- The rest stories of "Project Eva" #14 -

"やわらかく降る雨"

 

どうしてかアイツは泳げもしない癖に海に行こうって毎年言う。

きっと、夏と言えば海、そうやって勧めれば外さないとかバカなことを考えているに違いない。マンネリの極み、単細胞の極致。

でも、今年に限っては天邪鬼なあたしも逆らったりしなかった。


きっとこれが最後だってわかっていたから。

1

おでこを窓ガラスにくっつけるとちょっとだけ気持ちいい。

目を開けると、嵌め殺しのガラスの向こうに小さく砂浜が見えた。ぼつぼつとした山やら木やらはとうに消えて、だだっ広い荒地と空と海が視界を支配している。

こうやって外の風景を見てると、いつもこの邪魔な窓を叩き割ってやりたくなるけど、こんな歳にもなってそんなことをしてたら大バカだ。それに、そんなことをしても手が痛いだけなのはちゃーんとわかってる。

考えてみるだけだ。

じっと見過ぎたもんだから、煌々とした日差しに目が痛んだ。

視線を車内に戻したら、向かいの席に座ってるアイツの顔がちらっと視界に入る。

お世辞も照れも装いも抜きでこっちには無関心、本気で自分の世界に引きこもり中。晴れ雨曇り関係ナシ、どこでもOKっぽくて嫌になる。どうやったらこうやって外まで引きこもり空間を背負ってくることができるんだろう。

別にその原理を知りたいとか思わないけど。

一瞬、何かしてやろうかという気になる。詰まんないバカの耳に収まってる詰まんない雑音を漏らしてる詰まんないイヤホンをもぎ取って、耳元で思いっきり叫んだりすれば、多少の暇つぶしにはなるかも。

でもそれ、昔にやったことがある。既出だ。

あの時も叩かれもどやされもしなかったけど、そのまま口をきいてくんなくなって、結局あたしが半泣きになって帰るって喚いてやったんだ。

で、アイツはあたしがヘソを曲げたって鈍感に察知したとたん、自分が悪くもないくせに猫なで声で謝ったりなんかするから、思わず手に持ってたちょっと可愛かったポーチでぶん殴ってやったんだった。

目尻が切れて血が出て、ちょっとスッキリしたからこれでおあいこ、ってホントにバカだ。

もうそんなことする歳じゃない。

だからあたしは、目を閉じて詰まんないウォークマンに入った詰まんない音楽に詰まんない顔して没頭している正真正銘の大バカを放って、まだ視界の端に入るか入らないかの目的地のほうを眺めた。

空も海も青い。間違っても赤かったりしない。荒地はごちゃごちゃした色が混ざって汚い。

でももうちょっと走ったら、汚い色が少なくなって、もうちょっと綺麗な浜が見える。


毎年毎年、飽きずにあたしたちは同じ海に来る。というか、ここ以外にここほど静かな海はないので、人がわらわらいる海なんて死んでも嫌なあたしはどうしてもここを選ぶことになる。

この海岸は穴場だ。うまく時期をみてくれば、中途半端に石と砂が混じった砂浜も、ごつごつした岩場も、船に見捨てられたみたいなテトラポットも、最初に来たときからずっと廃墟のままの元・海の家も、みんなあたしたちだけのものになる。

