「毎度のことやねんけどな」と黒いジャケットの男が言った。いかにも鬱陶しそうな表情で、バイクの座席に顎を乗せている。
「なんだよ?」隣にいる色あせた迷彩柄のTシャツを着た男が訊いた。と言っても、彼は声の主のほうを一瞥もせずに手元のカメラで眼前の風景を撮りつづけていた。
「お前の趣味、全然分からんわ」
「そりゃどうも」
自分の趣味を分かってもらおうなどとは思っていないことが見て取れる答え方だった。
いつも通りの返答にまた溜息を吐いてジャケットの男は空を見上げた。
空は快晴。常夏ではなくなったが日本の気温は今も高い。それでも、その暑さはどこか昔の刺すようなそれとは違っていて、海辺にはとろりとした空気が流れていた。
「なあ、トウジ?」
「どないした?」
「そろそろ、だな」
トウジと呼ばれた青年は、ジャケットを脱いでバイクに掛けると、カメラのファインダーから目を離した相棒の隣に座った。長ズボンと靴の間から、普通の脚よりずっと細い彼の脚が覗いた。
「せやなあ」
コンコン、と義足を小突きながらトウジは答えた。もうずいぶん前、左足を義足にしたときからの彼の癖だ。
「そろそろ、家も心配やしな」
「家、ねぇ」と、カメラをケースに収めつつ迷彩柄の青年は意地悪そうに笑った。「妹が、だろ?」
「言うとけドアホ」
「はは、図星だ」
声を荒げたトウジの言葉に動じることなく、青年はケタケタと笑い倒した。腹まで抱えて笑っている。そんな相棒の姿にいつもながら眉をしかめ、トウジは訊ねた。
「……自分はどないすんねん、ケンスケ?」
ケンスケと呼ばれた青年は、ん、と一言唸って、水平線を見た。数日前からの台風が去った海は凪いでいて、小さな波の音が耳に心地よい。
「帰る気はないね。帰るところもないし、幸か不幸か」
ケンスケはそう言ってカメラをぽんと放り出し、ばふっと仰向けに寝転んだ。背中に砂の感触が触った。
「せやったな」
カメラを受け止めたトウジもまたケンスケにならい、彼の隣に寝転がった。寝転がったままトウジは独り言のように呟いた。
「なんや、せやって考えると景色が妙に新鮮に見えてくるんはなんでやろな?」
ケンスケが待っていたように、その言葉に気取った答えを返した。
「被写体はいつだって綺麗だよ。それが新鮮に見えるのは、お前の心の持ちようさ」
「いつでも綺麗、なあ。ほんなら、何で今撮る必要があんねん」
「今しか見れない旬の風景だからさ。被写体はいつでも綺麗だけど、無くなっちまったら写しようがないもんな」
「そらそうか」
納得したようなその言葉を最後に、2人はしばらく無言で穏やかなスカイブルーに染まる空を見上げた。雲はまばらで、ただ、名前の分からない鳥がくるくると2人の頭上を旋回しながら、唄うように鳴いていた。
目を閉じて波音と鳥の声に耳を澄ませば、ここが数年前まで大都会だったということなど嘘のように思えた。
実用化されたS2機関は、地上に人がひしめいていた時代のエネルギー問題を一挙に解決した。しかし、すぐにその意味は失われてしまった。
S2機関にはエネルギーを生み出すことはできても、一度生み出したエネルギーを消し去ることはできなかった。無限に水が湧く水瓶からは、いつか淵を越えて水が溢れ出す。そのことを人類が思い出したのは、水瓶から水が溢れ出た後だった。
皮肉にもその運命を知らせたのは、ほんとうに水だった。地球全体の放熱が間に合わなくなった結果起こったのは、懲りずに水位の上昇だった。セカンド・インパクト後の勢いに拍車を掛けて温暖化は進み、セカンド・インパクトの被害を受けなかった北極の氷までもが溶け始め、海面増加による熱吸収の増加はますます熱収支のバランスをおかしくした。
