この綾波レイは――
「……あなたは、碇君の友だち?」
「向こうがそう思ってくれてるなら、ね」
俺がぐるぐるの思考の渦に沈んでいるときに、綾波レイが話しかけてきた。
思わず何の気なしに言葉を返したが、言葉を返してから、俺は思わず泣けてきてしまった。
碇君、その言葉で全てが解かったからだ。
デフォルトでは、綾波レイがマスターを自分と同格を意味する君づけで呼ぶことはない。基本的に、綾波レイは家電であり、人間ではないからだ。しかし、この機体はそう呼んだ。つまりは、そう設定したということだ。この常識を外れた仕草もそれと同時にプログラミングされたものだろう。基本的な刷り込みを無視する状態設定、というのは、難しいことではあるができないことではない。そういうマニアもいるし、それ専用の機体も売り出されている。生臭い話だ。
そう、生臭い。だが、恐らくあいつはそうせずにはいられなかったのだ。
俺の記憶の中では、あいつと綾波とはとても仲が良かった。
お互いにあまり喋らなくても親しげな空気がこちらにも伝わってきて、その姿は恋人というよりも、まるで兄と妹とか、長年連れ添った夫婦とか、そんな感じだった。当時は所帯じみている、と笑っていたが、今となっては思う。
二人は本当に深くつながっていたのだ。恐らくは、俺なんかが立ち入れないほどに、深く。
だからこそ、あいつはこの子が売られていることに深く傷ついて、こんな風に、彼女の代わりを作ってしまわないことにはやりきれなかったのだろう。
「そう、ならあなたも、私の友だちね」と目の前の綾波レイは言った。それは記憶の中の彼女とは重ならない仕草で、なのにとても人間臭く見えるので俺はひどく悲しくなった。彼女よりもこの家電の方が人間臭く見えてしまったことに気付いたからだ。
「ああ、そうだな」
俺は答えて、綾波レイの反対側にあぐらをかいた。
……間が持たない。こんな感じで中途半端に意識させてしまうのが、綾波レイのよくないところだ。
仕方なく、ため息をついてテレビをつけた。俺から見て左、綾波レイから見て右、小さなテレビ台に乗った今では骨董品の域に達している初期型デジタルテレビは、多少のノイズを発しながらゆっくりと像を結んだ。
そして、俺はそれっきり、あんぐりと口をあけてその画面に見入ることになった。
昼のワイドショーが流れているはずのテレビには、第3新東京市の中心ビル街が映っている。画面の右上には「LIVE」の表示があった。
しかし、それは俺が見慣れたビル街ではなかった。
「ネルフの本社ビルが……吹っ飛んでる?」
画面には、怖ろしい量の塵が舞うビル街のようすが映っていた。
「はい! えーここ第三新東京市の中心に位置するネルフ本社の……」
中継の映像にアナウンサーの声が被さった。アナウンサーはどもりながら、つっかえつっかえ状況を説明し始めた。
「……わ、私は! ビル跡の前にやってきています。えー詳しい事はまだわかっていないのですが、どうやら爆弾テロの様です。今はすさまじい粉塵で何も見えません! 詳しい情報が入り次第お知らせしたいと思います」
「はい。……この時間は緊急特別番組として今回の事件にスポットを当てていきたいと思います」
そのコメントを最後に、CMが流れ出した。洗剤の宣伝と、掃除機の宣伝だった。後から考えてみれば、商売魂がにじみ出ているのが分かる。
だがそのときは、俺はただ唖然としたままCMを見続けた。
思わず口をあけた間抜けな顔のまま隣の綾波レイを振り返ってしまう。ネルフ本社は世界唯一の綾波レイの生産工場そのものでもある。暫くは生産がストップされるだろう。それどころか、もしかしたらこれっきり生産が完全にストップしてしまう可能性だってある。一体何を考えてこんな犯行を……まさか?
「ってそれこそ映画かなんかだよな」とふと脳裏にシンジを浮かべた自分に苦笑して俺は独り言を呟き――そして、そのまま固まった。
本当に偶然か?
本当に、シンジは関係ないのか?
