自分は何をしているのだろう。白々しいほど澄み渡った青空の下、何をするでもなく人の群れを眺める。
ふと何気なく脚をさすってみると、冷たく硬い作り物の脚が手に触れる。全く恨んでいないといえば嘘になるだろうか。だがあの時ああされなければ、自分が彼らや、引いては友人たちを殺していたのだろう。なら、恨むことはできまい。
結果として片足を失い、その後の生活に多少なりとも変化が強いられたし、リハビリもなかなかに辛いものがあった。しかし、代償は大きかったが得たものもあった。
だが、そうまでして守ろうとして、また得ようとした者は今はもういない。
ひとり立ちを始め、自分の手から離れて行くのは寂しかったが、それと同じぐらい嬉しく思い、祝福できた。そして人生の大きな転機である結婚を無事に済ませ、幸せを満喫するはずの、その矢先で交通事故。なんともあっさりと。今までの思い出が、出来事が、苦労が、その結晶が、嘘のようにあっさりといなくなってしまった。煙突から立ち上り、空に消えてゆく灰色の煙を眺めながら、そんな事を取り留めなくずっと考えている。
「ワイは、なにやっとんのやろなぁ」
トウジはぽつりと呟き、茫洋として煙と空とを眺めた。
空に溶け込むように段々と薄くなり見えなくなる、ついこの間まで妹であった煙を何をするでもなくただ見上げ続ける。願わくば、煙が雲になってずっとこの空を流れ続ければいい。あいつの事だから嬉々として年中空を流れて旅するだろう。ざあ、と風が音を立てて流れる。そうして煙が途切れ、空が青と白だけになっても、トウジはそれでも呆然と立ちつくし、見上げ続けていた。
「このたびは……」
「どうもです」
繰り返し交わされる挨拶。また一人喪服で現れる参列者を見送る。
奥では義弟が泣き顔を必死にこらえつつ挨拶を交わしていた。
自分と一昼夜にわたるどつき合いに耐えて、そうまでして妹を求めてくれた男だ。それだけに申し訳なさのようななんともいえない感情を抱きつつその様子を眺める。
結婚して3ヶ月。たったそれだけの期間の幸せで妹はあっさりとこの世を去った。長年暮らした家を出る時に「せいせいする」と憎まれ口を叩きながら、その口で「一月に一回は戻ってくる」などと言って、嫁いだあいつ。新婚旅行の余韻がどこか残りながら毎日嬉しそうに電話をかけてきたあいつ。早く子供がほしい、最初は女の子で次が男の子だよね、と義弟と一緒に挨拶に来て嬉しそうに笑うあいつ。その幸福そうな笑顔も、もう見る事はできない。嬉しそうに考えた子供の名前を名づける事が無いままあいつはこの世を去った。
どこか心が平坦に、何も感じないままに参列者を見送る。感情が凍りついたように、表情が固まっているのが分かった。涙も流れてはくれない。まだ何処か夢を見ているような感じだ。この後、妹の遺骨を拾うまでには、このどうしようもない現実を受け入れて泣く事ができるだろうか。そんな場違いな感想を抱きつつ、トウジはそれでも淡々と仕事をこなした。
義弟と別れ自宅に帰ってきて、居間でなにをするでもなく時間をすごす。遺骨も拾い終わり、やっと一段楽した。どっと身体がだるくなる。まるで暗いところへ落ちていくような感覚を覚える。
結局、涙を見せず能面のように最後まで過ごした。それがよほど沈痛に見えたのか、参列者達は皆痛ましそうにこちらを見たまま、必要以上に話しかけはしなかった。
そんなおり、ふと昔の旧友の顔を思い出そうとした。だが、思い出すのは憚れた。妹を思うよりそんな事を思う自分に腹が立ったからだ。
そんな事をうすぼんやりと考えていると、後ろから優しげな声がかかった。
「お疲れ様。疲れたでしょ、もう寝る?」
「ヒカリの方が疲れとるやろ。なんや悪いな、手伝わせてもうて」
なにいってるの、と言って微笑んだ女性はそばかすもなく、お下げも結っていない。そして、ごく自然にトウジの隣に急須と湯のみを持って座った。これが彼らの間に流れた時間だ。
「アイツも喜びよるやろ。ヒカリと仲ようしとったからなあ」
ヒカリは黙って彼の独り言めいた言葉を聞きながら、湯飲みにお茶を注いた。