S2機関がサード・インパクトからの再生の切り札だった人類には、もはやなすすべはなかった。いわゆる「排熱問題」を根本的に解決する手段はなく、セカンド・インパクトに耐え辛うじて生き残っていた国家の幾つかは沈み、何億人もの人々が路頭に迷った。そして時を同じくして起こった気候の変動が疫病を生み、多くの人が死んだ。沈まなかった国々でも、一度海面上昇から逃れた沿岸部の街の多くがふたたび海の底に消え、また次の場所を探さなければならなかった。また、そうして移動した街も、止まらない海面の上昇に併せてじりじりと内陸部へと移動を繰り返さなければならない。そのうえ、突発的な幾度も大津波が沿岸部の街を襲い、街が一夜にして海の底に沈むこともあった。
そうして人類は波に洗われて消える珊瑚礁のように、ゆっくりとしかし確実に、その資源と、技術と、数を失っていった。
そして――後に残ったのは、S2機関を動かせず、そもそもその必要もない、人がひしめかない世界だった。
だからケンスケは旅をしていた。旅をしながら手に持つカメラで、失われゆく、そして、新たに出来上がっていく風景の写真を撮る旅だ。ケンスケ以外の誰にもできない、誰もしないであろう旅だ。ケンスケが写したその瞬間にも、風景はじりじりと変わっていく。10年前にも、10年後にも見ることのできない、誰も気にも留めないけれど、このエンディングテーマが流れている時代を一番に表現しているもの。
「『時代をよく表し、別に注目されず、2度と見られないもの』」とケンスケは頭の隅に残った言葉を呟いた。「誰の言葉だったっけ?」
「……ワシに訊くな。そんなんお前の方が詳しいやろ」とトウジは目を閉じたまま、顔の前で手をひらひら動かした。
ケンスケは相棒のすげない答えに肩をすくめて、立ち上がった。立ち上がったついでに手を伸ばし、相棒を引っ張り起こす。
「あんがとさん。えらい長いこと寝てもうたな。早よ動かんと夜んなってまうで」
トウジは周りを見渡して言った。既に太陽は水平線の向こうに姿を消して久しく、海岸線が徐々に見えなくなってきていた。
「確かに。そいじゃ、行くか、西。とりあえず、沈んだ大阪でも見て」
「最近通天閣でやっとるっちゅう水上たこ焼きでも食うて帰るか」
「賛成。早くて1週間ってとこか? 一端でかい街、そうだな、浜松か名古屋に寄ろう。こいつ、オーバーホールしたい」
ケンスケはそう言って自分のバイクのエンジンタンクを撫でた。もうかなり長い期間ちゃんとオーバーホールしていないオンボロバイクがここまでちゃんと走ってこれたのは奇跡に近い。サスがへたり砂が噛んで、エンジンも掛かりにくくなっているバイクは、ちゃんとした部品が残っている工場で直してもらう必要がありそうだった。節約しながら少しずつ差していた油も、最後のがなくなってからずいぶんと経つ。
「せやな。ワシのもそろそろしんどそうや。ういろうかうなぎか……まあ、どっちでもええわ」
「あのなあ。グルメ旅行じゃないんだぞ、これ」
「似たようなもんや。オトンの骨はもうちゃんと収めて貰たんやし、後は食うて帰るしかあらへんやないかい」
「お前にとってはな。……ん、とりあえず行くか」ケンスケはカメラケースを鞄に戻して、キーを回した。
「せやせや、言いあっとってもしゃあない」トウジもそれに答えるように、自分のバイクにまたがる。
暗い道に2つ、ライトが灯る。2つの光はゆっくりと動き出し、すぐに闇の中へと消えた。
「これはまた、ちょっと見ない間に凄い風景になってるな」
「商売人の意地の強さには頭が下がんなあ」
2人は「通天閣名物水上たこ焼き」をほお張りながら大阪の街の感想を言い合った。1回1000円で御堂筋から堺筋を周回してくれる遊覧船は、水に沈んだビルの間を北へ向けゆったりと進む。昼下がりの太陽を反射して、海面がきらきらと光った。もう少し西の筋に行けばもう少し波が出てくるが、この辺ではほとんど波も立たない。
「ん、良い絵だな。ほら、向こう見てみろよ」と言ってケンスケは南を指差した。
「もん? もんまや、うごいな」
口にたこ焼きをほお張ったままで喋るトウジの口から紅しょうががこぼれ落ちた。
ケンスケは眉をひそめてため息を吐いた。
「口に物入れたままで喋るなよ……」
「おお、すまんすまん。そうやなぁ、まさに」トウジは腕組みをして、うんうんと一人頷いた。
