- The rest stories of "Project Eva" #13 -

"知らない誰かのために"

1

ヒカリのことでコダマから連絡があった。

彼女から最後に連絡が来たのはもうかなり前のことで、彼女はその時よりもずっと大人びた声になっているように思えた。

「叔父さん、ヒカリはすごく混乱しているの」

「どうして?」

「どうして、って。私たちはあの町に住んでて、それだけでも辛いのに、あの町に最後まで住んで事故に巻き込まれた人は、あの子の友だちなのよ」

彼女は彼が知らないことを周知の事実のように話した。

「友だち?」

洞木がそう聞き返すと、電話口の向こうにいるコダマが一瞬言いよどんだ。洞木はその顔を思い浮かべてみたが、よく思い出せなかった。それに、恐らく彼が思い浮かべた顔と、実際の彼女の顔は全然違うはずだ。確かに兄と相当年が離れているぶん、洞木とコダマとはそれほど年が離れていない。とはいえ、前に会ったときの彼女はれっきとした女の子だし、数年会わなければ女の子は見違えるほど変わる。

コダマは小さく、ふうっ、と息を吐くと話を再会した。

「そう。テレビ見てる?」

「それなりには」

「被害者の中に子供が何人かいるでしょう? ヒカリと同じ年の」

洞木はそう訊かれて慌ててテレビをつけた。じわっと像を結んだテレビの画面には、ここ数日流れっぱなしの第3新東京市跡の映像が流れていた。

ぽっかりと黒い穴になったかつての大都市。短時間に二回の大規模事故、とは運が悪い。だが、ほとんどの住人が先の事故で疎開していたのは幸いだった。遷都を控えていた大都市が消滅したにしては、死傷者や行方不明者はそれほど多くはなかった。

映像に被せて、死傷者や行方不明者の名前と年齢を示す字幕スーパーが流れる。葛城ミサト(30)、赤木リツコ(31)、など成年の不明者の表示の後に、碇シンジ(15)、綾波レイ(14)、惣流・アスカ・ラングレー(14)と、未成年の不明者を示す表示が三人分連続して出た。その三人以外には未成年者はいなかった。

洞木は電話の前で待たせっぱなしになっているコダマに答えた。

「ああ。碇シンジ、綾波レイ、惣流アスカラングレー」

「そう。その子たちね、みんなヒカリのクラスメイトだったのよ」

「……そりゃあ……気の毒に」

洞木はやっと事態の深刻さを理解した。もう随分会っていないが、確かヒカリはあの三姉妹の中でもずば抜けて優しかった娘だ。そんな子が一気に三人もクラスメイトを亡くせば、どうなるかはおのずと知れる。

「気の毒、なんて言う生易しいレベルの話じゃないわ」

しかし精一杯の洞木の言葉を、あっさりとコダマは斬り捨てた。

「どういうこと?」

「ただのクラスメイトじゃないのよ」

「恋人?」

「そこまでじゃなかったのが救いね。でも、同じようなものか。あの、惣流、って子がね、ヒカリの親友だったのよ。お泊りパーティーするくらいの」

お泊りパーティー、という言葉が示す親密さのニュアンスを洞木は上手くつかめなかった。彼には姉や妹がいなかったからだ。

「お泊りパーティー?」

「細かいことはいいわ。とにかく、ヒカリは今、物凄く傷ついてるの。放っておけないわ」

「それで、俺に何をしろって?」

ついに洞木は確信に触れた。そうだ。確かにヒカリが傷ついているのは叔父としてとても嘆かわしいことだ。なんなら一緒に泣いてもいい。

しかし、電話口の向こう側は長野で、こちら側は室蘭だということは厳然たる事実なのだ。向こうとこちらはとても離れている。およそ日本列島の半分。この距離は並大抵ではない。遠距離恋愛が到底持たないような距離なのだ。それほどに彼我は遠い。