何かに追われるように焦っていたシンジ。意味ありげな待ち合わせの言葉。ここまで状況がそろえば嫌でも「もしかしたら」が頭に浮かんでくる。時計を見てみれば、もう昼下がりである。あいつとの待ち合わせまではあと数時間。俺は焦って玄関に走って鍵がかかっていることを確認し、外の人影がいない事を念入りに確認してからリビングのカーテンを閉め切った。
これじゃまるで俺が犯人みたいだ。妙な興奮と背徳感と恐ろしさを感じながらテレビを見た。
ちゃぶ台の向かいを見ると、綾波レイは相変わらずぽーっとしてテレビを眺めている。その顔からは、何も判断がつかない。
俺は諦めてテレビを見た。
長めのCMがあけた後、粉塵がやっと収まって全景が見えた。そこには瓦礫の山と化したネルフ本社ビルがあった。
「なんだ……これ」
そこにあったのは奇妙な破壊の光景だった。
ネルフ本社は瓦礫と化している。それは間違いない。
しかし、問題は、それがきっちりその土地の中だけで、そう、まるで街づくりのゲームで建物を壊したときみたいに、他には一切の影響を及ぼさずに崩壊していたということだ。
テレビの中でアナウンサーが喋る。相変わらずどもりながらも、その声には興奮が混じっていた。
「はい! 中継です。ええと、発生時にその場所にいた人の話によると、何人かの人が」
「大丈夫ですか?」
「……はい! 大丈夫です。何人かが本社ビルから走り出てきて、その後にビルが……え? ええと、内側に向ってべしゃっと倒れた……そうです」
「内側に?」
「はい、そうです……それと、黒っぽい服を着た不審な男性を見たという目撃情報もあります」
「不審な男性ですか」
「はい、黒髪で二十代の、男性か大柄な女性に見える人物が、事件発生時にビルの方を向いて泣いているのが見えた、という情報がこちらには入ってきています。現場からは以上です」
それを最後に、中継は終わった。
その後には、したり顔のコメンテーターのコメントや自称文化人のプロファイリングもどきが、誰かがホームビデオで撮った映像を挟みながら延々と流れていた。
その映像の中に一瞬、見慣れた顔があったような、気がした。
「はあっー……はは、あははははは……」
俺はため息に続けて乾いた声で笑った。目の前の綾波レイは相変わらず無為の表情でテレビを見ていた。
やりやがった。
そうわかったが、何故だろう。不思議と、怒りも沸かなければ親近感も沸かなかった。
ただ、ああ、そういうことがあったんだな。という感情だけが、ぼんやりと胸のうちにかかった。
シンジがやったと考えれば、何故あの建物を破壊したのかは分からないでもなかった。綾波レイを普段からモノとして扱っている人間には分からないだろうが、昔の綾波のおかげか、半分はあいつの側に立っているらしい俺には、何となくは分かる。そういう人間の視点に立てば、分かることがある。
あの建物は、綾波レイの生産工場であると同時に、綾波レイの墓場でもある。
まるでかつての携帯電話のように、彼女は普及した。だが、彼女と携帯電話とで違うことが一つあった。
それは、彼女が止まったりしない、ということだ。永久機関とかいうのを積んでいるらしい彼女は、放っておけば永久に動き続ける。それが彼女の強みであり、同時に弱点でもあった。彼女は永遠でも、使うほうはそうではないからだ。ある命令に特化された綾波レイはある程度再プログラミングすることが可能だが、所詮は生体部品、それは完全というわけにはいかない。つまりは――どこかで、廃棄の必要が出てくる。でなければ、いつしか有限の人間は無限の綾波レイに駆逐されてしまうだろうから。
今だって、綾波レイの数は人類の総数に迫ってきている。半分はその通り、というのはそういうことだ。現に先進諸国では、綾波レイの機体数が人口を上回っている国さえある。
人間は、自分たちが綾波レイよりも下だということを怖れたし、綾波レイに数において負けることを怖れた。機体数と人口の比較を行なっている時点でそれは判りきったことだ。
だからこそ、人道上の問題をうるさく言う団体も、ちょうど外国から勝手に誰かが連れてきた獣を駆除する時に環境保護団体がするように、綾波レイの廃棄には目をつむってきた。
そして、彼女を作ることができるのがネルフだけなら、彼女を壊すことができるのもネルフだけだった。
いいや、こんな言い方は止めよう。俺はもう、シンジの側にいる。
彼女を生み出すことができるのがネルフだけなら、彼女を殺すことができるのもネルフだけだ。
だから、あいつはあの建物を壊したのだろう。
傑作だ、と俺は思った。これで本当に、誰かが言った悪夢は現実になった。まったく大した男だ。たった1人で、世界の行く末を変えやがった。