「水上都市、大阪やな」
トウジの視線の先には、海面から顔を覗かせる通天閣があった。角っぽいデザインの塔の周りには幾つもののぼりが立っていた。もう読み取れる距離ではないが、のぼりには「新世界・水上将棋」とか「水上ビリケン堂」などと書いてある。ケンスケの手元にあるフィルムには、トウジに無理矢理撮らされたそれらののぼりが逃さず収められているはずだ。
「何でも『水上』を付ければいいってもんじゃないぞ、オリジナリティのない」
フィルムが勿体無い、ということを主張するようにケンスケは言った。トウジはケンスケの皿から最後のたこ焼きを奪うと、ニヤニヤしながら言い返した。
「ええやんけ。どうせ、あと少ししたらでけへんくなるんや。これも、お前が言うた『旬の風景』っちゅうもんやろ?」
ケンスケはハッとしてトウジを見た。その視線は、もう進行方向、梅田の沈んだビル街へと向いている。その顔からはさっきのニヤニヤした表情は消え、失った物を思い出す郷愁の表情があった。
「これで終いやろ、たぶん。次に見る時はなーんものうなっとるかも分からん」
ケンスケは半年前に大阪を訪れた時のことを思い出した。ビルがあらかた沈み荒れ果てた街は死んだようで、そこにはかつての大都市の面影はなかった。それが今では活気に溢れた水上都市になっている。だが、それは決して復興ではなく、祭りなのだ。2人が見たのは、失われる大阪を偲び、そこにあった思い出を偲ぶ祭りだった。
そしてそれはトウジにとっても同じだ。彼の生まれた街は、今はもう思い出の中にしかない。
「……ありがとな、トウジ」
「なんや、えらい殊勝やんけケンスケ。まあ、半分は妹への土産やけどな。昔のことを言うても仕方あらへん。こんなええ風景見て、そら、贅沢っちゅう奴や。と、着いたで、乗り換えや」
トウジはすっくと立ち上がり、ケンスケに向けて手を伸ばした。
ケンスケはふっと笑うと、頭を掻きながらトウジの手を握った。
「さすがにきっちり整備してもろたら速いのう」
「だな。あのオッサンかなり怖かったけど」
ケンスケは浜松の修理工を思い出して笑った。朝焼けの中、街に入るギリギリで動かなくなったバイクを押してその工場を訪ねた2人は、バイクを見てもらうなりその修理工に思いっきり怒鳴られたのだった。
「『ちゃんと整備も出来ない奴がバイクに乗るんじゃねえ!』言うてエライ怒っとったな、あのオッサン。まあ、正論やな」
トウジの方はと言えば、埃を溜めた関節部がいい加減動かなくなりそうだった義足を修理して貰った義理があるのか、そんなことを言った。
「お前はいいよな、脚外して修理して貰ってる間、寝てたろ? 俺なんか、終わるまで起きっぱなしだったんだぞ、手伝わされて」
ケンスケはアクセルを緩めながら面白くなさそうに言った。トウジは同じくアクセルを緩めながら、まあまあ、ととりなして笑う。
「そないぶーたれんなや。五体満足な奴とちごて結構辛いんやで、この脚で旅すんのは。許したってや」
「まあな。……っていうか、出発してからずっと、お前のタフさには正直度胆抜かれてんだけど」
言いながら、ケンスケはバイクのエンジンを止めた。川の流れる音が聞こえた。
「ここからは歩こう。人が多い」
夜の鴨川沿いにぽつぽつと火が灯る。鴨川と言っても、かつてのそれよりはずっと広い。しかしそこに集う人は昔と同じだ。等間隔に並ぶ恋人たち。その側にあって、場違いな感じの男が2人、川面に映る月を見ながら歩いていた。
「って言うても、今から泊まれるとこって、なあ」
「駄目なら野宿って手もあるぜ」
「アホぬかせ、何が悲しゅうてそこら中アベックだらけの川べりでキャンプ張らなあかんねん」
トウジは川べりを指差した。ケンスケが目を向けると、そこには両岸に座る見慣れた等間隔の恋人たち――と、その向こうを歩く人影が見えた。
「ほら、いるじゃん、俺たちの他にも」と言われて、トウジもケンスケの視線を追う。
「あ……ホンマや。奇特な奴もおるもんやな」