そんなことを考えて洞木は電話口から返ってくる言葉を待った。そして返ってきたコダマの言葉は、洞木のみみっちい考えをさっくり打ち消すナイス・アイデアだった。

「ヒカリを少しの間、そちらであずかって欲しいの」

洞木は聞き間違いかと思ったが、どうやらそうではないようだった。

「俺は駅前のコインロッカーか?」

コダマは少しの間、考えるように間を置いた後、言い聞かせるようなゆっくりとした調子で答えた。

「ツバサ叔父さん」彼の名前を呼び、少し間を空けて言葉を続ける。「叔父さんしか頼れそうな人がいないの。私たちは疎開してここに来ているし、家にいたらどうしてもヒカリは家事や何かに精を出しちゃう。駅前のコインロッカーで済むんだったら電話なんてかけないわよ」

「ふむ」と洞木ツバサは唸った。手厳しい。

「だから、どうしてもあの子には、一度この環境から抜け出すことが必要なの。ねえ、もうあの子5日も何にも食べてないのよ。こっちに疎開してきてから、ただでさえ食が細かったっていうのに。叔父さん、自分の可愛い姪っ子を骨と皮だけにしたいの?」

「わかった、わかったよ」

洞木は降参した。

「わかった。ヒカリちゃんのことは引き受ける。ただし、俺も自分の仕事があるし、それほど構ったりできないよ」

「大丈夫、叔父さん、いい人だから」

コダマはそう言って軽く笑った。軽口に苦言を呈そうかとした洞木は、その力の入らない笑い声を聞いて喉まで出かかった言葉を止めた。そして代わりにこう言った。

「コダマ、大丈夫?」

「え? ああ、私の方はどうってことない。だから、ヒカリ、お願いね」

相手が自分の見えないところにいるにも拘らず、洞木は大きくうなづいた

「分かった。……で? 何時来るの?」

洞木が訊いた。

その瞬間、呼び鈴が鳴った。

まさか、と洞木が息を飲むのと、コダマのくすくすという笑い声が聞こえたのはほぼ同時だった。

「着いたみたいね、それじゃ」

え? そう思って受話器を耳に当ててみると、聞こえたのはツーツーという無機質な電子音だけだった。

洞木はやられたと思いながら、寒いドア外で待っているだろう姪っ子を迎えに玄関へ奔った。

2

ドアの前に立っていたヒカリは、彼が知っているのよりは随分と大人びていた。しかし、憂いを帯びているように見えるのは大人になったからというだけでもないのだろう。コダマの言葉の正しさに思わず唸ってしまう。確かにあと数週間放っておけば、可愛い姪っ子は骨と皮だけになってしまいそうに見えた。

「久しぶり、ヒカリちゃん。ごめんね、分かってたら迎えに行けたんだけど」と洞木は久々に会う姪に話しかけた。

「あ、はい……」

む、と洞木は再び唸った。最後に会った時とは印象が違ったからだ。最後に会ったときには、妹をかいがいしく世話し、姉を叱りつけるような溌剌とした女の子だという印象を受けた。それが今ではすっかり借りてきた猫のように大人しくなっていた。

「常夏の日本でもさすがにちょっと寒いでしょ、こっちは。さ、早く入りな」

元気がないのは本当は寒いせいではないだろうことは分かっていたが、洞木はあえてそう言って、ヒカリを迎え入れた。


洞木は台所に立った。キッチンと呼べなくもないが、味噌やら何やらという日本的な物が散乱する狭いそこは台所と呼んだほうがしっくりとくる。洞木は上の戸棚から紅茶のパックを出し、やかんを火にかけた。

「コダマから聞いたよ? 元気ないらしいじゃない、最近」

触れずにいてもどうにもならないので、洞木はずけずけと言った。洞木よりはずっと若くて幼いとは言え、相手は思春期を迎えた中学生だ。自分がどうして叔父のところに寄こされたのかは分かっているのだろう。傷つけぬようにと腫れ物を触るように扱えば、その対応がそのまま彼女を傷つけることになる。