そして、さすがに4年目にもなると、絶好の時期を外したりしない。

今日ならきっと、誰もいない海を二人占めできる。


ふと何かを思い出せそうな気がした。古いことだ。やたら昔みたいな気がするあの頃のことをこんなとこで不意に思い出すのは、記憶が景色に結びついてるせい。

そういえば、最初に言い出したのはあたしだった。

海に連れてけ、夏なんだから、仮にも恋人なら海に行くものだ、って。恋人を始めてからこの4年の間にどれだけしたかわからない命令の、多分最初のひとつ。

それで、それから欠かさず毎年来てる。

何だ、マンネリも単細胞も、言いだしっぺはあたしじゃないか。あはは、若かったんだな、あたしも。

そんなバカな思い付きからなのに、それでも、花火大会もなければイベントもないこのうらぶれた海岸に、まるで儀式みたいに毎年欠かさず通っている。律儀に。

それに、ここほど、って言ったって、実際ここ以外の海岸に行ったことなんてただの一度もない。

考えてみれば不思議だ。まあ、最初の海岸が大ヒット過ぎたのだろう。そんなことってある。あたしとコイツも、そういうことなのだろうな、やっぱり。


――ああ、そうか。だから最後も、ここなのかもしれない。

2

無人駅を下りる。ここから海まで20分、あっついけどバスはないから仕方ない。

荷物はいつも通りアイツに全部持たせる。でも、年を追うごとに荷物が少なくなっていったのは、まあなんというか、大人になったってことだろう。

バッグも中身も、数年前からほとんど変わらない。ただあたしたちの会話と同じに無駄が少なくなった分だけ、軽くなっていく。

要るものは、水着、日焼け止め、水着の上に羽織る濡れてもいいシャツ、あと昼食、それくらい。最近増えたのは、やっぱり彼女だから、って無理やり作るようになった昼食くらい。

まあ、どっちにしろアイツに持たせるんだから関係ない。

そしてアイツももう手馴れたもので、改札を出る頃にはちゃんと自分の荷物を背中に負って、あたしに荷物を手渡されるのを待っている。その仕草はどことなく忠犬っぽい。

でも、その目が段々猫みたいに掴みどころがなくなっていってるのを、あたしはちゃんと知ってる。

しかし、それでも、自分で荷物を持つのは嫌だ。これはもう、プライドみたいなもの。

だから微妙に服に合ってない軍物っぽいカーゴバックを差し出された腕に引っ掛けて、あたしはさっさと田舎道を歩き出す。白いシャツの袖から突き出した腕がまたたくましくなってたことは、麦藁帽を深めに被って見ないふりをする。

駅の雨よけの下から出ると、ミュールに隠れてない部分からジリジリ日焼けは始まっていく。あのときみたいな水ぶくれを繰り返したくないから日焼け止めはもう塗ってあるけど、ほとんど白人のあたしにはちょっと足りない。

ゆっくり歩く。焦っても楽しくない。相変わらずアイツは喋らない。

こんなときには例えば回し蹴りを食らわしてもいいんだけど、最近アイツはあたしの後ろ回し蹴りをあっさり避けるからやらない。たまにやってみても、まるで全部心得てるみたいにあっさりスウェイでかわして、ぽん、と掌をあたしの頭に乗せる。

ちょっとくすぐったくてそれ自体は悪くないけど、身長が負けてるのをバカにされたみたいでムカつく。

少し歩調を落とし横に並んで、ちらっとアイツを見る。すると、目が合っても逸らそうともしないで、じっと見つめ返してくる。それが一番うまいやり過ごし方だって知ってる。こっちももう諦めてるので、威圧もしないで見詰め合う。

うわ、恋人同士みたい。って、別に間違ってない。

ん? とか訊いてくるから、暑い、って返す。そうだね、って返ってくる。どうでもいい会話。

そしてそれっきりまた喋らずに、ただ、歩く。

アイツは大きくなった。背の高さも体力も腕力も抜かれた。知力のほうは抜かれる気はさらさらないけど、そのせいで口ばっかりで勝つ嫌な女になってるのはわかってる。でも、これは性格だから仕方ない。んなとこで媚びたって商品も出ない。

こうして肩を並べてみると、高さの違いがよくわかる。あたしも背は低いほうではないけど、ちょうど頭ひとつ分抜かれた。こいつが図体ばっかりバカみたいにデカくなりすぎなんだ。中学のときは豆とは言わないまでもひょろひょろのモヤシだった癖に、高校に入ってから非常識に大きくなった。