「行ってみるか?」
「よっしゃ。男2人でアベック思われるのは、それこそ死にそうやからな」
「確かにな、お前、体育会系だし」
「言うなケンスケ」
橋に向けてハンドルを切りながらトウジは言った。ケンスケが横目で確認していた川向こうの人影も、ちょうど同じ橋に向けて曲がろうとしていた。
「お、向こうもこっちに向ってくるぞ」
「どんな人やろうなあ。女やったらええけど」とトウジは少し鼻の下を伸ばした。
「委員長はどうするんだよ? お前、待たしてんじゃないの?」
「それはそれ、これはこれや」
「お盛んなことで」
言い合ううちに、人影はゆっくりと大きくなっていった。どうやら彼らと同じ旅行者らしく、使い込んだ風なジーンズに毛羽立ったシャツを着ているのが見えた。その身長と胸のふくらみがないのをみると、どうやら女性ではないらしい。もとより期待などはしていなかったが、少々残念ではあった。
「なんや、男やんけ」
トウジのほうはと言えば、あからさまに期待が外れたようすで、うげ、と言ってから、それでも軽い調子で数十メートル先にいる男に手を振った。男はしばらく間を置いて、遠慮深く手を振り返した。
「なーんや、どんくさいのう」
「そうか?」
ケンスケは隣を歩くトウジの顔を見た。トウジの苦笑の向こうに川と月が見え、しばらくケンスケはその風景に見とれた。
……撮るか。そう思い、荷台のカメラに思いが至ったところで、トウジが妙な調子で喋りだした。
「せや。なんやアレやな、あんなん見とったら思い……出す……わ」
急に先細った言葉尻に、ケンスケは焦点を風景からその前景であるトウジに戻した。
「何をだよ?」
問う言葉にも、トウジはケンスケの方を見ることはなかった。
トウジは一言、大きい声で言い切った。
「シンジ」
もうずいぶんと聞いていない名前だった。ケンスケは「はあ?」と声を上げてトウジの見ている方、ちょうどさっきの旅行者の方に視線を向け――そのまま固まった。
「シンジ! シンジやんけ!」
そこにはてっきり死んだ物だと思っていた男、碇シンジがいた。
「……トウ……ジ……ケンスケも?」
その声は、多少低くなっていたが、確かにシンジの声だった。
トウジはその声を聞いた途端、何かに操られたようにバイクから手を離し、普通より少しだけゆっくりとした速度でシンジのほうへと駆け寄った。ケンスケは放り出されたバイクを何とか支えながら、目の前の男を凝視していた。
「ほんとうに、ごめん!」
「な、何言うとんねん!」
その後は、まず、シンジが石畳みに頭をこすり付けそうな勢いで謝り、次にトウジが周りのカップルがすくみ上がるくらいの大声を上げることから始まった。喧々諤々とした(もっとも、大声を上げていたのは一方だけだったが)やり取りの後、最後にはトウジとシンジは泣きながら抱き合っていた。
ケンスケは、それこそ死にそうってのはどうしたよ、と苦笑しながらその美しい光景をフィルムに収めた。
ケンスケが押しつぶされそうになっていたバイクを橋に立て掛けて、シンジが泊まっていた川沿いの民宿に入ると、久々に集まった3バカトリオは酒を酌み交わした。話すことはたくさんあった。これまでのこと、今のこと、これからのこと、話の種にならないものはなかった。
「あの後――アスカはネルフに残った。でも僕は、エヴァがなかったら、ただの中学生だったから」
そう言ってシンジは薄く笑った。あれからの孤独のありようが分かる笑い方だった。トウジとケンスケは揃ってその表情に胸をつかれた。昔の、自分を見て欲しいと願っている少年の面影はもうそこにはなかった。今2人の前にいるのは、他人をあきらめてしまった男だった。
「ほうか」と呟き、トウジは気持ちの持って行き場がなくコップに入った酒を一気に飲み干した。弱いくせに意地を張って飲む男だからたちが悪い。ケンスケは相棒の分かりやすい反応に苦笑しながら言った。
「その後は、どうしてたんだ?」
「高校。でも大学は、色々あって、ね」