洞木の質問がヒカリの頭に染みとおるまでには少しの時間が掛かった。数秒ぽかんとしていたヒカリは質問を理解し、どうしよう、という言葉が書いてあるような顔をした。しかしそれも一瞬のことで、すぐに表情を繕って答えを返した。

「お姉ちゃんから聞いたんですよね? 何か最近調子悪くて、なんか勘違いさせちゃったみたいで、それで。えっと、お邪魔ですよね? すぐに、帰りますから……すいません」

洞木は後半をほとんど聞き流していた。コダマの勘違い――それは嘘だ。そんなことは分かりきっていたが、ヒカリがそう言うのに頭から否定しても、ますますかたくなになるだけだろうことも分かりきっている。

「なに、姉ちゃんってのはそんなもんだよ。俺もまん中だけど、やっぱり下の子は心配になる。ヒカリちゃんもそうでしょ?」

「あ、はい、そうですね」

ヒカリは先ほどよりも余裕が出てきたようだった。三人兄弟のまん中で上と下に挟まれる気持ちは、なってみないと分かるものではない。もっともコダマたちの姉妹は一見するとヒカリが一番上の姉のように見えてしまう面もあるし、セカンド・インパクトのせいで、彼が三人兄弟のまん中だった期間はそれほど長くない。しかし、洞木はきっぱりとそれらを無視した。今は共通点を見つけることを考えるのだ。ヒカリは彼と10歳以上離れている。接点は多ければ多いほどいい。

「でしょ? んじゃ、好意に甘えて、思い切って休んじゃえばいいよ。うん。ここ、休憩するにはいいところだし」

洞木はやかんに入った紅茶を自分のカップに注いだ。あまり風流ではないが仕方がない。

ヒカリは目の前で注がれる紅茶をじっと見つめていた。

「叔父さん、紅茶入れるのお上手ですね」

洞木はカップを並べながら答えた。

「まあね。色々やったから、バイト」

そこで言葉を切ると、洞木はそっと紅茶をヒカリのカップに注いだ。その作業が終わると今度は砂糖を取り出しテーブルに置いた。自分の分にどかどかと砂糖を入れて混ぜる。ヒカリはその量に少し引きつりながら、洞木に続いてカップに砂糖を入れた。

「……おいしい」

というと、ヒカリはほうっ、と大きく息を吐いた。魂が抜けていくような息の吐き方に、洞木は焦って返事を返した。

「そ? ありがとう。……あ、そうそう」

「どうしたんですか?」

「俺ちょうど今日からしばらく休暇だから、その間はここにいなよ」

当然、嘘だ。明日からも洞木は出社しなければならない。それはそうなのだが、しかし、この状態の姪を放って仕事に出るわけにもいくまい。洞木は仕事を欠勤するための言い訳と同僚に渡す礼とを考えながら時計を見た。そろそろ本物の休日は終わる。

「それと、叔父さん、は止めてね。ますます歳くった気分になるから」

ヒカリが明らかに安心したようすで「あ、はい、分かりました、ツバサ……さん」と多少言いにくそうに洞木の名を呼んだ。洞木はその表情を見て決心を固めた。こうなればもうとことん付き合うしかない。――恨むぞ、コダマ。

明日からのことを考えて、洞木は軽いため息をついた。

3

それから数日間、彼らは遊ぶに遊んだ。とはいえ、その間にしたことと言えば、家でぼうっとテレビを見るか、ゲームをするか、店屋物を取るために電話するか、近くの古本屋で大人買いした漫画を読みふけるか、という、およそ健康的な生活とは遠いことだった。コダマが見ていればぶち切れて殴られるかもな、と洞木は思ったが、結局のところ今必要なのはこのようなだらだらした時間稼ぎなのだということについては譲る気はなかった。