ちっとも成長しないあたしを置いてけぼりにするみたいに。

ああ、ダメだ。こんな風に考え始めるとまるでシットする嫌な女そのまんまだ。キャラじゃない。

ごまかすみたいにまた歩く、歩く、歩く。

精一杯早歩きしてるのに、アイツは荷物を抱えたまま平気な顔でついてくる。スピードを上げる。ミュールの踵が折れる? 大丈夫、今日のは折れないくらいの高さのタフな奴。

だから気にせずあたしは走った。

思いっきり走って、砂浜に駆け込む。そしてそのまま海。やっぱりだ。見慣れた海岸には誰もいない。いつも通りの海だ。いつも通りテンションがぴん、とはね上がる。

あるところから足元が急に柔らかく、おぼつかなくなる。シャリシャリと踵が砂を噛む。そして冷ややかな水が足首を包む。すでに焼け始めた肌にちょっと染みるけど、気持ちいい。

顔を上げて沖のほうを見ると、いつも通りに、開けた水平線で海と空が二分割されている。今日は一応快晴だけれど、そんなに晴れ上がってるわけじゃない。空は半端なスカイブルーでそれほどどぎつい青ではなかった。


ひと通り水を蹴ってから、ふと、あたしは不安になって後ろを振り返った。

アイツはついて来ている?

希望的観測を裏切って、視界の中にはアイツはいなかった。

どうしよう。不安になる。そんなわけはないけど、呆れて置いてけぼりにして帰ったんじゃないか?

ぐるり首を回す。いない。海側は当然可能性ゼロ。だから、さっき越えてきた坂の向こうを見て、祈るように待った。

祈る? 我ながら情けない。でも不安なのだ。

いつだって、唐突に全部終わってしまうんじゃないかって思う。あの時のように世界が、地面が音を立てて崩れて、空でも降ってくるんじゃないかと不安になる。たぶん、この感覚はこれからもずっと付き合っていかなきゃいけないのだろう。

運命みたいなもので、あたしに拒否権はない。

たまに、終わりをただ待つのが怖すぎて早く終わって欲しいと思うことさえあるけど、それはそれとして、基本はこうやって何かに祈って不安をやり過ごすしかない。あたしは無力だ。


結局、今回も終わりは来なかった。

ちっとも平坦じゃない田舎道につながる、草がまだらに生える坂の向こうから、短い髪のアイツの頭が現れる。アイツはのろのろと坂の頂に立つと、もうガキのように海に両足突っ込んでるあたしを呆れたように目を細めて見て、おでこに手をかざした。太陽はあたしの背にある。

そしてアイツは軽やかに坂を下り、ほい、とあたしにバッグを差し出した。

あたしは何も言わずに受け取り――ちょっと思いついて、肩から一枚ものになっているスカートを捲ってひょいと脱いでみた。

うわー。やっぱり心動かされず、という感じ。

必死で逸らそうとして、それでも視線を逸らせなかった昔とは大違い。それなりにエロい視線を隠しもせず、あたしのブラジャーとへそとショーツの下のほうに視線を這わせて、しかし赤くもならず前かがみにもならない。

脱がせたそうな素振りさえ見せない。

きっと言えば脱がせてくれるんだろうけど、自分から言えば殴られるってわかってるから言わないし、きっと自分からそんなことを言う気はないのだ。

ただ、風景の中に紛れ込ませるように焦点をずらして、眩しいものを見るようにあたしを見る。

それは美しいものを見たときのコイツの表情だったが、やっぱりドキドキした焦燥感のほうはコイツの中から失われている。

いや、あたしの中から、か。

そりゃ、そうだ。仮にも恋人、コイツの目の前で裸をさらしたことだってある。やらしい恰好をしたことだってある。そういえば去年はケッサクだった。二人して調子に乗って水着も着ないで泳いだ。アイツは水際までで、日焼け慣れしてない股がはれ上がってバカみたいだった。