色々、含みのある言い方だったが、具体的に何があったのかは訊かなかった。知りたがりのガキだった昔の過ちをみすみす繰り返すことはない。
「2人は、何してるの?」と今度はシンジが訊くほうに回った。
「俺は」そう言いかけたケンスケを、トウジが気付かず遮った。「ワシな、オトンの骨収めてもらいに行ってん」
シンジは一瞬ケンスケを見たが、また苦笑を浮かべて目配せした彼の仕草を察して訊いた。
「お父さん? 亡く……なったの?」
「おう、病気でな」
訊くほうは今にも泣きそうな顔をして恐る恐る、しかし答えるほうはあっけらかんとしたもので、傍で聞いているケンスケは、どっちが父親を亡くしたのか分からないな、と思った。
「まだオジンはしぶとう生きてやるんやけどな。そんでも、この状況やろ? 長いこと骨も収めに行かれへんかってんけど、やっとな。やっぱり、オカンと同じとこに寝かしたりたいさかいな」
トウジは肉親の死を乗り越えた者独特の調子で淡々と話した。シンジは小さく笑って、良かったね、と答えた。
「僕も父さんが死んでしまったんだけど、あの人は、骨も残さなかったから」
「ほうかぁ、ご愁傷さんやなあ」即座にトウジが言った。ケンスケも「奇遇だな」と笑う。
怪訝な顔をしたシンジにケンスケは答えた。
「俺もだよ。いわゆるひとつの、天涯孤独、って奴」
その答えに、シンジはずいぶん落ち込んだ様子を見せた。自分のせいでもないのに、変わってないな、とケンスケは不器用な友人に懐かしいため息を吐いた。トウジは場の空気を察して言った。
「お揃いやな! さあさ、飲むで」こちらも負けずに不器用だ。
「お揃いってこたあないだろう、大雑把だよなあトウジは」
ペアルックみたいに簡単に言いやがって、と続けて、ケンスケは笑った。その屈託のない笑いに、シンジもつられて笑った。そして、ちょうど笑い声の途切れるころに、ちりん、と風鈴の音がした。
「お、ええ風情やなぁ」と、笑われたせいかトウジは話題を逸らすように言った。「こんなんは写真に撮らへんのんかい? ケンスケ?」
「写真?」とシンジは訊ねた。
「うん、俺は写真を撮って回ってるんだ。まあ、主に風景の記録写真みたいなもんだけど」とケンスケは答えた。
「そうか、いいね、なんか」
シンジは小さな声で曖昧に言って、風鈴の鳴る窓辺で涼んでいるトウジを見た。浴衣から覗く義足に一瞬表情が歪むが、先ほど大声で言われた「ほんなもん気にすんなや、友達やないかい」という言葉を思い出し、すぐにその表情を打ち消した。ケンスケはその変化に気付かないふりをして話を続けた。
「だろう? それはそうと、お前はなんでこんなとこにいるんだ? 旅行?」
「ああ、うん」と頷くと、シンジは後ろを振り返り、壁際に転がるリュックサックの口を開けた。そして、しばらくその中をごそごそと漁ってから、大きなバインダーを取り出した。
「なんだ? これ」
「論文。母さんと、父さんの」
ケンスケがバインダーを開くと、そこには2人分の論文が収まっていた。碇ユイ、六分儀ゲンドウ。片方は博士論文まであった。
「凄いな、お前の親父さん、先生だったんだ」
「昔、ね。母さんも、博士過程のはないけど、研究者だったんだ。……それくらいしか、肩身になるものがなかったから。大学の人に話をして、コピーさせてもらったんだ」
「ああ、それで、京都か」そこまで聞いてケンスケは納得した。レポートの表紙には「京都大学」とあったからだ。
「でも、せやったら、やることもうのーなってもうたんちゃうん? ひひひ」
先ほどから蚊帳の外にいたトウジが、会話の機を逃さずに言葉を挟んだ。さっきまで窓際に腰掛けていた彼は、今ではシンジのすぐ後ろに回りこんでいる。酒の匂いがきつい息に困り顔を浮かべてシンジは答えた。
「そ、そうだね。一応目的は達成したんだけど、これからどうしよう、と思って」
「ほーんなんかんたんや」といよいよ酒の回ってろれつの回らない口調でトウジは言った。
「家、来たらええねん」
言ったっきり、トウジはシンジの背に寄りかかって寝息を立て始めた。シンジは戸惑ったような目でケンスケを見た。