時間が問題を解決するなどということはない。どんな問題でも、最終的にはどこかでそれと戦い結論を出さねばならない。しかし、そのためにはそれなりの体力が必要だ。ヒカリの体力は不健康な精神を無理やり健康な生活の型枠にはめ込むことに費やされているように洞木には思えた。無理をすれば、どこかに「軋み」が現れる。ヒカリがこんなに痩せてしまったのはそのせいだろう、と洞木は予想していた。要するに、「軋み」が身体に出ているのだ。

それは間違っている、と洞木は思った。こんなに痩せるまで何も食べられないくせに、健康的な生活ができるなどと装っていてはいけないのだ。そんなところで嘘をつき、踏ん張っても意味がない。だから、逃げなければならないのだ。逃げて、身体と心に力を溜めなければならない。それが洞木の導いたやり方だった。

家にいる間中、ヒカリはほとんど喋らなかった。最初のうちは飯時になるとそわそわして「ご飯作りましょうか?」などと訊いたものだったが、洞木のほうにヒカリに家事をさせる気がまったくないのが判ると、食事の用意を話題にすることはなくなった。そして食事のことを言わなくなると、機械のスイッチが入って新しい回路に電気が流れ始めたように洞木はだらけた。持ってきた鞄に入っていた外行きの服はいつまで経っても鞄に収まったままで、ヒカリは風呂には辛うじて入るものの、下着を除いては着替えさえろくにしなかった。洞木が自分の汚れ物を扱うことにもヒカリは無頓着だったので、服をコイン・ランドリーに持って行くのは洞木の役目だったが、その中にブラジャーが含まれていたことはなかった。きっと着ていないのだろうと洞木は思った。姪っ子がブラジャーを着けていないくらいで欲情する歳でもなかったが、ヒカリの変わりようにはそれを予想していた洞木も少し驚いてしまった。

洞木がそうして外に出ている間にも、ヒカリはずっと洞木のジャージを着てゲームに熱中し、漫画に熱中した。それはだらけ方からのギャップを含めてある種病的だったが、洞木は帰りに目薬を買ってくるくらいのもので特に注意はしなかった。そしてヒカリも、自分の隣で本を読むばかりでコイン・ランドリーとコンビニに行く以外は一向に外に出ようとしない洞木に何も言わなかった。まるで共犯者のように、二人は意味もなくにたにた笑いながらゲームで対戦し、単行本を回し読みした。格闘ゲームは洞木の圧勝、パズルゲームはヒカリの圧勝だった。洞木は初めて「ガラスの靴」を最新刊まで読みきり、ヒカリは初めて「沈黙の艦隊」を全巻読みきった。

そして、虎の子の二万を使い切って買った漫画の最後の一冊を読み終えた時、ヒカリは洞木に言った。

「ねえ、ツバサさん」

最後に名前を呼ばれたのはずいぶん前だったので、洞木は数回目をしばたたいてから答えを返した。

「どうしたの?」

ヒカリはすっかり埃っぽくて汗臭い部屋の中で大きく息を吸い込み、腕を伸ばし胸を反らせた。腕を捲り上げた、だぼだぼの洞木のトレーナーに、年相応よりやや大きめの胸の形がうっすら現れた。洞木は何も言わずヒカリの言葉を待った。

数秒腕を伸ばしたまま止まったヒカリは、ふうっと強く息を吐き出して洞木を見た。

「どっか連れてって」

その言葉には、この部屋に来たときにあった気負いはなかった。洞木は笑って窓を開けた。少し肌寒いが良く澄んだ風が頬に当たった。あ、思いついた、と小さい声で洞木は呟き、ぶるぶるっと震えたヒカリに言った。

「じゃあ、風に当たりに行こうか」

「風? ……うん」

「よし、決まり。やっと外行きが見れるね」と洞木は軽口を叩いた。

ヒカリは少し照れたように赤くなって言い返した。

「もう! 取っておいたんですっ」

洞木はその声を聞いて、昔の彼女のことを思い出していた。しかしすぐに、この子は姪っ子だぞ、と心中で突っ込みを入れると、窓を閉めながら空模様を確認した。運がいいな、と洞木は思った。視線の先にあったのは雲ひとつない青空だった。