っていうかそんな感じで、もうコイツの前で裸になることなんかもう日常の域に達していて新鮮味のしの字もない。

綺麗な空でも始終眺めていれば飽きる。こんな風に濁った眼と傷の残る腕や下腹を抱えて、今さら自分の身体を凄く綺麗だなんて言うつもりはないけれど、やっぱりそういうわけでそれなりに美人なあたしはコイツの中で色褪せてしまったんだろう。

あ、ダメだ。ちょっと泣きそうになる。だがしかし、いつも通り、いったんはちゃんと泣く前に踏みとどまる。

これって長所か短所かわからないけど、あの頃からたいていの痛みはこうして一度は踏みとどまれる。それでもダメなら大泣きするけど、その辺は愛嬌。

でも、大泣きはしてもをぶん殴って解消するということをしなくなったあたりから、ちょっとずつ心の収支のバランスがおかしくなってきているような感じがする。

こんなもんなのだろうか、大人になるっていうのは。だとしたらえらい窮屈だ。でも、やっぱり仕方がないっていうことはわかっているのだ。大人だから。まるでトートロジーみたいだけど、って、ちょっと違うけど、窮屈にならなけりゃならないで、成長してない自分に嫌気が刺すだけなのだ。

……んー、ダメだ、ますます泣きそうになってきた。思わず鞄をひったくって、そのまま振り向かずにいつもの元・海の家に走る。足とミュールの間に砂が入る。熱。今日が気合の入った快晴じゃなくてよかった。でもそれも泣きそうなのを抑えるのには足りない。

日陰に駆け込んで振り向いてみる。アイツは追いかけてこない。アイツは泣かせた理由は気付かない癖に泣かせたことにはしっかり気付く。忌々しいことこの上ない。

ぼろぼろの簾の隙間からちらり確認すると、アイツは気にも留めずにいそいそ着替えを始めていた。あたし以上に羞恥心と言うものが欠けてしまっている。日本の学校で運動部に入るとみんなあんな感じになるんだろうか。野蛮だ。


で、結局あたしは泣いて腫れぼったくなりそうな目を隠すためにゴーグルを引っ掛けてアイツの前に顔を出した。

そんなの気付かないふりで、やる気満々だね、って、バカ。さすがに蹴りを食らわせてやる。

めっきり当たりにくくなった蹴りもしゃがんでいたアイツには当たり、アイツは派手にすっ転んだ。いい気味。

――あ、怒ってる。

ほっぺたヒクヒクさせて、ここ数年で自信がついたんだか知らないがすっかり隠さなくなった怒りの表情でアイツはこっちを見た。

でも、その表情にほんの少し諦めたような笑みが混じっているのも、わかってる。

掌の上にいる感覚。ん、ちょっとムカつくな、もう一発。

鋭めのロー・キックはさすがに逆鱗に触れたらしい。

表情に微かに残ってた笑みが消えて、本格的に肩がわなわなしだした。

あたしは怒鳴られないうちに、ばっちり日焼け止めを塗りこんでおいた身体を素早く水中に躍らせた。こうなればアイツには手出しできない。

ほら、追いかけてこれない。

しばらく、見せ付けるように色んな姿勢で泳いでやった。

ちょっとの間は怒りの表情でこっちを睨んでいたアイツは、あたしに謝る意志などさらさらないのがわかると、なんでもないよ、といった調子でビニール・シートの上に寝転がってしまった。

とたん、あたしはまたひとりぽっちになる。

3

――いつか、この海でアイツとしたことがある。

去年じゃないからもっと前、一昨年。去年みたいに無理やりテンションを上げなくてよかったあの頃だ。

岩場で背中が痛くて、思わずアイツをぶん殴った。背中はちょっと擦り傷になってて、夏中それをネタにいびった。

なんで潜ってるときに思い出すんだろうな? あのときと同じに背中が熱いから?