「いいの……かな?」
「いいんじゃないか? 本人が来いって言ってるんだし」
ケンスケは無責任に答えて残りの酒を飲んだ。それからおもむろに、もたれかかられていかんともしがたいシンジと、へべれけになって酔っ払っているトウジのツーショットをフィルムに収めた。なんだか俺、最近、本来の目的から離れたものばっかり撮ってる気がするな、とケンスケは思った。
「もう! そんな昔のこと言わんでも、ちゃんと分かってますって!」
今日は今日とて、トウジの妹を見るなり地面に額をこすり付けそうなほど謝ろうとしたシンジは、思いっきり彼女に笑い飛ばされた。
「私こそ、ずっと謝ろう思って謝れへんかったんです。ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げられて、所在なさげにシンジは苦笑いを浮かべ――視線を下ろした途端、唇を噛み締めた。その頭には一生消えないだろう縫い傷があった。
「アホ。逆効果やっちゅうねん……」と小声で言って、頭を抱えたトウジは妹の尻をはたいた。
「うわっ何すんねん! このケダモノ!」
妹もトウジの意図を察したのか、大げさに答えた。これにはシンジもまた笑みを浮かべるしかない。
「アホンダラ。……でや、変わったこと、なかったか?」
トウジは何の気なしにそんな質問をしたが、妹はその質問に頬を引きつらせて笑った。どうやら今回は本気らしかった。
「あのなあ、お兄ちゃん?」
その剣幕にトウジが後ずさっても、時既に遅し。
「ヒカリさんに連絡くらいしてあげれへんかったん? めっちゃ心配しててんから、お兄ちゃんのこと。なあ、ちょっと、分かっとうのんか? コラ!」
言い終わるかどうかといううちに妹は手に持ったホウキでトウジの頭をこづいた。さっきの調子はどこへやら、という感じで妹に追い掛け回されているトウジに、蚊帳の外の2人は笑いを噛み殺した。
微笑ましく見えなくもないやり取りを遠目に眺めながら、シンジはケンスケに訊ねた。
「ねえ、ケンスケ」
「どうした、シンジ?」
「なんかさ、妹さんとトウジって、ちょっと喋り方が違わない?」
「ああ、妹のは兵庫の方言。トウジは大阪弁が抜けないんだとさ」
そっか、とぽつっと言って、シンジは目の前で繰り広げられる兄妹ゲンカをもの珍しそうに眺めた。
「さて、んじゃ、そろそろ」
次の日の昼、昼食を終えたケンスケは、何気ない調子でそう切り出した。トウジも、せやな、と相槌を打った。
シンジだけが疑問そうに「もう出発?」と訊いた。
「うん。ここ居心地よくて、気抜くとすぐに居着いちゃいそうになるから」
「せやせや、それに、コイツここおると、ワシの目ぇ盗んでは妹写そうとすんねん。盗撮男の気性は消せんなあ」
「いっしょになって写真売ってた奴がよく言うよ」
「たはは、まあそれはええやんけ」
トウジは大げさに笑った。それとは対照的に、隣にいる妹は渋い表情だ。
「うん。そうだね……楽しかったけど、迷惑だしね」
シンジは笑い顔で言った。その表情は辛うじて「笑顔」の枠内に収まっていたが、もう少しすれば泣き顔に変わってしまうであろうことはすぐ分かった。本人にもそれが分かっているのだろう、シンジは「ごちそうさま」と言って、すぐにいずこかへと消えてしまった。
トウジとケンスケは顔を見合わせた。
トウジは茶を啜ってから「あいつも分かりやすいやっちゃで」とこぼした。事情があまり分かっていないはずの彼の妹でさえ心配そうな表情を浮かべているのだから、その分かりやすさはかなりのものだったようだ。もっとも、考えていることの分かりやすさではトウジも引けをとらない。
だがケンスケは、お前が言うなよ、とは口に出さず、ただカメラを持って立ち上がった。
「どこ行くねん」
「何って、準備だよ、準備。まあ、俺のは大体終わって……」
「それ持って、か?」ケンスケの言葉をトウジが遮る。
「めざといな」