これで、俺含めて人類は負けを運命付けられた。これで誰も綾波レイを殺せない。いずれは綾波レイは人間を駆逐するだろう。だが、何故か、俺はそれが心底面白くてたまらなかった。ああ、そうだよな、それが正しい。そう思えた。それはもしかしたら、今まで俺が街中で擦れ違い続けた綾波レイたちや、あの日教室で見た、逆手で雑巾を絞るあの綾波のせいかもしれなかった。
俺は時計を見た。そろそろ、時間だ。あいつが言ったのは、恐らくは、仙石原の高台だ。俺が、何も出来ずにあいつをネルフの黒服に引き渡した場所。思えばあの時から、俺はずっと、世界の中心の大きな流れの横っちょで、ただそれを見ているだけしかできなかった。
……ああ、そうか。こんなに楽しいのは、俺が、例え一瞬だとしても、始めてちゃんと世界の中心に来れたからなんだ。きっと、それもある。女々しいけど、認めるしかないだろう?
そう、一瞬のことだ。あいつにこの娘を引き渡せば、全ては終わる。まあ、それでもいい。何も役割がなかった俺に、初めて出番が回ってきたのだから。
「よし、行こうか、綾波」と俺は言って、彼女の柔い手を引いた。
割と昔のことだ。俺はインターネットを見ていて面白い記事を見かけたことがある。
そこは今世紀の初めにやたら流行った大きなスレッド・フロート式掲示板の生き残りで、多くの人々が面白いことを書いたりたくさんのつまらないことを書いたり真実を書いたり嘘を書いたりして楽しんでいた。俺がそこにたどり着いたのはちょうど留学のための審査の準備で立て込んでいる時期だったので、さすがに書き込んだりはしなかったが、時間つぶしにはよく利用させて貰った。
話が逸れたので元に戻そう。
とにかく俺はその掲示板を見ていた。ダサいことこの上ないどてらを着込んで、いい加減黄ばんだカップに入ったホットコーヒーを飲みながら掲示板をクリックすると、一つのスレッドが目に入った。
そこは作家の文章を書き換えたり、文体模写をして楽しむという割と笑えるスレッドだった。
ふとレスを辿ったとき、こんな文章が書き込まれていたのが目に入った。恐らくは過去に誰かが書き込んだことのコピーだろう。
こんな文章だ。
> もし、と僕は思う、もし一万年の後に綾波レイたちだけの社会が出現したとすれば、僕のために彼女たちは街の門を開いてくれるだろうか?
> そこには綾波レイたちによって選ばれた綾波レイたちの政府があり、綾波レイたちがハンドルを握った綾波レイたちのための電車が走り、綾波レイたちの手によって書かれた小説が存在しているはずだ。
> いや、彼女たちはそんなものを必要とは感じないかもしれない。政府も電車も小説も……。
> 彼女たちは巨大な酢の瓶をいくつも作り、その中に入ってひっそりと生きることを望むかもしれない。
> 空から眺めると、そんな瓶が何万本、何十万本と見渡す限り地表に並んでいることだろう。
> それはきっと素晴らしい眺めであるに違いない。
> そうだ、もしその世界に一片の詩の入り込む余地があるとすれば、僕は詩を書いてもいい。綾波レイたちの桂冠詩人だ。
> 悪くはない。
> 僕は緑色のガラス瓶に照り映える太陽を歌い、その足元に広がる朝露に光った草の海をうたおう。
> しかし結局のところ、それは西暦一二0一六年の話だ。
> そして一万年という時間は待つには余りに長い時間だ。それまでに僕はいくつもの夏を越えねばならない。
悪くない、と俺は思った。元ネタが少し古すぎる気もするが、上手くできている。そして、今思えば――正確な予測になっていた。偉大な偶然、という奴だ。
あるいは、これを書いたのも綾波レイたち自身かもしれない。この世界のどこかに、ネットにつながったまま打ち捨てられたひとりの綾波レイがいて、この掲示板を見つけこの予言を書いた。そう思えば、少しは世界も面白くなろうというものだ。
ひょっとすると、こういう風な結末になることすら、彼女たちは知っていたのかもしれない。そして、1万年後に本当に綾波レイは自分たちのための社会を作り上げるのかもしれない。
俺はそれを想像してみた。どちらだろう。綾波電車か、酢の瓶か。
きっと酢の瓶だ。と俺は思った。そうだ、彼女たちはきっとそんな風にして、ススキでも海でも、目に入るものを飽きずに眺め続けるに違いない。
今、俺の目の前にいる、ススキの海に漂う綾波レイと同じように。
日暮れが近づき、空が徐々に紫色を帯び始めていた。どうやらあれからまどろんでいるうちに随分時間が過ぎてしまったようだ。綾波は、今は俺から少し離れたところに三角座りをしていた。
俺は周りを見渡し、大してものが見えないことが判ると耳を澄ませた。シンジは来ているか?