「別れた時も甲斐性なし、男のクズやゆーて散々罵られたもんなあ」
思い出すように言った後、嫌味のようになってしまったのに気付き思わず顔をしかめた。
そんな彼の顔を笑いながら見て、彼女は口を開いた
「私にも同じように言ってたのよ。甲斐性のない兄でごめんなさい、なんて言って」
「ひどいやっちゃ」と言って、彼は鼻を鳴らした。
ヒカリはその仕草を見て、ふっと笑った。
「でもね、その後『お友達として付き合ってあげてください』なんて言われちゃってね。思わず私、もう一人妹欲しくなっちゃった」
「そうかあ……」
数年前にヒカリと別れてからも、妹は個人的にヒカリとは付き合っていたらしい。
ただ、彼女はかたくなにそのことは隠していたので、今回の葬儀の際にヒカリが来てから色々と聞き、彼は大いに驚くことになった。
が、思えば元々付き合いだしたのも妹が架け橋的な存在となったことを考えれば、それも当然か、とも思えた。
気付けば日はすっかり落ちて蛍光灯の光が届かない場所は何も見えなくなっていた。
少し離れた所にある商店街のネオンやらなにやらがちらほらと見え、有線放送から流れる音楽がかすかに聞こえる。
ふと、思い立ったというようにヒカリは彼に喋りかけた。
「泣かないんだね」
突然ぽつりとそうこぼした彼女に対して何も返せないまま、トウジは湯飲みに注がれた茶をすする。熱くて苦い。
彼女は黙ったまま、こちらの返答を待っている。視線は合わせない。彼女は黙って手の中にある湯のみの中を見ていた。
トウジは答えずに沈黙を続けるには苦しくなってきたので渋々と返事をした。
「なんや、泣けんのや。まだ実感沸かへんのやな」
「そう?」
本当に? とでも言いたげにやっとこちらを見た彼女が問いかける。
「おう」
心持強めに言い切ると、また静寂が訪れる。外はまだ賑やかで近くの商店街の喧騒が聞こえてくる。しかし、そんな喧騒とは切り離されたようにここには音が無い。時計の音だけが、小さく響く。
「じゃあ、私そろそろ」
帰るね、と続きそうだった彼女の言葉に、トウジは慌てて言葉をかぶせた。
「用事なかったら飯でも食わんか? なんや手伝うてもろてなんもせんのも申し訳ないわ」
彼が珍しく慌てた様子でそう言うと「うん、じゃお言葉に甘えようかな」と言って彼女は立ち上がった。
「台所、借りるね」
飯でも食わないか、と誘って、飯を作らせる。何だかおかしい気はしたのだが、当たり前のように冷蔵庫を確認して調理を始めようとした彼女の勢いにおされ、「おう」としか言えないままトウジは湯飲みに口をつけた。
手馴れたもので、三十分もすれば良い匂いが漂ってきた。
付き合っていたときに、よくこうやって夕飯を作りに来てもらい、妹と三人で食卓を囲っていた事を思い出す。彼女はあのときから変わらない調子で鼻歌を歌いながら所狭しと台所を動き回っている。
唐突に、目頭が熱くなってきた。何故だろうか。幸せな時を思い出したからか? そう自問しつつ、彼女に近づき、後ろから抱きしめてしまった。なにか得体の知れない衝動に突き動かされて、抱きしめたまま、彼女の首元に顔をうずめ泣いてしまう。
自分はこんなに女々しい男だったろうか。トウジは自問した。男らしくない。自分はもっとどっしりと構えて、どんなに辛かろうが悲しかろうが、全て自分の裡に埋めて、他人にそれを悟らせないような……
「駄目、甘えるのはなし」
そう言って、思考と腕を一緒に振りほどいた後、トウジを見つめたヒカリの顔には怒りも、悲しみもなく、笑いだけが浮かんでいた。
「もうすぐできるから。ちょっと、泣いてきなさい?」
そう言って調理に戻った彼女に「すまん」としか言えず、しかし部屋に戻る事もできずに居間に戻り湯飲みに冷めた茶を注いだ。
不思議と涙は続かず彼女の後姿を眺める。
先ほど彼女の顔が泣き顔に見えたのは気のせいだろうと思う。どもって、泣き声じみていたが気のせいだ。少なくとも彼女は笑っていたのだから、そういうことなのだ。