4

洞木は車を停めてエンジンを切った。洞木がキーを抜き車外に降りたときには、もうヒカリは外に出て特徴的な形の公衆電話を物珍しげに眺めていた。

「地球儀?」とヒカリは訊ねた。目の前にある公衆電話は丸い枠で覆われ、その上に大陸のような図柄が描かれている。

しかし、その形は彼女が知る世界地図とは異なっていた。

「そう。昔のね。――よし、行こう」

洞木は言って、ヒカリを先へと促した。強い風にヒカリの髪が揺れる。ヒカリはゆっくりとした足取りで坂を上り始めた。

「わあ……」

断崖を望む遊歩道を過ぎ、少し錆びた手すりを掴んで長い階段を上りきると、ヒカリの目の前いっぱいに水平線が広がった。

北海道の南側、昔は景勝地として有名だったその岬も、海面がぐっと上がってしまった今は以前ほどの人気は保てていない。それは昔のままの地球儀と同じように、あまり手入れされず捨て置かれた展望台と少し傾いてペンキが剥げてしまったままの灯台が雄弁に語っている。

それでも、その風景は十分壮大だった。

「凄い……」

その一言を最後に、ヒカリはしばらく何も言わなかった。洞木は黙ってヒカリと並び、久しぶりに見る水平線を堪能した。

そのままたっぷり数時間を過ごし、ちょうど視線の向こうを太陽が通り過ぎて後、ヒカリはゆっくりと語り始めた。

「クラスメイトががいなくなったんです」と、感情から切り離された事実を述べるようにヒカリは言った。アナウンサーのように抑揚の抑えられた敬語だった。

「知ってる」とだけ洞木は答えた。きっとコダマが言った、惣流という女の子の話をするのだろうと洞木は思った。それでいい。話してしまってケリをつければ、きっとこの子は家に戻れるだろう。

しかし、洞木はこの時、ヒカリという女の子を少しあなどっていた。

彼がそれに気付いたのは、ヒカリが少し間をおいて、こう言葉を続けてからだった。

「三人」

予想を外れた言葉に少し困惑して、洞木はヒカリを見た。ヒカリは笑顔を浮かべていたが、それは心からのものではなさそうで、駄目な人間をあざ笑っているような悪意の見える表情だった。一瞬それが自分に向けられているように思えて洞木は眉をしかめたが、すぐにその視線は水平線からぐるり回って彼女自身に帰ってきているのだと気付いた。

「そう、三人なんだ」

ヒカリはもう一度その言葉を繰り返した。その言葉に非常に重要なものが隠されているように慎重に言葉を発し、言い終えると真顔になって遠くにくっきりと引かれている水平線を見つめた。

どう言葉をかければいいのか洞木には分からなかった。そして馬鹿みたいにヒカリの顔を見つめ、その目や、固く結んだ口元が思っていたよりずっと大人びていることに今さらながら気付いた。大人になったからでもないのだろう、などとあっさりと分析してしまっていたが、確かに彼女の変化には、大人になったための変化が含まれていた。

「でも、一人分しか泣けなかった。それも、ずっと後になって、やっと」

「惣流さん?」

「そう。――三人だったのに」

ヒカリは言葉少なだったが、その述べるところははっきり伝わっていた。やっかいなことになった、と洞木は思った。問題は洞木が思っていたのよりずっと複雑なことで悩んでいたのだ。それは単に、友人と死に別れて悲しい、という次元ではなかった。その視線はすでに、死んだ者たちへではなく残されて生きている自分へ向いている。