風に揺られてススキが揺れる音が聞こえ、その中に、確かに俺の方へと向ってくる足音が混じっていた。
見上げれば、黒い影があった。
「よう」と俺は言った。
「……ありがとう」と黒い影のシンジは答えた。
シンジは綾波を挟んで、俺の隣に座った。その顔はよく見えなかったが、すっきりした顔をしているように見えた。
「何も訊かないの?」とシンジは訊いた。
「何を訊くんだよ、あんなバレバレで」と俺は呆れて言った。俺のことをどれだけ間抜けな奴と思っているんだこいつは。
「分かる?」
「分かるさ。お前がやったんだろ、あれ」
俺は街の方、今日の昼間では高いビルが立っていたほうを指差した。シンジは少し笑って、うん、と答えた。いい加減暗くなりすぎて、表情もはっきりしなかった。
「……そっか」
「……うん」
「……お疲れ」
「お疲れ?」
「ああ。お疲れ、シンジ」
俺がそういうと、シンジは黙った。こちらを向く視線を感じた。
「何だよ? お疲れって言っちゃ悪いのか?」
「え? あ、いや、そうじゃなくて。……そんなこと言われると、思ってなかったから。もっと――」
「別に責めたりしないぞ?」と俺は言った。そうとも、半ばわくわくしながらここまで来た俺には、そういうことを言う資格はない。
「……そっか」
「やらなきゃならなかったんだろ? いいじゃないか。やりたいことをやんの。迷惑掛けても、他人を犠牲にしてもさ」
そんな風に柄にもなく語ってから、俺は言った。
「シンジもやっと、昔の俺に追いついたってわけだ。俺はエヴァンゲリオンには乗れなかったけど」
本当はそんなことはない。迷惑掛けても、他人を犠牲にしてもいい、なんてそんなことはない。昔の俺は馬鹿だっただけだ。だが――そういうまともな判断をして、何になるんだ。馬鹿なことを止めた俺は腑抜けになった。それなら、全ての罪を引っ被っても、全ての人にそしられても、やりたいことをやったほうがマシだ。
「……そうだね、そうかもしれない」
「だろ? 大先輩を敬いたまえシンジ君……なんてね」
ふふっ、とシンジは軽く笑って、暗闇の中のススキに寝転がった。俺も苦笑いを浮かべて一緒に寝転がり、空を見た。おまけにそれに挟まれていた綾波までが、真似をして寝転がった。3人で空を観る。月に雲がかかった空は暗く沈んでいた。
しばらく雲のかかる空を見た後、シンジは、さてと、と小さく言って、身体を起こした。
「なあ」と俺は寝転がったまま話しかけた。
「え?」
「その子と行くのか」
少し間が開き、シンジは答えた。
「……うん」
「その子は綾波じゃないぞ」
今度は、よりはっきりした声が聞こえた。
「……、うん。でも」と言ってシンジは言葉を切った。
「でも?」
「この子に代わりはいないから」
「……そうか」
そうか。そうだ、この綾波レイはあの綾波に似ているけど、完全に同じには、していなかった。
俺は身体を起こし、既に立ち上がっているシンジと綾波レイを見た。二人も、俺を見た。お別れだ。世界の中心はまたどこかに去り、俺はまたその横っちょへと戻る。自分の場所に。
「それじゃあ」とシンジは言った。ここで別れてしまえば、もう二度と会うこともないだろう。
「元気で」と俺は答えた。
そして、後ろを振り向こうとしたシンジに、最後に訊いた。
「なあ」
「ん?」
「あれ、どうやったんだ? ビル。それだけ、最後に教えてくれよ。今生の別れの置き土産」