「分かりやすいんは」トウジは茶を飲み干した。そしてゆっくりと立ち上がり、ぼりぼりと腿を掻きながらシンジの荷物がある洋間へと歩き出した。
「お前も変わらんぞ、ケンスケ」
ケンスケは笑ってその背中を見送り、縁側へと向った。
縁側には予想通り、シンジがぼうっと佇んでいた。ケンスケはそっとカメラを構え、シャッターを切った。
シャッターの音を聞いてケンスケの存在に気付いたシンジは、目を丸くして言った。
「どうして?」
「いや、何か撮りたくなって」
「風景専門じゃなかったの?」
「盗撮魔の気性は消せないみたいだな」
ケンスケがおどけて言うと、シンジも笑った。ケンスケはシンジの隣に腰を下ろした。シンジは少しだけ驚いたようすを見せたが、ケンスケが黙っているつもりのが分かると、そのままにさせておいた。
シンジは庭に植わっている向日葵を眺めていた。向日葵はちょうど南中した太陽のほうを向いていて、こちらからはあまりよく見えなかった。ケンスケのいる位置からはもっと見づらく、黄色い花びらだけが見えた。
ずいぶんと長いことそうしていた。
ケンスケは努めて何気ない調子で、シンジに言った。
「どうしたんだよ、シンジ」
不意に話しかけられたシンジは、けれども驚くこともなく、用意していたように言葉を返した。
「どうもしないよ。ただちょっと、悲しくなっただけ」
その口調は普段、と言ってもこの数日の彼の口調のことだが、それよりずっとはっきりとした言い方だった。これが今の彼なのだろう、とケンスケは思った。これが、数年間の孤独が作った碇シンジの姿だ。今は昔の旧友に囲まれているから昔の風を装っているし、それが心地よくもなっているが、それに遠くない内に終わりがくるであろうことはシンジにも分かっているのだ。
「まあな。でも、別にいいだろう、また会いに来れば」
ケンスケはそう答えてみたが、このままにしておけば、シンジは恐らくは2度とここを訪れるはずがないことは、目を見れば分かった。シンジは虚ろな目で非常に遠くを見ていた。そこに行けばもはや帰ってくることのできない深遠を見るような目だった。
ケンスケはついに決心した。ケンスケはとんとん、とシンジの肩を叩き、自分のほうに視線を向けたシンジに言った。
「どうだ、シンジ……俺と、来ないか」
「え?……でも?」
シンジは心底驚いたという表情でケンスケを見つめた。そこまで奇妙なことを言ったわけでもないのに、シンジの表情は、ケンスケの言うことが彼の予想の範囲を遙かに越えていたことをケンスケに教えていた。
自分が誰かに誘われるなんて夢にも思ってない、こいつ、こういう奴だよな。そう思って、ケンスケは不器用な友人に笑いかけた。
シンジがまごついている間に、後ろからさらに声が掛かった。
「せやせや、行っとき、センセ」
シンジはその声に振り向き、声の主であるトウジを見ると、ますます混迷を深めた。
「で、でも、トウジは?」
それがシンジの一番の疑問だった。彼はてっきり、また2人で旅に出るものだと思っていたのだ。
「ワシはもう止めや。妹も居るし、ヒカリもおる。それに、脚もちょっとしんどいしな」
トウジはコンコン、と義足を叩いた。トウジが義足になった原因を思い出して、シンジの表情が曇る。トウジは困ったような顔をした。
「そないな顔すんなや。ちゃうねん。そろそろ潮時ちゃうかな、と思とってん。言うたやろ? ワシが出かけとったんは、オトンの骨を収めに行くためや。楽しかったけど、そろそろ終いや」
「そゆこと。で、暇なら俺と一緒にいかないか?」
シンジはトウジとケンスケの顔を交互に見て、おずおずと答えた。
「……いいの?」
さっきのはっきりとしたものとはまったく違う口調に、ケンスケはぶっと吹き出した。笑いながら辛うじて一言。
「旅は道連れ」その後は、トウジが続けた。
「世は情け、っちゅうてな」
「妹に悪い虫つかないか心配だもんな」
ケンスケはケケケと笑ってトウジを冷やかしながらシンジに喋りかけた。
「やかましわいドアホ」そう答えるトウジも、しかしケンスケと同じように笑っていた。