いや、この潮の匂いのせいかもしれない。覚えてる。アイツのなんだか塩苦くて生臭い妙な匂いも悪くないと思えたあのときは、割と楽しかった。

浜から少しで急に深くなる海には、植生だか海流だかが変わって珊瑚がぽつぽついる。まだ馴染んでないって感じでそんなに綺麗じゃない。あと少ししたら、綺麗になっていくのかも。魚と一緒に南国っぽくなって、その頃には人も来るのかもしれない。

でも、きっとそのときにはあたしのほうがここにいないのだろう。

いるべき人間がいない場所は何だか怖い。今は昼だからかまわないけど、夜になれば――そうだ、そんなこともあった。また別のいつか、夜中までこの辺にいて、近くの廃校に忍び込んだ。

うん、廃校だ。潮風で柱から壁からぼろぼろになってた廃校。

同じ風景に関連付けられた記憶はあやふやで、どこまでがいつかわからないけど、入ったのはたぶん去年だ。一昨年は確か、目前で引き返して中には入らなかったのだ。だからこれは、確か去年のこと。

耳に海水が入って海とつながる。海の声が聴こえる。身体の中の音か身体の外の音かの区別がつかなくなっていく。背中が熱い。塗りが足りなかったか?

そうだ。あれもやたら暑い夜で、その癖に日焼け止めが中途半端だったものだからもっと熱かった。

背中が痛かったのにあんまり優しくしてもらえなくて、でもそれがそんなにショックじゃなかったのがショックだったんだ。


よく考えてみれば、毎年ここでこうやっているとき、あたしはひとりぽっちだ。

そしてこうやって蒼い天然の水槽の中で、ゴーグルと水着だけ連れて記憶の中へ潜る。

年を追うごとに記憶は深みを増してくる。深みを増すうち日が差さないくらい暗いところまで続いて、ああ、これが大人になることだったら、多少の窮屈さと引き換えにしても惜しくないのかもしれない。辛かったことも嬉しかったことも区別のつかないくらい深みに沈んで、許せるようになる。

来年もこうやって潜ることができる? さあ、どうだろう。

結論なんかわかっているのに、導くことを後回しにする。でもいい。今日は休日、楽しくないことは後回しでいい。

岸が見える。アイツが寝っ転がっている。何が楽しいんだかやっぱりウォークマンを聴いて、海のほうを見ていた。あたしを? 違う。もうアイツは、あたしがいる海を見ている。

もしかしたら、もっとずっと向こうを見ているのかもしれない。

遠い銀河ばかり観測する望遠鏡みたいに、その眼にあたしは写らないのだろう。

広がっていくアイツの世界の中で、自分が小さい背景のひとつになっていくのをひしひしと感じる。

これもこれで大人になるってことだ。お互いだけで世界が完結する時期はもう過ぎて久しい。

あたしの眼のほうにはアイツは写っている? 一瞬、わからなくなる。いてもいなくても変わらないような、錯覚、を覚える。

おっと。違う、違う。

自分に嘘なんか吐いても意味ない。正直に認めよう。

恐らく、きっと、あたしの世界も、もうアイツなしでも回っていってしまうんだ。広がっていくあたしの世界の中で、アイツの存在はもう前ほど大きくない。

まったく、嬉しいんだか悲しいんだか。

いると目障りいないとイライラ、アイツなんか存在自体根っ子から消えてしまえばいいのにと思い込んでいたときはアイツなしじゃあその日一日だって回っていかなかった癖に。

アイツが必要であればいいなと思える今になって、アイツなしでもすんなり世界が回っていくようになるなんて。

どうしてこの世界はこんな風にあたしと同じでどうしようもなく天邪鬼なんだろう。


あたしは水面から上半身を出して手を振る。あの頃から、振るのは必ず傷痕のないほう。

アイツが手を振り返す。いつからか、あたしに合わせて利き手と逆の手。らしくないけど、そういう小さな気遣いは嫌いじゃない。その薬指には指輪がはまっているはずなんだけど、視力の落ちた眼ではそんな小さな印を捉えるのは無理。