そうして出来上がった夕飯は確かに美味かったが、非常に気まずいものだった。彼女はトウジに話しかけては来ず、彼からもなんとも話しかけづらかった。 結局「うまいわ」「そう? ありがと」の二言だけで晩餐が終わり、そのまま無言で彼女が後片付けをして、そうしてまた無言のまま居間でまたお互いに茶をすすっている。彼は落ち着かず、視線をきょろきょろとさ迷わせ、一方彼女は俯いたままで、なんとも静かな時間が流れる。遠くから流れてくる蛍の光がやけに雰囲気に合っていて、下手に物悲しかった。
「ごめん、ね」
突然彼女が静寂を破った。肩は小刻みに震え、嗚咽が混じっていた。
ぽつりとそう言ったまま、顔を伏せてこちらを見ないまま彼女は続けた。
「久しぶりに、お台所借りてお料理したら、色々と思い出しちゃって。駄目だね、トウジには……鈴原には甘えるな、なんていってたくせに」
やはり頷いたままで、長い髪が落ちて表情は読めない。嗚咽を漏らす彼女になんと声をかけたものかトウジは悩んだ。
「まあ、そのなんや、お互い様やし」
「うん、ありがと」
そう彼女が答えたっきり、また暫く沈黙が続いた。そしてやっと小さな嗚咽も途絶えた頃、突然彼女は顔をあげて彼に喋りかけてきた。
「ね、散歩にいかない?」
そういって急に立ち上がり玄関に向かう彼女を呆然と見送ってしまう。
そのまま暫くすると玄関の開く音がしたので、慌てて後を追う。
慌てて靴を履き、途中で追いつき隣に並ぶ。時間はすっかり深夜になり頭上には半月が浮かんでいた。
そうしてやはり無言のまま歩き続ける。
十分も歩いただろうか。世界から切り離されたように静かで誰もいない月夜の公園についた。見覚えのある公園だった。
「あ、懐かしいねここ」
そう言ってこちらを振り返った彼女は透けるような笑顔で、涙の後も見えなかった。
「そやな」
ここは以前、よく二人でデートの待ち合わせに使った場所だった。歩きながら自然と足がこちらに向かっていたのは自覚していたが、彼女は何も言わなかったのでそのまま、馴染みのある「いつもの」場所だったところに着てしまったのだ。
「なんてね、あの子と待ち合わせするのも、大抵ここだったんだよ」
微笑む彼女の笑顔からは何も読み取れない。付き合っていたときには見たことのない、いたずらっ子のような笑みだった。
「どこで聞いたんだか、待ち合わせ場所ここに指定してきてね。きっと鈴原のこと意識させたかったんだね。口喧しいだけだ、なんていってたけど、やっぱりそういうところ、お兄ちゃんっ子でさ」
返事もできず、無言で彼女の言葉を聞きながらその顔を見つめる。
「懐かしいね……」
そう言って何処か遠くを見るように彼女が視線をはずした瞬間、彼女を抱きしめた。さっきとは違い、今度は正面から。
「甘えるのは、」
最後まで言わせずに「すまん」と一言だけ呟いてそのまま暫く抱きしめる。
「ワイな、やっぱりヒカリが好きや」
彼女が何かを言おうとするが、それを許さずに続ける。
「あいつが死んでもうて弱ってるのは否定せん。そやけど、やっぱりヒカリが好きなんや」
何を言っているのか分からないまま。ただ、思ったままを考えずにぶつける。めちゃくちゃだった。
「駄目、だって言ったでしょ?」
彼女はそんな無茶を優しく笑いながら、言葉の続きを口にした。
「私は、ね。言い訳にはなりたくないの。かくまってあげるのはいいけど、逃げ場所にはなりたくない。そんな理由になってちゃ、私自身は見てもらえないもん。鈴原、自分で気付いてないけど、そんなに、強くないよ。凄く脆くて、でも、人には強いようにしか見せなくて」
喧騒も何もない静かな公園に、服越しで少しくぐもった彼女の声だけが響く。しかし、その言葉は頭の中にはっきりと通った。
「鈴原、理由がなくなったから、私に逃げようとしてるだけ。前はそれでもよかったけど、今はもう駄目なの。気付いちゃったから。もし、私といたいのなら、ちゃんと私を見て。じゃないと鈴原と恋人になんてなれない」
抱きしめた状態のまま、彼女の顔は自分の胸に隠れて表情は見えない。
「理由、ってなんや」