ひとしきり笑った後、2人はシンジを見た。
「……で? どうするんだ? シンジ?」
「男やったらバシッと言うたれや、シンジ!」
シンジの答えを、彼の2人の親友はゆっくりと待った。
「ほんだら、気いつけてな」
「ああ」
「うん、ありがとう」
シンジがケンスケの誘いを受けてしばらく後日、荷物の積み込みも終わった2人は出発することになった。
「だいぶサマになってるやんか、センセ」
トウジは腕組みをしてニヤニヤしながら、目の前の元・自分のバイクと、それを押すシンジを見た。旅に出るシンジに「よかったら貰ったってや」と、半ば無理やり贈ったものだ。シンジがそれを承諾してからの数日間は、そのほとんどがトウジの脚に合わせられていたバイクの調整と、シンジ自身の練習に費やされた。
「に、してもさ。なんで夕方スタートなんだよ? 朝には出発できたのに」とケンスケは愚痴った。
「いいじゃないか、お陰でトウジの特製カレーも食べられたしね」とシンジが答えた。
「もう! 今から一緒に旅するのにケンカしてどうするんですか?」
「ええねんええねん。男はケンカしてナンボじゃ」
トウジはそう言って、ガハハ、と無責任に笑った。妹がそれに噛み付く。
「もう、まーた適当なこと言うて……ええ加減にせえへんかったらシバくで?」
「おー、怖」
トウジは軽い口調で答えて、ケンスケを見た。ケンスケはバイクの後ろで荷を漁っていた。と思うと、あった、という小さな声と共に、ケンスケは皆のほうを振り返った。
その手には、やはりカメラがあった。小脇に抱えた三脚を少し離れたところに立てる。
「一枚くらい撮っとかないとな。また、どこかで現像できたら送る。ほら、みんなそっち立って」
促された3人は、縁側に集まった。ファインダーを熱心に見ていたケンスケも、リモコンを持って戻った。
「よし、いいか? 3、2、1、はい、チーズ!」
カシャッ。トウジが古臭い掛け声に突っ込みを入れる前にケンスケはシャッターを切った。きっと、写真には変な顔で写っているに違いない、とケンスケは思った。送ってきた写真を見て、この兄妹が笑えるといい。
「よし、それじゃあ、これでほんとうに出発だ。忘れ物とかないか! シンジ?」
カメラをしまい込んだケンスケは、既にバイクにまたがっていたシンジに訊いた。シンジはバイクの排気音に負けないように大声で「ないよ!」と答えた。
「それじゃ、また来るよ」とケンスケは言った。
「おう、いつでも来ぃな」とトウジが答えた。
「色々ありがとう」とシンジは言った。
「はい。また、来てくださいね」とトウジの妹が答えた。
2人はヘルメットのフェイスガードを下ろし、アクセルを吹かした。そしてゆっくりと、トウジたちの視界の中で2人の乗るバイクは小さくなっていった。
そして――
「ねえ、マジで行くの? ここを?」
「ああ、ここを越えたら、向こうに海があるは……うわあああ!」
最後まで言い終えられずにケンスケはカメラを抱えて砂山から滑り落ちた。シンジが見下ろすと、ケンスケは砂に足を取られ動けなくなっていた。
シンジはため息を吐いて、アリジゴクの罠に掛かったみたいなケンスケに言った。
「だから言ったのに……」
「黄昏れてないで早く助けてくれよぉ! あぁっ、カメラが落ち、あぁぁぁ!」
やれやれといった感じでもう一度ため息を吐きつつも、シンジは笑っていた。
シンジは車体に貼り付けてある写真を見た。その中には、笑っている3人の男女と、変な顔をしている1人の男が映っていた。
「放っておいてもいいんだけどね?」シンジは人知れずそう言うと、ぺろっと下を出し、その後でケンスケに答えた。
「もう! いいけど、ここは迂回していくからね! 分かった!?」
シンジはバイクを滑り落ちないように遠くに停めて、ゆっくりと砂山のほうを仰ぎ見た。
砂山の向こうには広い広い海があるはずだ。
「これは……先は長そうだね」
砂山を登りきったシンジはゆっくりとその淵に足を掛け、目の前に広がるどこまでも広い世界を見下ろした。