だからってわけでもないけど、それを合図にあたしは肌に馴染んで温んで感じる水を掻き始めた。指輪を見に行くためなんてのは言い訳で、ほんとうのところは少し疲れてきただけだ。

単純なアイツのことだからそろそろ熱も醒めるころだろう、とか思いながら、あたしは運動不足の太腿をゆったりと動かした。


浜に戻ったとき、アイツはこんなところまで来て漫画を読んでいた。ゴーグルをつけたままで浜を歩くあたしを一瞥すると、そのまま引きこもり世界に逆戻り。

はあ、まったく。何しに来ているんだか。

いや、わかってるんだけどね、泳げないのにここにいるのはどうせひとりでも泳ぎに行って結局機嫌が悪くなるあたしに付き合ってくれてるだけだし、それ自体は感謝こそすれ、こんな風にムカつくべきじゃないっていうのは。

それでも、やっぱり見ててそんなに面白いもんじゃない。

けれど、怒鳴るほどムカつくわけでもないから、あたしは仕方なくその隣に腰を下ろした。

耳にまだ水が入っている。ごおお、って音がして、あたしは頭を傾けて掌底のところで耳の上を叩いた。

しばらくそうしていると、何か思い出したみたいに水が抜けて、耳の外に温かい水が流れた。目の前にすっと差し出されるタオル。ああ、見てないようでちゃんと注意はしてるんだ。断る理由なんかない。大人しく受け取って耳元を拭いた。

落ち着いたところで、足元で重しにしている鞄からお茶を取り出してちょっと飲む。そういえばこの水筒もずっと買い換えてない。ところどころ落とした跡があってへこんでいる。まあ、こういうのも悪くない。

傷をひとつひとつ確認すると、ここまでの時間を確認できる。そうやってあたしも自分の世界に沈んでしまううち、ちょっと強めの昼の波が凪いだように、潮騒が遠のいていく。

さああ、さああ、って打ち寄せた波が砂の上を滑る音が、頭のずうっと遠くから微かに、幽かに聴こえる。

全ての傷跡を確認してしまうと、あたしは隣で寝転がっているアイツを見た。

水筒に刻まれてく傷と同じに、コイツも変わっていってる。背が高くなっただけじゃない。肩ががっしりして、丸っこいあたしの身体とはもう全然違う。顔は今は見えないけど、やっぱり男くさくなった。

でも、癖のない黒い髪は昔のまんまだ。

ふっと触ると、どけようとはしないでほんの少しだけ頭をこっちへ寄せてくる。それほど髪質の良くないあたしがこの髪質の良さを好きなのを知ってる。

指の間をさらさらと髪が流れる。

ちょっと乗り出して見ると、もうアイツはとっくに漫画を読むのを止めていた。漫画は開くだけで、まぶたは閉じられている。

ああ、そうか、コイツもわかってるのか。ただ暇つぶしに漫画を読んでいたってわけじゃないんだ。

待っているんだ、あたしがその言葉を言うのを。

思わず、もう一度泳ぎだしたくなる。どうしよう。嫌だ。嫌だよ!

……なーんてね、嘘。ここにきてそこまで心が動くくらいなら、こうはならないのだ。心はざわついてはきているけど、どこか冷めてる。心の中でそんな部分が大きくなっていったときから、

結論は、もうわかっている。ただそれを出すのを後回しにしてきただけ。

そろそろ潮時、ね。


あたしのほうを見ない頭をじっと見つめる。後ろ頭にさっくり刺さる視線に気付いているはずなのに、気付かない振りをする。

まだしぶとく残っている、こいつのちょっと弱い部分。

今は、嫌いじゃない。

だから最後は、あたしが言ってあげよう。今まであたしが許してもらってきたムチャクチャを考えれば、それくらいはしてあげていい。こっちが我慢してあげることもあったけど、相殺すれば負債はやっぱりこっちにある。