死んだ者は三人いる。なのになぜ自分はその内の一人のためだけにしか泣けないのか。それがヒカリの疑問だった。本当ならば通り過ぎてしまうし、深く考えずにいるべき疑問に彼女は捉まってしまっていた。それを考えてはいけないという疑問がある。それを考えてしまったが最後、自分の罪深さに捉えられてしまうような、美しい答えの出ない残酷な問いがこの世界には存在している。

「関係ない人じゃなかったのに。一緒にご飯を食べたこともあるのに。碇君だって綾波さんだって、毎日会ってたのに……でも、アスカは……」

小さい声で呪うように言って、ヒカリは視線を落とした。しかし、風になびく髪の間から垣間見えるその瞳は地面を睨んだままだ。

関係ない人じゃなかったのに、という言葉で、ますます洞木は気が重くなった。全部分かっていて答えを受け入れられない問いほど辛いものはないからだ。

ヒカリが呪っているのは、自分にとって人の命の重みには差があるという事実だった。ごく近い人に対しても、はっきりと差があるという事実にヒカリは気付いた。この人には泣ける。この人には泣けない。そうやって残酷に世界を分けている。

しかも、そのことへの憤りがほんとうは高慢だということにも、同時にヒカリは気付いている。

関係ない誰かのために泣くことなどほんとうはできない。知らない誰かのために涙は流せない。人が涙を流すのは、常に想像の範囲にある、知っている誰かに対してだ。そして、知らない誰かのために知っている誰かと同じように涙を流すのは、どちらにとっても失礼な話なのだ。何にも知らないくせに分かったふりをして泣くことは、知らない誰かをあなどることになり、知っている誰かへの涙をその時流す涙と同じ空々しい偽物に変える。

だから、関係ない人、という言葉を発したときに、そうやって世界を分けなければならないことにもうヒカリは気付いているのだ。しかし、その境界がはっきりとしたものではなく、少しずつ曇り空に煙ってきている水平線のようにおぼろげで、自分のごく近い人間にまで彼らを失ったときの悲しみがグラデーションのように等級づけられているし、それを外れて無理やりに泣くのは嘘つきなのだということはどうしても認められない。

そうやって差異をつけることが、誰かを好きになるということだということを認められるほど、ヒカリは大人ではない。

だからヒカリは怒っている。ヒカリが足元を見る視線にあるのは怒りだと洞木は確信していた。ヒカリはより愛していなかった誰かに対してより愛していた誰かと同じように泣けなかった自分に怒り、同時にそんな失礼なことを考えた自分に怒っているのだ。

そして最終的には、彼らを同じように愛せなかった自分や、自分と関係なく人を殺すこのなすすべのない世界に怒っているのだ。

「ねえ、ツバサさん」

洞木の言葉を待たずにヒカリは話を続けた。その姿を見て、やはりもう半ば答えは出ているのだと分かった。

「ん?」

「向こうには、知り合い、いる?」

ヒカリは水平線の向こうを指差した。すでに煙って見えなくなってしまっていたが、指差すほう、水平線の向こうには渡島半島があり、そのまた向こうには本州があるはずだ。

少し考えて、洞木は答えた。

「いるよ。昔の彼女がいる。もう別れちゃったけどね」

「今でもその人のために泣けると思う?」

「どうかな。……いや、泣けないと思う。もう、ずいぶん昔の話だから」

「私のためには?」

「……泣けると思う。もしこの岬からヒカリが落ちたりなんかしたら、きっと俺は泣くと思う」

間髪いれずに続く質問に、手すりの向こうを覗き込んで洞木は答えた。この断崖から落ちれば、きっとこの姪っ子は死ぬだろう。そうすれば、自分は泣くだろう、と洞木は思った。数週間前だったら? きっと泣かなかっただろう。そういうものだ。