「気付いてた? 鈴原、何をするにしてもあの子を基準にしてるんだよ? どんなに自分が辛い目にあっても、 あいつのためだ、なんていって笑って、自分の気持ちごまかして。私と付き合い始めてからは私の気持ちも基準にしてた。まずあの子、あの子じゃなければ、私。私じゃなければ、相田や碇君。他人他人他人、そればっかり。鈴原、あの子や私を理由にして、結局、自分の気持ちはごまかしてるのよ」
そうして彼女の手が義足のふとともに当たる。
やさしく、そっと撫でさする様に手を動かす。
「これだって、本当は凄く痛いのに、辛いのに、これのおかげであいつの怪我がちゃんと治るなんて言って笑って、さ。入院してる間も、リハビリしてる間も、悲しいはずなのに、嬉しそうに笑って。だから、なんにも言えなかった。鈴原がそれでいいなら、私もそれでいいんだ、って自分に言い聞かせるしかなかった」
彼女の一言一言が、頭に何かを打ちつけていくような錯覚を覚える。
理由。あいつを幸せにしなければならない理由。自分は兄貴なのだ。もう祖父も親父もいない二人きりの兄弟なのだ。あいつを守るのは自分しかいない。理由、理由。俺は、アイツを幸せにするために――
「ワシ……ワシ……は」
口喧しくはあっただろうが、あいつのためだと言い聞かせて、自分を励まして、働いて、見守って、それで?
「ねえ。鈴原はどこにいたの? あの子がいない、私のいない鈴原の時間はどこにあったの?」
彼女は一言一言呟く毎に震えているが気づけない
どこに? あいつの、あいつのために……。愕然とする。思えば、自分は妹の、ヒカリと付き合い始めてからは二人の存在だけで成り立っていたのではないか。いつでも他人を探して。
全ての感情を二人と、他の人々と関連付けて、自分に言い聞かせて。
「ヒカリが好きなんは、ワイの気持ちや」
「嘘つき」
彼女に嘘つき、と言わせてしまった事に罪悪感がこみあげる。その言葉が正しいことが判ったからだ。
そう、嘘なのだ。少なくとも、自分だけの、感情では、思いではない。
妹と仲の良かったヒカリ。付き合うことになり、毎日のように飯をつくりに来てくれる彼女に喜ぶ妹の顔を考えてはいなかったか?
そして、自分を好いてくれているヒカリと「付き合わねばならない」そんな風に考えている自分がいなかったか?
そう、打算なのだ。自分は妹やヒカリの為だけに生きてきて、彼女たちのためだけの存在だったのだから。ならば自分は今生きているのだろうか。妹も、彼女も失って。
何のために?
「だから、理由になるのはいや。ちゃんと私を見てくれない鈴原はきらい。言い訳を探して、自分の足で立とうとしない鈴原はもっと嫌い」
「そうか」
「うん」
「せやなあ……」
抱きしめたまま、じっと寒空を見上げる。
彼女の震えは止まらない。まるでぬくもりを求めるように彼女から抱きついてきた。
結局は逃げていたのだろうか。少なくとも、言い訳を必要として自分の気持ちに嘘をついていたのは確かだ。今度こそ、懐かしい優しい顔の親友の顔が浮かんだ。あいつを笑えやしない。
「でも、ね」
胸のうちから、何かを決心したような小さな声があがる。
「私は自分が、もっと嫌い。鈴原と付き合ったのもね、そんな強い鈴原に惹かれたから。だから、私は鈴原の弱い部分がわかってたのに、無視した。だから、私は私が嫌い。怪我をした鈴原につけこんで、鈴原を自分がいてもいい理由にして逃げてた私が嫌い。そんな自分が許せなくて鈴原を振った自分勝手な私が嫌い。今もこうして自分の事を棚上げして鈴原を傷つける私なんて大嫌い。私だって鈴原と変わらないわ。……死んじゃえばいいのに!」
ついにヒカリは声を上げて泣いた。トウジは何も言えずに彼女の言葉を聞き続ける。
「だから、だから。今も、私のために、鈴原に惹かれてる私の気持ちを言い訳にしていこうとする鈴原が、見て、らんないのよ」
「そうか……」
「うん、だから。私も、嘘つき」
嗚咽交じりにつっかえながら喋る彼女の言葉に相槌を返す。そうして、彼女はやんわりと腕を振り解き、距離を開けた。
「だから、甘えるのは、なし。鈴原も、私も」