「一緒に来んのは、これで最後ね」

前置きも時候の挨拶もなし、必要なのは本題だけ。

確認にも、ただ感慨を表すようにも取れる言葉、けれど内容ははっきりしている。

肩はぴくりとも動かない。ただ、微かに力が抜けたような気がした。そんな風に、臆病者の癖に意外と強い。ちゃんと耐える。それは認めてあげなければならない。コイツもあたしと同じにあの夏を越えたひとりなのだ。

そしてもう、あの夏を通り過ぎたあたしたちはあの夏のころのあたしたちとは違う。

わかっていたことだ。

お互いしかいないからって付き合ったあのときから、少しずつ接点を無くしていって、それでも一緒にいたのは、いわゆる「恋愛」じゃあなくて、もっと別の何かだったような気がするけど。


――うん、恋愛じゃなかったかもしれないけど、好きだったような気がする、アンタのこと。

付き合ってくれて、ありがとう。


「始めから、そう言ってれば――」

相変わらずの背中から突然、返ってくる言葉。

あ、しまった。

口に出てたんだ。うわーもー、なんて去り際の汚い。最後の最後でこんなことを言ったらこのバカはきっと引きずっちゃうから、しおらしいことなんて何も言わないでおこうと思ったのに。

まったく、あたしもまだまだ、子供だ。

でも、そうして生じた勢いにそのまま流されないくらいには、大人。早いとこ大人になりたくてなりたくて、でもなれなかったあのときと違って、子供もいいかな、と思っているのは、過ぎた子供の時期を懐かしむようになってきたってことだから。

「始めからこういうこと言うしおらしい女だったら」

アンタ、あたしと付き合った?

答えが返ってくる前に、あたしはゴーグルをかけて立ち上がった。答えはわかってるし、それに。

最後に泣き顔を見せるのは、潔くないから。

4

歩くスピードを緩めずに海に入る。目指すは少し向こう、防波堤のテトラポット。

腰まで水に浸かって浮力を強く感じたところで、あたしは、とん、と底を蹴って、泳ぎ始めた。テトラポットまではそれほど遠くない。焦ることはない。もう、あたしはひとり。ゆっくり行くんだ。

空は明るい。でも、その青はベールがかかったみたいに薄い雲で覆われている。

ベールの下をゆっくりと進む。後ろは振り返らない。

静かに水を蹴りだして、水面に顔を浸けて見える景色を忘れないように記憶に刻む。ここに来るのは、きっと今年で最後だから。

来年からは、別の海にあたしはいるだろう。

大丈夫、沈めた記憶はなくならない。でも、この海を見るのは、きっとこれが最後だろうから。

水を蹴る、右腕を下げ、しばらく待って左腕を下げ始める。海中を通り抜けて上に出る右腕に合わせて顔を上げる。

一瞬、空が見える。明るいけれど、また白さを増している。

そして、ぽつり、ぽつり、波に混じって背中に当たるのを感じる。

雨だ。雨粒は、それほど大きくない。

でも止まらない。今はまだ、帰れない。

今はまだ。

もう少し。アイツに、立ち去るだけの時間をあげよう。あたしに、アイツのいなくなった後の世界を見るまでの猶予をあげよう。

視界の中で特徴的な形の石が大きくなっていく。

もう少しでテトラポットに着く。ざらざらした石に手をついて振り返れば、あたしの世界の中にアイツはもういないだろう。

――でも、もうあたしはここでは止まれないんだ。だから、あたしは顔を上げて大きく息を吸い、深く深く潜った。

身体をひるがえせばそこは海面。ゆらりゆらり波打つ海と空の境目に、あたしの姿が映るかもしれない。

でも、それはきっと、砂浜で言葉を発したあたしとは、もう別のあたし。

あたしは静かに目を閉じて身体をひるがえした。


耳鳴りのような海の音に混じって、やわらかく降る雨の微かな音が聴こえるような気がする。

- The rest stories of "Project Eva" #14 - "The end of the summertime" end.
first update: 20050320
last update: 20060103

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作者:north
BGM (a storyline and citiations is stealed from...)
Chappie 『水中メガネ』
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