「それは不公平だと、思う?」ヒカリは確かめるように訊いた。

「思わない」と今度は洞木が即答した。

「どうして?」

「分かってるだろ?」

「うん、でも……悔しい」

問答の末に、やっと本音が出た。それが証拠に、その言葉を発してから、ゆっくりとヒカリは肩を揺すって泣き始めていた。

少しずつ肩の振るえは大きくなり、しまいには地団太を踏み始めた。そしてどうしようもなく鼻水と涙と涎を流して、ヒカリは固い床に足を打ちつけ続けた。声にならない音で、ううう、と叫び、喉を鳴らしながら強く洞木の服の袖を握り締めた。

洞木は肩を支えて、とんとん、と背中を叩いてやった。


ひとしきり泣いて、ヒカリは落ち着きを取り戻した。彼女はすっきりしたような表情を浮かべて、夕日を受ける雲のせいで淡いオレンジに染まりつつある空を見ていた。

「ヒカリ、落ち着いた?」

「うん」

「そろそろ降りる?」

「もうちょっとここにいる」

「そう」

そう答えると、洞木はヒカリに並んで、暗くなりつつある景色を見た。大丈夫、あともう少しなら、ここにいられる。

しかし、それからほどなくして、ヒカリは「もう、いい」と呟いた。ヒカリが何を諦めてそう言ったかは訊き返さなかった。

「うん。じゃあ、降りようか」

「はい。……あの、色々、ありがとうございました」

突然の敬語に距離が遠ざかってしまったような気がして、洞木は少し焦った。しかしヒカリは別に気負った風ではなく、自然に敬語を使っていた。

「なんだよ、急に改まって」

「色々、迷惑かけちゃったから」

「いいって。会社も休みだったんだし……」

「嘘つきぃ」

にんまりと笑ってヒカリは洞木に止めを刺した。その予想外の突っ込みに洞木は上ずった声で問いかけようとした。しかし、その前にヒカリは二の句を続けていた。

「知ってたんです。嘘ついてるの。でも、甘えちゃったんです。ごめんなさい」

悪びれずにヒカリは言った。しまった、と小さい声で洞木は漏らしたが、怒りは沸いてこなかった。利用されたというわけだ、と洞木は頭をかいた。しかし、それでいい。それくらい強かでないと、この残酷なグラデーションの中で生きていくには辛い。

「やられたなぁ。ヒカリちゃん役者」と洞木は冗談めかしに言った。ヒカリに対する呼び方が彼女に合わせて、ヒカリちゃん、に戻ってきていた。

「気付かなかったでしょ?」

「うん。全然」

「……でも、やっぱり子供なんですよね。難しい年頃なんです」と、他人事のようにヒカリは言った。「……さて、戻ろうかな」

綺麗な幕引きだった。しかし、洞木はその出来合いの綺麗すぎる幕引きをよしとしない。さっきの告白を無視して、彼女をまた彼女に無理を強いる日常の枠の中に突っ返すわけにはいかないのだ。

この役者め、と心中で呟きながら、洞木はヒカリに言った。

「駄目駄目。俺まだ四日残ってるんだもん、有給。今帰られたら、俺またあの部屋で独りじゃん。それはなまら酷くないか? ヒカリ。こうなったら札幌でも阿寒湖でも付き合うぞ、何でもどんと来い」

北海道の出身でもないのに無理やり訛らせた言葉は、ヒカリにちゃんと届いた。

「そういってくれると思った! ねえ、ツバサさん。ジンギスカン食べたい!」

「よし、決まり。今から食いに行こう」

軽くステップを踏みながらヒカリは洞木の腕に腕を絡めた。

もう大丈夫だ、と洞木は思った。あと数日意地汚く遊びまくれば、今度こそこの子はしっかりと日常に戻って行くことができるだろう。だが今はまだもう少し、この子は自分が守ってやらなければならない。この子はもう、彼と関係ないただの姪っ子ではないのだ。

洞木はただの姪っ子ではない女の子の向こうを眺めた。光の灯った灯台は、ゆっくりと黒い海を照らし始めていた。

- The rest stories of "Project Eva" #13 - "The gradation from oneself to the world's end" end.
first update: 20050317
last update: 20060103

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作者:north
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