そうして綺麗な笑顔を浮かべると、彼女は公園の出口へと向かって歩き出した。言い訳をするように、小さな声で「ごめんね」と呟く声が聞こえたが、歩き始めた彼女がどんな表情でいったのかはわからなかった。
帰り道は行きと同じくやはり無言で、だがお互いの距離は少し離れていた。
彼女が十字路で立ち止まった。何を、と思ったが、すぐに思い至った。この時間だ、電車はとうに無いし、タクシーを捕まえるにしては、夜道を少し歩かなければならない。小走りに彼女に近づき声をかける。
「なんや、もう遅いし、始発まで家で時間潰さへんか?」
「うん。お言葉に甘えよう、かな」
どこか迷った様子で、だがこちらの提案に頷いた。さすがにこのまま別れてしまうのは勘弁願いたいので助かった。
そうして、やはり無言で家路につき、家についた後も会話もせず、何をするでもなく居間で茶をすする、きっと、今日も眠れまい。
コチコチと時計の針の音だけが流れる中、公園での言葉を彼女の顔を見ながら考えていた。彼女は俯いてはいず、頬杖を突いて何か考えに耽っているようだった。
そうして時計の針の音に小鳥のさえずりが混じって聞こえ始め、うっすら外が明るくなった頃、ようやく意を決して静寂を破った。
「よし!」
突然あがった声に驚くでもなく、意識と顔をこちらに向ける彼女に喋りかける。
「わしも男らしゅう腹くくってみるわ」
「うん」
「またお前泣かせてもうたしな」
「……うん」
表情を浮かべず、相槌を返す彼女の顔はやはり見たことのないものだった。商店街の方も目を覚ましたのか、シャッターの開く音と、仕入れに行くであろう車のエンジン音などが聞こえ始めてきた。
「早速あいつに身辺報告せなな。昨日の今日で変な感じやけど」
頷き、そのまま顔を伏せた彼女の顔は見えない。
「なんやいきなり自分の事で白状やけどな」
「喜ぶと思うよ」
「やとええな」トウジは豪快に笑った。
ヒカリは顔は上げないまま、しかしどこかその声音には、ほっとしたような穏やかなものが含まれていた。時計の針の音はもう聞こえない。一日が始まり商店街の喧騒が届きだす。
ふと、どちらともなく時計を見ると程よい時間だった。今から出れば、ちょうど始発に間に合う。
「じゃあ私、そろそろ帰るね」
「おう。悪いな結局最後までつき合わせてもうて」
そう言ってトウジは立ち上がるヒカリに同じく立ち上がりつつ答えた。
「いいよ、気にしないで」
「玄関まででええか?」
「うん、ありがと」
その言葉を受け、彼女が身支度を整えるのを待って玄関に向かって歩き出す。座り続けていたので足が痺れて転びそうになったところを笑われてしまった。
そうして、結局トウジは玄関先で立ち止まった。駅まで送って生きたいが、これ以上あまり長く一緒にいたら決心が鈍りそうで嫌だった。彼女もそれぐらいの弱さは認めてくれたらしい。せめて笑顔で送り出そう、とトウジは決めた。
「じゃあね、鈴原」
「おう」
そういって歩き出そうとした彼女に答え――呼び止めた。
「ヒカリ」
「なに?」
振り返った彼女の、仕方ないなあ、という表情に思わず何を言おうとしたのか忘れてしまう。そのすっきりとした顔はあまりに綺麗に見えた。
「……あー、その、なんや」
くすりと笑ったあと、彼女は彼何を言おうとしたのか、分かっている様子で、
「お互い、自分を見つけてから、ね」
と笑顔で答えた。丁度朝日を背にしているので眩しい事この上ない。お互い、中学生が交わすようななんとも青臭い台詞だが、それもいいか、と笑いながら続ける。
「そん時はワイ、言いたい事あるから」
軽く頷いて歩き出した彼女を、姿が見えなくなるまで見送った。
彼女の姿が見えなくなって振り返ると、代わり映えのしない玄関が目に入る。もうあいつはいない。だが、こっちはまだ生きている。
「……しもた。殴ってもらうんやった」
自分の不甲斐ないところを叱責する意味でも一発殴ってもらえばよかった。と思い、しかし直ぐに言葉を続けた。
「ま、ええわ。貸しにしといてもらお」
ワイも随分根性悪なったで、と心の中で落ちをつけると、トウジはゆっくりと玄関の扉を閉めた。