俺の言葉を聞くと、シンジは微笑んだように見えた。雲に月が隠されたうえに街灯ひとつない野原は、微細な表情をうかがい知るには暗すぎた。
「ああ、それはね」シンジはそう言うと、綾波レイの手を握っていたらしい手を空にかがけた。
その瞬間のことだ。信じられないことが起きた。
シンジが手を掲げたその真上から、雲がすっ飛び空が晴れ、真ん丸の月が姿を現した。それはまるで、俺が疎開する直前の、シェルターから出てみれば土砂降りがすっかり快晴になってたときのようで――
俺はシンジと綾波レイの顔を見た。シンジは真っ直ぐに俺を見ていた。月明かりに浮かびあがったススキの海で連れそう二人は嘘みたいに綺麗だった。そして、俺は思わずそれに、あの日教室で見た昔の親友とその想い人だった女の子の姿を重ねた。ほんの少し違ったが、やっぱりそれはあの二人の姿にそっくりだった。
その時、ふっと、綾波レイが俺の方を見て笑みを浮かべた。それは今までのどの仕草よりも人間臭く、しかし、だが……どの仕草よりも「綾波」臭かった。
やりやがった! と思った。
あの女、やりやがった。あのしたたかな女は、どういう手段か知らないが、やりやがったのだ。
突然豹変したらしい俺の顔に、シンジは怪訝な表情をした。
俺は一瞬、シンジに教えてやろうかと思ったが、やめた。
せいぜい、時間をかければいい。あいつらを邪魔するものは、もう何もないんだから。
シンジと綾波が去ってしまった後も、俺は相変わらず月を見ていた。月。欠けてなくなってしまったように見えても、また必ず戻ってくる。脳裏に彼女の姿が浮かんだ。
だから、俺は周りを見渡し、もうあいつらがすっかり行ってしまったことを確認すると、こっそりと、呟いてみることにした。それくらいは許されるだろう。
「……怖ぇ女」
そう呟いた途端、ひゅおう、と風が吹き、ススキがさあっと音を立てて揺れた。俺は一瞬すくみあがり、その後笑って、ススキの野原を見続けた。大丈夫、まだ時間はたっぷりある。あいつの世界までは、まだあと一万年はあるからな。
85 :名無しが氏んでも代わりはいるもの :03/12/03 02:57 ID:e/ucksev
もし、と僕は思う、もし一万年の後に綾波レイたちだけの社会が出現したとすれば、僕のために彼女たちは街の門を開いてくれるだろうか?
そこには綾波レイたちによって選ばれた綾波レイたちの政府があり、綾波レイたちがハンドルを握った綾波レイたちのための電車が走り、
綾波レイたちの手によって書かれた小説が存在しているはずだ。
いや、彼女たちはそんなものを必要とは感じないかもしれない。政府も電車も小説も……。
彼女たちは巨大な酢の瓶をいくつも作り、その中に入ってひっそりと生きることを望むかもしれない。
空から眺めると、そんな瓶が何万本、何十万本と見渡す限り地表に並んでいることだろう。
それはきっと素晴らしい眺めであるに違いない。
そうだ、もしその世界に一片の詩の入り込む余地があるとすれば、僕は詩を書いてもいい。綾波レイたちの桂冠詩人だ。
悪くはない。
僕は緑色のガラス瓶に照り映える太陽を歌い、その足元に広がる朝露に光った草の海をうたおう。
しかし結局のところ、それは西暦一二0一六年の話だ。
そして一万年という時間は待つには余りに長い時間だ。それまでに僕はいくつもの夏を越えねばならない。